表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カボチャ頭のランタン  作者: mm
12.Over The Hypernova
257/518

257

257


 迷宮の攻略失敗は探索者にとって不名誉なことだ。

 特に探索途中ながら自らの意思で契約を破棄することは最大の不名誉である。

 もちろん命あっての物種であり、ギルドの難易度査定は絶対ではないので、理由さえ確かならば途中で契約を破棄しても、それなりに経験を積んだ探索者ならば契約破棄に理解を示すだろう。

 だが他人にどう思われるかが問題ではないのだ。

 他者の契約破棄を、しかたないことだ、と理解する探索者も、いざ自分がそうしなければならない立場になると、鉛を飲み込んだような鬱屈とした気分になる。

 それは自らが負けを認めるようなものだからだ。

 探索者としての自尊心が傷つくのである。

 引き際を見極められないのではない。だめだとわかっていても挑まざるを得ないのだ。

 有能な指揮者であれば、探索者たちの気持ちをうまく誘導することもできる。

 収支を赤にしても、傭兵探索者を雇って急遽戦力を増強するという手もあるが、闇雲に探索を強行して未帰還になる探索者は多かった。

 直情的と言えばそれまでだが、それが探索者の本能とも言えた。

 それなりの探索者が、もう少しぐらい経験を積めば、ようやく迷宮攻略を諦めることができるようになる。

 その時にはもうすでに、守るべきぴかぴかの自尊心などすでに持ち合わせていないからだ。

 ランタンはそれなりの探索者でも、それなりからもう少しぐらい経験を積んだ探索者でもなく、誰に恥じることのない高位探索者であった。

 だが、未だにそんなぴかぴかした探索者としての自尊心を有しているのかもしれない。

 あるいはただ予定が崩れることを嫌う性格なだけかもしれなかったが。

 先日契約を結んだ獣系迷宮は、まだ未攻略である。

 ローサを歓迎するための肉を得るという目的は果たしたが、最終目標(フラグ)の撃破は(おろ)か、最下層手前までも辿り着いてはいない。

 予定ではすでに迷宮を攻略し終えているはずだった。

 二度目の探索に挑み、最終目標を撃破。そこに至らずとも二度目の探索ならば迷宮最下層まで到達し、最終目標の撃破のみとなった三度目の探索でついに攻略していたはずである。

 そのように引き上げ屋にも予約を入れていたのだから。

 一度目の探索から、すでにそれほどの日が経っている。

 予定が崩れたのはローサの世話に追われていたからだった。

 あのよたよた歩きの少女の相手をするのは、なかなかどうして大変なことだった。

 些細なことをきっかけに発火するその性質はランタンが常に気を配らなければならないものだったが、もっともランタンを困らせたのはローサの泣き虫なところだった。

 女の子の世話をするのはリリオンで経験を積んでいる。だからまあきっと、下半分が炎虎だろうとも、そんなに大変なことはないだろう。

 そんな考えがランタンにあったが、それは実に甘い考えと言わざるをえない。

 実際は大変だった。

「――リリオンはしっかりしてたんだね」

「あら、なあに? 急にほめてくれたりして、何もあげられないわよ」

「別に何か貰おうなんて思っちゃいないよ」

「そう? ランタンが欲しいって言うんなら、わたしなんでもあげちゃうわよ。なんでも、ぜんぶ」

 リリオンは屈託なく笑った。

 リリオンは表情がころころ変わるが、けれどあまり泣くことがないとランタンは最近よく思う。泣きそうになってもまず、それを堪えようとする。垂れ流しのローサとは正反対だ。

「じゃあ今日の弁当を寄越しなさい」

「え、えーっ、それは……」

 リリオンは途端に眉を八の字にして、もごもごと口籠もった。

 弁当を守るみたいにランタンと向かい合って、ごろごろとした岩場を器用に後ろ歩きする。

 二人は迷宮にいた。

 装備はランタンは鎌を追加し、リリオンは斧槍を外して、右腕に小盾を重ねたような大げさな腕甲を付けている。食料は五日分もあるが、二日分は予備である。

 もちろんもちろんローサは留守番しており、もちろん二人を見送るローサは、びゃんびゃんと泣いた。

 ダニエラの老体にしがみついて、何を恥じることもなく己の感情の全てを剥き出しにしている様子は清々しさすら感じさせた。

 ばちんばちんと尾を床に打ち付けて、その先に灯る炎は置いていかれる寂しさよりも、置いていかれる理不尽さへの抗議そのものだった。

「ローサ、まだ泣いているかしら?」

「さあ、どうだろう。ミシャも顔出してくれるって言ったし、大丈夫じゃない?」

 ランタンは思いだして、少し笑った。

 最後の最後はもう泣くと言うよりも拗ねていた。虎の身体を丸め、背を向けて地面に突っ伏して、ランタンの方を振り向くことさえなかった。

「さみしいのよ。お留守番は。あの子はそれを知っているんだわ」

「仲間外れにされたと思ったのかね」

 リリオンは懐かしさと、もの悲しさの混じった表情を浮かべた。

 リリオンはローサに昼飯を作り置いていった。

 それは二人が迷宮で食べる弁当とまったく同じ物だった。弁当箱も迷宮で使うための頑丈な飯盒(はんごう)で代用し、昼飯の時間を合わせて迷宮と地上で、同じ時間に食事にしようなんて約束もした。

 それはきっとリリオンが母親からされてきたことなのだろう。

「ほら、リリオン、前向いて」

 ランタンは時計の盤面を少女に向ける。

「ローサと約束はしたけど、時間までに目的地に辿り着けなかったら、辿り着くまで昼飯は無しだからね」

「はーい」

 リリオンはくるりと前を向き、一つ目の目印である岩壁に群生する植物を探した。

 探しながらランタンに向かって言った。

「でも、ちょっと意外だったわ」

「何が?」

「ローサ、ついて来たがったでしょ? ランタンはもしかしたらローサのこと連れてくかと思ったから」

「は、――っと、あぶな」

 ランタンは呆気に取られたような声を出し、岩と岩の隙間に足を取られそうになった。

 体勢を立て直し、支えてくれようとするリリオンを手で制する。リリオンはその制した手を当たり前に握った。

 連れてくる、迷宮に、あの泣き虫ローサを。

 探索の予定を先延ばしにすることを考えても、連れてくるなんて事は少しも考えなかった。

「そんな馬鹿なことするわけないだろ」

 ランタンはどっと疲れた様子で愚痴る。

「僕のこと、なんだと思ってるんだよ」

「だって、ランタンって優しいでしょ? あんな風に泣いてお願いされたら、いいよ、連れてってあげるよ、ってなるかと思ったんだもの」

「優しいかどうかは別にして」

「やさしい」

「別にして、――僕だって鬼じゃないんだから、まあ、そんな風に許すこともあるだろうけど。でも迷宮はない。寂しがってるから迷宮に連れてくって――」

 ランタンは鉛のような溜め息を吐き出した。

「――それぐらいの分別はあるよ。いくら僕でも」

 リリオンの手を振り解き、不安定な足場を跳ねるように先行する。

 魔物の再出現(リポップ)はない事を確認して、追いかけてくるリリオンを待った。

「でも、わたしは?」

 小さく息を荒げるリリオンは、呼吸を整えるよりも早く自分を指差す。

 お願いに屈して、迷宮へ連れて来た証明が目の前にいた。

 魔物が目の前に出現するよりも手強いかもしれない、とランタンは思う。

()()()はよちよち歩きじゃなかっただろ。少なくとも迷宮がどんなところかを知ってた。それに、えーっと、あれだ。しっかりしてたし」

「ほんとお?」

「ローサと比べればね」

 今のローサと比べれば大抵のものはしっかりしている。

 リリオンは喜んでいいのか、どうかを迷っているようで難しい顔をして小首を傾げる。

「それに今は、置いてきても平気だし。ダニエラさんが面倒見てくれるし、ミシャも気にしてくれるし、火傷したらシュアさんがいるし、弁当も置いてきたし、暇つぶしの宿題も出してきたし」

「ランタン?」

 リリオンは矢継ぎ早に捲し立てるランタンに傾げた首の角度を更に深くした。

「首の骨折れるぞ」

「……――ランタンはどうして耳が赤いの?」

 それはリリオンが特別だからだ。

 淡褐色の瞳に覗き込まれると、それをあらためて意識してしまう。

 リリオンがもしローサほどしっかりしていなかったら、迷宮へ連れて来なかっただろうか。

 断言することはできない。

 今のリリオンはランタンにとって特別な存在だ。しかし、あの当時はどうだろう。

 今の好意を過去に反映させているだけかもしれない。だがもしかしたら、まったくそんな意識はなかったが、一目惚れでもしていたのかも。

 なんて馬鹿なことを思う。

「赤くないよ」

「ふうん」

 リリオンは自然な仕草でランタンの髪を掻き上げて、熱を持った耳たぶを引っ張った。




 無事に昼食の時間に間に合った。

 先日、山羊を仕留めた場所まで到達して、弁当を広げた。

 ローサはまだ食器を上手く使うことができない。

 だから手掴みで食べられるように、黒パンに色んなおかずを挟んである。

 それを飯盒に圧縮して詰め込んでいるので、引っ張り出すと鉛のように重く、地層状になっている。

 具は鶏の唐揚げであり、ベーコンと卵であり、芋のコロッケだった。

 それに加えて干し野菜のスープを作り、行動食のビスケットをそれぞれ一袋づつ。水の中に砂糖漬けにした果物を沈め、フォークで突き崩す。リリオンは林檎で、ランタンは檸檬だった。どちらも飲めば飲むほど喉が渇くほど甘い。

 探索で必要とする熱量を得るためには充分な食事だった。

「帰ったら太ってるかもな、ローサ」

「大きくなることはいいことよ」

「まったくだ」

 食事の量からするとあっという間に、しかし休憩には充分な時間をかけて昼食を済ませる。

 食事の合間に無駄話もすれば、迷宮で気が付いたことを報告もしあった。

 一度通った道中だったが、前回に発生した崩落の跡はすっかりなくなっていた。

 再探索まで時間が空いたので、その間に迷宮が自己を復元したのだ。

 多くの場合それは同一性を保っているが、時には変化を見せることもある。

 そしてそれはしばしば探索者の油断を招き、死に繋がることもあった。

「そう言えば花の色が違ったわ」

「ほんとに?」

「前に見たときは白だったけど、うすい青色してた。ほんとよ、ローサに摘んでいってあげようと思ってたんだから」

「花のお土産ね。花より団子って感じだけど、あの子」

 崖の上の方に花が咲いていることは憶えていた。それが魔物の出現する場所の目印だったからだ。

「でもあの花には手をつけなかったよな」

 僅かな違いであるが復元ではなく変化が起こっていた。それも復元ついでの変化ではなく、変化のための変化だ。

 そういったことは稀に確認されるものだったが、報告数は増加傾向にあるらしい。

 花の色が変わるぐらいの変化ならばそれほど迷宮探索に影響はないが、時には地形や出現魔物の系統が変化したりすることもある。

「念のため、ここから先はよりいっそう気を付けよう」

「うん」

 この迷宮のこれより先は未踏破である。

 常ならばこれまでの情報をもとに探索方針を決定する。

 この迷宮ならば最大限に気を付けるべきは横壁の崩落であり、次点で岩場の隙間からの奇襲だろうか。

 この先で何が起こるかわからないのは迷宮探索において常識だが、花の色が違うというその変化によって、未知の脅威へ裂く注意の割合は大きくなった。

 二度目の探索、その最初の戦闘は再びの山羊であった。

 ランタンが先行し、群の間を割って背後を取りリリオンと挟撃の形を作る。

 壁さえ走る身軽さと、毛皮と肉質による打撃に対する高耐性。

 リリオンの銀刀は有効な攻撃手段であり、ランタンの戦鎚はいまいち。爆発は十二分に通用するが、下手をすると横壁の崩落を招くので控えた方が無難だろう。瓦礫の山は帰還時の妨げとなる。

 山羊は二人に挟まれて、どちらから攻めるかを迷うように、岩の足場を跳ね回っている。

 かかんっ、かかんっと蹄の音色が響く。

 ランタンは左に戦鎚を、右に鎌を構える。

 リリオンが目配せを送ってくる。四頭十六の蹄の全てが地から離れた瞬間を見計らって、ランタンは合図を出した。

 一足飛びに距離を詰める。

 山羊は中空で身を捩り、回避姿勢を取った。

 リリオンの銀刀が逆袈裟に切り上げられて一頭の首を刎ねる。火花。軌道上に並んだもう一頭は角で一撃を受ける。角の硬度と首の柔軟さで斬撃を殺し、四つの蹄が壁を蹴ってリリオンから銀刀を奪った。

 リリオンの右腕が唸りを上げた。腕甲に固められた拳が突き上げられ、山羊が危険を察知して壁を上ろうとしたがもう遅かった。

 ランタンは戦鎚で一頭を牽制し、もう一頭の胴体に鎌を突き立てる。手首の反しを使って深く押し込み、弧を描くその刃の形のまま内臓を攪拌した。

 抜くより早いとばかりに鎌を手放し、牽制だったそれを強撃する。

 打撃への耐性はあるが、二人は山羊を丁寧に解体している。鎧たる脂肪の薄く、かつ致命傷を期待できる箇所は調べてあった。

 鎧袖一触というのに相応しかった。

 問題があるとすれば投げ出された刀が岩場に落下して、刃毀れを作ったことぐらいだろうか。

「欠けちゃった……」

 リリオンは少し落ち込んだが、その刃毀れはリリオンが相応の使い手であることの証明のようにも思えた。リリオンの手の中にある時、銀刀は岩よりも硬い鱗や骨を両断した。

「小迷宮における魔物の出現頻度は?」

「一度に出てくる魔物の数にもよるけど、ここならあと、二つか多くても三つぐらい」

「うん」

「最初の兎はたくさんで、次の山羊は三頭で、さっきが四だから、――だから質より数だと思うけど、小迷宮だからどっちかわからない」

 リリオンはずいぶんと頼もしくなった。

 制圧力のある前衛戦力としてだけではなく、探索者として頼もしくなっているのがランタンは嬉しかった。

「うん、中迷宮とか大迷宮になれば、もっと傾向がはっきりしてくるんだけどね」

「ふふん」

 リリオンは自慢げにしながら、壁に生える草花を見つけては指をさす。

 リリオンの言った薄い青色の花が咲き、それは迷宮を奥に進むにつれて色を更に薄くして白くなった。

「苔が多くなってきたな」

「足元すべるわ、ランタン気を付けてね」

「それは僕の台詞だ」

「んふー」

 少しずつ迷宮の環境に変化が見られた。足場の岩は当初よりも小振りになって、もっと進めば砂利になるのではないかと思わせる。

 空気がひんやりして、それは石の冷たさと言うよりも水の冷たさだった。周囲の湿度が増してきていた。その所為もあってか辺りは岩の灰色よりも、苔の黄や緑が占める割合が増えてきている。

 苔はふかふかしていて、手を突いたり踏んだりするとくっきりと足跡が浮かび上がる。

 また苔の中に、花を結ぶ植物が生えていた。

 壁の上の方に生えていたそれも、次第に地面の方へと近付きつつあった。

「最初からこういった形の迷宮だったのか、それとも変化したのか」

 小休憩を挟む。

 リリオンは手慰みなのか、それとも調査のためか道中で摘み取った花の匂いを嗅いでいる。

「どういう問題があるの?」

「出現する魔物の傾向が変わるかもしれない」

「数より質っていうこと?」

「いや、系統の変化。獣系から植物系とか。それが――」

 ランタンはリリオンが匂いを嗅ぐ花を指差す。

「――もしかしたら魔物かもしれないよ。――わっ!」

「わあっ!」

 急に大きな声を出すと、リリオンは素直に驚いて花をランタンに向かって放り投げた。

「魔物を僕に投げるんじゃないよ」

「もーっ、びっくりしたじゃない。おどろかさないで!」

 ランタンは花を掴んで、その香りを確かめた。甘くいい匂いがする。花びらは先端に向かって白く、根元に向かって濁ってゆく。全体的には灰銀といった感じだった。茎からは透明な液体が滴っており、青臭いもののさらさらしている。

「水気がやっぱり多いのかな」

「……じゃあ水棲系?」

「沢蟹とか、水蜥蜴とか。それか不定系なら水精霊とか、不死系なら幽霊船(ゴーストシップ)とか」

「どうせなら食べられるのがいいわ」

「食べられなくても面倒のない相手がいい」

 休憩を終え、迷宮を更に進んだ。足元の苔に厚みが増して、二人の足音が失われる。

 それは逆に魔物の足音も失われるということだった。

 花の数は目に見えて多い。横壁は苔と花のモザイク模様をなしており、岩肌はすっかり覆い尽くされてしまった。

 あたりには甘い香りが立ちこめて、なんだか妖しい雰囲気さえでてきた。

「……本当に植物系がでてくるかも、あいつら急所がわかりづらいんだよな」

「ランタン、なにか音が聞こえるわ」

 まず先にリリオンが気付いた。

 二人は立ち止まり、耳を澄ませる。

 震動音だった。それは地面を伝う足音ではなく、空気の震えだ。断続的で、不規則な抑揚。数がいる。高音を幾つも重ねることで、やや低く聞こえる。それは羽音だ。しかし鳥の羽ばたきではない。

「昆虫系だ!」

 ランタンが舌打ち交じりに叫んだ。

 一匹一匹は拳ほどの大きさで、数は二十を下るまい。

 薄羽の羽ばたきがあまりにも早くて目には映らず、苔に溶け込みきらない玉虫色の胴体、それのみが高速で接近してくるようだった。

 全体的には蜂に似ている。だが尾には鋏があり、口吻こそが鋭い針のようだった。

 最も異様なのは頭部であり、それはほぼ全てが複眼だった。硝子玉の中に星空を閉じ込めたような、底知れぬ不安感がある。

「リリオン抱っこ!」

 ランタンが命じると同時に、リリオンは少年の身体を抱える。

 ランタンはリリオンの髪が口の中に入り放題になるのも構わず大声で命じる。

「走れ!」

 鞭を入れられた馬のようにリリオンは駆ける。ランタンを抱えることで、むしろ安定感を増したようにしっかりと苔を踏み潰す。

 ランタンはリリオンに抱えられ、少女の肩から上半身を乗り出して後方を睨んだ。

 逃避ではない。

 戦術的後退だった。

 小さく数が多い敵を相手するのは難しい。自らを餌に爆発で一網打尽にすることも考えたが、打ち漏らした場合はリリオンが攻撃に曝されるだろう。

 昆虫系で最も警戒しなければならないものは毒であり、最初から昆虫系迷宮を攻略している場合は耐毒薬なりを事前服用するのだが、そんな用意をする暇はない。

 毒消しを持ってきているが、敵がどれほどの毒を有しているかわからない今、刺されることを覚悟で挑むのは愚策だった。

「リリ、そのまま走り続けて、いけるか?」

 全速力に近い。壁の景色が恐るべき速度で後ろに流れてゆく。

「はっ、はっ、はっ、うん、わかった。でも、どう、する、の?」

「倒す。一匹ずつな」

 同種の魔物であっても、それぞれちょっとずつ能力は違ってくる。鋏の大きさ、口吻の鋭さ、毒の強さ、飛行速度。

 一塊だった蜂の群はいつしか縦に長くなり、ランタンは先行する一匹に戦鎚を叩き付けた。硬い甲皮が割れ青い体液が苔の上に散った。仲間の死の臭いを嗅ぎ取って、蜂どもは複眼を蠢かせた。

 星の瞬きに似て、だがそれとは似ても似つかない気味の悪さだ。

 リリオンはランタンの言いつけ通りに走り続けた。背後に魔物が迫っていて、しかし振り向かないのはなかなかできることではない。

 時間は掛かったが、ランタンは一匹ずつ確実に仕留めていった。

「残り三。よくやった」

 ランタンがぽんと頭を叩くと、リリオンはようやく足を緩めた。飛びだしたランタンは炎の塊で、残った三匹は襲いかかると同時に羽根を焼かれ、焦げ付いた甲皮の下は自らの体液で蒸し焼きになった。

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ!」

 さすがのリリオンもかなり疲れてしまったようで、だくだくと汗を流して喘ぐような呼吸を繰り返す。

 どれだけ後退したのか、足場の苔は斑だった。

「ごくろうさん、休んでな」

 リリオンは粘着く唾を飲んで、言葉もなく頷いた。

 ランタンは水筒を渡してやり、倒した蜂の魔精結晶を回収する。複眼がそれだった。すももほどの大きさで、青い結晶の中にきらきらしたものが散っている。

 品質はそれほど悪くはなさそうだが、最初の方に倒した蜂の結晶は回収しきれないかもしれない。

「リリオン、これ、どう思う?」

 ランタンは蒸し焼きになった蜂をリリオンの近くに持って行く。

「どうって……さすがに食べないわよ、わたしだって」

「食わそうなんて思ってないよ。ただちょっと、いい匂いしない?」

 嫌そうな顔をして、嫌そうに蜂の脚の先っぽを抓んだランタンの言葉に、リリオンは恐る恐る鼻を近づける。

「する」

 蜂の焼死体からはカラメルのような香ばしく甘い香りがした。

 それは花の蜜を吸っていることの証明かもしれなかった。

 再び蜂が出現してもいいようにリリオンを充分休ませてから、二人は蜂と遭遇した場所まで戻った。

 そこから今までよりも念入りに気配を殺し、念入りに地形を調べながら進む。同じ距離を進むのに、倍近い時間を要したが、その甲斐は充分にあった。

 蜂の巣だった。

 苔を剥がすと岩肌に切れ目があり、覗き込むと蜂の巣があった。多角形の筒を束ねたような作りの巣で、巣の中には数十体の幼虫とそれを守る十体ほどの成虫がいた。

 二人は剥ぎ取った山羊皮を使って切れ目を塞いだ。

 蜂一匹が出てこられるだけの隙間を残し、その隙間からランタンが巣に向かって石を投げ付ける。

 あとは隙間から一匹ずつ出てきたところを叩き落とすだけだった。

「さっきはあんなに大変だったのに」

「あれが普通、これが上手く行きすぎただけだな」

 それでも際どいところではあった。

 魔物の丈夫な山羊皮も、蜂の鋏でずたぼろになっているし、口吻はそれを突き破った。もう少し巣に残った成虫の数が多かったら危ないところだった。

 残った巣はランタンが鶴嘴を使って崩しながら掻きだした。

 幼虫には戦闘能力が無く、ぶにょぶにょと太ってもぞもぞ蠢く蜂の子は踏み潰すはもちろん、叩き潰すのも精神的に躊躇われるほどだったので、穴を掘って放り込み、そこに岩を落として圧殺した。

 そして蜂の巣には蜂蜜がたっぷりと溜め込まれている。

「わあ、甘くていい匂い。これローサのお土産にしましょ」

「こら、舐めない。何があるかわからないんだから、ちゃんと調べてから」

 蜂蜜は花の色が移ったのかやや白濁している。思わずリリオンが舐めたくなるのもわかるほど甘い香りがした。

 リリオンは砕いた蜂の巣ごと空の飯盒に詰め込んでゆき、戦鎚にこびり付いた分までこそげ落として採集する徹底ぶりだった。

「――……甘い」

「あ、リリっ、ダメだって言っただろ」

「だってえ」

 手を洗って、それでも爪の隙間に染み残った分をリリオンはこっそりと舐めた。

 リリオンはびくりと肩を竦ませて、しかしそれでも諦め悪く人差し指の先端を唇の間に挟んでいる。

「ほんの、ほんのちょっとだけよ」

 こういった油断、過信は探索者として一定の経験を積んだことのある種の証でもあった。

 更に経験を積むと危険を理解した上で、あえてこういった行動をすることになる。

「だって、とっても甘くて、……うう、ごめんなさい」

「――うん。たくさん走ってくれて疲れただろうし、甘い匂いがして思わず舐めたくなるのはわかる。でもここにローサがいると考えて、次からは真似をされてもいいような行動をしなさい」

「はい」

「じゃあ毒消し。それっぽっちならよっぽど大丈夫だと思うけど、なんかあってからじゃ遅いからね。最下層も近いだろうし。甘いものの後は物凄く苦く感じるけど自業自得だから。はい、ぐいっと」

 リリオンはむしろ毒を飲むように、毒消しを呷った。

「うー、まずい」

 唇を緑にして、リリオンはまた一つ探索者として成長する。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] この世界の亜人てだいたいガチガチのケモっ娘でいいんでしょうか?ローサとかベリルは人の顔にケモ耳という感じですか?それともテスさんみたいな感じですか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ