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ランタンの肉体は一瞬の内に炎に包まれた。
炎は膨らみ、完全にランタンの姿を覆い隠した。炎は中心に向かって収束するように真円の火球となり、その熱量を増大させてゆく。
火球は赤々として光を放ち、内包するはずの小さな影さえ映すことがない。
青空に見上げる太陽のごとく。
それをランタンは俯瞰して見下ろしていた。
何度目だろう。
少なくとも一度、経験している。その時はこんな風に客観視をしてはいなかったが、一個の意思に染まりきった不思議な感覚を思い出した。
すでに懐かしい、あの大老多頭竜との戦闘、その最後の最後、あの不死にも等しい再生能力を殺しきるためにランタンは全力を絞りきった。
リリオンが泣いたから。
肉体が解け、魔精へと還り、一個の意思を汲んで魂を燃焼させた。
あれはそういった力だった。
自分は一度、死んで蘇ったのか。
違う。
どう違うのか、を言葉には出来ないけれど。
意識が拡大する。
それでも自我を失うことはない。
魔精による共感覚。
それさえもただ少し、他人への理解を手伝うだけのものだ。
酸素を得て炎が膨らむように、火球はあたりに満ちる魔精を取り込んでゆく。いや、魔精がまるでじゃれつくように、自己を捧げるように火球へと寄り添ってゆく。
―――て。
肉体ではない、感覚だけの自分であるのに背筋が粟立つのを感じた。
人間の混沌とした意識は、底のない深淵に等しい。
人を理解するなんて、魔精の手伝いがあったって到底、無理なことだ。
しかしそれでも、この地には暗い感情が満ちていることがわかった。
外では戦いが繰り広げられている。
領主館は氷によって覆われている。その周囲を竜種が羽虫のように飛んでいた。ネイリング家が率いている竜種もあれば、伯爵によって放たれた竜種もいる。
氷は火竜の炎を受けて溶けることがない。強力な雷が表面を叩いて爆ぜる。地下は深くまで凍土と化して掘り進むことも難しいだろう
戦列はずたずたに切り裂かれ、敵や味方の区別さえも曖昧に、人も魔物も獣も区別なく殺し合っている。
伯爵領の領民たちはもうすでに人の姿を失っている。
戦いのための鋭い角に敵の死体を飾り、憎悪によって尖った爪は紅く染まり、血泥となった戦場を駆ける蹄は土塊と死者の区別を付けず踏み砕いてゆく。
彼らは人であった。その他者と異なる姿から化け物だ何だと追われてこの地にやって来たが、それでも彼らは人であったはずだ。
それがどうだろう。
領民たちと肩を並べて戦う魔物たち。よく訓練され、あるいはそのように作り上げられた殺戮の生体兵器。領民たちと彼らの区別は、次第に曖昧になってゆく。
今もまた一人、血塗れの皮膚が割れ、その下から獣毛に覆われた肉体が露わになる。
獣のように、魔物のように、赤子のように鳴いた。
そして彼らの敵は、連合軍とでも言うべきものだ。
何の前触れもなく発生した戦争は義勇兵を募る暇もない。そんな中で戦いに参戦したのは職業軍人である王国軍と探索者たちだ。敵方に魔物も含まれているから、きっと駆り出されたのだろう。
金に釣られてか。いや、それだけではない。駆除の手を逃れた脳食い、それらに侵された人々が伯爵の合図によって蜂起したのだ。
怒りによって戦いに駆り立てられた。
どうだ、彼らの姿は。
亜人族は元より、人族と一括りにしても、その血は祖先から代々受け継いできたものだ。
長きに渡る人の営みによって血は混じっている。遠い祖先に亜人族を愛した者が居たのだろう、どれだけ薄まろうともその事実は変わるものではない。
ああまた一人、額に浮かぶ肉の盛り上がりは角だろうか、触覚だろうか。
殺したい、生き残りたい、変わりたい、強くなりたい、逃げ出したい。喉が乾いた、眠りたい、腹が減った、交わりたい。遊びたい、本を読みたい、歌いたい、走り出したい。
た――て。
あらゆる感情と欲求の果てに、人は進化をするのか。
人という種を高みへ導くために、この戦いはあるのかもしれない。生死の境さえ曖昧にうつろう。死者の肉体は、亡霊によって再び立ち上がった。
しかし伯爵が作り上げた戦いだ。
大義はなく、戦いのための戦いでもあった。死者と傷病者を増やすことを目的とするがゆえに、殺し尽くすことだけが終わりとなる戦いだった。
背筋が粟立つのは、人が絶望に飲まれてしまうからではない。
このぞっとするような光景をひどく冷静に観測している者が、何人も何人もいるからだった。
黒い卵という孵化を待つ一個の悪意の塊は、知識を共有している。知識の失うことの恐怖も。
ゆえに彼らは戦場で起こる共感覚に類似した、魔精を介しての直接的な記憶情報のやり取りを開発した。
黒い卵の幹部たちはそれぞれが定期的に記憶を補完し合い、個人の死による知識の途絶に備えている。
そういう意味では、黒い卵は不死を実現していると言えた。複数の個体からなる黒い卵という一つの存在は、それをなす全員が同時に死滅しない限り存在し続ける。
本来個体の内に封じ込められるはずの記憶を、主観という感覚を超えて共有する。
伯爵が死さえ経験済みだというのは、それによるものだ。
しかしそれは常人ならば発狂しかねない、あるいは個人の人格さえも失いかねない膨大な情報の流入だ。
そんな激流に耐えうる精神というのは一体。
猫を殺して厭わない、悪意と呼び変えて違和感のない獰猛な好奇心。膨大な知識を貪欲に咀嚼し、自らの欲望を成すための糧にする狂気。
揺るぎない自我。
それが黒い卵の幹部たちに必要な資質だった。
同一の知識を持ちながら、それぞれが異なる欲望を持つがゆえの多様性。
この地はその一つの終端である。
伯爵の欲望は、異形を愛するがゆえの。
知りたくもない。しかし流れ込んでくる魔精の取捨選択をランタンはできない。知らずにはいられない。
その底知れぬ悪意を。
ただ一つよかったことは、すでに高まりきっていた殺戮への決意がよりいっそう高まったことぐらいだ。
た―けて。
脂肪に包まれた老人の肉体はその年齢に見合わず皺が少なく、顔などはまるで赤子のようですらある。
炎に照らされる顔には、肉の裂けるような笑みが浮かんでいる。炎の揺らめきに合わせて変化する陰影は邪神の顔貌のようだ。
瞳がそれぞれ別を見ている。一つは火球と化したランタンを。
もう一つは。
それもまた炎であった。
あの後肢の付け根に渦巻く花弁のような縞模様は炎虎のものだ。濃い黄金の色をした毛皮は燃えさかっている。ねこの肉体は跳ね回っている。
かつての無邪気さからくる踊るようなそれではない。
苦しみに悶えて暴れている。
そして泣き声は人のそれだった。
虎の顔はない。
少女の前に身体を横たえたねこの、すべてを受け入れるような眼差しから、このような未来が来ることが想像していた。
ねこは与えられた役割を受け入れたのではないだろう。自らの生を、望んで少女のために差し出したのだ。
しかしそうであっても、ランタンは哀しく思った。
炎虎の失われた首からは、人の胴体が生えている。
それはあの容器の中に浮かんでいた名もなき少女、ロザリアの妹の上半身であり、彼女の産声は炎虎の肉体から吹き上がる炎に焼かれる苦痛を叫んだものだった。
それを見て、伯爵は笑っているのだ。
姉であるロザリアは剣を投げ捨てて妹に駆け寄る。
自らの肉体が炎に焼かれようと、暴れる炎虎の巨体に叩きのめされても、その鋭い爪に肉体を切り裂かれてもまるで厭わず、妹を抱きしめて肉体をもって炎を消そうと躍起になっている。
妹の上げる叫び声は、姉の声帯の震えであった。
ランタンさえ圧倒しかねない女剣士が涙を流していた。その涙さえ炎に焼かれた。
妹だけが彼女の生きるすべてだった。そのためならなんでもすることができた。ロザリアにとって妹は、ランタンにとってのリリオンのようなものだった。
ねこがそうしたように、ロザリアもまた少女に肉体を捧げたのだ。鎧の下には提供した臓器を代用するための何かが寄生していた。
シーリアはおののいている。鏡面の下の素顔をランタンは感じ取ってしまう。瞳のない彼女は、涙を流すことさえ許されない。
彼女はたった一人の友人、ロザリアのためにしてきたことの結末に動揺していた。いや伯爵との取引だ。こういった光景を予感しながらも、縋り付くように希望だけを見ていたのかもしれない。そうするしか、なかったのかもしれない。
歴戦の魔道使いである彼女が魔道の行使に失敗した。海をも凍らせることも可能な彼女が、小石ほどの氷を作り出すことができない。失敗の代償に左の指が内側から裂ける。それでも続ける。
たすけて。
ランタンは炎の中から生まれる。
それは雌雄の区別も曖昧な小躯を新品同様の暗色の探索装束で包んでいる。
闇に姿を隠すための装束が淡く見えるほど、濡れたように黒い髪は艶やかで、外套の裏地と靴の底は紅く、そして瞳がそれよりも濃い炎の色をしていた。
ランタンは生まれたばかりのように、その肉体に一筋ほどの傷も持たなかった。
「すばら――がぁっ!」
伯爵が獣じみた歓声を上げ、そのすぐ脇で爆発が巻き起こった。
発生源は戦鎚だった。まるで意思を持つように破裂したそれは炎の尾を引き伯爵の顔面を殴打し、歓声を叫び声に変化させた。
ぶ厚い肉を押し潰し、骨を殴打して跳ね返り、戦鎚はランタンの手の中に戻った。
伯爵の巨大な肥満体が膝を突く。蝋のように白い顔に血が流れ、破裂しそうに浮腫んだ手の下に押さえた右の目は沸騰し、周辺組織は炭化している。
戦鎚に付着した血を振り払う。
意識と肉体が引き裂かれる。
「――どうして……っ!」
それはシーリアの苦痛だった。
自らの意思は炎虎と融合した少女を助けようとし、しかし肉体はランタンへの攻撃を選択する。
救うため、幾度も繰り返して成功しなかった魔道が、容易く形を成して伯爵を攻撃したランタンへと殺到した。
ランタンの右手だけが別の生き物のように動き、戦鎚が氷の塊を砕いた。
ランタンはシーリアに目もくれず少女へと駆け寄る。
ロザリアがそれに反応する。彼女もまた抗っていた。ランタンなどに構っている暇はない。いや、ランタンこそが妹を救うかもしれない。未来が塗り潰されるような状況にあって、光に希望を求めるのは必然だった。
だが身体に埋め込まれた枷が、その希望を攻撃しろと命じている。
硬直。
それがどれほどの意思力を有する行動かを、かつてその首に枷を付けられたランタンは知っていた。
燃えさかる妹の身体に押しつけたロザリアの肉体が、捻るような応力を与えられた金属のような歪な音を立てた、
炎を噴き上げる虎の身体が躍る。鋭い爪がランタンの鼻先を掠め、熱風が肌を炙った。
少女の柔肌が焼けただれる。喉は血を吐くような叫び声を放ち、限界まで見開かれた瞳は黄金の色をしていて、ぼろぼろと流れる大粒の涙が塩の結晶と化して黒ずむ。
「だいじょうぶ」
それは言葉を理解しない赤子に語りかけるような優しい声だった。
ランタンの手が炎虎を撫でた。
ああ、あの柔らかな指触りは変わらない。
黄金の毛並みを一撫ですると、荒れ狂っていた炎は陽炎さえも残さず消失した。跳ね回っていた獣の四つ足が、自重を支えることも出来ずによたつき、ランタンは少女の身体を支える。
軽いような、重いような。
ただその裸身は血が通う、命の温かさを抱えている。
涙を拭った。
ふと表情が和らぐ。
目蓋が落ち、絞り出すように最後の一粒、涙がこぼれた。
「おやすみ。夜明けまで、ゆっくり」
少女の身体を横たえたランタンがまずしたことは襲いかかってくるロザリアを止めることだった。
ロザリアは妹の身体からすでに離れていた。
ひゅるる、と声を失った喉が震える。
虎人族の鋭い爪が鉄の硬度を帯びて尖る。それは虎口と呼ぶに相応しい掌撃である。ランタンの頭部を圧し、華奢な首など囚われた瞬間にへし折られるか引き千切られるだろう。
たのむ、どうか。
肉体の放つ圧倒的な凶暴性とは裏腹に、声なく囁いた唇は確信と同意の希望が満ちていた。
「ああ、安心しろ」
ランタンの身体から風が吹いた。朝日に温められた大気が夜に流れ来むように。
それは衝撃と呼ぶほどの勢いはない。だが薄布が風に煽られるみたいに、閉ざそうとするロザリアの両手を払い、女の身体は十字に開く。
ランタンの左手が手刀となり、鎧を溶融する。そして右胸の付け根から肋骨の隙間を通して内へと潜り込んだ。
そこにはもう何もない。肺も心臓も、体温すらもない。あるのはそこに植え付けられた悪意だけだった。
ランタンは手刀を引き抜いた。指は血に汚れることなく、しかし形を持たない何かを指の間に挟み込んで引きずり出した。
不定型生物、のようなものだった。
形を持たぬがゆえに多くの可能性を秘めている。見て、触れることができる実体化した魔精そのもの。それはそういうものを開発する過程で出来上がったものだ。
ぬらりと指に絡みつき、元の場所に戻れぬと悟るとランタンの肌に染み込もうとする。
だがそれは適わない。
それは見る間に焼かれ、瞬きほどの間にその体積を消失させた。
糸が切れたようにロザリアが倒れた。妹に寄り添い、ただ眠るようだ。
外套を外し、二人に被せた。
「ロザリア――……っ!」
世界が霜付く。
シーリアの身体から猛烈な冷気が吹き上がった。それはさながら少女が自らの炎に焼かれたように、シーリアの肉体さえ凍り付かせる冷気だった。
ランタンの掌に戦鎚が張り付き、水分を奪われた肌がぱっと裂けた。
「……ようやく、ああ、ああ――」
それは命を投げだしている。
ランタンに止める術はない。それほどの意思力によって生み出された魔道であった。
「――ああ、よかった。これでもう」
冷気はランタンを吹き抜けて、その奥で立ち上がろうとする伯爵にこそ襲いかかった。極地に住む生き物のような伯爵のぶ厚い脂肪が凍り付き、まず初めに耳が崩れる。
「ざ、まあ、みろ」
鏡面の下から血が流れ出した、首を伝って胸元を鮮血に染める。
枷が、命令に背いた彼女を内側から食い破っているのだ。
ロザリアからそれを抜き取ったランタンは、彼女を救う術がないことを理解していた。
それは生命と深く結びついている。それを殺すと言うことは彼女を殺すと言うことで、しかし彼女を殺したとしてもそれを殺すことにはならない。
吹雪の中をランタンはゆっくりと進んだ。
傾ぐ女の身体を受け止める。氷の身体だ。痛いほどに冷たい。
ごぽごぽと泡の音が鏡面の兜の下から漏れ聞こえる。ランタンが兜を外そうとすると、力無い腕がそれを拒否した。
ランタンは顎下の隙間に指を差し込み、鏡面の一部だけを薄氷のように割った。
湯気が上がったのは、そこに血が溜まっていたからだ。
露わになった口元には唇がない。この魔道の冷気は、彼女の原風景の再現だ。凍傷によるものだろう。つるりとした鏡面は、その内側にさえオウトツがない。冷たさが彼女から奪っていったのだ。顔と、当たり前の人生を。
「もう、ようやく、おわりに……」
ほとんど掠れて聞きとれない言葉をランタンは正確に理解する。
「……ほかの、なににもかえがたいものが、あなたにはある?」
「ああ」
「うらやましい。――わたしにはもう、なくなってしまった」
首から力が抜けて、顔はロザリアの方へと傾く。
「……おおきな、いきものは、すき?」
「ああ」
「そう、……よかったわ」
もし肉体から命と共に最後の自我が失われたとしても、命令だけは残るだろう。
最後に少し笑ったのかもしれない。
おとこもしらずに、しぬのね。でも、いいわ。ろざりあのもとへ。
おねがい。
ランタンは命を摘み取る。
シーリアを抱き上げ、ロザリアの隣に横たえた。
三人が並ぶ。
いびつな川の字。
それを見たランタンの表情は哀しむような、愛しむような曖昧なものだった。
だがそれを背に、振り返ったその表情は戦う者の顔だった。
「終わらせてやる。お前たちのすべてを」




