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変化というものは肉体にのみ現れるわけではない。
ベリレが渡り廊下で独り立ち止まり、月を見上げていた。
荒削りな石像が突如、存在を現したような奇妙な存在感がある。
硬質な横顔にランタンは声を掛ける。
「どうした? 黄昏れるにはもう時間が遅いぞ」
ベリレも帰ってきた一人だった。騎士の中には劇的な変化を遂げたものもいたが、ベリレの肉体的な変化はそれほどない。
唇を歪めて笑うと肥大化した犬歯が覗き、手すりを握る指先に備わる爪は厚みを増している。
身体付きは一回り大きくなって、リリオンに追い抜かれた身長は再び抜き返したかもしれない。それは魔精の影響か、それともただ成長期だからかはわからない。
最も大きな変化は、顔がずいぶんと大人びたことだ。
「ああ、ランタンか……」
「あれ。声が低い」
「そうかな? あー、あー? 自分じゃわからんな」
ベリレは喉に手を当てて声を出し、爪の先が不意に己の頸動脈に触れて苦笑した。
「慣れない?」
「うん。爪切ろうとしたら刃毀れした。下手に頭を掻くと血塗れになる」
「うわ、大変だな」
「飯食ってる時に舌とか頬を噛んでみろ、全部血の味で自分がなに食ってるかわからなくなる」
ランタンは鉄の味が口いっぱいに広がるような気がして顔を顰める。
「ちゃんと飯食べてたか? 頬が痩けてるぞ」
痩せて引き締まった頬からは少年らしい柔らかさがそげ落ちている。ベリレは頷いて、かちかちと爪を弾いて音を立てた。硝子同士を擦りあわせたような音色が混じる。
硬そうでもあり、脆そうでもある。
「ランタン」
「なんだよ」
「ランタンも、あの場にいただろ? 中心に」
ランタンはすぐに頷かなかった。
「……中心、かどうかはわからないけど。いたと言えばいた」
「お前はすぐそうやって、曖昧な言い方をする」
ベリレは眉を寄せて、溜め息交じりに言った。そのあとに何かぐちぐちと続きそうだったので、ランタンは言い訳のように本心をぶつける。
「僕の戦いは、僕の個人的な戦いだよ。あれが中心のはずがないよ。じゃなきゃ、死んでいった人たちが報われない」
ベリレは少し苛立つみたいに、爪を立てて頭を掻き毟ろうとする。だが血塗れになる直前で手を止めた。拳を握り、ふっと緩める。
耳の付け根を蚊も殺せぬような力で僅かに引っ掻く。
「きっと、そう言うところだな」
「何が」
「あれを個人的な戦いって言い切れるところが、あれだ。――ランタンの頭がおかしいところだ」
「何を言うかと思ったら、びっくりしたあ。悪口じゃないか。なんだよ」
ランタンは驚き、悪態を吐く直前に似て唇を歪める。ベリレは対照的にただ少年の快活さで笑った。
「悪口じゃない。褒めてるんだぞ」
「ぜんっぜん、褒められてる気がしない。褒めるんならもっとわかりやすくやって」
「自己中心的」
「わかりやすく悪口じゃないか! んだよー」
ランタンはやさぐれた感じでベリレの脇腹に貫手を突き込んだ。
ちょっと突いてやろう、といたずらな貫手だったのが功を奏した。本気で打ち込んでいたら突き指では済まない。きっと指が拉げただろう。鋼板どころか、それを加工するための金床のような筋肉だ。
目に見えぬ、肉体の深部ももしかしたら変化しているのかもしれない。
「へっ」
「むかつく」
ベリレは自慢げに腹をさすって、それから黄昏れていたのを思い出したように溜め息を漏らした。
「……どうかした?」
ランタンが聞きたくなさそうに尋ねると、ベリレは言いたくなさそうに言った。
「あの戦いの中のあの感覚を、ランタンも感じたのか? 胸の中が真っ黒になるような」
「感じた」
他人の暗い感情が渦を巻き、濁流となって肉体の内に押し入ってくる感覚は忘れがたい。
気を抜くと肌が粟立ちそうな気がして、ランタンはざらつく首筋を控えめに撫でる。
「あれはさ、ランタンも、外から入ってくるような感覚だったか?」
「うん」
「でもさ、――あの感情はさ、外からもたらされるだけじゃなくて自分の中に、元からあって、それで、それが、大きく育っていくような……」
「戦うのが嫌になったか?」
ランタンの声は思いがけず冷ややかだった。
ベリレはぎくりと頬を強張らせる。
感情の濁流は確かに外から入ってくるような感覚だった。そうであるがゆえに、それがいかに醜いものであるかを見せつけられるものだった。自らを、主観の入る余地もなく客観視させられる。
そしてベリレの言うことも正しい。
それは外からもたらされ、同時に元から人に備わっている。
元から備わっているからこそ、共感し、増幅される。
それは自分の一つの可能性だ。自分の中にある暗い感情はそこまで育つ可能性を秘めている。
「怒りとか、憎しみとか、恐怖とか、そういうのがない人なんていないよ。誰だってある。元からあったからって何だよ。普通だよ、それ」
「ランタンにもあるのか?」
「あるに決まってるだろ。ったく人でなしじゃないんだから」
ベリレは半信半疑といった様子だった。
「そもそも選択の余地なんてあるか」
戦いは生きるための手段だ。呼吸ほど自然なものではないが、生きるために必要なものだった。
戦うことは嫌いじゃない。それどころか好んでいる自分をランタンは自覚している。
だが人を傷つけたり、結果として殺めたりすることを好んでいるかというと決してそんなことはない。サラス伯爵を焼き尽くした時、達成感はあった。それは喜びと言って間違いではない。
相反する感情は、同時に存在する。それは矛盾しなかった。
戦いは、したいからするとか、したくないからしないとか、そういう類いのものではない。
ベリレ自身もそれをわかっている。だからこその葛藤なのだろう。
「僕さ、今から風呂なんだ。行くか? 風呂に入れば何だかんだですっきりする。落ち込んでるようだから今なら身体流してやるぞ。足を洗ってやろう。戦うのが嫌んなったんだろ?」
「……やっぱり人でなしじゃないか」
ベリレは唸るように呟いた。
「せっかくそんな格好いい爪になったんだから活用しなよ。使い方がわかったら、それはもう危険なものじゃなくなる。五人か、十人か。ベリレがこれだと思った奴を刻めば少しは丸くなるだろうさ」
本気なんだか冗談なんだかわからない口調でランタンは言う。
「ローサにさっそく友達ができたんだ。クロエとフルームって、知ってる?」
何を急に、と言う顔をベリレはして、だがしっかりと頷く。
「あの猫人族と犬人族の子たちだろう」
「ベリレの肩車がお気に入りらしい。それを聞いてローサが羨ましがってたから、気が向いたら肩車してあげて。三百キロぐらいあるけど、変に力入れて引っ掻いたりしないでね。大泣きすると止まらないから」
ベリレは再び頷こうとして、苦い薬を舌上で転がすみたいに、さんびゃく、と言葉を転がす。大変な仕事を任された、と言うようにベリレは大きく溜め息を吐いた。
選択の余地はない。
それを望む少女がいる。
「……女の子だしな、怪我させるわけにはいかないよなあ」
尖った爪のほんの先っぽで、ベリレはぽりぽりと額を掻いた。
ランタンは肩を竦める。
「さて、無駄な話も済んだし、僕は風呂に行こうかな。で、結局どうするの。行く?」
「ああ、そうだな……」
「決めるんなら早くして、レティが待ってるから」
ざくり、と。
「……は?」
ベリレは額に浅からぬひっかき傷を作り、赤い血が冷や汗のように頬を伝う。
脱衣所には衣服が脱ぎ捨てられて折り重なっていた。行き倒れた人の、その肉体だけがすっかり消えてしまったようだった。
一人でやって来たランタンは小さく笑ってそれを拾い上げる。
まだ体温が残っており、湿ったような重さがあった。顔を近づけずとも匂いが感じられる。長旅で染みついたレティシアの濃い匂いだった。
ランタンはそれをたたんで籠の中に収めた。
レティシアはしっかりしているが、こういう所もあった。おそらく彼女の人生において自らの手で着替えた回数よりも、誰かに着替えさせて貰った回数の方が多いだろう。育ちがよすぎるというのも考えものだ。
それとも、脱いだ服のことなど気にしている余裕がなかったのか。
緊張と羞恥に心が跳ねている。
浴場の方から水の流れる音がして、ランタンはそれを聞きながら裸になった。
なるほど腹を括れば、その瞬間に脱いだ服のことなど頭から消えてしまうだろう。
ランタンを服を脱ぎ捨てた。
「入るよ」
それだけ声を掛けると、返事も待たず浴場に入った。
湯気がむわっと顔に掛かり、薬湯の甘く爽やかな香りがする。
湯気を掻き分けて人の気配に近付くと、白い湯気の中に、濡れた黒い影が立体となって姿を現す。
レティシアは慣れぬ手つきで身体に湯を浴びせていたらしく、桶を片手に、身体を隠すような隠しきれぬような半端な体勢になっていた。
「待っていてくれたらよかったのに」
竜場で隊と合流した後、レティシアは竜種を歩かせ、その背に乗ってティルナバンに入った。背後に大勢の騎士と探索者を連れて、その隣にはローサを伴っていた。
街に戻り、待ちわびる人の群の中を歩いて、ローサはなぜ自分が哀れみの視線を受けているのかを理解しない。その視線が哀れみであると言うことも、きっと理解はしていない。
戦争が人体に及ぼした影響は、すでに知られていた。
ローサはその被害者の一人に間違いなく、変化した集団の中にあっても目立つその姿は、その事情を勘違いさせなかった。
ローサは大げさに恐れられることなく、外を歩く権利を得たのだ。
さすがに疲れてしまったようで、一足早くリリオンと眠っている。
「レティ、疲れてるだろうから全部してあげたのに」
しかしそれは姿を晒しただけで得られた権利ではない。
ローサのその姿はまったく魔物も同然であり、クロエやフルームの友好的な反応は例外中の例外である。
そういう雰囲気を勝ち得たのはレティシアの努力の結実だ。
手紙でアシュレイや探索者ギルド長のジョージと密にやり取りをしていたらしい。集まった市民たちの前で大々的に行った探索者たちへの労いと、彼らへの保証を約束した演説は堂々たるものだった。
その合間に織り込まれた、変化についての事情の周知は無責任な風説を一掃するだろう。
計算され尽くした演説だった。
「ランタン」
髪が濡れて形のよい頭部の輪郭が露わになる。
レティシアは肌に張り付く髪を一纏めにした。額から飛び出す二本の角は、濡れていよいよ妖しげな光沢を帯びる。
レティシアは隠されることのないランタンの裸体に一通り視線を往復させると、半端に身体を隠していた腕を下ろした。
「じゃあ、甘えてしまおうか」
「うん、甘えてくれていいよ」
ランタンは石鹸を手に取ると、慣れた手つきであっという間に泡立てた。
「じゃあ、まずは髪からね」
まずは、と言ったが身体はもうすでに洗ってあるようだった。女心だろう。裸を晒す覚悟を決めても、汚れたままのそれを晒すことを厭うのは。
髪も何度か流した形跡はあったが、脂がひどくて石鹸が泡立たなかったようだ。
ランタンは真っ白な泡でレティシアの髪を包むようにする。指に絡む髪を丁寧に解きながら、軋むそれを丁寧に洗う。
「……どうかしたか?」
「なにが?」
「ふっ、って笑ったぞ。なにか変かな。私の髪は」
「笑ってた?」
気弱げにこちらを振り向こうとするレティシアの角を掴んで正面に向かせる。
「ちょっとリリオンの髪を洗った時のことを思い出してたかも。一番最初の時」
流すよ、とレティシアに湯を浴びせる。白い泡が溶けながら、レティシアの黒曜石のような肌を流れ落ちる。
「レティの髪は変じゃないよ。あの時のリリオンの髪は最悪だったけどね。きったない野良犬洗うよりもひどかったし。野良犬洗ったことないけど」
二度目は丁寧に髪をゆすいでやった。レティシアは気持ちよさそうに目を細める。
緊張も羞恥も、泡といっしょに洗い流されるようだった。
ランタンの指先には、人を、あるいは女を無防備にさせる魔力のようなものがあるのかもしれない。
首筋に纏わり付き、鎖骨に堪った泡を払い、さらに胸元に残ったそれに驚いた。リリオンならそのまますとんと流れてしまうのに。
ランタンは額の角を指先でくるくると弄んだ。皮膚を貫いて生えている。
「くすぐったいよ」
レティシアは肩を揺らす。
「ふうん。これ、もっと大きくなるのかな?」
「うん、たぶん」
大事な娘の身体に異物が発生したのだ。ネイリング家がこれを検査しないわけがなかった。実家にいた間は侍医に成長記録をつけられていたようだ。こちらでもシュアがその役目を負うことになっている。
かのネイリング家でも、この変化をどうするか議論が重ねられた。隠し通すか、それとも切り落とすか、それともそのままにしておくか。
「へえ、水をやったら早く大きくならないかな」
「植物じゃないんだから」
ランタンの冗談に、レティシアは生真面目に返した。
「大きくなった方がいいか?」
「ん? どっちでもいいよ。どうなろうとレティは魅力的であることに変わりはない。背中も流すね」
レティシアの肌を磨くように洗ってやる。
背に翼は生えていなかった。肩甲骨の筋肉を解し、肩を揉んでやると甘い声が漏れる。
ランタンは探すような指使いをしたが、そこには翼どころか鱗の一枚も生えてはいなかった。
ちゃんとした女の人の身体だ、と思う。ぴんと張りがあって、つるりとして、柔らかい。リリオンとは違う肌触りだった。
背骨を伝い尻の方へ指が下りてゆく。ランタンの躊躇いを感じ取ったのだろう、レティシアが言った。
「尻尾があるか、確かめなくていいのか?」
「――確かめなくても見えてるよ」
尾骨の辺りから、肌と同色の尻尾が生えていた。角もそうだが、竜種の尾と言うにはまだ小さく、短い。尾の付け根に親指の先を当て、小指を伸ばして長さを測る。
指を目一杯に広げて少しはみ出る。
尾を覆う鱗はまだ柔らかい。不思議な感触だ。
「触ってるのわかる?」
「わかるよ。でも角とは感覚が違う」
「自分で動かせたりするの?」
「うーん、どうだろう」
「やってみて」
レティシアの意識が尾に向かう。
最初からそういう風に生まれたのならば、また違うのだろう。ローサはある程度、自由に尾を動かすことができる。それはきっと元々の少女に尾があったからだ。
レティシアは尾を動かそうとして、まず肩甲骨が動いた。
「あれ? こうか。違うな、こうかな?」
肩を竦め、力を抜き、背筋が痙攣して、座りを直すように腰をもぞもぞさせる。すると尾を通り越して、尻がきゅっと引き締まった。
「――!」
ぴくんと尾の先が僅かに跳ねる。それは無意識の動きだ。
途端にレティシアは恥ずかしそうに身体を小さくする。
それまですっかり気を抜いていたのに、再び羞恥に肉体を支配されてしまった。
ランタンはそれを見て見ぬ振りをした。何食わぬ顔で背中を流してやり、難しいんだねえ、などと何でもないような声を出した。
脇腹から腋を撫でて、くすぐったさに身を捩るレティシアを押さえ込むようにランタンは背中にもたれ掛かる。
肩から腕に手を這わせる。腕が長い。ランタンはうんと手を伸ばして、手の甲に覆い被さるようにレティシアと指を絡める。
「前はどうする?」
ランタンは悪魔みたいに囁く。
「……ってほしい」
洗ってほしいと言ったのか、触ってほしいと言ったのか。
どちらとも取れるようにレティシアは願った。
「いいよ。でもこのままね」
絡めた指を解かぬまま、自らの身体を弄らせるように、ランタンはレティシアを磨いてやる。
その手つきは愛撫をするようでもあったが、同時にじゃれつくようでもあった。邪気と無邪気が同居しているのは、ランタンが自らの内にある羞恥心を誤魔化そうとしているからだった。
こんな風に裸になって、身体を触ったり触らせたりすることは、やはり特別なことだ。
快楽だけではなく、愛情だけではなく。
レティシアの呼吸が不揃いになり、絡め合った指に痙攣に似た力が加わる。
「はい、綺麗になったよ。元から綺麗だけど」
磨かれたレティシアの肉体は宝石のようだ。
戦士としての引き締まった肉体は女らしい隆起の旺盛さをむしろ目立たせた。汗粒はその一粒一粒が、銀や真珠に変化したとしても不思議には思わなかった。
レティシアは熱っぽく、挑むような視線をランタンに向ける。
「ありがとうランタン。どれ、お返しに洗ってやろう」
「いいえ、結構です。先に温まってて。疲れてるんでしょ?」
唾を飲んで、胸に手を当てて呼吸を整える。いつの間にやらランタンは手首を掴まれている。押しても引いてもどうにもならない。
どうにもならないが、ランタンは抵抗する。
「いいって」
「なに遠慮することはない」
「いーって」
石鹸の滑りを利用して手を引き抜こうとしたが、そのような悪あがきはすでに読まれていたらしい。レティシアは体格差を利用してランタンを抱き込んで、檻に閉じ込めるみたいに身の内に封じてしまった。
それはあまりにも柔らかく、快楽的な拘束だ。
「聞いてるぞ」
「……なにを」
石鹸の匂い。自分の手にもある匂いなのに、不思議と別のもののように思える。
「洗ってやろうとするとランタンは恥ずかしがって逃げる」
リリオンめ、余計なことを。
ランタンは胸の内で呪う。
「だけどこうやって、強引にしてしまうと」
レティシアの手がランタンの身体を這い回った。まさしくお返しというように。
「ランタンはそれを受け入れてくるって。恥ずかくても、嫌いではないんだろう?」
私もそうさ、とレティシアはランタンの耳朶を噛んだ。
「私は嬉しかった。ランタンもよろこんでほしい」
攻守が一気に逆転してしまった。
「疲れてるんじゃないの?」
「疲れはもう吹き飛んだよ。おかげさまで。というか、疲れていてもこれはする」
獲物を前にした、いや既にその牙の間に咥え込んだ竜種のように緑の瞳がぎらつく。舌先にもう味を感じている。あとは気の済むまで咀嚼して、飲み込み、その味を思い出して楽しむだけだ。
ランタンは咥え込まれた獲物のように諦めて身体から力を抜いた。
石鹸を泡立て、肉体の全てを味わうようにレティシアが掌を滑らせる。
ランタンの肩にレティシアの歯形があって、レティシアの胸元にやり返したランタンの歯形があった。
二人ともすっかりとぐったりしてしまって、互いにもたれ掛かるようにして湯に浸かった。長く洗い場にいたので湯の温度が下がっているが、熱すぎないその温度は丁度良かった。
「そうだったんだ」
「ああ、おそらく黒い卵の幹部だったんだろう」
戦争が終了した日。それぞれ別の場所で、同じ時間に、わかっているだけで十二名、貴族、聖職者、騎士、学者や探索者などが死亡したのが確認された。
五人たりない、とランタンはぼんやり思う。
ランタンとサラス伯爵の戦闘を、観察していた意識体は十と七つあった。ランタンはその意識を捕らえて焼き払った。
その死体が見つかったのは王都だけだ。黒い卵の手は全土に伸びていて、残りの五人は生き残っているかもしれないし、人知れず別の場所で死んでいるのかもしれなかった。
「だが伯爵領の後始末をまずは終わらせないと、そちらの調査に手が回らないというのが実情だ」
「どう、……伯爵領は?」
「再建は不可能だろう」
レティシアが唇を噛む。唇が白くなり、ランタンは唇の間に指を差し込んだ。棘を抜くみたいに犬歯を撫でる。
「今は人の出入りができないように領地を封鎖している。影響の及ぶ範囲を見極めて、その封鎖を狭めている最中だ」
戦いが終わった後の伯爵領も、すっかりと変わってしまった。
崩れ落ちた館はそのまま地盤まで陥没してしまい、その跡地はさながら巨大な迷宮口の如くとなっている。
その上空を飛ぶことさえ竜種が嫌がるために、その底の調査はまだ済んではおらず、どれほどの深さがあり、どうなっているのかは不明である。
それにまずそこへ行くことさえ難しい。
伯爵領は人外魔境へと変じてしまっている。
それはサラス伯爵の執念か、それとも戦いの中で積み重なった思念の残留か。
「迷宮のようだったよ。控えめに言ってね」
伯爵領の領民の大半は、戦闘行為とそして急激な肉体の変化に耐えきれずに命を落としてしまった。
僅かに生き残った領民たちの保護は芳しくなく、なぜなら生き残った者たちの半分は未だに抗戦を続けているからだった。彼らに人の意識はなく、動くものに襲いかかる魔人と化している。
そこに生きる動植物も、魔物の様相を帯びつつあった。
そしてその変化は生きとし生きるものばかりのものではない。
弔いは疎か、回収もままならぬ死者たちは偽りの魂によって動きだし、死肉を媒介に発生した疫病は形ある瘴気や呪いとなり、行使された魔道の残滓は意思を持った精霊となって人に襲いかかった。
調査を行うためには、そういった者たちと戦わなければならない。
そしてその魔境の最大の恐ろしさは、戦わずとも踏み込んだだけで人に影響を与えることだった。
「レティ、おいで」
レティシアの尻尾は、彼女にとってまだできもののようなものであるらしい。
下手に座ると、座面と己の間に挟んでしまって痛む。ふかふかのソファや、尻尾を投げ出せる浅い椅子なら具合がいいらしく、ランタンの太ももは柔らかさも細さも丁度良かった。
レティシアは楚々とした仕草で、ランタンの太ももにそっと腰掛けた。恥ずかしそうな顔をして、それが愛おしい。さっきは僕のことを好き放題にしたくせに、と顔には出さずに思いもするが。
ランタンは背中を支えた手を滑らせて、尻尾に触れた。
角や尻尾が生えたのはレティシアが伯爵領で生き残りの捜索、その陣頭指揮を執ったからだった。
戦いの最中に起きた変化ではないからこそ、レティシアのそれはまだ小さいのだろう。
「この変化の性質が、これから広がるのか狭まるのか。それさえもまだわかってはいない。だが今のままでは、辺り一面魔物だらけになってしまう。魔道ギルドも探索者ギルドもすでに興味を示している。知識や人員を出してくれるのはありがたいが、裏がありすぎる」
最も厄介なのは、そこを聖地にしようとする勢力がすでに存在することだった。
迷宮解放同盟がその筆頭で、有象無象の連中が一つの勢力となって力を増し、この後に及んで再び大規模な戦いを発生させるのではないかという危惧があった。
「ランタン、人は戦いから逃れられないのかな?」
口角が二度、痙攣した。舌の縺れが言葉尻を甘くして、それは泣き言のように響く。
レティシアは、小さい女の子が人形にしがみつくみたいに、ランタンに抱きついた。
熱を帯びた身体を抱きしめ返して、ランタンは頭を撫でてやる。
「うん」
その手つきの優しさとは裏腹にランタンはあっさりと頷いた。
「きっとなくならないし、逃げることはできるかもしれないけど、逃げ切れるかどうかは相手の実力とこっちの運による」
ランタンはレティシアの顔を上げさせた。
「戦いは避けられない。でもどう戦うかは選ぶことができるからね」
汗にまみれた額を合わせて、レティシアに目を閉ざす間も与えず口付けを交わすときつい塩の味がした。
「んっ、……ふ、――んん」
痺れるような口付けは、レティシアを蕩けさせた。
潤んだ瞳がもう一度とせがむので、ランタンはどうしても意地悪がしたくなる。
「話の後でね」
いけず、とレティシアが恨めしく呟く。ランタンは、あとで、と音にせず重ねた。
「色気のない話になる」
「かまわないよ」
「市民の不満が高まっている。伯爵の名は知られていて、戦いの結末はあまりにも無惨で、それが貴族社会への不信に拍車をかけた」
「革命でも起こる?」
「そこまで行くかは判らないけど、こんな混乱した状況で社会基盤が破壊されたら取り返しはつかない」
状況が別ならば、革命は仕方がない、というような言い方だった。
「目を逸らすために、大規模な闘技会の開催が決定された」
「戦いによる影響を、戦いで打ち消そうって言うの? レティが嫌になるのがちょっとわかるな」
「だが規模が大きいだけでは意味がない。目玉が必要なんだ。それで」
口付けの誘惑に負けたわけではないだろう。それは結局はいつか言わなければならないことだからだ。
「巨人族を連れてくるという話になった。貴族と市民、両方に対しての共通の敵だ――」
「続けて」
「――対戦相手の候補として、リリオンの名も上がっている」
怒りよりも先に、ランタンはリリオンとの出会いを思い出した。
強くなるために探索者になる。
何のために強く。
巨人族をやっつけるために、とリリオンは言ったのではなかったか。




