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夕焼けはなく、ふと気が付けば迷宮に夜が来た。
時計を見れば確かに夜だ。
しかし時間経過によるものではない。迷宮の深部へと近付くほどに夜になるのかもしれない。そんなこともある。
谷底から見上げる星空は細長く、早く流れる薄雲を透かして星々は滲んでいる。そのため光が谷底まで落ちてくることはない。
だが微かに明るい。
滲んだ星が垂れて落ちてきたみたいに、辺りを隙間なく埋め尽くす苔が発光しているからだ。ほつれた縫い目のような細い菌糸を小指ほど逆立て、その先端に光を灯している。
一つ一つは闇に押し潰されてしまいそうな小ささだが、無数に集まるとなかなかどうして幻想的な光景だった。
そんな幻想的な光を吹き飛ばすような、魔道光源の明かりにリリオンの顔が照らされる。
リリオンは眩しそうに目を細めるが、ランタンが無理矢理に目蓋を開かせた。目の中を覗き込み、それから口の中を覗き込む。
充血や腫れはない。
頬に赤みがあり、額に手をやると多少の発熱がある。少女に触れた手は汗で濡れた。
リリオンは落ち込んでいる。
「ランタンの言うこと聞かなかったから罰が当たったんだわ」
これで咳でもしていれば風邪を疑うところだが、その様子はない。
ただ探索で疲れただけならばよいのだが、もしかしたら蜂蜜を舐めた代償なのかもしれなかった。毒消しを飲ませたが効かなかったとなるとこれはなかなか難しい。
「明日起きて、ちょっとダメそうだったら帰ろうか。一人で戦ってもいいけど」
リリオンが項垂れた顔をはっと上げた。
申し訳なさそうな、寂しそうな目をしてランタンを見つめる。淡褐色の円らな瞳だった。
今日の探索で、最下層の手前まで辿り着くことができた。
それは予定外のことだ。
野営のタイミングを予定よりも遅らせて、探索を延長したのだった。
異形の蜂の数は幼虫を含めると五十以上にもなり、それに前回の探索、今回の探索で出現した魔物の数と質を足し合わせると、一つの小迷宮に出現する魔物の数の上限に達したと考えることができる。
そして魔物の出現が打ち止めになった迷宮は、往々にしてその最下層が近いからだ。
しかしそれだけが探索延長の理由ではなかった。それだけならばたかだか一、二時間、予定をずらすほどではない。
明日の朝にでも、少しばかり早起きをするか、早歩きでもすればいいだけのことだ。
延長の理由は更に魔物との出現があった場合、根本的に探索計画を見直さなければならないからだった。
この迷宮はランタンの目にやや不安定に映った。
たかだか蜂蜜如きでリリオンに小言を言ったのはそのせいだったのかもしれない。
獣系迷宮であったはずが昆虫系の魔物が出現した。峻険な岩場であった道程はやがて苔生して、朝が夜にもなった。
この先、もし更に魔物が出現したら、魔物の出現傾向ばかりではなく、迷宮の規模そのものが変化している可能性があった。
獣系小迷宮であるはずのこの迷宮が、中、大迷宮に変化しているというような。
もしそうだった場合、今回の探索を攻略から調査へと切り換えなければならなかった。
予備の食料があるので、無理をすれば中迷宮だったとしても攻略は可能だろう。
だがいらない無理をする必要はない。
ともあれ、この迷宮を見極めるために必要な時間は、一時間か二時間もあれば充分だろうとランタンは考えていた。
当初の予測と変わらずこの迷宮が小迷宮であった場合、あと少しで最下層に辿り着ける。
白か黒かはっきりさせる。
それがランタンが探索延長を決めた理由だった。
探索延長は間違った選択ではなかった。
魔物が出現せず、二時間が経過しようかというところで最下層手前を示す真白い霧が見えたからだ。
この迷宮は小迷宮である。そして残すは最終目標を討伐して、帰るだけだ。
だが失敗もあった。
闇の中を進んだので、リリオンの変化に気がつけなかったことだった。
リリオンも自覚症状はあったようだが、それが身体の不調だとは思わなかったようだ。食欲は充分あり、歩くことに疲れもない。
リリオン曰く、身体がぽかぽかする。探索を止めてまでして、それを伝えることは叱られたばかりのリリオンにはできなかった。
リリオンは働きたがったが、ランタンは無理をさせなかった。
「これにかんしては、気付けなかった僕が悪い」
「ちがうわ」
「二人だから関係は曖昧かもしれないけど、指揮者ってそう言うもんだよ」
野営の準備はランタンが一人で済ませた。
汗を掻いたリリオンが着替えをしている間にまず寝床を作る。
辺りは一面の苔で、所々に甘い香りの花が咲いている。
夜の中にあるとそれはいよいよ色を失って白い花を咲かせた。場所を確保するために白花を刈り取る。茎からたっぷりと水が滴った。地下に水脈でも流れているのかもしれない。
苔の地面はそれだけで天然のベッドのようだったが、そのまま身体を横たえては体温を奪われるだろうし、水だって染み出してくるだろう。防水布と外套を重ねて敷いて、その上に毛布を二枚広げた。
本来は並べて敷くものだが、身体が冷えるよりはいい。一人と半分程度の広さだが、どうせくっついて寝るのだから充分だった。
それから食事の用意をする。
地面に狩猟刀を突き立てて苔を切り出した。
苔はぶ厚く育っており、狩猟刀を根元まで突き刺したのに地盤に到達しなかった。
四角くくり抜いたそれは地層状になっている。表面に黴の生えたパンケーキのようにも見える。
寝床にぺたんと座るリリオンが、おいしそう、とぽつりと呟いた。
食欲があるのはいいことだ。
ランタンは充分な広さの穴を空ける、その穴の中に道中拾い集めた小石を敷き詰める。手の中に炎を生みだし、石敷きの上に炎を落とした。
魔道光源と違う暖かな光がぼうっと生まれ、石がぱちぱちと音を立てて爆ぜる。
鍋に水を入れて湯を沸かし、その中に煮詰めて固形状になったトマトのペーストを一瓶の半分溶かした。
小麦を練り、親指ほどの太さの棒状にしたものを背嚢から取り出す。それを硬貨ほどの厚さに切って湯の中に落とした。
すいとんだった。味見をして、少しトマトが酸っぱいので甘みを足してやる。
火の周りには肉もあった。
道中の山羊からは魔精結晶と皮だけでなく、肉も獲ていた。
魚の切り身のようにも見える赤々としたそれは大腰筋だ。塩胡椒をして油紙で包み、ここに至るまで背嚢の一番下で漬けて置いたため、いい具合に血抜きがされ、塩味も染みている。
串にして火の傍であぶり焼きにすると、ほどなく堪らない匂いが。
ランタンは一番ぶ厚いところにフォークを刺して、肉汁に血の気が混じらないことを確認した。
鍋の蓋を取ると、沸騰した赤いスープの中で小麦の団子が倍ほどの厚みに膨れがって踊っている。
「リリオン、できたよ」
ランタンが準備をしている間、リリオンは休んでいるだけではなかった。
休みながらでもできる仕事はあった。
最終目標の観測だ。
リリオンは魔精鏡を目元から外し、霧の向こう側に向けていた睨むような目付きを綻ばせる。ランタンが手招きをすると、リリオンは冬眠から目覚めた熊みたいにのそのそと寝床から這い出た。そのままはいはいしてランタンの側に来る。
「跡ついてる」
強く魔精鏡を押し当てたのだろう、右の目を囲むように丸い跡がついていた。ランタンはそれを消し目の下を指の腹でなぞってやる。
まだ、熱は引かない。
「どうだった?」
「いたわ」
「いなきゃ困る、……――ってこともないか」
ないよなあ、とランタンは独り言ちて、リリオンの顔から手を離した。
だがリリオンはおびき寄せられるようにランタンの手を追いかけて、そのままふらりとランタンに倒れ込んでくる。
その寸前で我に返った。はっとして食事の前に座り直す。
「最終目標はね、ずっと動かなくて、何だか不思議な感じだったわ」
「――うん、僕も後で確認するよ」
力が入らず倒れたという感じではなかった。
ああいう風になし崩しに抱きついてきたり、のし掛かってきたりというのはいつものことで、だがそれを思いとどまることは珍しい。
「さ、ご飯にしよう。ずいぶん遅くなっちゃったし」
日付はすでに変わっている。
「ローサは、もう寝てるわね。おばあさまのところかしら?」
「意外とミシャを引き止めて一緒に寝てるかも」
「あの子、大丈夫かなあ」
「まあ泣いてるだろうね。僕はミシャが心配だよ、燃やされてないか」
すいとんはトマトの風味が染み込んでいて、表面は溶け出してとろりと、中はもちもちしていている。酸味と甘みが程良く、優しい味がする。
「――それでね、霧の向こうはね、ぜーんぶがぼんやり青かったの。それで真ん中ぐらいに濃い青があって、五本足だと思うのだけど、ぷかぷか浮かんでるかもしれないわ」
肉に齧りついた。脂肪はないが柔らかい肉だった。獣の臭いも少なく、肉の味は濃いが上品さがある。
「なるほどね」
よくわからん。
リリオンの話を聞きながら、食事を進める。
最終目標の観測は多く情報を得られるときもあれば、そうでない時もある。リリオンの観測の仕方に問題があると言うよりは、これは最終目標自体がそういう個体なのだろうと思う。
最後に残り火でチーズを炙って、溶けたそれをパンの上に乗せて食事の締めにした。
火の始末をして、身体を拭う。濡らしたタオル一枚で身体中を綺麗にするのもお手の物だ。
二人で寝床の中に潜った。それからランタンも最終目標の観測をし、リリオンの言っていることが正しかったことを確認した。
最下層はその全体がぼんやりと薄青い。
その色の薄さは最終目標そのものであれば魔精の薄さと表現できるが、空間である場合は濃さと表現するべきだろう。そしてその薄青い中に、一つの濃い塊がある。
大きさは仔牛ほど、形は歪な楕円で、下部には棒状のものが五本ついているが、それが足かどうかは不明だった。足先の輪郭はぼやけて、薄青の中に溶けている。
獣系の魔物ではない、かもしれない。だが道中の魔物の出現系統と、最終目標の系統がことなることは多くはないが、珍しいことではない。
気になるのは魔精の広がりだ。
「うーん……」
ランタンが観測をしている横で、リリオンはランタンにしがみついている。
これ以上の観測をしても得られるものは少ないだろう。腹も満たされて眠気もある。
ランタンは魔精鏡を枕元に伏せ、魔道光源を突いて光量を絞った。苔の光が途端にはっきりとし、薄雲の向こうにある星々は相変わらず滲んでいる。
狭い寝床からはみ出さぬように、リリオンに身を寄せる。
リリオンはまだ起きていて、身体は湯たんぽのように熱かった。抱きしめていると汗で濡れているのがわかるほどで、息が荒く時折、震える吐息を漏らす。
「はあ、はあ……」
「苦しくて、眠れない?」
「んーん、苦しくはないの。身体が、その、ぽかぽかして」
「離れた方がいい?」
「やだっ。――……やだ、ぎゅーして」
ランタンはリリオンの望むままに、いっぱい抱きしめてやった。リリオンも同じ分だけ抱きついてくる。
リリオンはもぞもぞ身体を揺らして、ランタンの胸に顔を埋める。
「わたし、いけないわ……」
熱っぽい息が、ランタンの胸に触れる。
「おねえちゃんになったのに、甘えんぼなんて」
はずかしいわ、とリリオンは胸の中で呟いたけれど、少しも抱擁を緩めようとはしなかった。
「ランタンがかっこういいとか、かっこうわるいとか、そう言うことを気にするのわたし少しわかっちゃったの」
「僕もリリオンがよく言ってたことがわかったよ。今、わかった。いいよ、甘えん坊でも、別に格好悪くはないよ」
「うー……」
さんざんランタンに言ってきた言葉を返されて、リリオンは黙り込んだ。
両腕はリリオンを抱くので塞がっているので、ランタンは頬で少女の頭を撫でてやった。
汗の匂いに混じって、何か甘い。
「寝れなくても目を瞑ってじっとしてな」
「うん、……ずっとぎゅーしてくれる?」
「してるよ」
うん、とリリオンは頷いた。
リリオンはもぞもぞと動きそうになるのを堪えるように、ランタンの足を股の間に挟んで一生懸命にしがみついた。
「はあ、はあ、はあ、んっ……、んんっ」
時々びくんと身体を震わせて、熱を帯びた息がどうしようもなく漏れる。
動き出したくなるのを我慢しているようだった。
蜂の毒か、それとも。
刈り取った白花の甘い香りが、今になって二人を包み込む。
リリオンの熱は次第に下がって、昼頃には嘘のようにけろりとしていた。
逆にランタンは一晩中リリオンの熱っぽい吐息と、熱っぽい体温と、艶めかしい身体の感触を当てこすられてなんだか悶々としている。
「顔赤いわ」
昼と言っても空には星空がある。やはり場所によって昼夜が決定されているようだった。
リリオンは魔道光源でランタンの顔を照らした。顔を覗き込んで、額に手をやって熱を測る。
「ちょっと熱があるわね」
「爆発するぐらいだから多少の熱はどうってこないよ」
蜂の毒はやはり無関係で、あれは風邪の症状だったのだろうか。そしてリリオンのそれがランタンに移った。
そういうことなのだろうか、とランタンはリリオンの手を払いのけて思う。
いや、たぶん違う。
探索者としての勘がそう告げている。
だが何が違うのかまでは告げてくれない。
「リリオンと同じ症状だと思う。なら、僕が言いたいことわかるよね?」
「大丈夫、でしょ?」
リリオンは拗ねるみたいに言って、ランタンはこくりと頷いた。
身体がぽかぽかすると言うのはまさにその通りだった。
だが身体のだるさはなく、むしろやる気が漲っているように思える。
もう一晩過ごせば、リリオンと同じようにけろりと症状が治まるかもしれないが、それが少しもったいないことのようにも思った。
「最終目標の観測も済んだ」
結局それは微動だにすることがなかった。
最下層を埋め尽くすような超巨大な魔物かもしれないし、あるいは結界のようなものを張っている魔道に長けた魔物かもしれない。
戦鎚、鎌、銀刀、腕甲、魔道結晶各種。
装備の確認をして、耐毒薬と魔精薬を服用する。
「いくぞ」
「わたしが前よ」
リリオンが腕甲を盾のように構え、先陣を切って霧に入った。
足元が柔らかい。まだ苔が続いているのだ。
霧の中に霞むリリオンの背がいやにはっきりと見える。蹴り上げた踵が外套をはためかせて、形の良い尻に目がいった。
馬鹿か、と自分をなじる。この瞬間に雑念が交じるなんて、熱に浮かされているにしても笑えない。
敵は目の前で、足元は滑った。
最下層は昏かった。だが夜の闇ではない。
例えるなら、鬱蒼と茂った森のような。
ランタンは魔道光源を三つ、リリオンの背後から三方に放り投げた。視界を奪うほどの闇でないが、明るいに越したことはない。
光に照らされた全容は、気味が悪いものだった。
全体的に狭い。最下層としては珍しいほどに窮屈だ。
天井は低く、蔦が這っており、大きな瓜のようなものが幾つもぶら下がっている。
蔦は天井ばかりではなく壁も地面も覆っていて、滑ったのは踏み付けた蔦が潰れて汁を出したからだった。
どことなく内臓を思わせる。
植物特有の青臭さと、何かが腐ったような甘い匂いがする。
薄青の魔精の正体は、この気味の悪い蔦だろうか。
そして濃青の正体は。
リリオンは立ち止まり、銀刀を構えてじりじりと摺り足で接近する。
それはランタンの目には羊に見える。毛皮の刈り取りを十年も忘れられたような、この暗色の蔦の中にあって眩しいほどに白い、ふわふわした塊がそこにある。
それは蔦から逃れるように下部から五つの脚を覗かせており、しかし探索者が二人も領域に入り込んだというのに微動だにせず、唸りも鳴きもしなかった。
敵意さえも感じない。
それがまた不気味だった。
まったく静かで、呼吸の音や、蔦を踏む湿った音だけが辺りにある。
「なんだと思う?」
「ひつじ」
リリオンが緊張した声で言う。
「かもしれない。でも獣系じゃないと思う。おそらく、植物系」
「しょくぶつ?」
ランタンは眉を寄せた。ぎしぎし、と最下層全体が微かな音を立てる。
「珍しいのを引いたな。僕もそんなに経験はない。おそらく待ち伏せ型だ」
「……待ち伏せなら、こっちが手を出さなければなにもしてこないの?」
「いや、もう範囲内に入ってる」
蔦がぞわぞわと伸び、すでに背後の入り口を塞いでいた。
静かに、素早く。
二人はすでにこの蔦羊の体内にいると言ってよかった。
「なにもしなけりゃ、じわじわなぶり殺しだ。なんかすれば、それに反応して攻撃してくる。大抵は近付くと針を飛ばしたり、液体やガスを噴出したり。立ち止まってると脚を絡め取られるか、首吊りか」
植物系は熱か氷に大抵は弱いが、だからこそそこへの対応策を持っていることも多い。
「昨日、走らせたから、今日は僕が走る」
「何をするの?」
「反応を確かめる」
「危ないわ」
「だからするんじゃないか。待ち伏せ型は大抵が低耐久力だ。あの五本脚、一発で刈り取るには銀刀の長さがいる」
リリオンを下がらせ、だが壁からはほどほどに距離を取らせる。
ランタンは慎重にリリオンの対角線上まで移動して、まずは炎での攻撃を試みようとした。
その瞬間、ぱん、と破裂音が響く。
水気。
蔦による首吊り攻撃を警戒していて正解だった。火の気を察知した瞬間、瓜が破裂して大量の液体をばらまいたのだ。
「ぐっ」
ランタンは咄嗟に身を躱し、思わず顔を顰める。鼻の奥につんとくる酸い匂いがした。
手中の炎に液体は触れなかったが、集中力を欠いたために指の股から零れ落ちるようにしてなくなってしまった。
「くそ」
破裂した瓜は、ランタンの頭上やその周囲のものばかりではなかった。全てではないが、無差別にいくつかの瓜が破裂している。
臭い。だと言うのにランタンはさらによく匂いを嗅ごうとしていた。酸い匂いの奥に微かな甘い匂いがある。それが妙に気になってしまって、ランタンはくんくんと鼻を蠢かせている。
炎がうまく作れない。
集中力を乱されていた。
リリオンに偉そうに講釈をしたくせに、なんというていたらくだろうか。
怒りが湧いて、ぼっと頬が赤くなった。
「ランタンっ」
ランタンの異変を察してリリオンが声を掛けるが、それに今度は恥ずかしい思いが湧いた。
「ダメだっ!」
ランタンはリリオンに向かって叫ぶ。
駆け寄ろうとするリリオンはぴたりと足を止める。
先に命令を出しておいてよかった。自分は様子見で、本命はリリオン。
自分は変だ。
それを自覚する。
いつからか。
最下層に入った時。
違う。
一夜を明かしたその時から、身体が熱い。
魔道が使えないなら道具でそれを代用すればいい。意識では理解している。そのための魔道結晶を、つい先程確認したばかりだというのにランタンは蔦羊の本体に接近した。
肉体と精神の整合性がとれていない。
足が引っ張られる。
足に糸が絡みついていた。蔦ではない。それよりももっと細い、髪のように細い糸だった。怒りと恥ずかしさで、ランタンはそれを蹴り剥がそうとした。
だが切れない。
芋づるを引き抜いたように、地面が捲れ上がった。ようやく小鎌を使う。
細いくせにいやに強度がある糸だった。ぱつ、と小気味いい音を立てて弾ける。
そしてそれを集めたものが蔦羊の本体だった。
戦鎚は言わずもがな、斬りつけた鎌さえふんわりと飲み込まれてしまう。そしてそれらはより合わさって、ランタンの身体を絡め取ろうとした。
ちくちくとする。
羊毛のセーターを着た時のそれを、百万倍不快にしたような刺激感だった。
迷宮と最下層は連続していない。
それが今までの定説だった。
だがこの迷宮は違う。
少なくとも迷宮後半は、この最下層と連動している。甘い匂い。あの白い花の匂いだ。蜂蜜はあの花の蜜を集めたものだ。
あの匂いが人を惑わせるもので、探索の過程で蓄積したものが、この蔦羊によって症状が発症させられるのだ。
リリオンは香りの濃縮である蜜を舐めたことで、発症が早まった。ならばすでに抗体があるかもしれず、あるいは蓄積が消費されているのかもしれず。
――だがそのように間怠っこしい真似をすると言うことは、致死性のものではない可能性が高い。
ならば。
僕はせいぜい暴れる。
精神と肉体の整合性がとれぬのならば、投げだしてしまえばいい。
精神には精神のやり方があり、肉体には肉体のやり方がある。
だがランタンの目的はただ一つ。
ランタンはその全身を妖毛に包まれる。
「それでね、ランタンはどったんばったん大騒ぎ。もーめちゃくちゃ、ひどい、ひどすぎる」
細長い夜空の下で、リリオンは言った。
「でもね。ランタンが羊を丸裸にしてくれたの。ランタンが気を引いてくれたから、わたしは簡単に近づけたわ。それで五本の茎を切り取って、それでお終い。瓜が全部割れて、蔦が全部腐って、げーって感じ」
ランタンは最終目標との戦いをほとんど憶えていない。
「そうか。これだから植物系はいやなんだよ、絡め手ばっかりで」
ランタンは憎々しげに言った。
状態異常攻撃をまともに受けてしまったランタンは、一種の狂乱状態に陥っていたようだった。
しかしその戦い振りは凄まじかったようで、リリオンの口ぶりは最終目標の肩を持つみたいにうんざりしている。
「わたし、ほとんどすることなかったわ」
「止めを刺した探索者が一番偉い。ああいう魔物は、探索班全体が狂わされると未帰還決定みたいなところがあるから、ああするしかなかったんだよ。下手すりゃ同士討ちだし」
ランタンは裸に剥かれて、寝床に横たわっている。妖毛には極小さな針のようなものがあったようで、ランタンは全身を刺されてしまっていた。
身体が熱っぽく、汗が止まらない。
リリオンはせっせと汗を拭いて、ランタンの身体に軟膏を塗り込んでいた。
すべすべした指の感触が気持ちよくて、ランタンはますます熱が出るようだった。
「迷宮には色んな魔物がいるのね」
「うん」
しかしそれにしても、あの最終目標は特別だった。
最下層の外にまで触手を伸ばしていた。
考えすぎかもしれないが、対ランタン用に変化しているようにさえ思える。
打撃を弱めるもこもこの毛に包まれ、炎を封じ、精神を乱脈させる。
いや最終目標ばかりではない。この迷宮そのものが道中の探索者を観測し、そのために変化をしたのか。
ランタンは考えようとしたが、思考はいまいちまとまらなかった。
最終目標を討伐したとは言え、状態異常が治ったわけではなかった。
毒消しや、魔精薬が効かないのは、それが探索者にとって完全に負の影響だけをもたらすものではないからだった。
花の香りや蜜。あれらは一種の活力剤のようなもので、気分を高揚させる作用を有していた。少量ならば薬となるが、しかし多量ならば毒となる。高揚しすぎた気分は制御不能になり、あの様である。
他にも誘引作用や、中毒的な作用もあるだろう。
「はあ、はあ……」
討伐から四時間ほど時間が経ったとは言え、ランタンの毒は抜けきっていなかった。
「ランタン、苦しい?」
「いや」
「嘘つかないで。わたし、知ってるのよ。今の、……ランタンの気分」
リリオンは恥ずかしそうにそっと言った。
リリオンも昨晩は、今のランタンと同じ気分だった。
裸のままのランタンに、リリオンが寄り添った。
リリオンはちょんと魔道光源を突いて、明かりをすっかり消してしまった。




