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夜が揺れる。
それははたしてどちらに向けて放たれた声援であるのか。
もはや人語とは思えぬ意味不明で乱暴な歓声が四方八方から降り注ぎ、空に昇る月へと吹き抜けていく。
その舞台は夥しい数の人に囲まれた歪な円形の空間で、その中心と四方で煌々と燃える篝火の光が夜の闇を観客席の方へと押し退けて、こちらとあちらの境界線を明確にしていた。
顔が見られるのはせいぜい三列目まで、そこから後ろは濃くなった闇の中に埋没して個々の区別をつけることはできない。
だが前列の表情を見れば、後列のそれも予想はついた。
人種は様々だったが男の割合が多く、性別比率に則って探索者が多く、男も女も年齢も種族も職業も関係なく皆が熱狂に表情を輝かせている。
その舞台は戦いの舞台だ。
篝火を挟んで二人の男が対峙している。
一人はこの夏にティルナバンを訪れたばかりの移民の探索者だった。
西南の工業都市出身の雇われ探索者だった男であり、成果給ながら普通の探索者よりも豊かで安定した生活をしていた。だがその生活を投げ打ってこの地にやってきた。
更なる成功のため、そして名声のために。
この舞台に上がる挑戦者の中には最近はめっきりこの手合いが多くなった。この舞台の勝者となり、名を売ろうというのだ。
幾つもの困難な迷宮を踏破し、幾つもの強大な魔物を討伐するよりも、たった一人を倒す方が手っ取り早いと考えているのかも知れない。
装備は斧槍に大鎧、顔を隠す兜には鶏冠のような赤い飾りがついている。
兜の隙間、ほとんど切れ目というような僅かな隙間から覗く眼光は鋭い。
鎧の上から自らを鼓舞するように胸を叩く。鈍い金属の打撃音。鎧の内で肩を上下させている。武者震いか。
呼吸の合間に己を勇気づける言葉を繰り返し呟いている。
もう一人はこの舞台の主だった。
月が昇る時、黒髪の太陽は地に堕ちる。
黒髪の太陽、――ランタンは額に汗を浮かべていた。
すでに所々、傷をおっており、うっすらと血が滲んでいる。
ぼろぼろになった外套を外して篝火の中に放り込んだ。くべられた外套がぐずぐずと燃え上がり、火の粉と灰が星になろうとするように夜空に舞い上がっていく。
観客の視線がそれを追った。戦士はランタンを見ている。ランタンは両腕の袖を肘のあたりまで折り返した。白い腕に幾つもの赤い切り傷がある。
十試合目。これが今夜の最後の試合だった。
さすがに疲れた。
この舞台が開かれるのはこれで何度目だろうか。
開催当初は規則など無いに等しく、何人で徒党を組んでランタンに挑んでもよかったし、挑戦者がいなくなるまで試合は繰り返され、そのまま朝を迎えることも珍しくはなかった。
それが今では一夜に行われる試合の数は十と決まっており、団体で挑む挑戦者の数は五人以下という自然発生的な掟が拘束力を有するまでになっている。
だが終わりなき戦いだった時よりも、肉体的な疲労は大きい。今、この舞台に上がる者はそれなりに腕が立つことが最低限の条件となっていた。
そうでなくては観客たちが納得しない。
何を間違えたのかこの舞台に上がり、ランタンに優しく負かされた挑戦者が、満足せぬ観客たちに袋にされることもあった。
夕暮れ時になるとこの舞台に上がるための予選が開かれているらしい。
そのため肉体的な疲労は有象無象を相手にしていた時とは比べものにならない。一つ前の試合で戦った戦士一人と魔道使い二人の団体は強敵だった。
消耗したランタンと違い、斧槍使いは万全だ。これまでの九試合、ランタンの動きを把握するのに努めていただろう。
だが負けるつもりもなければ、負けていい理由もなかった。
この舞台が開かれるにあたってただ一つ、当初から明文化されている規則があった。
これだけがこの舞台の、いやティルナバンの、この世界の原理原則である。
ランタンを打ち倒した者が、リリオンを得ることができる。
逆を言えばランタンが勝利し続けている間は、誰もリリオンに手を出すことができないと言うことだった。
灰が降る。吹き上がった火の粉は星になれず、燃え尽きてしまった。
ランタンが戦鎚を手の中でくるりと回した。
わっと歓声が上がった。
芝居がかった身振りで戦鎚を男に向ける。
「こい」
呟きに等しい小声であったが、闇に飲まれる観客席の最果てにまで通る試合開始の合図であった。
だと言うのに斧槍使いは動かない。急かすような罵声が観客席から放たれる。
「その傷を治せ。尋常の勝負を望む!」
そう言って敵意のない動作でランタンの足元に何かを投げ寄越した。
それは聖水と呼ばれる治癒薬だった。本物ならば治癒性の不定型生物の瓶詰めで、紛い物なら片栗粉を溶いた色水である。
どちらでもよかった。
ランタンはそれを踏み潰した。
「これが傷? 探索者にしては上品なことだ。それとも負けた時の言い訳がほしいのか?」
「侮るなっ! ――貴様こそもはや言い訳はできんぞっ! 命を賭した戦いを、いざ、勝負っ!」
男が舞台を蹴った。
重装備、本来の戦い方は守って攻める戦型だろう。
挑発を受けたからか、男は抗いがたくランタンに引き寄せられた。大型動物じみた足運び。脇に構えられた斧槍はいかにも破壊力がありそうで、男は突撃の速度を打ち下ろしに乗せる。
――体重を後肢に残している。
斧槍が伸びたような錯覚すら憶える、遠間からの打ち下ろしだった。
これまでのランタンの戦い方を見て、誰もがその選択を取る。距離こそがこの戦いの生命線だった。懐に入れてしまうとランタンは炸薬も同然だった。
ランタンが半身になって打ち下ろしを避けた。斧頭が舞台にめり込む。
ランタンの踏み込みと同時に、男は斧槍を引く。斧頭の反対側には鉤爪が備えられていた。自らも後退しつつ、ランタンの背部を鉤爪が強襲する。
引き手の方が速いか。
ランタンは振り返りもせず戦鎚を後ろ手に回した。
身体で手の位置を隠す。相手の手元から鉤爪の位置を予測する。衝撃の瞬間、二人して手首を捻った。読み合いはランタンの勝ちだった。背中狙いと見せかけ、指を狙ってくる狡猾さと技術を持ち合わせている。
ランタンは男の引き寄せる力を加速に使い、懐に飛び込む。
男が大きく後退する。大柄なだけあって懐が深い。だが距離は詰まる。戦鎚の距離だ。
しかし柄に鉤爪が蔦のごとく絡まっている。
引き千切るように力を込める。だが後ろ手では不利だ。男が手首を返し、ランタンの体勢を崩す。爪先を跳ね上げる。蹴りはランタンではなく斧槍の柄を蹴り上げた。足が浮く。
斧槍を使った背負い投げ。
猫のように身体をよじる。それに合わせて斧槍がひねられる。操り人形のように行動が支配された。
さすがは最後の挑戦者だった。
慌てず、騒がず、冷静に。
ランタンは戦鎚を手放し。それが二人を繋ぐ要だった。
それだけで達人である男の体勢が大きく崩れる。
ランタンを失った斧槍が、ランタンを失う以上に軽かったのだ。手から離れた戦鎚から重力魔道が消失し斧槍の重さが元に戻る。
宙を蹴る。
流星のように爆炎の尾を引いて、ランタンは男の頭上を通り過ぎ、あらぬ方へ吹っ飛んでいく戦鎚をつかまえた。着地と同時に再び爆発を駆使して一気に速度を引き上げた。
距離を詰める。だが男は体勢を立て直している。
斧槍の動きはない。男は炎の残光を瞳の中に残している。数秒、数瞬、視力を失っているのだ。
ランタンは戦鎚を引き絞った。柄を回し鶴嘴を表に向ける。
男は足を踏ん張った。覚悟を決めたのだろう。
鶴嘴が鎧を穿つ。ほんの僅か先端が肉に食い込んだ感触がある。深手は負わせられなかった。並の戦士ならば動くこともままならないほど厚みがある鋼板を使っている。
自分の装備に命を預けたのだ。
男が身体を斜めに捻った。鎧に捕らえられた戦鎚ごとランタンを引き倒す。
行動が速い。斧槍の柄を両手が滑り、上下を入れ替える。石突きが頭上から襲いかかる。竹竿のように撓りながら唸りをあげて、ランタンの頭部を砕かんとした。
破裂音。
ぱっと黒髪と血が舞った。
先端速度が音を超えた。
観客が大きく歓声を上げる。その中に一つ、悲鳴を見つけた。
ランタンは鎧から戦鎚を抜く。打ち下ろしは側頭部と耳を削り、音速の衝撃波が鼓膜を破った。根元から半分ちぎれた左の耳が揺れている。どろっとした血が頬の輪郭を伝って顎から涎のように糸を引いて滴った。
好機と見るや男が詰める。
速い。
足元から風が噴出している。靴か、脛当てに風の魔道が刻んであるのだろう。風は大質量を数ミリ浮かせ、男を高速で推進させている。地上すれすれを滑空する燕のようだった。
吹き荒れる風に中央に置かれた篝火が倒れた。
ランタンの視線が無意識的にそれを追った。
瞬間、男は左に回り込んだ。
胴抜き。
戦鎚に触れて白々とした火花が散った。骨が軋む。前戦の傷口から血が噴き出す。
爆発。
発生した衝撃と乱気流に、しかし男の体勢が崩れない。すでに接地している。あれほどの出力を持続することはできないようだ。
爆炎に炙られて鎧の表面が黒ずむ。だが男はその炎ごとランタンを圧し斬ろうとする。
力比べならば、どちらが上かは一目瞭然だった。
体格差は子供と大人、いや子供と巨人ほどもあるかも知れない。
だが予想を裏切ってランタンは微動だにしなかった。片手で斧槍の圧力を食い止める。
歓声が響めきに、そして歓声へとうねった。
ランタンの表情は澄んでいる。だが内心では歯を食いしばっていた。左耳の出血が増える。耳の奥で破れた鼓膜がばりばりと音を立てている。半分繋がった耳が、耳のそのものの重さで更に裂けつつあった。
ランタンはゆったりとした動作で傷口同士を強く押し当てて圧着する。
出血を掌に溜めて、それを男の顔に引っ掛けた。
「小癪なっ!」
床の鎧から風が吹き出た。いつかの最終目標でも似たような攻撃があったことを思い出す。ランタンは冷静に爆風でそれを相殺する。あるいはランタンの方が速かったかも知れない。
血飛沫が男の兜を点々と汚した。目潰しにはなっていない。
怒りを得て男の圧力が増大した。
暴風が舞台に散らばった火のついた木々を観客席へと吹き飛ばした。
足元だけでなく鎧の隙間のすべてから、先程は前面に放射した風が推進力となって噴き出す。
「――がっ」
兜が拉げ飛んだ。思いっきり殴りつけられたように。だが戦鎚は斧槍と斬り結んでいた。
兜に散ったランタンの血が爆ぜたのだ。男は自分が何をくらったのかを理解しない。
「サイズが大きくてよかったな」
尻餅をつく男にランタンが言った。脳震盪を起こしているのだろう、兜が外れて二回りも小さくなった頭はふらふら揺れている。視線は焦点を合わせない。
「それに頑丈だ。工業都市の出身なだけはある」
ランタンは戦鎚で兜を拾い上げ、内部で爆発を起こした。べっこりへこんだ兜が、元に戻った。いや元よりも一回り大きいか。ランタンはそれを男に被せる。
ランタンは振り返った。月を見つめる。ランタンと月の間にいる、銀の髪の少女を。
観客は静まりかえっている。
興奮、期待、恐怖、憧憬、畏怖。
少女は首を横に振った。ランタンは頷いた。
「よろこべ。ころしはしない」
焦点がようやく定まる。燃える炎の瞳に射すくめられる。
「あの子は、誰よりも優しい。――誰にもリリオンは渡さない。リリオンは僕のものだ。奪おうとするのならば」
それは観客のすべてに告げた言葉である。
戦士の本能。反射的に、尻餅をついたまま斧槍が横薙ぎに払われる。
だがそれは何も切り裂くことはなかった。
その夜、男が最後に見たものは何か。
己の血肉を燃やし、光り輝くもの。
太陽。
振り上げられた戦鎚が、男を殴り倒した。
怒声も罵声も飲み込んだ、爆音のような歓声が夜を揺らした。
朝と夜の狭間にランタンとリリオンは探索に出かける。
その時間帯はティルナバンに訪れる僅かな眠りの時間だった。
探索者もこの時間帯には最も活動が不活性化する。連日大入りの迷宮特区も、今はまるで貸しきりにしたかのようだった。
ミシャが鼻の頭を掻いた。
起重機に相乗りするランタンがぐいっと顔を近付ける。ちょっと戸惑うぐらいに近い。リリオンもそれを真似するので、二人に挟まれたミシャは野犬に囲まれたみたいに困った顔になる。
じっと見つめられ、体温が肌に触れる。襲いかかる前に獲物が食べられるかどうかを確認するようだった。
いい匂いがするな、とミシャは取り留めもないことを思う。探索前のランタンとリリオンのいつもの匂いだ。探索者らしからぬ石鹸の、清潔な匂い。帰ってきた時は、どんな匂いだろう。
「な、なんっすか?」
「それ」
ランタンの指が頬に触れた。ぴりっとした痛みとも呼べない痛みがある。鼻や頬の薄皮が剥けて、薄赤く火照っていた。
熱に炙られると肌はそうなる。ランタンはそれをよく知っていた。軽度の熱傷だ。どれほどの数を焼いてきたか、ミシャの頬を撫でるこの手で。
「誰かに、いじめられた?」
もしそうなら、と続いたランタンの言葉をミシャは慌てて遮った。
「ただの日焼けっすよ! 大丈夫!」
「本当?」
「ほんとっすよ。今は引き上げ屋の数が足らないから、この夏はずーっと外」
炎のようだ、とミシャは思う。
ランタンの瞳はほんの些細なきっかけで燃えさかる。日溜まりのように温かく穏やかなこともあれば、何もかもを焼き尽くす恐ろしい業火にも、たった一瞬きの間に変貌する。
リリオンへの迫害は、それを取り巻く周囲にも飛び火をした。
嫌がらせや差別は、グラン工房や蜘蛛の糸など、リリオンに縁のある人々にまで向けられたのだ。
そのことにリリオンは酷く負い目を感じているが、ミシャたちはそんな目にあっても変わらぬ関係を続けてくれる。
特にアーニェは自らもその隠すことのできない三対六本の腕のせいでたいそう苦労してきたので、色々と親身に相談に乗ってくれていた。
リリオンは一時期、憔悴してしまったが、そういった変わらぬ人たちのおかげどうにか気を持ち直すことができた。
ミシャの目にはリリオンよりもランタンが不安定に見える。
ランタンの疑り深い眼差しは、ミシャのつなぎに向けられていた。
今年のティルナバンには長く夏が横たわっている。
明け方には暑さも多少和らぐが、それでも前日の暑気が完全に失われないうちに陽は昇り、気温は容赦なく上昇する。照りつける陽射しに汗が肌の上で塩に変わるほどだった。
何年か前にも猛暑の年があったが、それでもミシャは長袖のつなぎを脱ぐことはなかった。肩周りや胸元を飾る毒蛇の鱗はミシャにとって隠すべきものだったからだ。
だが今年のミシャはつなぎの前を開けるようになった。
前回の引き上げの時も前を開けていた。しかし今は開けていない。それがランタンには隠し事をしているように思えたのだ。
「もう」
ミシャは溜め息をついて、つなぎの前を開いた。
中には袖のないざっくりとした薄手の肌着を着ている。すでに汗を掻いていて、軽く肌に張り付いている。
ミシャは襟に指をかけて、少し引っ張る。白い肌と日焼けした肌の境目がくっきりとしている。白い鱗が日焼けした肌の中で陶器のように色を変えない。
「ほら、日焼けでしょ? 心配性なんだから」
「だって」
「今日はむしむしするのに」
リリオンが額に浮いた汗を拭う。昨晩、一時間ほど小雨が降った。気温が下がればよかったが、ただ湿度を増しただけの通り雨だった。
リリオンは髪を纏めて、頭上で二つのずんぐりとした角のような団子にしている。
「わかったんすよ。自分が今までひた隠しにしてきたものなんて、たいしたことがなかったって」
ミシャはうんざりしたように溜め息を吐く。
張り付いた肌着を剥がすみたいに胸元を引っ張ってぱたぱたと扇いだ。豊かな胸元が起重機の震動と相まって大げさに揺れている。襟元から溢れそうだ。
「ランタンくん」
ランタンは視線を起重機の外に放り投げた。
つまりはそういうことらしかった。迫害の対象である毒蛇の牙にも鱗にも、探索者はまったく見向きもせず、その大きな胸ばかりを気にするのだ。ミシャはそれにうんざりしたようだった。
これだから男って、とぶつぶつ言っている。
「――だから、本当に大丈夫っすよ。それにランタンさん、最近すこぶる評判悪いっすもん」
ミシャにそう言われて、ランタンはようやく視線を戻した。意味深に笑う、その背後でリリオンが目を据わらせた。怒っているようでもあり、拗ねているようでもあり、哀しんでいるようでもある。
対照的な二人の表情に、ミシャは曖昧な笑みを浮かべることしかできない。
「へえ、その話、聞かせてよ」
「最近の私、色んなお客さんに心配してもらってるんっすよ。脅されてるんじゃないかって、私を脅してたような人たちから」
一時期は嫌がらせを受けた蜘蛛の糸だが、しかし経営が成り立たなくなるようなことはなかった。
ひと夏の間に下街の再開発が進み、その最大の目玉である第二迷宮特区が貧民街跡地に完成したため、おのずと引き上げ屋の仕事は増えたのである。
迷宮と探索者の増加に、引き上げ屋の増加が追いつかなかったのだ。巨人の仲間、裏切り者の一味であろうとも、ティルナバンには引き上げ屋を遊ばせておく余裕はないのだ。
むしろリリオンやランタンの話を聞こうと、あえて蜘蛛の糸に仕事を依頼する探索者もいたほどである。そしてその時、ちくりと嫌味を言ったり、面罵したり、恫喝的な態度を取る探索者もいたのだ。
それが暴力に発展しなかったのは、探索者と引き上げ屋の間に生まれた力関係のおかげだろう。降下中にちょっと起重機を操作すれば、探索者など横壁の染みと化してしまう。
これまでは、そうだった。
「僕に脅されてるって?」
「そう、それで無理矢理、迷宮探索を手伝わされているんじゃないかって」
「酷いことを言うな。早朝分の割増金だってちゃんと払ってるのに」
「ほんとっすね。でも、もっと酷いことがあるんすよ。そうやって心配してくれる人の誰も、自分がどうにかしてやる、なんて口が裂けても言わないところとか」
「なるほどね」
ランタンは満足気に頷いた。
平均すれば十日に一度、ランタンは夜になるとティルナバン郊外に作られる戦いの舞台に上がる。
すべてはリリオンのためだった。
リリオンへの迫害は、発生当初に比べればかなりましになってきている。少なくとも大規模な集団がネイリング邸を囲むようなことはなくなった。
しかし日中に表を出歩くことはやはりまだ難しい。何か嫌なことを言われたり、白眼視されたりすることはまだまだなくならない。
直接的な暴力は滅多にないが、その機会を狙っている者は水面下にまだ数多くいた。
いつ、どこで、どうやって。
リリオンへの悪意を発露させる手段は無数に張り巡らされていて、それらの一つ一つに対応することは難しい。だからランタンは道筋を作ってやったのだ。糸を束ねるように。
一見すると目的に辿り着けそうで、しかし決して到達することのできない道筋を。
リリオンが背後から、ランタンの耳の付け根をなぞった。傷を縫い合わせた糸はすでに肉体に溶けているが、薄紅色の継ぎ目が付け根に残っている。
暴力の発露の先を、リリオンから自分へと逸らして、さらにはガス抜きにもなる。
探索者に対して最も有効なことは、力を示すことだった。探索者の世界は、実力主義の世界である。
力ある者は畏れられ、恐れられる。
暴力だけではなく、リリオンに向けられる意識の半分でも肩代わりすることができればいいと、そう思っていた。そしてランタンはその目的の大部分をすでに果たしていた。
単純なものだった。
今やあの夜の舞台に上がる者の望みはリリオンではなくランタンの首であり、それを見に来る観客たちが望むものはランタンの戦う姿そのものだった。
この夏、ティルナバンの人口は激増した。
下街の再開発にともなう労働需要とそれにともなう好景気に引き寄せられた様々な移民たち、王都とそこを中心とした八つの大都市に一つずつしか存在しない迷宮特区の例外である第二迷宮特区に誘われた探索者たち。
それはかつて迷宮がもっと未知なものであった時、一攫千金を狙って大勢の人々がティルナバンを訪れた混沌の黄金時代の再現のようであった。
ティルナバンの発展は、常に迷宮とともにあった。
そしてそうやってティルナバンに訪れた人々の誰もがリリオンのことを知っていて、リリオンを一目見ようとしていた。ランタンを知る人など、リリオンの知名度と比べればいないも同然だった。
それが今やどうだろう。
この迷宮都市でランタンを知らない者は誰一人としていない。
「――ランタンさん、どうなっちゃうんですか?」
「魔王にでもなろうか。恐怖でこの街を支配するんだ」
「冗談に聞こえないところが怖いっすね」
「世界征服のあかつきには、世界の半分をあげるから怖がらないで。もう半分はリリオンにあげるね」
「いらないっすよ。ねえ」
「うん」
「真面目に返さないでよ。冗談だよ」
「どっちが?」
「どっちも。魔王も世界もそんなものには興味はないよ。今は必要じゃない」
「今はって」
迷宮に辿り着いた。迷宮口に起重機を寄せて、停車する。
「じゃあ何がいるんですか?」
「アーニェさんが言ってた。必要なのは忍耐と、タイミングを読むことだって」
「タイミング?」
「そう。すべては偏見と無知による噂に過ぎない。だけど一人一人との対話は無駄だって。人の好き嫌いに完璧な理論なんてないし、結局、口喧嘩みたいにぐちゃぐちゃになって、噂は余計に面白可笑しく広まっていくんだってさ。――伝える時は相手に聞く用意ができた時、一方的に、大勢に、いっぺんに」
今やあの舞台は満員御礼だ。
「それで、剣闘士みたいな真似を?」
「そう、闘技場のノウハウはネイリング家が持ってたからね。探索者だけにじゃなく、力を見せることはどうしても必要だし。それに商工ギルドも噛んでるよ。賭博の胴元やってもらってるんだ。テラ銭でうはうはだってさ。お金はいいね。人の心を動かすのにこれほど有効だとは思わなかった。エーリカさんに運用してもらって、色んな所にばらまいてもらってる」
ミシャの瞳に、背後にいるリリオンの顔が反射した。
「いい、って顔してないっすよ」
「うん。どんどん人間が嫌いになってく。もともとそんなに好意的じゃないけど」
「無理はしちゃだめよ」
「無理? 僕に無理なことなんてないよ。世界征服だって、必要ならするさ」
どこかに行ってしまうのを引き止めるように、リリオンがランタンにしがみついた。体勢を崩してミシャの胸の中に倒れ込む。
いけない。そろそろ朝が近付いてきた。
探索者で特区が満たされる前に、迷宮へ赴かなければ。
迷宮探索が二人に残された数少ない変わらぬ日常の一つだった。
二人して、ミシャにぎゅっと抱きしめてもらう。
「大げさだよ」
「いいの」
「ふかふか」
今さら照れるランタンとは裏腹にリリオンはたっぷり甘えた。
「――じゃあ、よろしく」
「ご武運を」
「いってきます」
迷宮へと降下する。
人界から断絶したそこはミシャの胸の中と同じぐらいに、二人にとって安らげる場所なのかも知れない。
二人の肌が日焼けとはまったく無縁に生白いのは、頻繁に迷宮に降りているからだった。




