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――もう帰りたい。
それは暗雲の中から突如、現れた。
ランタンがこの場に来た当初から存在し続ける暗雲は魔精そのものだ。
結晶という個体の形ではなく、不定型でありながら安定して場に留まっている。それはまさにかつて存在した魔精溜まりの姿そのものなのかもしれない。
ルーから受け取った魔精はランタンの中で息づいている。
その所為か、その魔精の輪郭がひどくはっきりとランタンには感じられた。
意思に反応して励起する。
透明な水に色を一滴落としたように姿を変える。しかし全体に影響を及ぼさない。
人ではない。
いまさらだ。
その異形の鎧の下にあるものが、生身の肉体であるとランタンは信じられなかった。
暗雲の中から現れたのはサラス伯爵の騎士であるクァールとガウルテリオだ。
ランタンは二人がこの場にあることを認識していたが、それを一瞬前まで完全に無視していた。
なぜならばそれらは完全に無力化されていたからだ。そこに生命が宿っているのか否かも曖昧なほど打ちのめされており、戦える状態にはなかった。
傍目に見て、それは今も変わらない。
クァールは四腕の騎士であるが、鎧の下にそもそも腕がないことをリリララに調べさせているのでランタンは知っていた。
戦いによって失ったのではなく、それは先天的な欠落であり、それ故にサラス伯爵の目に留まったこともランタンは知っている。
しかし腕がないことはクァールを侮る理由にはならない。おそらく元から二つの腕を備えていたのならば、クァールは名を恐れられる程の戦士にはならなかっただろう。
鎧には四本の腕があった。魔道義手である。意思によって自在に動く四腕は、腕が二本であることが当たり前の人間には容易に操ることができない。
それをクァールは自由自在に操るのだ。
その腕は猿のように長く、蛇腹状の多関節を持っていた。それこそがクァールの腕であった。
サラス伯爵の歓喜を呼ぶために幾百もの生命を汚してきた魔手である。
クァールの腕が鋭く伸張する。
彼の代名詞である四つの腕は二つしか残されていない。一つは根元から切り落とされている。もう一つは半ばから機械油のような黒ずんだ液体が滴っている。滑らかな切断面から、それがテスの仕事であることがわかる。
残された二つの腕も無事ではない。
異音がした。滑らかに動くはずの関節が損傷しているのだ。伸びきらないものを無理矢理に引き伸ばしているので、部品が擦れ、削れたり折れたりしているのだろう。
ぱち、ぱち、ぱちと一瞬の間に三つ、小さな火花が散ったのをランタンは見逃さなかった。
腕の一つは自分を狙っている。よく見れば指も揃っていない。中指と薬指の間に刃を入れられたのだろう、薬指と小指がごっそり失われていた。それに親指は力を伝えない。
残された人差指と中指が揃えられて、爪は鑿のように鋭い。
目突き。
ランタンはクァールの顔を見る。顔を覆う兜の一部が破断し、左の目元が覗いている。土気色の肌は生命を感じさせない。白目は黄色く濁り、虹彩は黒いほどに青い。
う、とランタンは喉に苦い酸味を感じた。
嫌な目付きをしている。そこから動きを読むことはできない。意識はある。だが意思はないかもしれない。かといって筋肉を見ることもできない。魔道義手の動きは、意思それのみに因る。
ランタンは指先だけに意識を寄せる。
おそらく本命は目突きではない。だがこれ以上は待てない。ランタンは戦鎚を跳ね上げる。魔手が異様な軌道を描く。戦鎚が空を切った。魔手が大回りにランタンの背後に回る。ぞわと背筋が冷える。肋骨の間にちくりと痛み。
その延長線に心臓がある。
ランタンは前に出た。爪が触れた冷たい痛みが遠ざかる。
もう一つの腕はランタンの手が届かないところにある。蛇のように静かに、それでいて確実に獲物を狙っていた。狙いはアシュレイだった。アシュレイに溜め込まれた魔精であった。
ランタンに置き去りにされた魔手さえも、狙いをそちらに変えていた。
初めからそれこそが狙いだったのかもしれない。
背後でテスが動く。
暗雲の中から二騎士が出現して、まだ一秒も経っていない。アシュレイに至っては未だに兄を喪った感傷に浸っており、騎士が出現したことに気が付いていない。
テスの初動はしかし、彼女からしてみれば眠りの中にいたかのように遅いものだ。
騎士の腕は極端な大回りで左右から襲いかかった。それぞれが上下に嫌らしく角度をつけている。右の腕を払えば左の腕が、左の腕を払えば右の腕がちょうどアシュレイの身体を盾にするように。
となればやりようは一つだ。
テスはアシュレイと一塊になった。
右の利き手に持った狩猟刀で魔手の一つを切り裂き、しかしそれは手首だけになって止まることを知らない。テスは身体を入れて、手首の殴打を肩で受けた。そしてもう一方の魔手を左の前腕に受け止める。
ごり、と骨が削れる音がした。
ランタンがクァールの胸甲に触れたのはほとんど同時だった。
二本の腕であろうとも異形は異形のままだった。痩躯の鎧は皮膚の代わりのそれが張り付けてあるようだった。
硬くひやりとした胸甲をランタンは指先で強く押す。
軽い。胸骨と背骨が綺麗に重なる中心線をランタンを押した。どのようにも力を逃がすことはできない。しかし腕のないことが影響しているのだろうか。クァールの背骨と腰の繋がりは常人よりも遥かに柔軟だった。
クァールが左の片足立ちになる。接地面が半分になっても、それでもやはり不動であった。
右足が跳ね上がった。鋼鉄の爪先がスカートの中に潜り込む。
一瞬の感情、それは喜びだった。ランタンに伝わってくる。不足のないものを、不足がある状態にすることに対する喜びなのかもしれない。
ランタンは咄嗟に膝を閉じ、膝頭がごつんと鳴った。それは両の膝がぶつかる音であり、クァールの爪先が骨を圧する音だった。
激痛が走った。神経が潰れるような痛みだった。
爆発は一拍遅れた。クァールはそれほどに早かった。右足は速度に耐えきれず脛が折れている。ランタンはどうして自分の膝が砕けていないのかが不思議に思う。
右手から放たれた衝撃はクァールの身体を強く押した。炎が鎧の表面を舐めて背後に回る。ぴんと伸展した腕が悲鳴のような音で軋み、先端をテスに打ち込んだまま破裂するように引き千切れた。
兜の内から血が溢れる。浸透した衝撃波に内臓を損傷したのかもしれない。
はたして本当にそうか。
クァールは残った腕を蜘蛛のように広げた。
音がランタンの鼓膜を揺さぶる。ひどく水っぽく、それでいて金属が拉げる音が。
ガウルテリオの巨体はどこに。
暗雲から出現した気配は二つあったはずで、それらは間違いなく二人の騎士のはずで、数秒前までランタンはそれを知覚していたはずで。
このほんの数秒の間に気配を見失っていた。
クァールの身を舐める爆炎はまだそこに残っており、兜から溢れる血がそれに触れてじゅうじゅう音を立てており、ランタンは胸甲に触れたままの指先に金属の冷ややかさを感じた。
気配が二つ重なっている。クァールの影に。
薬指の皮膚を一枚裂き、舐めるように掌を切り裂く。ランタンは手の甲から剣先が飛び出るのを見た。それはクァールの肉体も貫いている。
どのように身を潜めていたのか、クァールの痩身の影に完全に隠れていたガウルテリオの巨体がいきなり露わになった。
があああああああっ。
ガウルテリオが獣じみて吼える。
ランタンは掌を貫いた剣先を引き抜く。時間が静止したままのように振り上げていた戦鎚を振り下ろし、クァールを挟んだ向こう側の巨体に叩き付けると同時に爆破する。
兜はその表面こそ溶融すれども、深くは傷つかない。物言わぬクァールの肉体が爆風に吹き飛ぶ。
ガウルテリオの手がランタンの顔を鷲掴みにした。嗅いだことのないすえた臭いが鼻をつく。頭蓋骨が悲鳴を上げ、ランタンの小躯は容易く大地から引き離され、ガウルテリオは猛牛のように、その巨体に似つかわしくない速度で暗雲の中に突っ込んだ。
濁った水の中のように視界が悪い。脳が揺れたように意識に衝撃が走る。自分のものではない意識が濁流のように脳内に流れ込んできているのかもしれなかった。
痒みを感じる。全身にたくさんの足のある小さい虫が這っているような不快感。
全身から放たれた爆炎が抜け殻のように置き去りにされる。
ガウルテリオ、こいつからは死の臭いがする。
全身を覆う重装鎧は所々亀裂が入り、その内から暗澹たる光が零れている。脇腹にある亀裂は一際深く、そこからは血が流れていた。
ランタンは爪先を立てて傷口に蹴りを突っ込む。がくん、と膝が抜けてガウルテリオが転びそうになった。ぐっ、と呻き声が兜の下から聞こえる。
万力のように締め付けてくる指が僅かに緩んだ。ランタンは身体ごと頭を振って拘束から抜け出す。こめかみの皮膚が剥がれて血が染み出す。
「ふう――っ!」
距離を置いて相対したのはほんの一瞬だった。磁石が引き合うように激突する。
左手に力は入らない。薬指と小指は意思を伝達せず、赤々とした血が宙に伸びる。ランタンは右の五指と左の三指で戦鎚を握り締め、ガウルテリオの剣と打ち合った。
火花が散る。
強烈な圧力があった。
ガウルテリオは名うての騎士である。だが鎧の下の姿を見たことがあるものはいない。見たものを魅了する美丈夫であるとも、目を背けたくなるような醜男であるとも言われているが、目に見える強さだけは紛れもない真実である。
押し負ける。
ランタンが後ろに突き飛ばされて、ガウルテリオの追い足は剣を先行させる。
燕のような剣がランタンの顎を掠めた。前髪が散り、ランタンは手首を狙って戦鎚を翻す。篭手で受けられ、切り上げられた剣先が反転して腿を狙う。
右の踵を支点に身体を引く。ランタンは鎧に肩からぶつかって、爆炎を浴びせた。鎧の亀裂に肘を打ち込み衝撃を流し込む。肘を支点に戦鎚が跳ね上がる。ガウルテリオの股関節に鶴嘴が打ち込まれる。
「――っ!」
ぐん、とランタンの身体が持って行かれる。突き刺さったままガウルテリオが身体を引いた。左の拳がランタンの額を打った。目の奥で火花が散る。ランタンは鶴嘴を引き抜く。すぐに手首を返して、足を払った。体勢が崩れる。
巨大な岩が山の斜面を転がるようにランタンに向かってくる。
歓呼の響きがある。
「なにがそんなにっ!」
咄嗟にランタンの口をついた。相手からの言葉はない。だが戦いの喜びが感じられた。強い者と戦うことへの喜びが。
震脚。地面が割れる。浮き上がった岩盤に乗り上げ巨体が跳ねる。体重を使った浴びせ斬り。
ランタンはそれを避ける。巧みに隠されていた脇腹の傷をランタンは容赦なく狙った。それが誘いであるとわかっていても。
鶴嘴を打ち込む。彼我が戦鎚で結ばれる。鎖骨を狙った上段斬りをランタンは左の手で止めた。三つの指で鍔を押さえる。傷口から溢れた血が無骨な鍔を汚し、柄に垂れる。ランタンは両手を塞がれた。ガウルテリオはまだ左の手が残っている。
左手が首に伸びる。
僅かな失望を感じる。勝利することへの失望だった。空しさがランタンの中に流れ込む。
ランタンのこめかみが痙攣する。血が頬を伝い顎から垂れる。
ランタンにとって戦うことは生きるための行動だった。だがガウルテリオはその真逆である。
戦いの中で死ぬことが男の望みだった。自らを高めることが、強い相手と戦うことが、その果てにあることが。
ランタンはガウルテリオの剣を解放した。ガウルテリオは瞬時に剣を逆手に持ち替える。ランタンは首を狙う左手を受ける。
止めるものはない。
剣はランタンを貫かなかった。
鍔から柄に染み込んだランタンの血が俄に発光したかと思うと突如爆発した。それは篭手の隙間にまで染み込んでいたようで、ガウルテリオの右手は見る影もなく失われている。
鎧の亀裂から溢れていた暗澹たる光が濃くなる。
戦鎚がそれに呼応するように赤熱化する。肉の焼け焦げる臭いが立ちこめる。苦痛の呻きがいんいんと響く。あたりを覆っている暗雲が嵐でも呼ぶかのようにざわめく。鍛えられた肉体に爆発が押さえつけられる。
ランタンは驚く。ガウルテリオの強烈な意思がランタンの意思を侵す。
気が付けば押し倒されていた。馬乗りになられて、兜の隙間から溢れた血がランタンの顔を汚す。
生臭く、生暖かい。腰の上に乗る男の重みがランタンに嫌な記憶を呼び起こさせる。ランタンは歯を食いしばり、戦鎚を押し込む。鶴嘴だけではなく鎚頭のすべてがガウルテリオの腹に飲み込まれる。
ようやく訪れた死の気配にガウルテリオが再び喜ぶ。死を確信させる痛みだった。戦鎚を通してランタンにさえ感じられた。
下腹部に貫かれるような痛みがある。
ランタンは呻き声一つあげなかった。
ガウルテリオが笑ったような気がする。
見開かれた瞳が赤を通り越して白々と燃え上がり、ガウルテリオの分厚い鎧が飴細工のようにどろどろと溶けていった。それは滴り、しかしランタンの肌に触れない。熱したフライパンに水滴を落としたように空気の膜の上で踊った。
鎧が溶け落ち、誰も知らないガウルテリオの姿はそれを認識する間もなく焦げ付き、真っ黒なその影は濃縮された魔精そのものだった。
遙か向こうにまで。
命の向こうにまでぽっかりと広がっているようだ。
星のない夜空のようだ。
あれほどしつこかった暗雲は失せ、溶け残った鎧ががらんと音を立てる。
ランタンの姿はどこにもない。
帰りたいと思った。
かなり疲れていたし、いい加減女の格好をするのは恥ずかしいことだし、しかもそれがぼろぼろにならばなおのことだった。
服だけがぼろぼろなだけではなく、もちろん身体も怪我を負っているし、目的であったブリューズはくたばって、取り敢えずは一段落ついたのだから、もう帰りたい、とそう思っていた。
それはクァールとガウルテリオが現れてからも、戦っている間もずっと思っていた。
早く帰らなければリリオンが心配する。
帰ってもきっと、ぼろぼろな姿を見たリリオンは大いに心配するだろう。
玄関先で裸に剥かれて、頭の先から爪先まで徹底的に辱めを受けて、それからきっと風呂に連れ込まれるだろう。そこでも身体中の隅々を確かめられて、ぴかぴかに磨かれて、ランタンは疲れ切っているので少女にされるがままに身を委ねるだろう。
それが終わったらリリオンとくっついて二十時間ぐらい眠るのだ。冬なのに互いの体温で汗だくになって、起きたらその汗を流すために風呂に入るのだ。
そうだ、それがいい。
「ランタンっ」
リリオンがそこにいた。
ランタンが帰ってきたことにまず喜び、襤褸雑巾のような姿に哀れなほど慌てふためいた。
「大丈夫」
ランタンは格好を付けて、澄ました顔でそう言ったがリリオンはまったく聞いていなかった。
「ランタンっ、ああ、ひどいわ。こんなに怪我をするなんて、血もたくさんでてるじゃない!」
リリオンは両手でランタンの頬を挟んだ。鼻先が触れる。潤んだ大きな瞳がよりいっそう大きくなった。
「大丈夫だよ」
ランタンは努めて優しい声を出した。どうみても大丈夫ではなかった。こめかみからの出血は焦げ付き、その黒さよりもなお黒い痣となって殴られた額に内出血があった。
リリオンがその傷に触れると少女の指が冷たく感じた。
背に氷を入れられたようにランタンの肩が少し跳ねる。リリオンは咄嗟に手を引いて、髪に指を滑らせて顔を寄せた。今度は熱さを感じた。こめかみを舐め、つつと輪郭を伝い、顎の先に唇を押し当てる。
リリオンがぴちゃぴちゃと傷を舐める。
「ちょっと、やめてよ。猫じゃないんだから」
ランタンはくすぐったがりながら、リリオンの身体を押した。
少女はその手を取り悲鳴を上げる。
「ああ、ランタン、ダメよ。いつも無茶ばかりして」
薬指と小指が一纏めに欠落しかかっていた。中指と薬指の股が切り裂かれ、掌の半ば程まで深くなっている。
リリオンは傷口の断面を合わせて、優しく、強く押し付ける。不意に壊れた陶器の欠けを、咄嗟に誤魔化すように。
それからリリオンはランタンを裸に剥いた。目にも止まらぬ早業だった。
左の鎖骨の下が噛み千切られていた。出血は内股にまで垂れている。血を失いすぎていて肌は青く、透ける静脈は紫色をしている。
流れ出る血は酸化して黒ずんでいるが、血管を流れる血はその色をしていないだろう。
リリオンはランタンの身体を余すところなく確かめる。ほんの小さなひっかき傷の一つにさえ哀しんで、それが最良の治療であると信じるかのように舌で清める。
ランタンはすっかり辱められた。
気が付けばリリオンも裸になっている。眩いほどの裸体だと思った。
少女は親猫が子猫を運ぶみたいにランタンをひょいと抱えた。
傷の痛みをランタンは感じなくなっている。
大きなものに包まれる安心を感じながらランタンはくんくんと鼻を動かす。血の臭いは自分のものだろう。だが獣の臭いは誰のものだろうか。
これほど側にいるリリオンの匂いが不思議と感じられない。
それはランタンに違和感を憶えさせた。乳臭さのような少女の甘い体臭をランタンは好きだった。
リリオンの身体は温かい。しかしこれはリリオンの温かさだろうか。
炎のような温かさだ。
一つの違和感は、また別の違和感をランタンに気付かせる。
怪我だらけながら毛の生えていないランタンの身体と同じく、リリオンもまたすべすべしている。ランタンは自分の身体をリリオンに擦りつけ、手はその身体を撫で回した。
くすぐったげにリリオンが震える。
記憶の中にあるリリオンの身体は、確かに女らしい成長を遂げつつあるが、しかしもう少し細かったはずだ。
脂肪の厚み、筋肉の付き方、骨の太さ。
ランタンは掌に感じる柔らかさに疑念を深める。
肌触りはすべすべと言うよりもさらさらしており、もっと言えばふわふわしているような気さえする。産毛にしたって濃すぎるだろう。
「あんっ、ランタン」
リリオンが甘い声を出した。声が二重に聞こえる。後ろに重なった声は、はたして声だったか。
抱かれて運ばれたそこは風呂ではなくベッドだった。
ランタンは横たえられ、リリオンが馬乗りになり覆い被さる。
重い。腹の上に息が詰まるほどの重さを感じる。ガウルテリオよりも重い。しかしガウルテリオに乗られた時のような不快感は不思議とない。
リリオンではないという違和感が、確信に変わった。
帰りたいと思っても、それは思っただけだ。
リリオンの顔が近付く。べろんと唇を、顔を舐めた。それはざらりとして、くすぐったさと、微かな痛みがある。
分厚く、幅の広い舌だ。
ばふん、と鼻息でランタンの前髪が跳ねる。
酷い臭いだ、と思う。血の滴る生肉を食して、歯を磨かなければこんな臭いがするかもしれない。
ランタンはリリオンの顔に触れた。親指を唇に這わせ、歯に触れた。
歯だ。
牙だ。
リリオンが小首を傾げ、もう一度顔を舐めた。
瞬きをすると、視界にあった光景が現実に入れ替わった。
そこには虎の顔がある。
顔を一飲みにされそうな巨大な口と、鋭い牙と、やすりのようなざらざらの舌がある。
夢から覚めたようにランタンは飛び起きようとして、しかし虎にのし掛かられているのでベしゃんと潰れた。
もしそれが敵ならば、口に入れた親指をそのまま喉奥まで押し込んで頸椎を捻っている。
「なんだお前」
ランタンは鼻先にある虎の顔に問う。
「がおー。ぐるるるる」
「がおーじゃないよ。どけどけ」
ランタンは虎を押し退けて、起き上がった。少年らしく乱暴に胡座を組むと、虎はランタンの周りをゆっくり三周した。
体高は一メートル近く、尾の先から尻尾の先までの体長は三メートルを超えるだろう。
虎はランタンの背中に顔を擦りつけ、脇の下から身体をねじ込む、胡座を組んだ脚の上に我が物顔で顔を乗せた。
「重いって言うのに」
ランタンは涎でべたべたになった顔を腕で拭い、その臭いに顔を顰め、爪を立てて虎の頭を撫でた。
ひどく人懐っこい虎だった。夢の中で夢を見ていて、夢から覚めてもまだ夢の中にいるのかもしれない。
その毛皮は赤味を帯びた濃い金色に黒い横縞が走っている。撫でられることに満足するように野太い尻尾をゆったりと大きく揺らしている。
後ろ足の付け根でそこだけ黒い横縞が巻いており、それは満開の花びらのようだった。
ランタンはその模様に見覚えがあった。
「お前、もしかしてねこか」
がお、と虎は一声吼え、ぼっと身体に炎が燈った。
「こら、燃えるじゃないか。やめろやめろ」
ランタンは両手で炎虎の毛皮を撫でた。炎が払われる。
はっと気が付く。
指は一つも失われておらず、掌を半ばまで切り裂いたあれほどの傷もすっかりなくなっている。他の傷もない。鏡がないので確かめることはできないが、顔の傷もきっとないだろう。
ランタンは眉間に皺を寄せ、頭を抱える。
ねこが心配するように、がー、と唸る。
転移したんだ、と思う。
魔精がそれを叶えた。
しかし自分は帰りたいと考えていたはずで、ここはまったくどこだかわからない。
ランタンは思わず舌打ちをする。ふわふわのねこの毛皮をわしわしと撫でまくる。ねこはごろんと仰向けになった。
腹の毛は真っ白で、特にふわふわしている。
「魔精ってほんと役にたたないな」
がーぐるぐる、とねこが同意するように喉を鳴らす。
「ここどこ?」
訊いても答えは返ってこない。




