209 迷宮
209
孤独の匂いに目を覚ました。
リリオンはゆっくりと目蓋を開く。
目覚めた。
リリオンは自分がいつ眠りについたのかを憶えていない。
それどころか、寝る直前の行動を憶えていなかった。
狼の喉笛に食らいついたこと、その血を飲んだこと、死体から熱が失われるのを、その熱が自分を温めたことを憶えている。
だが、それまでだった。
泣き疲れて眠ったのか、それとも眠っている間に泣いたのか。
リリオンはそんな風に思う。
目蓋が重たく、腫れている感じがした。
幼い頃、わんわんと泣いた翌日はこんな風になった。たくさん涙をこぼしたのに、それでもまだ目の奥や鼻の奥に水気が残っているような違和感。
幼いながら前日の泣き虫な自分を気恥ずかしく思っていたのかもしれない。
泣いたのかなあ、わたし。
リリオンは無意識に首に巻いたシャツに顔を埋め、何度も深呼吸をする。
安心する。慰められる。
ランタンの匂いだ。シャツは自分のとっておきで、けれどやはりどうしてそれが首に巻かれているのかがわからなかった。
しかしリリオンはそんな疑問をさておいて、何度も何度も深呼吸を繰り返した。
それはリリオンを幸せな気持ちにさせる。時間が経っているので、少し酸っぱい。だが生身のランタンよりも濃い匂いだ。
さみしい時に使おうと思っていたシャツだ。きっと眠る前の自分はさみしかったんだ。
一晩経って自分の匂いと混ざり合っている。
ランタンと混ざる。
シャツに覆われた口元が緩む。
ランタンと混ざる。それは何だかとっても素敵なことのように思えて、リリオンは身体がぽかぽかとあったかくなるのを感じた。
そしてふと取り上げられるように眠気を失う。
リリオンは本当の意味で目が覚めた。とろんとしていた淡褐色の瞳が一瞬の内に冴え、項の産毛が逆立った。
覚醒する。
「……!」
迷宮だ。
そうだ、わたしは迷宮にいたんだ。
リリオンは口にシャツを押し当てて言葉を飲み込み、驚いた亀のように毛布に潜った。
俯せになって、毛布の隙間から辺りを見渡した。睫毛から目脂をこそげ落とし、落ち着くために深呼吸を繰り返す。
秋の迷宮。毛布の上に積もった落ち葉の軽さ。乾いた空気に皮膚から水分が奪われ、眉間や頬、二の腕や内腿が乾燥してひりひりする。髪の毛は無惨なほどごわごわだ。
静けさ。
「いない……、いない、よね」
リリオンは恐る恐る毛布から抜け出した。首を伸ばして、辺りになにもいないことを確認する。確認してからも、しばらくの間は気を抜くことができなかった。
神経質になるのは悪いことではない。それは迷宮探索に必要な要素だ。だが確認が済んでからも神経質になる必要はない。
シャツの匂いを嗅ぐと、心が落ち着く。
しっかりしないと、と思う。
ランタンからは孤独の匂いがする。だから嫌がってもランタンを甘やかしたくなるんだと思う。そして甘やかすためには、自分はしっかりしないといけない。
ママのように強くて頼りがいのある女の人になれたら、きっとランタンも甘えてくれると思う。
リリオンはすっと立ち上がった。身体に一本の芯を通したように背筋を伸ばす。
伸ばそうとした。
ぴりっと痛みが走った。
顔を歪めると、今度は喉にも痛みを感じた。
痛みは連鎖して、全身に広がる。リリオンは老婆のように腰を曲げて、よたよたともたれ掛かるように木の幹に手をついた。
頭の先から爪先までを包むのは筋肉痛だ。喉枯れは叫んだせいだろう。
脱臼した指、脇腹の打撲、上腕の咬傷。
囲まれて押さえつけられ、その上で暴力を振るわれているみたいな痛みだった。
痛みの一つ一つが、狂気の中の記憶を浮かび上がらせた。
リリオンはへたり込むように毛布の上に腰を下ろした。包帯を外し、怪我の具合を確かめる。動かし辛いが、動かないところはない。
「ランタンは、すごいなあ」
ランタンおすすめの痒み止めを、傷の周辺に塗り付けながらリリオンは呟く。清涼感が熱と痒みを奪ってゆく。新しいガーゼを張り、包帯を巻き直す。一纏めにしていた二指は、人差し指と薬指でそれぞれ独立させた。
「……」
難しい顔をしながら閉じて開いてを繰り返す。痛みは消えない。
「ななわり、はちわり……ごわり?」
自己を認識するのは難しい。それなりに握れるが、全力で握り締めることはできない。
それからリリオンはゆっくりと身体を動かした。全身の筋肉をほぐすのに三十分以上もかかってしまった。
リリオンは気付け代わりに魔精薬を服用した。ランタンと一緒に迷宮攻略する時はほとんど頼ることがない魔精薬や活性薬をもう三本も空けてしまっていた。
「ケチってもしかたないからね。ひつようけいひ、ひつようけいひ。……ひつようけいひってなにかしら?」
ランタンの言葉を言い訳に開き直って、リリオンはあらためて立ち上がった。
くよくよしていてはランタンに甘えてもらえない。
「まず、するべきことは」
リリオンは辺りを見渡す。背後に魔精の霧。
「お片付け。それからごはん」
寝床以外は酷い有様だった。
背嚢はひっくり返され、中身が全て散乱していた。
小鍋や火精結晶も出しっ放しだったし、服は脱ぎ散らかしてあったし、武器も放り出されていた。リリオンはまず武器を木の幹に立てかけるところから始めた。
それから散らばった衣服を拾い集める。
自分がこれを洗濯しようと考えていたことなどすっかり忘れてしまっていた。乾燥はこの迷宮の欠点だが、利点でもある。返り血と汗に濡れていた戦闘服は、すっかりと乾いていた。もちろん乾いているだけで汚れが落ちているわけではない。
だがこんな状況でそんな汚れを気にするのはランタンぐらいのものだ。リリオンは紙を柔らかくするみたいに、一度くしゃくしゃに丸めてから気にせず袖を通した。
ようやく時計を確かめ、リリオンは黙りこくって小首を傾げた。
時計の針は一時と二時の間を指している。恐らく三日目の、午前一時半だった。あるいは午後一時半か。
リリオンはしばらく盤面を見つめていたが、まあいいや、と投げやりに呟いて時計をしまった。
あとは背嚢に荷物を放り込み、散乱した狼の死体は後回しにすることに決めて、食事の用意に取り掛かった。
小鍋に二食分の米と薄く削いだ干し肉と乾燥させた野菜を目一杯に入れる。そこにどぼどぼと水を注ぎ、少しだけ酒を足し、火精結晶コンロに掛けた。
その間に毛皮を剥ぐために角狼の死体を集める。原形を留めている死体はほとんど無かった。二十頭以上の狼を討伐したように思うが、毛皮を剥ぐに値する死体は三頭分しかなかった。
つくづくランタンの爆発をずるいと思う。ずるいぐらいに強力だ。
リリオンは狩猟刀を火精結晶で炙りながら毛皮を剥いだ。脂肪はほとんど無く、服を脱がすみたいに簡単に剥ぐことができる。リリオンは狼を手早く丸裸にする。
枝肉にしてしまうと、それはもう食料にしか見えない。
リリオンは背肉を薄く削ぐと、狩猟刀の腹に乗せたまま火精結晶にかざした。ほんの数秒で火は通ったように色づくが、ランタンに言われたことを思いだしさらに三十秒加熱する。それから塩を振り、口に含んだ。
血抜きをせず一晩置いたのでかなり獣臭く、薄く削いだのに硬かった。それでもリリオンはおじやができるまで狼肉を黙々と口に運び続けた。身体が肉と血を欲していた。
リリオンはおじやが出来上がったのでコンロから鍋を外した。そして鍋の代わりにぶ厚く切り取った狼肉を乗せる。
「ふう、ふう」
おじやをスプーンに取り、少し冷ましてから口に含んだ。
「うん、おいしい――」
いただきます、を言い忘れた。
ランタンにおこられちゃうな。ランタンはそれぐらいでおこらないけど。
リリオンは取り留めもないことを考えながら、スプーンを口に運ぶ。
「さみしいな、さみしいな」
もぐもぐと口を動かしながら、自然と呟いた。
昨日までは必死に乗り越えようとしていた寂しさを、ごく当たり前のことのように受け入れている自分がいた。
一人でごはんを食べることがさみしい。ランタンと会えないことがさみしい。
「さみしいな、だって迷宮だもの」
リリオンは狼肉を裏返し、塩を振りかけた。スプーンの先が鍋の底に触れる。焦げ付いたおじやをこそげ取る。苦さと金属的な味がした。リリオンは一粒も残さずおじやを平らげると、しっかりと火の通った狼肉に噛み付いた。
顎をぎしぎしと言わせながら肉を噛み切る。顎が疲れていた。
それもそうだろう。狼を噛み殺したのだから。
狼を噛み殺したのだから、この程度の肉がなんだ。
リリオンは一頭の獣のように怖い顔をしながら時間をかけて咀嚼を続け、ようやくごくんと飲み込んだ。
食事が終わってしまった。
時間稼ぎが終わってしまった。
「……さみしいな」
リリオンは鍋に注いだ水をちびちびと舐め、今まで無視していた霧を見る。
ランタンと一緒なら怖くなかった。その向こうに何がいようと。
「わたしは怖いんだわ。ランタン、どうしよう」
だが今は不安でいっぱいだ。
本当ならば昨日のうちに、そうでなくても目覚めてすぐ見るべきだったものだ。観測時間は情報量に直結する。情報量は勝率に大きくかかわる。
迷宮そのもの、そして霧の向こうの最終目標は探索者の意思によってそのあり方が決定される。
しかしそれは確実なことではない。
ランタンが何度も試した実験は、その全てが失敗に終わっている。都合のいい迷宮なんて一つもなかった。
だから今回も霧の向こうはリリオンの意思とは無関係に決定されているかもしれない。
だが、そうでないかもしれない。
もしそうなったら自分のどんな意思が反映されているだろうか。
孤独や寂しさと言った感覚的なものか、それともランタンや母のような明確なものか。
リリオンはしばらく凍り付いたように固まった。
見るか見ないかの前に、戦うか帰るかの選択肢もあった。
筋肉痛は身動きができないほどではない。下半身で気になるのは剥がれた爪の痛みだけで、あとはほとんど無傷といっていい。
問題は腕で、両手ともに握力は低下しているし、右腕には穴が空いている。
戦えるのか、自分は。
生きて帰ることが大切だ。
小さなランタンが耳元で怒鳴っている。
耳の先をぴんと引っ張って、ランタンが帰ってこいと言っている。
小さいランタン。人形みたいな、肩の上に乗るぐらいに小さい。背伸びをして耳の先を引っ張っている。
リリオンははっとして我に返る。肩の上のランタンはいない。幻覚だった。
肉体と精神が戦いを回避しようとして幻覚を見せたのかもしれない。
この怪我はきっとそういうものなのだろう。
リリオンは勢いよく鍋の水を飲み干した。たっぷりとした溜め息を吐く。
帰る理由は沢山ある。さみしいし、早くランタンに会いたいし、身体は痛むし、最終目標と戦うことを恐れている。
それは帰るための言い訳ではない。理由に足る不安要素だ。
ランタンがいてもきっと、今回はやめにしよう、と一も二もなく決めるだろう。それぐらいの状態だ。
さみしい、こわい。
霧の向こうを覗き込むことすら躊躇っているのに、なのにどうしてだろうリリオンは一向に心が決まらなかった。
ほんの少し、だが無視できない。
迷宮がそうさせるのか、孤独がそうさせるのか、それともリリオンが探索者だからか。
探究心、挑戦心、そういったものがリリオンの心の奥底でちらちらとした火種となっている。
「まよっている。わたしはまよっている。たたかうか、それともかえるか」
自分を客観視するために声を出す。喉が痛むが、それでも心を声にするのをやめない。
「見るか、見ないか。もしママやランタンが、向こうにいたらどうしよう」
首を横に振る。
「それは魔物よ。迷宮が見せるにせもの」
だが見たいという思いが急激に胸に広がった。
「見たい。わたしは霧の向こうを見たい。ここまで来たから、見ないともったいない。見ても、霧の向こうから、最終目標はとびだしてこない」
後一押し。
「情報を持ち帰れば、ランタンがほめてくれる。――見るわ!」
リリオンは鍋を放り出して、背嚢にしまった魔精鏡を取り出して、それを目に当ててから振り返った。
ランタンでもママでもない。
「もうっ、わたしをさんざんなやませて! なんなのよ! よかったけれど! ちょっと期待したのよ、ちょっとだけ! もう、もう、もーっ!」
大きな声を出して、怖い気持ちを誤魔化す。
青く染まった魔物の輪郭は、人間のような要素もあるが、二足歩行ではない。
半人半獣。
下半身は馬体。上半身は人のそれ。頭部には後ろに反り返る二本の角がある。
リリオンは牛の真似をするみたいに声を出しながら、それでも真剣に最終目標を観察し続ける。
人馬はゆっくりと最下層内を徘徊している。
大型の軍馬に似た長く逞しい脚、尻尾はない。それとも怯える犬みたいに股に挟んでいるのか。そんな感じの膨らみが確認できる。
上半身も立派だ。ずいぶんと厚みがあり、肩の盛り上がりは瘤のようだ。
「もうっ、もうっ、も――……あれ? なにか持ってる?」
武器は魔精鏡に映らない。だが二本の腕が、何かを抱えるような形をしている。
「両手に一つずつ持ってる……? ううん、あれは長い棒だわ。ベリレくんみたいな……、槍かしら、それとも、ランタンの持ってるのの長いのかしら?」
こればっかりは直接目にしなければ確認はできない。
しかしそれは戦闘を意味し、リリオンはすでに戦うことを考えている自分に気が付いて慌てた。
「戦う? あれと、この状態で……?」
無謀だと理性ではわかっている。
勝率は低い。
していい無茶と、してはいけない無茶がある。
まず生きる残ることは考える。
一番生存確率が高いのはこのまま回れ右をして帰ること。一番低いのは無策で戦いを挑むこと。
リリオンは魔精鏡を目元から外すと、自分の所有している武器を回りに並べた。
銀刀、竜牙刀、狩猟刀、火精結晶、水精結晶、雷精結晶、氷精結晶、爆発結晶。
「あと何か使えるものは……お塩で目潰し、胡椒でくしゃみさせる、油で火をつける、ぬるぬるさせて武器を落っことさせる。紐でぐるぐるに縛る。ランタンのシャツを囮に使う。ダメよ、そんなもったいない」
リリオンはシャツを口元に当てながら、魔道結晶をじっと見つめる。
「全部、使ったら赤字だけど、命よりも高い物はない。戦うことは、勝つことだけが目的じゃない」
戦う。逃げる。生き残る。
「よし、――決めた」
リリオンは脛当てと、篭手を装備した。そして篭手の上に狩猟刀を縛り付ける。
竜牙刀と、銀刀は置いていく。
今の自分には使いこなせない。もし落としてしまったら、それに執着してしまう。
背嚢を逆さまにして、整頓したばかりの中身をぶちまける。
空になった背嚢に、楓の樹皮と剥ぎ取ったばかりの狼の毛皮と毛布をしまう。樹皮は二枚重ね、毛皮は三枚とも八つ折りにし、最後の毛布は可能な限り圧縮する。それを背負うのでは無く、胸に抱えるように担いだ。
一種の複合装甲だ。
鍋の中に水で溶いた塩、つまりは食塩水と水精結晶と雷精結晶を詰めて、溢れるぎりぎりまで油を注ぎ蓋をする。残りの結晶はすぐに使えるようにベルトに差す。
一つを除いて。
手袋代わりに包帯を全ての指に巻き、失われた握力の代わりに樹液を塗す。
「べたべたする」
だがそれが心強かった。
「やってやるわ」
リリオンは決意を込めて呟く。
何をする気だ、と幻覚のランタンがうるさい。
「無茶をするのよ。だって迷宮だもん」
幻覚さえも黙り込む、ぐうの音のでない回答だった。
覚悟は決めた。だが感情の波が激しい。
勇気と臆病さが、身体の中で綱引きをしているみたいだった。
緊張のあまり吐きそうだ。
リリオンは霧の中を進んでいた。リリオンは歩いている。精一杯に早歩きをしている。
もう計画は決まっているのだ。
余計なことを考える暇はいらない。走り抜けるべきだ、と自分に言い聞かせる。
「できる。できる。わたしはできる。できたらランタンは怒らない。ほめてくれて、なでてくれて、抱きしめてくれて、キスしてくれる」
やる気を奮い立たせる呪文を呟く。
リリオンはふと立ち止まって、大きく跳び上がった。どん、と大きく音を立てて両足で着地する。
「やるっ!」
やらなければ一人で迷宮に来た意味がない。
あと少しでぶちまけるところだった胃の内容物を飲み下し、首に巻いたシャツの匂いを嗅ぎ、リリオンは走った。
もう少し、大きく一歩。
踏み込む。
霧を抜ける。リリオンの身体に巻き付いた煙が剥がれる。
飲み込んだものが再び迫り上がってくる。
なんという圧力だろうか。なんという重圧だろうか。なんという息苦しさだろうか。
これが最終目標、迷宮の守護者。
迷宮そのものと対峙している。
肉体が震えた。奥歯を噛み締める。そうしなければ力が抜ける。諦めるように。
人馬はすでに駆けていた。
どどっ、どどっ、どどっ、と重たく軽やかな足音が響いている。
それは人であり、馬であり、男であり、女だった。
顔はまったくの獣だ。狼に似て、だが山羊の角が生えている。
銅の色をした身体には毛が生えていないが、膨らんだ胸が三対並んでいる。魔精鏡を通した輪郭では、ただの肉体の厚みとしか捉えることはできなかった。
胸は確かに女性的だが、筋肉の付き方は男性的で太くごつごつとしている。
巨大な馬体は、ほれぼれするほどに立派だった。
尻尾を股の間に挟んでいるのかと勘違いした膨らみの正体は、大きく硬く反り返った雄獣の性器だった。前脚の間から飛び出して、槍のごとく尖っている。
槍はもう一本あった。
それは両手に握った棒の正体だ。
槍であり、斧であり、鉤である。斧槍。色気のある銀をして、先端は鋭く、斧の部分は三日月をなしている。
人馬はそれを突撃槍のように脇に構えリリオンに突進してくる。
霧から一歩抜け出した時、リリオンの身体は捻れていた。
振りかぶった結晶を、二歩目ですでに投擲していた。
火精結晶から力が解放され炎が大きく広がる。
だが人馬は止まらない。躊躇うことなく炎の中に突き抜けた。銅の肌がまさに赤銅に染まる。獣毛が燻っている。
それだけだ。
炎を抜けた人馬が見たのは、もう一つの結晶だった。
指先に押し出され加速した火精結晶と違い、それは腕の振りに掌からただ飛び出ただけだった。速度はほとんどない。
だが人馬は無視できなかった。
武器を持つ魔物、その知能は人に近い。
斧槍の先端が跳ねた。それだけで人馬の力量が高いことがわかる。結晶が真っ二つに両断される。
そこから溢れ出たのは打って変わって激烈な冷気だった。
炎に炙られた肉体から急激に体温を奪う。一瞬きもない内に、赤銅の肌が白く霜付き、あかぎれを引き起こして亀裂が入った。血が流れることはない。出血さえも、流れる暇なく凍り付く。炎の名残さえ。
四つ足の連動が崩れ、速度が落ちる。
リリオンは残留する冷気の中に飛び込んだ。
人馬の肘が伸びる。肘の皮膚が大きく裂ける。凍てついた槍を握る掌がべりっと音を立てて剥がれる。
しかし斧槍がリリオンに打ち下ろされる。
リリオンはもう一歩だけ踏み込み、狩猟刀を巻き付けた右腕を高く上げて受け止めた。
あえて大きな怪我をしている方で受けたのは、両腕が使い物にならなくなるよりもましだからだ。
火精結晶の効果は小さい。だが氷精結晶の効果は大きかった。
突進速度を殺し、身体の自由を阻害した。
斧槍の振り下ろしの威力は十全ではない。踏み込みも充分だった。腕にあたった部分は穂先の付け根だ。先端を受けることの危うさぐらいは知っていた。
リリオンは選べる中で、正しい選択をした。
だがそれは甲高い、破滅的な音を立てた。
巻き付けた布の下で、嵐熊の爪より削り出した狩猟刀が折れた音だった。
高い音のあとに、立て続けに低い音が鳴る。
痛み。
金属の塊が腕に食い込む。
斧の部分を受けなかったとはいえ、金属の棒で思いっきり殴られたのだ。
骨が砕けた。
右腕は最初から捨てていた。予想以上の痛みだが、痛みは生きている証拠だ。
生きている限り、自分は動ける。
リリオンはそのまま右腕を振り、斧槍を払いのけた。
人馬はリリオンを踏み潰すかのように、後肢で立ち上がる。斧槍を引き絞った。
高さと、体重を使って突き下ろそうとしている。
左右に避けることはできる。だが計画にそれはない。
斧槍の先端が手製の複合装甲に突き刺さる。ぶつ、ぶつ、ぶつ、と一枚一枚貫いていくのを感じた。
時間の流れがごくゆっくりに感じる。神経が研ぎ澄まされる。ゆっくりの時間の中を、可能な限り素早く動く。
突き刺した斧槍を、人馬はすくい上げるようにリリオンごと持ち上げる。
リリオンの体重が槍の先端をさらに沈める。あとは毛布だけだ。それが抜けたら、心臓が串刺しになる。
リリオンは結晶を詰め込んだ鍋を人馬に投げつけた。
蓋が外れ、中身が溢れる。油と塩水が人馬の身体を濡らす。
油のぬめりは斧槍の保持にどれほどの悪影響を及ぼすだろうか。液体のほとんどは、胴体に降りかかった。六つの胸がぬらぬらと濡れるだけだ。
四つの水精結晶が、それぞれぶつかり合って連鎖反応を引き起こす。
そこから先のことは、ほんの数秒の間に巻き起こった。
拳よりも一回りも小さい結晶から、大量の水が溢れる。それは人馬をすっぽりと覆い隠すほどの水量だ。
大質量の水が押し包むように人馬を圧し、巻き込まれた鍋は丸めるみたいに拉げ、雷精結晶が圧壊した。
レティシアの魔道が込められた結晶は大電流を水中にはなった。
透明な水が一瞬の内に微細な気泡で満たされて真っ白になる。雷撃は人馬を感電させ、それは斧槍を伝ってリリオンにも流れた。
この痛みが来るのは知っていた。
リリオンは両手で斧槍を強く掴んでいる。樹液のベタつきが、凍った槍に張り付いている。身体を流れた電流が筋肉を収縮させ、槍をことさら強く握り締める。
リリオンは顎を引き、首に巻いたシャツに顔を埋めた。
勇気と確信が湧く。
シャツの中に忍ばせておいた、最後の結晶を口に含み、がちっと噛んでから人馬に向かって吐き出した。
それは爆発結晶だ。
ランタンの力。爆発の使い方。生き残るための壮絶な戦い方。
リリオンは最も近くで見てきた。
獣の面。戦意以外を読み取れない獰猛なそれがまるで人間のように戦いた。
結晶に込められたランタンの気配に気圧されたように、あるいはそれ自体が有する超絶たる威力に。
だがもう避けようはない。
失敗はしない。
わたしはランタンのもとへ帰る。
リリオンは脚を振り子に、突き刺さった複合装甲から槍の穂先を引き抜いた。
指だけが、剥がれずそれを掴んでいる。
そして人馬とリリオンの間で強烈な爆発が巻き起こる。
それは敵にとっては恐るべきもの。
だがリリオンにとって、これほど温かく、頼りがいのあるものはない。
怖がることはない。
身を任せればよかった。




