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「昔、ここで隠れんぼをしたなあ」
レティシアが懐かしさたっぷりに呟いた。
昼食後の腹ごなしに庭園を散歩しようと思ったら、来客の貴族がレティシア目当てにわらわらと待ち伏せしていたので離れに逃げ込んだのである。
万物流転を取り戻す為に、レティシアが探索者を恃んだことは話題となっている。そしてその探索者が迷宮崩壊事件に関係していたことも、それが単独探索者であったことも。時間を遡るようにランタンの情報が広まっていった。
レティシアと同時に、ランタンに興味を抱く貴族は少なくない。ティルナバンではレティシアが防いでいてくれたが、こちらではネイリング家がこれを防いでくれる。
単純な善意だけではなく、芋づる式にリリオンのことを探られるのを嫌ってのことだった。巨人族は管理種族である。リリオンは巨人族ではないが、これを抱え込むことはネイリング家にとってもかなりのリスクである。リリオンを見捨てはしないと確約をもらっているが、だからといって迷惑を掛けていいと言うことではない。
普通に過ごすことが迷惑になる、と考えることは嫌だったが、事実を覆すことはできない。
「面倒な構造をしてますよね。隠れるところだらけだ」
「ああ、だが私は見つけるのは上手だったんだぞ」
「と言うかヴィクトル兄さまは隠れるのが下手でしたね」
「まあ、身体が大きかったからな。そもそも今となって思えば隠れる気もあったのか怪しいものさ」
レティシアに離れの中を案内してもらった。ランタンとリリオンとミシャ、そしてシーロが引っ付いてくる。
階段を下って地下へと進むと食料庫になっていた。きんと冷たい空気で満たされており、一室は黴に覆われた酒蔵になっていた。また別の一室は特に寒く霜付くほどで冷凍された肉が吊されている。
「あ、隠し通路発見」
空気の流れを見つけ壁を調べ、石積みの一つを押すとがこんと仕掛けが外れた音がした。そこの窪みに横の石を滑らせ、同じように幾つかを繰り返していくと小さな通路が口を開いた。
薄暗く、冷たい空気の流れに満たされている。匍匐前進でしか進めないようになっているが、吹き込む空気の感じからして奥は広がっているのだろう。
「これを進むと森の中に出る、らしい」
「せまいね。子供用?」
「僕を見るな」
「ここは大昔、侍女寮だったんだよ。昔の人は小さかったみたいだな」
ランタンならば通行可能かもしれないが、それでも装備を幾つか諦めなければならないだろう。鍛えた肉体を持つ兵士がこの通路を逃げる女子供を追うのは不可能だ。
「あ、こら」
リリオンが興味津々に覗き込んだかと思うと、赤ん坊のように四つん這いになって上半身を通路に突っ込んだ。窮屈そうに肩を押し込んだところで、あれ、と声が聞こえた。
まだ慌ててはいない。
「あれ、あれれ、つっかえちゃった……! うーっ、あうぅ、ううーんっ」
「あー、もう永久にそのままだ」
「やだやだやだ!」
「ちょっとランタンさん、可哀想っすよ」
「貴様どこを触っている!」
ランタンが脅かしながら、左右に揺れるリリオンの尻を叱りつけるように叩くと、その暴挙にシーロが怒鳴った。
リリオンがびくりと藻掻くのをやめ、ランタンはぱちんともう一叩きする。
「尻」
「見ればわかる!」
「じゃあ聞かないでよ。ほらリリオン、腹へこませて、腕を限界まで突っ張って、指を組んで、肩を内転、顎引いて」
「えっと、えっと」
「抜いてあげるから、力抜いて」
「うん」
リリオンの足を掴んで引っ張り出すと、通路は長く使われてなかったのだろう。顔や服が汚れている。半べそをかくリリオンをミシャが慰め、レティシアが髪や服の汚れを払った。ランタンはハンカチを水で濡らし、蜘蛛の巣の張り付いた顔を拭いてやる。
「ありがと、――シーロさん」
リリオンはすっかり綺麗になった顔をシーロに向けた。
「な、なんだ」
「わたしランタンにさわってもらうの好きだから、ランタンのこと怒らないであげて」
「あ、ああ、そうか、触られるのが……」
ともすれば危うげな言葉だったがシーロは不思議と素直に納得した。
「ほとんどは潰してあるはずだが、侵入者対策もあるかもしれないから、気をつけろ」
「はい、わかりました」
リリオンがこくんと頷くと、ふっとシーロの顔が緩む。
リリオンはすっと手を伸ばしてランタンの手を握った。危ないところはいつもこうしてランタンが手を引いた。気をつけるとはこういうことだ。
離れの中を隅々まで探索する。
迷宮探索のように魔物は出ないが、厨房に忍び込んでおやつをくすねることは、魔物に察知されないように接近するのと同じぐらいに神経を使った。
姉弟はそのようなことをする必要もないし、ランタンたちも食べたい時に何でも頼める立場だが、いたずらっ子のようにその状況を楽しんだ。
ヴィクトルは隠れんぼは苦手のようだったが、鬼ごっこは得意らしかった。
食堂に出没する盗人の正体は大体が彼であり、またヴィクトルは公務をすっぽかし護衛も振り切って城下に抜け出すこともしばしばだった。
至る所に兄との思い出があった。
五人は塔の上に登った。ランタンは手品のように予備のハンカチを取り出し胸壁の上に広げ、そこにくすねてきたスコーンを、さらには食料庫から持ち出してきたバターやマーマレードを外套の内側から取り出して並べる。
「いつの間に……!」
「まだあるよ」
火精結晶に小型の鍋。鍋の中に茶葉と、角砂糖を一掴み。そしてコップが二つ。
「すごい、すごい!」
リリオンが目をきらきらさせながら拍手をする。ミシャは盗人紛いの手口に少し呆れている。高貴な出の二人は呆気に取られていた。
ヴィクトルもこのような真似はしなかったらしい。彼の場合は少量を掠め取るなどとはせずに、必要なものを取り敢えずあるだけ持って帰ることが多かったようだ。
もしかしたらばれて叱られるところまでが彼の楽しみだったのかもしれない。
ランタンは火精結晶を慣れた手つきで発熱させる。そして二振りの狩猟刀と竜紋短剣を組み合わせて即席の五徳を作り、水を入れた小鍋を結晶に掛ける。風はそれほどないが外気は冬のそれで、蓋をくすねてこなかったことが悔やまれた。
「なんだか懐かしいね」
「そうだね」
迷宮探索が恋しく思える。
「お前、本当に迷宮からきたのか?」
シーロが不意に尋ねた。ランタンは目を瞬かせる。敵意が追いつかない単純素朴な質問だった。
「さてどうでしょう」
ランタンははぐらかした。意地悪しているのが半分だが、嘘を吐きたくないという気持ちも半分あった。
シーロはむっとするが、それ以上問い詰めようとはしなかった。
ふつふつと湯が沸いたところで鍋を結晶から外し、茶葉を放り込む。シーロはそれを覗き込み、みるみる琥珀色に染まっていくのを興味深そうに見つめる。ランタンはそこにどぼどぼと角砂糖をぶち込んだ。
「そんなに入れたら甘くなるだろう」
「甘いの嫌いですか? 僕は好きですけど」
結晶は熱を失い色褪せたが、熱源を囲っていた刀身はまだ危うい気配を放っていた。ランタンは焼けた刀身でスコーンを半割にする。まだ熱を持つ刀身を頼りにバターを切り、あるいはレモンマーマレードを掬い、その表面に塗っていく。
リリオンは茶葉が沈んだのを確認すると、茶葉が入り込まないように気をつけながら鍋を傾ける。
それを見てランタンは一瞬考え、ひょいとコップの一つを手に取る。
「そっちは三人で回し飲みしてね。シーロさん、文句は?」
「ない」
「じゃあ、お先にどうぞ」
ランタンはコップをシーロに押しつけて、バターとマーマレードの両方を塗ったスコーンを口に運んだ。焼いた刃で斬った表面がかりかりしている。
シーロはそんなランタンを胡乱げに見つめながらコップを傾けた。勇気あるな、とランタンは思うが止めなかった。
「あつっ!」
「シーロ。舌を見せてごらん」
「大丈夫ですよ、姉さま、これぐらい」
シーロは見栄を張ってコップを傾けた。溶岩を飲むに等しい行為だとランタンは思う。
「僕の分、残しておいてくださいよ」
ランタンは胸壁にもたれ掛かり、夕焼けに染まる城下町を見ながら独り言のように呟いた。寒さに震えるとリリオンが背中にのし掛かってくる。定位置であるというように旋毛に顎を乗せて、スコーンを噛む震動が伝わってくる。
「すごい、昨日はなかったのに」
リリオンの呟きの先には、闘技場が出現している。
竜種が着陸した広場がすり鉢状に沈下して円形闘技場を誕生させていた。
すり鉢の内側は階段状になっていて、それは座席である。底面は平らで、半径二十メートルほどの広々とした円形舞台となっており、数時間後には戦いが繰り広げられる。
面会を終えてもネイリング家への来客はぐずぐずと城下に留まっている。
彼らの目的は、建前上は探索の無事を喜ぶことにあるが、実際はレティシアと親しい関係になることにある。ティルナバンでも見た光景だった。
レティシアが宝剣をドゥアルテに返したと言うことはすでに市中にまで広まっているが、彼らにはあまり関係がない。ネイリング公爵の座はもちろん魅力的だが、そこまでいかずともネイリング家の類縁になれるだけで一族の輝かしい未来は保証される。
レティシアはいや、兄弟の全てが未来への鍵である。
鍵は強ければ誰でも手に入れることができる。家柄も血筋も、莫大な持参金も、頭の良さも、顔の良さも必要ない。
そして鍵を求める人が、月に一度行われるこの闘技会の舞台に上がるのである。
戦技優秀な者はレティシアやファビアン、シーロの結婚相手としての第一歩を踏み出すことになる。
あるいはそれだけではなくドゥアルテに直接陳情する機会を得ることになる。
その内容は城勤め、騎士団への入団、士官、他国からの亡命、他領からの移住、そこの領主の悪性の是正、商売の許可、解決済み事件の再捜査、囚人の恩赦、金銭や武具、竜種の拝領、王への取り次ぎなど多岐に渡る。
ドゥアルテは紛う事なき大貴族であり、国政の中枢に多大なる影響力を有しているが、陳情内容の全てが叶えられるわけではない。少し考えればわかりそうなものだが、無茶な要求は後を絶たない。
その理由はいくつかあって、その最たる理由は勝者が少ないということにある。
戦技優秀者は勝者ではない。
戦技優秀者とはネイリング家側の代表者にこてんぱんにのされた後、お前はなかなか見所があるから話を聞いてやろう、とこのようにされた人々の総称だった。
闘技会に自ら志願するような跳ねっ返りである。願いを叶えてもらえたとて、そんな醜態をおおっぴらに自慢することはできない。弱みを握られた末、騎士団の虜囚となった者も少なくない。望んでの虜囚がほとんどである。
「お祭りだね、これ」
「まあな」
通りには闘技会の見物客を見込んでの露天商が隙間なく店を出しており、これでもかとがなり立てている。舞台では戦いの前の前座として演劇が行われており、これはかつての名勝負の大げさな再現だった。
やあやあ我こそは、と命を百回奪えるような隙だらけの口上を、相手役の役者は鋼の忍耐で最後まで聞いて、それから大げさな戦闘演劇が始まった。役者が跳んだり跳ねたりすると、観客席が大いに沸いた。
闘技会は賭け事にまでなっており、これの胴元はネイリング家だった。かつては博徒が賭場を開帳していたが、これの儲けが莫大になるにつれ揉め事も増え、一部騎士が買収され八百長を行ったためにこれを違法化し、公のものとしたのである。
「……レティさまは嫌じゃないんですか」
ミシャは遠慮がちに眉を顰めた。この興業を好ましいとは思っていないようだった。
「自分の人生がこういう風に決められたり、見世物になったりするのって」
「難しいところだな。この家に生まれた限りこれは仕方のないことだが、必ずしもこれの勝者を婿にもらったり、嫁にもらったりしなければならないわけではない。勝者は我々が必要とする一要素を示したに過ぎない。結局のところ、我々の一族は自らが認めたものと番となった。人生は自分のものさ、それが自由になることかは別として。だが、まあ――、言ってしまえば茶番であるこれが、多くの人の人生を変えたかと思うと罪悪感はある」
「姉さま、茶番だとは言葉が過ぎます。それに、それもそやつらが自分で決めたことですよ。そやつらの人生がどう転ぼうと姉さまが罪悪感を覚える謂われはありません」
シーロは冷淡な言葉を、慰めのように口にした。レティシアは風に吹かれる髪を押さえる。
「あ、竜種よ。綺麗ね」
夕陽の中を細身の竜種が飛行していた。
「小さいの連れてるな。あれは鳥?」
「食べちゃわないのね。仲良しさんだわ」
「あれは共存しているんだよ。鳥たちは竜種に纏わり付く虫を食べているんだ。竜種はその代わり鳥が外敵に襲われないように守っている」
「――なんだか、二人みたいっすね」
「確かに」
「どこがだよ」
体格差を見ればリリオンが竜種でランタンが鳥である。リリオンはランタンの口元にスコーンを運んだが、ランタンはそれを口にはしなかった。と、言うか頭の上に溢れた屑をどうにかして欲しい。
「食べないの?」
「口の中ぱっさぱさだもん」
当てつけがましいランタンに、シーロが思い出したようにコップを押しつける。すでに半分以上飲まれていたし、温い。それに砂糖が沈殿している。
「甘いな」
「お前が入れたんだろうがっ!」
シーロが怒鳴り、ランタンは無視する。
その声を聞きつけた使用人が塔の下からこちらを見上げた。
「ああ、いらっしゃったわ! お嬢さまー! そろそろご用意の時間でございますー!」
「だってさ、レティ」
レティシアは仕方がないとう言うように肩を竦めた。胸壁から身を乗り出して、すぐ行く、と言葉を落下させる。
「どうだランタン、見るだけじゃなくて参加してみるか?」
「姉さま、もし負けでもしたらどうするんですか! ネイリングの名に泥を塗るおつもりですか!」
レティシアは気軽に誘ったが、シーロは噛み付く。レティシアは、いい加減にしないか、と弟を咎める。
「シーロ、言葉をあらためろ。ランタンは強いよ。すまないな、ランタン」
「いいえ」
侮られるのは珍しいことではない。だがシーロのそれは侮りではなく、姉を奪う者への警戒心の表れだった。
「身体も鈍ってるし、参加しようかな」
「ほんとか?」
「自分で誘ってといて。出ない方がいい?」
「いや、そんなことはない。うれしいよ、私のために戦ってくれるんだろ?」
「じゃあレティのためにも負けるわけにはいかないし、出してくれるんなら頑張るよ」
ランタンはリリオンを背中から退かし、大きく背伸びをする。レティシアがうれしそうに笑った。
「姉さま! 俺も姉さまのために参加します! ぜひ成長した俺を見てください!」
シーロが負けじと宣言した。
ほどなく夜の帳が下り、戦いの幕が上がる。
観客席の最前列は特等席となっており、来客の貴族たちが座っている。中列には騎士階級や、裕福な市民が押しかけ、それよりも後ろは一般に開放されている。メリサンドの住人半分、闘技会を見るためにやってきた他所の見物客が半分と言ったところらしい。
その中で一段高く、突き出すように作られた桟敷にネイリング一家とリリオンが座っていた。
ミシャも誘われたが、あえて最後列で見物するらしい。
闘技会はあまり好きではないようで、だがランタンがこれに参加するために残った。
観客は屋台で買った飲食物を持ち込んでいるが、ミシャは手にした肉串を食べる気にはならないようで、舞台から目を背けるようにコップに目を落としている。その隣にリリララが居て、何事か話しかけている。
すでに死人が出ていた。
桟敷ではベールで顔を覆ったリリオンが、歓声を上げたり、逆に顔を手で覆ったりしている。
ランタンは試合の雰囲気を確かめると円形舞台の地下に戻った。
円形舞台の地下は広場を舞台に変えた昇降装置や、出場者の控え室などが作られている。ネイリング家の代表と、挑戦者の控え室は分けられている。
出場者の間を縫って緊張しているベリレの背後に忍び寄った。
無防備な尻を蹴り上げる。ベリレは声も発せず飛び上がった。
「――! 何するんだ!」
「緊張してるね。上は大盛り上がりの大入りだったよ。恥ずかしい戦いはできないね」
ベリレは哀れなほどに顔を強張らせ、竜骨槍にしがみつく。まるで疲れ果てた旅人のように体重を支えた。
「もし負けたら、下手な戦い方をしたら、ドゥアルテさまやエドガーさまのお気持ちが変わるかもしれない。騎士になれないかもしれない」
ベリレは他の代表者、つまりは騎士団の腕利きたちに可愛がられているようだったが、あまりにも緊張して鬱陶しいことになっているので一人にされていた。
気遣いであったが、ベリレを見ているとその緊張が移ってしまいそうだった。彼らもネイリング騎士団の代表という重圧と戦っていた。単純な戦場とは勝手が違う。
「どどどど、どーしよう、ランタン」
ベリレはすでに騎士叙勲の話を聞かされていた。聞かされた時はずいぶんと舞い上がったようだが、時間が経つにつれて不安が顔を覗かせたようだ。
「じゃあ戦うの止めれば。お腹痛いとか嘘吐いて」
「そんなことできるか!」
「じゃあ戦ってこい」
ランタンはベリレの胸をどんと拳で打った。
「負ける気はないんだろ?」
ベリレはこくりと頷く。
「――見ていてくれるか?」
「気持ち悪いこと言うなよ。ほら、さっさと行け。でかい図体でぐずぐずするなよ、騎士さま」
ランタンはベリレの背中を押し、もう一蹴りくれてやり、それからまた外に出た。
最前列の、それよりもっと前の舞台脇にひょっこりと顔を出す。
試合が終わった戦士たち、ネイリング家の代表は自らの脚、そして挑戦者は運ばれてランタンを脇を通り過ぎた。
舞台上には二カ所、深い穴が空いていた。ごうんごうんと起重機の巻き上げ機の重低音が響き、二人の戦士が迫り上がってくる。
一人はベリレでランタンに背を向けており、対戦相手の顔を見てランタンは少し眉を寄せた。
強そうだ。
相手は一目で獅子人族だとわかる豊かな鬣を有していた。黒金の鬣に、ベリレのそれに似た丸く大きな耳、そしてベリレを上回る大男だった。広くぶ厚い肩、短毛に覆われてそれでも血管の浮き出る胸部、色気ある動作で鬣を後ろに流すとみしみしと肉の唸りが聞こえてきそうな腕。
五体を武器にしている者の筋肉の付き方だ。
「がんばってー!」
観客席から声が飛んだ。声の方を探さずともそれがリリオンの声であるとわかった。それに続くように四方からベリレの名前が親しみと期待を込めて叫ばれた。竜殺しの弟子はメリサンドでは有名だ。
ベリレは歓声に応えるようにぐるりと竜骨槍を回転させる。緩やかで大きな繰槍。身体から硬さは取れている。
だが相手も落ち着いていた。ベリレの一挙手一投足を見つめる様子は冷静の一言に尽きる。
獅子男が大きく息を吸った。胸の膨らみは大迫力の咆哮となって大気を振動させた。観客が呼応し、ベリレへの歓声を上回って盛り上がる。
「どこかで見たことある相手だな」
「シーロさんも見物ですか? あれ、有名な人ですか」
「知らん」
「見たことあるって、自分で言ったのに……」
ランタンは観客の声に耳を傾ける。
「血染めのサウロン。王立闘技場の主力戦士だそうですよ。神覧試合にも出場経験があるんですって。その爪は鉄をも切り裂くんですって。なんという説明臭い歓声でしょう」
「神覧、……ああ、御前試合で見たような気がするな。ならばお抱えの喝采屋がいるんだろう」
神覧試合が何かは知らないが実力に不足はなく、観客のある戦いに極めて慣れた戦士であることは間違いないようだった。
闘技会は武器の選択は自由である。サウロンは素手で、生半な相手ならまだしもベリレ相手では自殺するようなものだ。だがそれは戦いに素手を選んだのはサウロンの自由の結果であり、槍対素手であろうとベリレが責められる謂われはない。
だからサウロンはベリレを責めなかった。
ただ、観客に問う。
「さすがは竜殺しの弟子よ、なんと鍛え上げられた肉体か!」
闘技場の流儀をよく知っている。
「――どうだ!」
観客を煽り、戦いを望ませた。
「見たくはないか! 最も純粋な、もっとも古い、男と男の、力のぶつかり合いを!」
ただの戦いではない。より面白く、より迫力がある戦いを。
「その身体、まさか見かけ倒しではあるまいな!」
サウロンはベリレに素手の戦いを挑み、観客の熱気はそれを断ることを悪としていた。
「何を迷う必要がある」
「同感」
シーロの呟きに、ランタンは聞こえるように頷いた。
だがベリレの決断にシーロは不愉快そうに顔を歪め、ランタンは大笑いした。
ベリレは槍を背後に突き立てて、上半身を裸になった。
「よーし、ぶん投げろ! 叩き潰せ!」
鍛え上げられた身体に観客が響めいた。毛皮を纏わない分、ベリレの肉体は硬質に引き締まって見える。胸元に刻まれた三日月の火傷痕が肉体に若さだけではなく、修羅場を乗り越えた戦士の迫力を与えている。
「さあ来い!」
「小僧っ!」
ベリレが吠えた。サウロンが顔を歪める。
たった一言で、サウロンが奪いかけていた主導権を奪った。
「――互いの名誉と誇りを掛けて」
主役はベリレで、サウロンはあくまでも挑戦者。
「始めっ」
合図とともにサウロンが先手を打って駆け出した。
直線的に、身体は起こして、拳を振りかぶる。
素人がするような大振りな打撃だった。ベリレは躱すことも、受けることも、反撃を入れることも自由であるように思う。ベリレは受けを選択し、サウロンはその防御の上からベリレを数メートルも後退させた。
「馬鹿力」
受けは様子見の筈だったが、ベリレは一気に追い詰められた。
腕を十字に交差させ、防御に徹する。サウロンは初撃の大雑把さが嘘であるかのように、洗練された打撃を放つ。拳を上下に打ち分け、少しでも防御が下がろうものならば頭を吹っ飛ばしそうなほどの面打ちを放つ。
「おらおらおらあっ、どうしたあ! このまま腕を砕いてやろう!」
はったりだった。一向に下がらぬ防御に痺れを切らしたサウロンは、狙いを顔面と見せかけて腹に決めた。
鳩尾狙いを、ベリレは辛うじて肘に受ける。
頭部は空いた。だが本命はもっと下だ。サウロンの拳は下腹部の内臓を狙う。
――すり足。
いつの間にかベリレの右足がサウロンの股ぐらまで踏み込まれている。
「――ふっ!」
重たい金属同士がぶつかり合うような音がした。
八つに割れたベリレの腹筋が、腹部を打たれる瞬間に一枚の板になったように収縮し、そして突き出された。
サウロンが腕ごと身体を引く。
押し勝った。が、ベリレも相応の深手を負うことになった。
「腹に鋼板でも埋めこんでいるのか。この俺様の爪が半分も通らんとは」
獅子人族であるサウロンの爪は、指先に生えた小さな棘のようなものだった。だがそれは彼が望めば、鎌のように鋭く飛びだした。内臓打ちの拳を、直撃の刹那に貫手にしたのだ。
指先が血に塗れる。
「だが無傷とはいくまい」
素手のサウロンは、しかし武器がないわけではなかったのだ。
拳を握らず、赤子のように半開きにされたその五指の尽くに獅子の爪が備わっている。内臓まで達せずとも、それは皮膚を破り、筋肉を切断し、打撃のそれとはまるで別種の痛みを与え、己も相手も血塗れにする。
再びの猛攻は斬撃だった。
左右から回り込む独楽のように鋭い鉤突きが回避を許さない。
だがベリレも負けてはいない。エドガー仕込みの攻勢防御。変幻自在の腕捌きでサウロンの打撃を払い、受け、押し返し、腕を血に染めながらもじりりじりりと前進し、圧力を掛けていた。
背中から読み取れる呼吸は腹立たしいぐらいに安定している。
攻め手と受け手の我慢比べだった。
そして我慢比べに負けたのはサウロンだ。
連続攻撃が僅かに緩む。呼吸のために、間合いを空ける。そのための強い一撃をベリレは待った。大振りがベリレには見えている。
巨体が沈む。まるで足元が底なし沼になったみたいに、ぬるりと踏み込む。
熊耳の先を、脇腹狙いの鉤突きが掠め、通り過ぎた。
「ふん――はっ!」
やや斜め上に突き出されたベリレの掌打がサウロンの鳩尾に打ち込まれた。
横隔膜が破裂し、背骨をへし折るような一撃だった。
なのに。
「は?」
なぜ倒れない、とランタンは思う。ベリレの一撃は必殺と呼んで相応しいものだった。
だがサウロンはその場で立っている。唇の端、鼻の穴から赤い血が垂れる。獅子の目が充血し、凶悪な戦意に染め上げられる。地の底から響くような、唸り。
牙。
サウロンは覆い被さるようにベリレの肩口に噛み付いた。
ランタンはもう声も出ない。
肩が触れるほどの隣でシーロが息を飲んだのが、一キロ向こうの出来事のように思える。
観客が一人も呼吸をしていない。
瞬きを忘れる。
音が消え、サウロンが宙を舞った。
恐ろしく滑らかな胴払いだった。
重心を崩されたサウロンの肉体は、意思を持たない酒樽も同然だった。
色んな条件が重なって起きた、完璧な偶然だ。
ベリレの背中を見ればわかる。
その証拠にベリレは残心もへったくれもなく、ぽかんとしている。
はっと我に返ったランタンは迷子の子供のように立ち尽くす背中に行き先を教える。
「止めを刺せ!」
背中から無防備に叩き付けられたサウロンから血飛沫が舞った。
それは夜の色に紛れるほど濃い紫。




