208
208
帰ってこい。
ランタンは自らの寝言に目を覚ました。いや、本当にそれを口にしたのかはわからない。だが言葉を耳にしたような、そんな気がする。
汗を掻いていた。じっとりと背中が濡れている。
ランタンはリリオンの夢を見ていた。迷宮を探索する、たった一人の少女の夢を。
いやに生々しい夢だった。リリオンの無事を祈り、一人で探索するリリオンの姿をどれだけ想像しようともこれまでその姿に確信などはありはしなかった。
なのにその夢の内容は直接リリオンの姿を見たような、そして自分自身がリリオンの身体の中に入り込んだような、妙な現実感があった。
孤独と狂気。
恐怖と憎悪。
痛みと覚醒。
幻肢痛さえある。四肢の先が痺れ、小刻みに痙攣している。口腔に溜まる唾を呑むと血の味がした。唇が切れている。唇を動かすと傷が裂け広がって痛みをもたらす。
リリオンの夢は、自分の単独探索の経験と重なるところがあった。全てがまったく同じというわけではないが、それでもランタンは単独探索の孤独を思い出して、微かに震えた。
四肢の痙攣が全身に広がっていく。
息を潜め、素早く視線を動かす。
敵はどこにもいない。カーテンの裏側にも、ベッドの下にも、鋭角に生まれる影の中にも。
自分はたった一人ではない。
他人の呼吸。レティシアが隣で寝ている。胸をはだけたままだ。
ランタンは一瞬驚き、息を吐いた。再び唾を呑む。やはり血の味がする。
リリオンの夢こそが現実であり、昨晩のレティシアこそが夢のように思えた。
美しい胸をしている。
そういう形の珍しい果物のようだと思う。横たわっても流れず、大きく膨らんでいる。右の膨らみの上に、左の膨らみが乗っかっており、呼吸によって緩やかに上下している。
胸骨が銀を散らしたように光って見えるのは、深い谷間が生み出す影とそこに浮く汗の照りによる錯覚だ。
触れたい、と思う。それは強烈な渇望だった。
性欲ではない。温もりを求めるのは人の性なのだろう。
孤独な夢の影響から抜け出せていないのか、いつもはくだらない男の言い訳のように思う、そんな考えが素直に理解できた。
孤独にある内はそれを求めているようで求めていなかった。得たからこそ、失うことに耐えられないのだ。
自分は知らないから耐えられた、とランタンは結論づける。果たしてリリオンは耐えられるだろうか。己の全てを、現在や未来ばかりではなく、過去もそうであったと錯覚させる迷宮の孤独に。
ランタンの夢の中で、リリオンは孤独であることに諦めた。
孤独の果ての諦観。
夢のリリオンは孤高とも呼べる諦めを手に入れていた。それは人懐っこい少女に似合わぬ違和感であり、だがやはり現実感も伴っている。それはかつてのランタン自身だった。
迷宮は人を狂わせる。迷宮の一部にさせる。
ああ、くそ。ランタンは己を罵倒する。どうして今頃になって言葉が生まれてくるんだ。もっともっと、迷宮の怖さを言葉にすればよかった。まったく足りていなかった。
自分は弱くなった、とランタンは確信する。孤独を失って弱くなった。
リリオンは孤独を得て強くなるだろうか。温もりを失い、その失った温もりの分だけ強くなるならそれでもいい。自分が愛した分だけ、強くなるということだ。きっととてつもなく強くなるだろう。それで戻ってきたら、再び愛してやればいい。失った分よりも多く。
ランタンはレティシアの胸に手を伸ばさなかった。
昨晩の醜態を恥ずかしく思う。夢のような出来事だが、痺れが抜けつつある指先に柔らかな弾力が思い出される。
ただ温もりを求めただけではない。単純に、それはやはり気持ちがいい。リリオンのことが心配でも、気持ちいいものは気持ちがいい。
「寝ている人間は、唾を呑まないよ」
喉を上下に動かしたレティシアは、薄く目蓋を開いた。あたかもまだ寝たふりがばれていないと信じて、こちらを探りながら寝たふりを続けるように。
だがランタンとはっきりと目が合うと、観念したのか溜め息交じりに目蓋を持ち上げた。
触れられることを待っていた。そういう目をしている。いつから起きていたのか、それとも眠っていないのか少しだけ目が充血している。
レティシアは腕を伸ばして少年を抱き寄せる。
「妙なことばかりを知っている」
柔らかに誘う。ランタンは素直に誘惑された。やはりこれは抗いがたいものだった。
「ほら、君のお気に入りだ」
「お気に入りって」
「昨夜はあんなに夢中になってくれたじゃないか。忘れたとは言わせないぞ。いいや、忘れたというなら思い出させてやろう」
下から持ち上げるようにランタンは触れた。本能にそう組み込まれているように、意識せずとも指は勝手に動いた。初めからなかったみたいに痙攣は治まる。
「んふふ」
レティシアは唇を閉じて笑ったかと思うと、もっと深くランタンを抱き寄せる。重なる膨らみの間に、ランタンの顔を押し込めるように。
左の頬が右の膨らみの上に乗り、右の頬の上に左の膨らみが乗る。
「憶えているなら、昨晩はお預けだったその先に進もうか。私はまだ足りない。君もそうだろう?」
レティシアは顔に続いて、ランタンの身体も抱き寄せる。背中に回して腕が腰に滑り落ちる。
「日が……、朝だよ」
「朝も夜も関係あるか」
片腕で腰を抱いたまま、もう片方の手がランタンの腕を伝って指を絡めた。
「これがいけないんだぞ。悪い指め。女をその気にさせる。指が指なら、ランタンもランタンだ。その気にさせるだけさせて、君は眠ってしまった。私をほったらかしにして」
レティシアは責めるような口調になる。
ランタンは大きな胸に目隠しをされているので、顔を見ることはできない。だがきっと笑っているだろう。
「――あんな寝顔を見せられたら起こすに起こせないじゃないか。ならばもう朝しかあるまい」
ランタンは指先から始まる自分の気持ちよさばかりを憶えていて、そういえばレティシアのことはあまり憶えていない。
レティシアの胸がまるで不定型生物のように顔を覆っている。本物の不定型生物はもっとひんやりしているし、どろっとしているが、窒息させるかのように鼻や口を塞ぎに来るところが似ていた。
「ふふふ、いい子だ」
ランタンは顔を左右に振りながら、もっと深く顔を押しつけた。レティシアは何を勘違いしたのかうっとりとした声を上げる。
生き残るためにあえて敵陣深くに踏み込むのがランタンのやり方だった。夢の中のリリオンも確かそんな風に敵に向かっていったような気がする。
ランタンはやっとのことで谷間の底に辿り着き、鳩尾の辺りに脂肪の届かない窪みがあって、そこに逃げ込んで一息吐いた。
「ふふっ、ん、くすぐったいぞ。悪戯っ子め」
呼吸が触れて、レティシアが身を捩る。
山間に霧が溜まるように、そこには濃い女の匂いが溜まっていた。くらくらするような濃い匂いだ。それが夢の残り香を薄れさせる。
ランタンは自分の唇を舐める。血の味から、再び夢の中の鉄の臭気を思い出す。
孤独を、恐怖を、痛みを、寂しさを。
ああ、忘れてしまう。
生命の匂い。女の体温。心臓の音。
それにこの柔らかさはいけない。
自分は一体どうしてしまったのだろう。
ランタンは自分が女の身体に興味があることをそろそろ認めていたし、その中でもどちらかといえばすらりとした長い脚に強く惹かれていたことを自認していた。なのに、あの退行薬を服用した日から、我に返ったあの時からどうにもこの二つの膨らみに弱くなってしまった。
自分を取り繕うことができない。
ランタンはレティシアの心臓に語りかけるみたいに、そっと呟く。
「リリオンの夢を見たんだ」
「それがなんだ」
リリオンの夢を見たことが、一晩同じベッドの中にいた女に悪いことをしているような気がしている。
レティシアの温もりに縋っていることが、たった一人の少女に悪いことをしているような気がしている。
「リリオンは一人で、怖がって、頑張ってた。迷宮で、たった一人で」
「ランタンがリリオンの心配をしていることはよくわかった。リリオンが一人寂しい思いをしているから、ランタンもそうあろうとしているんだろう。ふ、ふ、ふ、やはり君たち二人はよく似ている」
レティシアはそれを意識させるみたいに、身体を揺らして胸を押しつける。
「リリオンも、ランタンのことが知りたくて一人で迷宮に行った。正直、嫉妬するよ。私も、君のことを知りたい。もっともっと。だが一人で迷宮に行こうななんて、少しも思わなかった。それに本当に行ってしまうなんて、あの子の行動力には驚かされる。悔しく、妬ましく、羨ましく、憧れる」
うん。
ランタンは声もなく胸の中で頷いた。
「だが、それがなんだ。それがどうした。リリオンのようになれないなら、私は何もすべきではないのか。まさかそんなことはあるまい。不安な思いをしている君を、私は指を咥えてみていることしか許されないのか?」
レティシアは半ば嘲笑うみたいに、低く落ち着いた声で問いを宙に投げかけ、強く否定した。
「そんな我慢を私はできないよ。泣こうが喚こうが離してやらん。君の身体は気持ちいい」
レティシアは腰に回した腕を、再び背へと滑らせた。
傲慢で支配的な言葉とは裏腹に、赤ん坊をあやすように優しく背中を叩いた。
ランタンがレティシアの鼓動を聞いているように、レティシアもランタンの鼓動を聞いているのかもしれない。心拍よりもややゆったりとした拍で背を叩くと、ランタンの心臓は次第にその拍に合わさって緩やかに落ち着いていく。
「君のお気に入りの、私の胸で好きなだけリリオンの無事を祈ればいい。いつだってここは君の場所だ。リリオンのことが大好きなランタンが、私は好きだよ」
レティシアの胸は気持ちがいい。本来は興奮するべきなのかもしれないが、ランタンの肉体はそのように反応していない。
「……朝だよ、レティ」
「それがどうした。朝も夜も関係あるか。私の夜は長かったんだぞ。ランタンのせいで。おかげで考え事をする時間はたっぷりとあったんだ。どうだ、私の渾身の口説き文句は。ふっふっふっ、顔が赤いぞ」
「そこからじゃ見えないだろ。……それに、自分で言うなよ」
「見ずともわかる。その熱を、胸に感じている」
ランタンの中に渦巻く様々な感情が、至極単純な子供っぽい恥ずかしさに追い出される。
ランタンは言葉を失って、己を包み込む黒い肌に歯を立てた。吼え方もわからない獣の子供のように。
「んっ」
肉の薄い胸骨の下部を、柔らかな歯が滑る。
レティシアの腹筋がきゅっと収縮してへこんだかと思うと、すぐに横隔膜が下がって押し出されるように丸く膨らんだ。臍から空気が漏れ出すみたいに、微かに振動しながらゆっくりと平らになる。
息を吐いた分、胸が緩まった。
ランタンはこのままでは溺れてしまうと感じ、このまま溺れてしまいたいと思い、けれど抱擁から抜け出した。挟まれていた胸に頭を乗せる。
レティシアは黒髪に指を通した。
「悪さをするのは指だけじゃないな。まったく、幼竜じゃないんだから」
緑の目が近付く。血を流す唇の亀裂に、舌が這った。竜種の親が、そうやってこの傷を癒すように。
レティシアはすっかり血を舐め取ると、ほんの軽く唇を重ねた。血の味はもうしない。心遣いだけがあった。
レティシアは目を閉じない。真っ直ぐにランタンを見ている。
「おはよう、ランタン」
表情は気取っている。年上然とした、あるいは貴族然とした豪華な微笑みだ。
「今、それを言うの?」
「なんだ。朝だなんだとこだわっていたのは君だろう」
「それは、……そうなんだけど」
「私は知っているんだぞ。こういうのが君と二人の朝なんだろう」
ランタンはどきりとした。悪戯の見つかった子供のように、言葉を失ってレティシアを見つめる。
「今さら照れるんじゃない。まったくこっちまで恥ずかしくなる」
レティシアは苦笑する。
「いつもしていることだろう?」
レティシアはもう一度ランタンの唇に触れた。もう一度、もう一度。その度に笑いが堪えられないというように目を細める。
「幸せな朝だ」
「……情報源はどこ? リリララ?」
「おしい。二文字違いだ」
「あの馬鹿っ」
ランタンは苦々しく、小さく鋭く呟く。
ランタンの歪んだ唇を、再びレティシアは啄む。
「本当は、こんなもんじゃないことも知ってるぞ」
リリオンは一体何をどこまで喋っているんだ。
あんな事やこんな事まで赤裸々に吹聴しているとしたら、一度とっちめてやらなければならない。
はやく帰ってこい。その無事をたくさん喜んでから、うんざりするほど叱ってやる。
「他に何を聞いたの?」
「ん、んふふふふふ」
焦り、怯えたような表情で問い掛けると、レティシアは意味深に微笑む。
ランタンは更に怯えた表情を作った。
余程おかしなことはしていないと思うが、リリオンとあんなことやこんなことをしている時は頭がふわふわしているので、おかしなことをしている可能性も捨てきれない。
「知りたいのなら、教えてやろう」
レティシアは傲然と言い放ち、ランタンの唇を奪った。今度は深く、呼吸が苦しくなるほど。
そして両手で頬を挟み、かと思えば首を撫で、肩から腕へと滑り落ちる。互いの掌を重ねて指を絡め、レティシアはランタンの小さな身体にのし掛かった。
ランタンはますますもって恥ずかしくなる。
こんな鬱陶しいやり方は、リリオンのやり方ではない。
上に乗っかってきた時は、そのまま単純に覆い被さって身体全部を使って抱きしめてくるのがリリオンのやり方だ。必死になってミルクを飲むあまり、ミルク皿の中で溺れてしまう子猫のように。
だからこんな鬱陶しいやり方は、リリオンのやり方ではない。
死にたい、とランタンは半ば本気で思う。リリオンの帰りを待っていなければ、もう少し本気でそう思っていたかもしれない。
「……ちょっとランタン? あれ、おかしいな。何か間違ったか? 聞いたとおりにやってみたんだが」
レティシアが少し焦った様子で唇を離した。
ランタンはぐったりとして虚ろな表情をしていた。
「リリオンの話では、すごく幸せで、とっても気持ち良くて、頭がふわふわして嬉しい気持ちになる時と聞いたんだが。ちなみに私はその通りだと思う、のだが……お気に召さなかったか?」
ランタンは無惨なほどに顔を赤くする。表情は虚ろなままで。心ではほっとしている気持ちと、やはりまだ死にたいほどの恥ずかしさに苛まれている。
「レティは、とてもいい」
レティシアは組み伏せていたランタンを抱きかかえた。
「何か悩みがあるならここにおいで」
「……レティ」
「どうした?」
「物凄く暴れたい気分なんだけど」
「ふふ、よくわからんが男の子は元気が一番だからな。よし、それならば任せておけ。取って置きの戦場を用意してやろう」
もちろんその戦場はこのベッドの上のことではない。
大雨による死者を依り代にして大発生した動く死体。その大規模狩りが教会主導で行われたのはつい先日のことである。
狩りの成果はかなりのもので、教会騎士の働きのおかげで狩り以後の動く死体による被害はほとんど報告されていない。
被害はないが、だが動く死体そのものの目撃例が途絶えることなく議会に届けられた。
その数は日に一体二体程度で、多くても十体を超えることはなかった。狩り漏らしということも考えられるが、それにしたって途絶えることがないというのはおかしなことである。
もともと動く死体は迷宮ならいざ知らず、地上ではそれほど確認される魔物ではない。
依り代となる死体は掃いて捨てるほどあっても、それに取り付く死霊がかなり珍しい魔物だからだ。
不死系迷宮の他、発生源がまったく不明な実体を持たないこの魔物は、魔精の薄い地上では長く存在することができない。また曇天や雨天、あるいは夜間に死体にありつけなければ、陽光によって人知れず浄化される儚い魔物なのである。
動く死体となれば多少の耐性を有するようになるものの、それでも相変わらず陽光は弱点であり大雨から何日も晴天が続いた今日まで、途切れず動く死体が確認されるというのは異常である。
動く死体は生殖活動によって数を増やすこともなければ、生きた人間を殺すことはあっても、これを同族とすることも滅多にない。基本的には増えない魔物である。
そんな魔物が断続的に確認されていると言うことで、ティルナバン騎士団はこのところ発生源の捜査をしていたのだった。
そして発生源の疑いがもたれたのが貧民街である。
ランタンが転移の霧に飲まれ不帰の森へ飛ばされ、ネイリング騎士団が貧民街の北側を制圧したのは記憶に新しい。
それ以来、貧民街は未だに混沌の内にあり、もしかしたら貧民街の中に隠れ潜んでいた邪教の集団や、あるいは黒い卵などの研究が漏れ出たのではないか推測が立てられたのである。それに貧民街は死体の貯蔵庫のようなものである。
議会では貧民街の段階的な縮小、最終的には完全解体することが決定された。
その決定を執行するにあたって、貧民街が死霊の巣となっていては厄介である。
そのため貧民街での動く死体狩り及び、その発生源の捜索をレティシアは任されたのである。
レティシアは多くの騎士と、少数の派遣された教会騎士を従えて貧民街にいた。
だがその中にネイリング騎士団の団員は一人もいない。レティシアの信奉者であるシドでさえ。
理由は様々だが、簡単にまとめてしまえば政治的な判断である。
レティシアは今回の作戦の責任者であるが、予算編成から戦力編成まで全ての決定権を取り上げられている。
また当のネイリング騎士団は今は最小限の防衛戦力だけを屋敷に残し、ティルナバン周辺領の厄介事を解決するためにレティシアの側から離れていた。
レティシアは独自に兵を用いることが多くあり、例えば迷宮崩壊戦の折に騎士団を率いたことで蟄居の命を受けたこともあった。
レティシアは何故そのようなことをしたのかという議会での査問で、これを民のためであると、正真正銘の本音ではないが、まったくの嘘でもない答えを返している。
これを逆手にとられたのだ。
ネイリング騎士団は民のために働いている。例えば反乱の鎮圧であり、凶賊の討伐であり、魔物の駆除であり、管理外迷宮の攻略に奔走している。
「まあ、一種の当てつけだな。騎士団の改革を少し急ぎすぎた。エドガーさまを騎士団長に就任させようとしたが、やはりなかなか思い通りにはいかん。地盤を固めないとな」
「一兵卒として入団させちゃえばよかったんじゃない? そしたらなし崩しに騎士団掌握できそうじゃん」
「くくく、それはおもしろい。だが人には格というものがある。さすがにエドガーさまにそのような真似はさせられない」
「それもそうか。――おっと失礼しました。なるほど確かにその通りですね、お嬢さま」
「今さらだな」
「お悩みがありましたら、いつでも胸を貸しますのでお頼りください」
「ほんとだな。絶対だな。嘘じゃないな」
「言葉遣いが乱れてますよ。お嬢さま」
「おっといけない。ふふふ、リリオンが馬鹿になるのもわかる。自慢して、見せびらかしてやりたくなる」
「それをしたら嫌いになる」
「残念だな。だが嫌いになられては困るから我慢するとしよう」
ランタンは臨時個人副官という役割をもって、レティシアの供をしている。
レティシアの側をくっついて離れず、騎士たちの働きぶりを観察していた。
戦場を用意してもらえることは嬉しかったが、しかし正直なところ気乗りはしていなかった。
作戦にランタンを伴ってきたレティシアを見て、ひそひそと何事か言い合う騎士の姿を少年は目敏く確認している。
ランタンへのやっかみを含んだ、下卑た陰口だ。ある程度は事実だとしても、ランタンは不快になる。自分のせいで、と思う。
それは予想されたことだったが、今朝のこともありレティシアに強く誘われてランタンは断れなかった。
今回の作戦に参加している騎士団とレティシアの間には間違いなく溝があるし、敬意も欠けているが、しかし個人がレティシアに恨みをもっているかと言えばそのようなことはない。
あるいは恨みを持っていたとしても、どうでもよくなるほどの美しさと威厳をレティシアは有していた。
竜鱗の鎧に身を包むレティシアの命令によって、騎士たちは未だ人の戻らぬ貧民街北部をシロアリのように解体している。
貧民街は入り組んでいて、個人技量の異様に高いネイリング騎士団でもない限りそのままここを戦場にすることは難しいからだった。
人と馬と魔道の力によって、廃材の城はてきぱきと解体されていく。火を放ってしまえば楽なのだが、風向きによっては大量の煙が都市に流れ込むことになるし、一見住人はいないように見えるがこれまでに十三名の人が発見されていた。
レティシアは流石にそこに火を放てるほどほど非情ではなかった。
「進展具合はどうだ?」
「はっ、今しらばくで中央まで貫通いたします。今のところ動く死体及び死霊の出現は僅か、全て教会騎士によって浄化済みです。他の敵の姿は確認されておりません」
「そうか。幅をもう少し広げられるようなら広げるように伝えてくれ。中央貫通がきっかけになるかもしれん。警戒は怠るな。大物が出た場合は退避するよう繰り返し言い聞かせておけ」
「はっ! 失礼します」
連絡兵は駆け足で去って行く。それと入れ替わりで夕闇に紛れて、ランタンの影の中に兎の耳の少女が滑り込んだ。
「お嬢はあたしのご主人さまだぞ。盗るなよ」
「共同管理って言うのはどう?」
「のった」
「のるな。無駄口はいい。リリララ、動きがあったか?」
レティシアは口元に手を当て、唇の動きを隠す。
「あった。ゴールドウッド銀行の主席番頭ブラー・アポンが逮捕された」
「それが黒幕?」
「いや、生け贄だろう。本人は否認している。嵌められたと言っている」
「得するのは?」
「繰り上げで主席になる、オルマル・ヨッヘル次席番頭が本命だな」
「――レティ、アポンを助けられる?」
「もちろん。君が望めばなんでも叶う。しかし助けてどうする?」
「利用する。命より大切なものは――」
リリオンの顔が思い浮かんで、ランタンは一瞬言葉が詰まる。
「あるけど、大抵は命が大切だ」
「恩を売るか」
「それに復讐の機会をやる。商工ギルドに使ってもらう。ブラックウッドの権力を削ぐ。他にも使える情報を持ってるだろうし」
「――リリララ、グラウスを使え。ブラーに新しい人生をくれてやる」
「あいよ。ついでにもう一つ。――骨の鳴る音がする。そろそろ出番があるんじゃないか。見学できないのが残念だ」
夕闇は暗く、赤い。リリララは暗いところに溶け込んで、脱兎のごとく駆けていった。
「骸骨兵! それに動く死体も!」
それと同時に悲鳴に近い叫び声が雪崩れのように駆け巡った。それは騎士が発したものであり、人ならざるものが発したものである。不死系魔物特有の人を恐慌状態に陥らせる呪詛である。
貧民街中央から、数えるのも嫌になるほどの骸骨兵と動く死体が傾れ出てきたのだ。
「奥にでかいのがいるな」
「満足な戦場を用意できたか?」
「さあ、どうだろう。大きさは期待できるけど、骨だしな」
「――落ち着けっ!」
一条の雷が走り、白々とした骸骨兵を一纏めに薙ぎ払い黒々と炭化させる。それを追いかけて浄化の光が放たれ動く死体を焼いた。
レティシアが朗々と命令を発する。
「騎兵はまず馬を落ち着かせろ! 退却後、包囲! 槍で包め! 飛び遠具はない! 教会騎士は死霊の出現に注意。見つけ次第、優先的に浄化せよ! 衛生兵は火をたけ、解体した廃材をじゃんじゃん燃やせ!」
ランタンは走った。二列横隊に展開する騎士の頭上を飛び越えて、骸骨兵の群の中へ突っ込んで、戦鎚の一振りに蹂躙していく。
その頬に笑みが浮かぶ。だが物足りない。骨では相性が良すぎる。手応えがない。
「敵集団後方に巨大骸骨兵確認! 発生源と思われます!」
「案ずるな! あれは私の個人副官がやる! 手出し無用!」
骨だが、ずいぶんと骨太で硬そうだ。
とびっきりの戦場だ。
ランタンは獰猛に笑う。
「あーっ、はやく帰ってこいっ! はやーくっ! 心配で死んじゃうぞーっ!」
そしてどさくさに紛れて心を解放したように喉が枯れるほど叫んで、その叫び声は極大の爆発によって掻き消された。




