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カボチャ頭のランタン  作者: mm
09.Not Alone
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 夜が明ければリリオンが帰ってくる。

 だがその前にやるべきことをしなければならない。

「……」

 ランタンは一人、夜の迷宮特区にいた。

 四六時中解放されている迷宮特区だが、深夜二時ともなると人気はほとんどない。特別な事情がない限りこんな時間から探索を開始する物好きはいないからだ。

 探索開始は朝から昼過ぎ、帰還は昼から日の入りまでに設定する探索者が多い。貴族も職人も農民も朝に目覚め、昼に働き、夜に眠るのと変わりなく、探索者も迷宮で当たり前の時間を過ごす。

 こんな時間にうろつくのは、崩壊間近の迷宮を監視する探索者ギルド武装職員、それに探索者が廃棄していった魔物素材や壊れた装備を漁る物漁りたち、呼び出された引き上げ屋、物好きな探索者と時間に余裕のない探索者、そしてそれを狙う襲撃者たちぐらいのものだ。

 広い迷宮特区でそれらとすれ違うことは滅多にない。

「……」

 だがランタンはすでに六人の人と出会っていた。

 指折り数えて、一つ頷く。それから再び歩き出した。月夜だったが、月明かりはあまりなかった。切れ目みたいな弓月が空に浮かんでいる。

 ランタンは月光が避けるように闇の中にあった。

 一人で迷宮特区を歩くのは久し振りだ。リリオンと出会ってからはいつだってあの少女が隣にいたし、ついこの間はお守り(リリララ)がいた。

 音が少ない。単独探索をするようだ、とランタンは思う。自然の音ばかりが耳に聞こえる。風が緩く巻いている。肌寒さがある。

 迷宮特区は数百の区画に分けられている。その区画の一つ一つに迷宮はあり、そこにいたる経路は区画の数を倍にして足らない。

 一本道の迷宮とは大違いだ。

 探索者はさておき起重機を操縦する引き上げ屋は、各々情報を交換し、その日その時間、空いている道を選択して目的の区画へ向かう。

 そうしなければ渋滞してしまうし、起重機の巨体である。最悪すれ違うこともできず、前にも後ろにも進めなくなることもある。

 ミシャは経路の全てを頭に叩き込んでおり、日ごとの変化にも対応することができる。

 ランタンは懐からミシャが写してくれた引き上げ屋秘蔵の地図を取り出して、薄暗い月明かりに目を凝らす。

 そして書き込みの上に人差し指を当てる。

 するとまるで火の付いた煙草を押し当てたように地図に穴が空いた。

 三つ目の穴だった。ランタンは燃え広がらないように焦げ付きに息を吹きかけて、四つ目の、最後の穴を空けるために移動を開始する。

 ランタンは外套の前を合わせ、歩き出した。

 ランタンが去ったその場には二つの死体が残されている。

 探索者への襲撃計画、銀行預金の横領、迷宮解放同盟の供与など様々な罪で逮捕されたゴールドウッド銀行元主席番頭ブラー・アポンは今朝早く牢獄で命を絶った。

 どうせ死罪を免れることはないからか絶望したのか。

 冤罪を訴え続けていた男の死は呆気に取られるほど簡単に処理され、その死体は簡単な罪人供養だけを施されて、共同墓地へ埋葬された。

 監督責任者であるエリック・ブラックウッドは説明責任を果たすために議会に赴き、叱責を受け幾分かの科料を支払った。

 同僚の罪を曝いた次席番頭オルマル・ヨッヘンは次期主席番頭筆頭候補となったらしい。

 オルマル・ヨッヘン。元は積荷の輸送と売買を行う廻船問屋で金庫番をしていた男らしく、ゴールドウッド銀行に引き抜かれたのは十年近く前のことだ。

 銀行での主な業務は、廻船問屋時代に培った経験を生かした輸送時における積荷への保険業務であったようだ。

 この立場をいかしてオルマルはたびたび保険金詐欺を行っていたらしい。

 廻船問屋の半分は荒くれ漁民の兼業であるし、さらにその半分は掛け持ちで海賊をしているようなものである。もともとそういった方面の付き合いがあったのだろう。

 海賊や野盗やらと組んで保険金詐欺を働くこともあれば、単純に保険に入らせるため、また保険料をつり上げるために盗賊の存在を口実に使うこともある。

 そしてそういった盗賊たちは迷宮解放同盟など、襲撃者の集団と横なり縦なりの繋がりがあるのだろう。なんということはない、アポンが行ったとされる様々な悪行はつまりヨッヘンの罪を被せられたというわけだった。

 死人に口なしというのはまったくの嘘っぱちで、アポンは死んだあとに多くの情報をランタンにもたらしてくれた。

 アポンは社会的に死んだのだが、肉体も精神も健在だった。

 リリララの手引きで脱獄をし、喋ることを喋ってすっきりしたら、今は新しい人生を謳歌するための第一歩として、新しい顔を手に入れるためにティルナバンを離れている。

 ゴールドウッド銀行の主席番頭であった彼は、銀行のみならずブラックウッド商会のことなら秤の数まで知っていた。

 彼の新しい職場は決まっている。商工ギルド長付けの秘書官だ。商人ギルドに日影に追いやられている商工ギルドは、きっとこの爆弾を上手く使うだろう。

 アポンはもともと極めて有能な人物である。

 これを嵌めたとなればヨッヘンもなかなかやるが、アポンに隙があったのも事実である。

 アポンの有能さは悪事を働かずとも、集団の長になれるほどの有能さだ。世の中は正しいことだけでは進まないことを頭では理解しているが、それを自ら行うことはなかった。

 そういった清廉潔白さはヨッヘンにとっても、あるいはブラックウッドにとっても時に疎ましいものであったようだ。

 しかし清廉潔白さも、一度死んで今はもう見る影もない。別れ際の暗い眼差しを思い出して、ランタンは少し嫌な気分になる。

 彼が謳歌する新しい人生は、復讐の人生だ。

 リリオンも最初はそうだった。強くなる目的は、母を見殺しにした巨人族を見返すためだ。それは復讐と呼べるほど物騒なものではないかもしれないが、根底にある感情は同質の暗いものだろう。

 復讐。

 その形は様々ある。

 探索者ギルドでランタンに絡んできた中年の猫人族、名前をトルムという。トライフェイスには昔から所属していたが、頭角を現したのは近年である。今では若い探索者に攻略迷宮を差配する役割を与えられていた。

 彼は迷宮についての造詣が深い。

 なぜなら迷宮解放同盟だから。

 迷宮を探索者ギルド及び探索者から解放することを目的とした迷宮解放同盟の一員が何故、探索者をやっているのか。主義、信条を徹するために、これを裏切る。迷宮を解放するために、敵対する探索者の懐に入り込む。

 深く、長く、信頼を勝ち得るまで。

 トルムは十年以上探索者をしている。つまりそれだけ自らを裏切り続けていた。

 当初はどうだったのだろうか。その役目は目立たぬが、紛れもなく大役だ。それに危険を伴う。単純な責任感や義務感ではこなせないだろう。

 彼には強固な意志があったはずだ。

 だがそれも十年の内に疲れ果ててしまった。

 楽なものは楽だし、愉しいものは愉しいし、気持ちのいいものは気持ちがいい。

 迷宮差配役は、若手探索者の生殺与奪の権利を握っていると言っても過言ではない。集団に属している限り、これの決定は絶対的なものだ。

 差配役の機嫌を損ねれば自殺同然の高難易度迷宮へ挑まされる、と言うことはあまりない。攻略失敗や探索者の死亡はトルムの評価にかかわるからだ。

 機嫌を損ねれば、ただ干されるだけだ。資格無しとされて探索活動を制限される。それはある種、探索者としては死と同意である。大樹に寄らねばなかった彼らにとっては特に。

 トルムの下には賄賂が集まる。それは少しでもいい迷宮を回してもらうためであり、時には自分の女や同探索班の女探索者を差し出すこともしばしばであったという。

 一種の苦行僧のような己を殺す生活していたトルムは欲望に支配された。

 これらはルー・ルゥからの情報である。

 彼女もまたトルムに誘われた一人だった。

 それは探索にであり、トライフェイスにであり、寝室にであり、そして今宵の迷宮特区にである。彼女は傭兵探索者として探索には何度か付き合ったが、それ以外は断っている。

 ルーの重力魔道は、彼らが実行する作戦にはうってつけの魔道だった。

 リリオンの抹殺。相も変わらず懲りない連中だと思う。

 単独探索そのものを阻止できなかったから、今度は戻ってくる直前を狙おうというのだ。迷宮に押し入り、その内部でリリオンを殺す。

 攻略後の探索者がいなくなった迷宮を無断侵入し、迷宮構成物を掘り返す死体漁り(スカベンジャー)と呼ばれる不届き者もいるが、これは探索者を脅かす存在ではない。

 襲撃者も探索者は襲うが、探索中の探索者、つまりは迷宮内部でことに及ぶことはない。彼らにとって迷宮は未知の世界であり、そこは探索者の領地であり分が悪いからだ。

 しかしトルムは迷宮解放同盟であり、探索者だった。

 リリオンへの執着。

 ちがう。

 これはランタンへの執着だった。

 復讐という名の。

 カボチャ頭という渾名を、ランタンは気に入っていない。

 何だか格好悪いし、意味がわからない。花咲く迷宮で由來となったらしき魔物と実際に戦ったが、やはり今でも意味がわからない。小さくて、暴れん坊で、強引な戦い方をして、あんなものとどこが似ているのかと思う。

 ランタンを最初に渾名したのは襲撃者たちだ。

 襲われることに慣れつつあったある日、人を殺すことに嫌気が差していたある日、ランタンは襲撃者を見逃した。

 そうやって見逃した奴らが名を知らぬランタンをカボチャ頭と呼び、憎悪した。彼らは見逃されたことを、助けられたとは思わなかった。

 一人二人見逃したところで、これまでの奪った命の数が減るわけではない。

 ランタンはその時すでに殺しすぎていたのだと思う。

 これほど理不尽な恨みもあるまい。ランタンはあくまでも自己を防衛しただけだった。だが襲撃者たちからすると、カボチャ頭は憎悪の対象だ。

 トルムが所属する迷宮解放同盟の仲間たちも、何人か、それとも何十人かランタンの手に掛かっているのだろう。

 つまりはその復讐だ。

 自分がそうされたように、ランタンから仲間を奪うこと。

 巡り巡ってこうなった。恨み辛みが自分ではなく、自分のその周りにまで害を及ぼすようになった。

 だが自分の振る舞いをあらためようとは思わない。

 ――こうなってしまったからには、もうどうにもならない。

 飽くことなく、倦むことなく、ひたすらに殺し続ける道があるだけだ。

 エドガーにそう教えてもらった。そうすることでしか大切なものは守れない。

「……――、俺が使い終わったらお前らにも回してやる」

 微かな月明かりを飲み込む濃紺の外套が闇に溶けている。四つのそれは影が身を起こしたような不吉さを纏い、けれど夜の中で目立たぬ存在だった。

 そこにいることを知らなければ見逃してしまうような。

「ここまで来て怖じ気づくな」

「やることは、大丈夫です。けど本当なんですか、その巨人って」

「確かな筋からの情報だ」

 唾を飲む音がここまで聞こえた。だが恐れではない。

 笑うような、卑しい会話がランタンの血液を冷たくさせる。

「トムルさんについてきていい目合わせてもらいましたけど、流石に巨人は初めてっすね。俺ので満足させられっかな」

「そっちの心配かよ。あのガキよりはよっぽどましだろう。それこそ大人と子供さ」

「くたばる前に本物の男の味を知れるんだ。満足しないはずがない。嫌がるのは初めだけだ。いつだってそうだっただろ」

 ランタンの顔から表情がすっぽり抜け落ちた。

 まるで目玉をくり抜かれたように、闇を湛える眼差しがあるばかりだった。

 それはあるいはあのカボチャ頭の――。

 風が吹いた。

 腐ってもと言うべきか。

 反応したのは一人、トルムだけだった。

 残りの三人はほぼ同時に膝から崩れ落ちた。立ち上がった影が再び地面にへばり付き、光を失って形がなくなるようにその輪郭を滲ませた。

 延髄が抉り取られ、その事に気が付かぬように脈打つ心臓が影よりも濃い血溜まりを広げた。

 強く風が吹いた。明るいところから、夜に向かって風が流れ来むように。

 フードを吹き外して、トルムの顔が露わになった。

 ランタンは戦鎚を右手に提げている。鶴嘴に肉の塊が付着していた。

「お前っ――!」

 ただ殺し続ければよい。

 ランタンもたしかにそう思う。




 日が昇り、それを見つけたのは引き上げ屋だった。

 十体の死体である。

 迷宮特区でこれが見つかることはそう珍しいことではない。十という数も少ないとは言わないが、ことさら多くもない。

 だがその死体はあまりにも異様だった。

 通常、迷宮特区で見つかる死体の損傷は激しい。それは探索の困難さによりものであり、襲撃者の残虐さによるものでもある。

 見つかった死体は全てが一撃で頸部が破壊されているだけだった。

 その抉り取るような傷口は鋭い牙を持った魔物に食い千切られたかのようであったが、それ以外の損傷は見られないことから魔物ではなく、人の仕業であることは明白だった。

 死体の内の六名は襲撃者であると推測されたが、その身元は判然としない。身元が判明した残りの四名は、トライフェイスに所属する甲種探索者であった。

 甲種探索者といえば、三段階ある探索者の階位の最上位である。単純な戦闘能力だけでこの位を得ることはできないが、しかし戦闘能力がなければ得られない位でもある。

 そんな甲種探索者が一撃で殺されているという事実に、普段は迷宮特区で死体が見つかっても何とも思わない探索者も驚きと不安を隠せなかった。

 しかし死体のもっとも異様なところは、高位探索者が殺されたことでも、それが一撃で行われたことでもなかった。

 十ある死体の内の九つは、その顔に少しの恐怖も表してはいないことだった。

 血溜まりに伏す死体の中には歯を見せて笑っているものすらいた。

 つまり彼らはまったくその存在に気が付くこともできずに、あるいは未だに自らが殺されたという事も知らずに殺されたということになる。

 恐るべき技である。

 しかし何より探索者を震え上がらせたのは笑わぬ死体であった。

 それはトライフェイス所属のトルムという探索者の死体である。九つの死体が背後から延髄を抉られているに対し、トルムの死体は喉笛が食い千切られて、ほんの僅かな肉と皮だけで胴体と頭部が繋がっている有様だった。

 彼だけが襲いかかってきたものの顔を見ていた。表情にあるのは殺されることへの当たり前の恐れである。

 それは死地を日常とする探索者が、少なくともその日々を乗り越えることでしか辿り着けない甲種探索者がするべき顔ではなかった。

 真っ正面から襲いかかり、甲種探索者に一切の抵抗を許さず一撃必殺するその技量。

 恐れるだけでは足りない。

 それを知った探索者は戦慄した。

 探索者ギルドではこの話題で持ちきりである。一体誰がこんなことをできるのか。忌まわしき迷宮崩壊事件とこれを結びつけるものもいたが、しかしそれはすぐにある結論へと辿り着く。

 夜も明ける前に、ランタンが探索者ギルド査問室へ呼ばれたという噂が立ったのだ。

 査問室は一種の裁判所とでも言うべき場所だった。

 トルムとランタンの間に諍いがあったことは周知の事実である。

 ランタンが査問室から出てきたのは昼前である。

 縄で括られてはいないし、武装職員に脇を抱えられてもいない、騎士に引き渡されることもない。多少眠たそうにしているが、しかしその表情はどこか嬉しそうだった。

 まったくの別件で呼ばれたのかもしれない。

 いや、だがしかし。

 噂の主に勇気を持って話しかけた探索者がいた。

「なんだかご機嫌だが、どうしたんだ?」

 期待した答えは、邪魔者が消えた、である。その一言が聞ければ腑に落ちた。

 しかし期待はいつも裏切られる。

「今日、リリオンが帰ってくるんだ」

 ランタンはそわそわと嬉しそうにそう返した。まったくの幼い顔つきだった。親の帰りを待つ子のような。

「……そうなのか」

「うん、迷宮は攻略できてなくてもいいんだ。無事に帰ってきてくれれば」

 ランタンがやったのではないのか。

 聞き耳を立てていた探索者はそう思う。それともそのことをまったく意に介してはいないのか。探索者が出会った魔物を殺すかのように。

「ずっと心配してたんだよ。まあ、今も心配なんだけどね」

「…………そうか」

 ランタンの雰囲気が柔らかくなったのはここ最近のことである。

 ランタンの何が変わったのかと言えばその隣に常に銀の髪の背の高い、よく笑う少女を伴うようになったことだった。

 そして今、その少女はランタンの隣にいない。

「……無事に帰ってくるといいな」

「帰ってくるよ」

 期待をする子供の顔が、美しい彫刻のように柔らかさを失った。ランタンに見つめられた探索者は頷くのがやっとだった。

 ランタンの迷宮崩壊戦での活躍は誰もが知るところだった。

 だがそれをきっかけに付き合いがよくなったランタンを侮る風潮が増えたのは事実である。

 ランタンは探索者にあるまじき礼儀正しさや謙虚さ、分別を持っているように傍目には見えるからだ。

 しかしトライフェイスとの大地図前での一悶着で、ランタンの存在感が見直された。

 孤高の存在であった、あの生意気なランタンは未だに健在であると。

 だが、それでは足りないのだ。

 探索者たちは真に震え上がった。

 カボチャ頭のランタン。

 それは黄昏に現れる幼い死神の異名である。

 誰もがそれを思い出し、気が付いた。

 リリオンこそがランタンの箍なのだと。

 どうか。

 どうか無事に帰って来てくれ、とリリオンは大勢の探索者に祈られている。




 ランタンは迷宮特区にいた。

 都市には夕焼けが広がりはじめている。

 ランタンは四つん這いになって迷宮口を見下ろしている。もう長いことそうしていた。

 その区画にミシャがやってきたのは引き上げ予定時間の三十分前だった。時間に追われる引き上げ屋としてはずいぶんと余裕を持った到着だ。

「ランタンさん、……――ランタンくん! 邪魔よ」

 機上から怒鳴られて、ランタンは立ち上がった。ミシャを振り返って恨めしそうな犬のような表情で見つめる。ミシャはそれこそ犬でも追い払うみたいに手を振った。

 ランタンは迷宮口から離れた。

 ミシャが迷宮口近くに起重機を寄せる。

「そんなに気になるんなら、もう迷宮に降りたら? どうせロープを下ろすんだから、ついでに」

「四日我慢したんだよ。正確に言えば、四日と十時間。ここで迷宮に降りたらリリオンの探索が台無しになる」

「はい、じゃあ下ろしますよ」

「あ」

「我慢するんでしょ?」

 巻き上げ機が唸りを上げ、先端に籠を取り付けたロープがぐんぐんと吐き出されていく。

「反応があったらすぐに上げてね」

「わかってますよ」

「反応は?」

「まだ下ろしてる最中っすよ」

 ランタンは探索者ギルドで見せた期待に満ちた表情を一変させ、今は哀れなほど不安を顔に表していた。

 高い位置にいるミシャからではその表情の全てを見ることはできない。だが見下ろす身体の小ささが、出会った当初のランタンをありありと思い出させた。

「はい。今、下につきました」

「反応は?」

「ないっすよ。あったら言いますから、それにまだ時間が来てないっす」

「でも下にいたら、時間が来てなくても乗るよ」

「じゃあまだ辿り付いてないんじゃないっすか?」

「そんな」

「ランタンさんも当初はそんなものだったじゃないっすか」

 ランタンは落ち着きなくうろうろと迷宮口の周りを歩き始める。

 我慢なんてせずに、やはりロープと一緒に降ろしてもらえばよかっただろうか。

 ランタンはほんの数分前の自分の決定を悔やんだ。

 後悔がさらに遡る。

 昨晩、ルーに頼んで迷宮に下ろしてもらうこともできた。

 ランタンに情報をくれたルーは、むしろそれを望んだ。それはルー自身がランタンの役に立ちたいからだったし、迷宮内でことを済ませてしまえば今朝のような面倒な申し開きをする必要もなかったからだ。

 後悔はもっともっと遡る。

 やはりリリオンを一人で行かせるんじゃなかった。

 ランタンはその場でしゃがんだり、跳ねたりする。ミシャはまったく冷静に張り詰めたロープを見つめていた。ミシャとランタンでは、待つことにかんして年期が違うのだ。

「ランタンくん、落ち着かないなら私のここに来てもいいよ」

 ミシャが差し出すように胸を叩く。それはからかいではなく、単純な優しさと愛情による提案だった。

「………………だいじょうぶ」

 ランタンはずいぶんと悩んだ挙げ句にそう返した。ミシャは気にした様子もなく頷く。

 昨日までのランタンだったら、その胸にしがみついていて、抱きしめてもらっていたかもしれない。

 リリオンが帰ってくる。もうすぐそこだ。

 ランタンは不安でいっぱいなのと同時に、やはり期待と確信をしている。リリオンが近付いてきている。ほどなく隣にやってくる。

 そのためにはランタンは強くあらねばならなかった。

 甘えるなんて、そんなの大人の男のする事じゃない。

「あと六十秒」

 ランタンは立ち止まって迷宮に垂れるロープを見つめる。ほんの僅かな振動さえ見逃さないように。

「三十秒、――二十、――十、九、八」

 まだ反応はなかった。

 ランタンは拳を握る。掌に爪が突き刺さる。

「三、二、一」

 耳の痛いほどの静寂だった。

 リリオンは帰ってこなかった、

 ランタンもミシャも何も言葉が出ない。血液の冷たさを感じている。

 それからさらに三十秒が経ち、一分が経った。

 帰還が遅れることは珍しいことではない。単独探索ならなおさらだ。

 しかしそれでも。

「……――来たっ!」

 ミシャが突如叫び、ランタンの視界は明るくなった。

 手足は混乱したようになにも動かず、ただ口だけが動いた。

「早くっ」

「待って、まだ安定してない」

「いいから!」

「ダメよ、待ちなさい!」

「やだ!」

「やだじゃないの! ――はい来た。引き上げ開始!」

 駄々をこねるランタンを一蹴しながら、ミシャはいつもの三割増しでロープを巻き上げる。

 それがぎりぎりだった。予定時間の遅延、ロープに伝わる振動と重さ。それらを総合して探索者の状態を推測する。これ以上の速度はリリオンへの負担となってしまう。

 ランタンは背中にどっと汗を掻いた。

 不安が大きくなる。

 帰ってくる。だが無事だろうか。

 トルムによって単独探索へ向かった若い猫人族。彼はもう帰ってきている。だが無事にではない。探索から戻ってきたギデオンは、その脚で迷宮へ降下し彼を連れ帰った。ギデオンがそうしなければ彼は未帰還となっていただろう。彼は酷い怪我を負っていたし、精神を不可逆的に破壊されていた。

 ランタンは迷宮口を覗き込んだ。

「ランタンくんっ、危ないわよ」

 ミシャに怒られても、もう止められなかった。闇に向かって精一杯に手を伸ばす。

「リリオンっ!」

 迷宮口に流れ込んだ夕陽が、銀の髪を赤く見せた。

 少女が見上げる。淡褐色の瞳に己の顔が反射することは喜びだった。

「ランタンっ!」

 ミシャが可能な限り素早くリリオンを地上に戻した。起重機から飛び下りて、籠に繋がれたフックを外す。

 リリオンはかなり酷い有様だった。

 髪の毛はぼさぼさだったし、服は青い返り血が染み込んでいるし、黒く汚れた顔は疲れ切っている。それに自分の体重を支えるのも辛そうに、何やら見慣れぬ斧槍を杖代わりにしていた。

 だが指は揃っているし、手足の数も減っていない。

 それに何より笑っていた。ランタンを見たあの瞬間から。

 リリオンはよたよたと、けれど急いで籠から降りた。

「ランタン、ランタン、わたしね、やったの! あのね、これね、わたしがね――」

 リリオンは急に見せびらかすみたいに誇らしげに斧槍を掲げて、しかしそれを落としてしまった。

 重い音を立てて斧槍が倒れる。

 黄昏が波打った。

 リリオンは一瞬口を噤み、だが再び話の続きをしようと捲し立てた。

「――あのね、わたし、ちゃんと、これを、この」

 だが言葉はうまく続かなかった。

 笑みの形をした眼差しに、急に涙が溢れた。ぼろぼろと転がり落ちるように頬を濡らした。

「ランタン」

 嗚咽混じりに名前を呼んだ。手を伸ばし、幻に触れるようにランタンの頬に触れた。

「ランタン」

 白魚のようだったリリオンの指は、どれもがさがさに荒れていた。熱のある指、熱のない指が混在している。少しだけ動く指と、ほとんど動かない指も。

 それだけでリリオンの探索のすべてがわかったような気がした。

 ランタンはリリオンを思いっきり抱きしめる。

「おかえり。おかえり、リリオン」

「……ただいま、ランタン」

 リリオンはついにびぃびぃと声を上げて泣いた。動かぬ指さえ動かしてランタンの服を必死に掴み、その胸に顔を押しつける、

 ランタンは頭を撫でてやり、ごわごわする髪に何度も指を通した。

 リリオンの単独探索はここで終わった。

 ランタンの腕の中こそが、リリオンの帰るべき、そして在るべき場所だった。

 誰がなんと言おうとも、そこは日溜まりのように暖かい。

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