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さみしい思いをさせているのだろうか。
リリオンは留守番をさせられることに文句を言わなくなった。
窓際、カーテンを透かす月光に包まれて眠る人形はヘルヴァという名をリリオンから与えられた。ランタンが留守の間、リリオンの遊び相手となり、話し相手となってくれている。
清潔で、極めて安全な広い屋敷はリリオンの柔らかな心を守るための殻としてはこれ以上ないと思う。けれど与えられた自室を使うことなく、ランタンの部屋に入り浸るのはあの下街の狭苦しい一室が懐かしいからではないか。
自分は正しいことをしているのだろうか。
「……頼むよ」
ランタンはリリオンを寝かしつけるとベッドから抜け出し、ヘルヴァを枕元にそっと移動させた。羽織を肩に掛け、忍び足で部屋を抜ける。
目指す中庭では今日もベリレが槍を構えている。
月が大きく、星々は月光によって覆い隠されてあまり見えない。薄い雲が早い風に流されていて、それはまるで月の後ろ側を流れているようだった。
秋の夜風が体温を掠っていく。布団と少女の温もりが容赦なく奪われ、鼻を啜ると肌寒さに似つかわしくない青臭さが香った。
庭師に怒られるのも時間の問題だろう。
「はっ、ふっ、ふううっ!」
槍を大上段に構えて、叩き付けるような振り下ろし。弓のような楕円軌道を描き、先端が芝を削る直前に斜めに跳ね上がった。強烈な反動に柄が軋む。ベリレは掌を滑らせて、柄の半ばを握り込んだ。
掌の中に負荷を包み、軋みを押さえつけた。そして鋭く槍を立たせる。対人ではなく、巨大な魔物を想定している戦い方だ。
いずれ月すらも串刺しにするのではないかという勢いで槍を振り回している。
ランタンはそれを頑張っていると見た。シドは荒れていると言う。
どちらも間違いではない。
ランタンは手に持った水筒をベリレに放り投げた。
「――っ!」
石突きが跳ね上がる。
「壊したら怒るよ」
「え――あ、うわっ、――っふう……」
水筒を叩き割ろうかという瞬間、ベリレは槍に横向きの力を加えた。石突きの軌道が大きく外に膨らんで水筒を避け、そのままひっくり返るように穂先が浮かび上がった。
水筒に括られた紐を突き通す。これで荒れているのだから、見事な技量である。水筒が槍の勢いにぐるぐると回転して連接棍棒のようになっている。
ベリレは目を丸くしてその回転を見て、まるで目を回したように膝を突いた。
「――なにすんだよっ!」
回り込んだランタンがベリレの尻を蹴り飛ばしたのだ。
「こんな風に、蹴られたと思うんだよね。でないと尻と膝の二カ所に痣がある理由がわからない。いくらあの子でも二度も、受け身も取れずに転ぶとは思えないし」
睨みつける強い視線が、戸惑うように逸らされる。ランタンは、ほら、と手を差し伸べてベリレを起き上がらせた。
「それ、差し入れ。ただの水だけど」
上半身裸のベリレは近付くとむんむんと熱気を放っていて、汗臭い。汗を掻いた身体に夜風が寒そうだが、熊人族の特性なのか、それとも体積がランタンの三倍近くもあるからか平然としている。
冷たい水をがぶがぶ飲んで、唇の端から溢れた冷水が首筋を伝っても平然としているどころか、その水を頭から被って気持ちよさそうに目を細める。短い髪を掌で撫でると、細かい霧状の飛沫がぱっと散った。
「ちょっと、かかるだろ。やめろ。ったく、こんな月夜に半裸で水行とか変態なの? 風邪引くよ」
「……変態じゃない」
せめて温かいお茶か、湯にでもすればよかった。ランタンは飛沫から逃げ、上着と一緒に地面に置かれたタオルをベリレに放り投げた。ベリレは乱暴に髪を拭い、それを肩に掛ける。
眉根を寄せた不満そうな目付きは、感情を隠すためのものだろう。蹴られた尻と、芝の緑が付着した膝を手で払い、それからランタンを睨んだ
「――リリオンが言ったのか?」
「いや、隠し事なんて見ればわかる」
「じゃあなんで聞くんだ。……今まで聞かなかったのに、なんで」
「気が変わることぐらいあるでしょ? 誰にでも」
ランタンは肩を竦めて、ゆっくり息を吐いた。
言いたくないのなら言わなくてもいいよ、と口に出したくなるのをぐっと堪えた。シドに唆されたというのは一つあるが、結局のところ聞くのはランタンだ。
「どうしてリリオンが黙ってるのか、わかってるのか?」
「うん」
迷いのない頷きにベリレは拍子抜けしたように溜め息を吐いた。
「どうして俺なんだ? お前が本当に聞けばあいつは答えると思う」
「んー、僕はさあ、結構ベリレに甘いと思うんだよね。ほら、お水をあげたり、優しいでしょ? 服も着せてあげよう」
どこがだ、と苦々しく呟かれた言葉をランタンは無視した。ベリレはランタンから上着をひったくり、慌てて袖を通す。
「でもリリオンにはもっと甘いんだ」
「……はあ」
「――さて、語るに落ちてるけど。あの日、何があった?」
穏やかな焦茶色の瞳に月の光が反射する。それに見つめられたベリレは観念したように、あるいはほっとしたようにゆっくりと深呼吸を繰り返して、口を開いた。
「た」
一音目が震えた。ランタンはごく自然にベリレに近付く。
「たいしたことじゃない、なかったと思う」
「うん」
ランタンの頷きに促されるようにベリレは言葉を紡いだ。
あの日ランタンと別れた後、二人はランタンへの不満を言い合って少し仲良くなった。
そして探索者ギルドへ行って自分たちも依頼仕事を受けてみようだとか、あるいはその地下にある練武場を覗いてみようだとか、あわよくばテス・マーカムというリリオンの知り合いに訓練を付けてもらおうだとか、そんなことを語り合ったのだという。
けれど、それらを実行するその前に腹ごしらえをしようと商業区を歩いたのが間違いだったのかも知れない。
「つけられてた?」
「……わからない」
ランタンへの不満と、ランタンがいない事への寂しさと、たまの外出の高揚感とそういったものが一体となったリリオンははしゃいでいた。ベリレにはそう見えた。
「あいつ、やっぱり子供だな。なんかすごくはしゃいでいて、それが気に障ったのかも知れない」
雑貨屋で人形を、ヘルヴァを買った直後のことだった。それを腕に抱いた店先で、ランタンの予想通りに尻を蹴飛ばされた。ヘルヴァが腕からこぼれて、リリオンは受け身も取れず膝を突き、地面を転がったヘルヴァが更に蹴飛ばされた。
それを語るときベリレの声に悔恨が宿る。強張った表情でランタンの顔を盗み見るのは、それの怒りが恐ろしかったからに違いない。ランタンはただ淡く瞼を閉じて、再び頷いて話の続きを促した。
「相手は酔っ払いだ。たぶん探索者だったと思う。だからいいってわけじゃないけど、……でも酔っ払いが誰彼構わず喧嘩ふっかけるなんて、珍しくはない。けどリリオンは妙に気にして、俺は……」
また声が震えた。ランタンは目蓋を持ち上げて、親指でそこにある極薄い鬼火を拭った。
「ごめん、なさい」
ベリレが頭を下げたのでランタンは驚きに目を瞬かせる。瞳の鬼火が揺らめいて消えた。慌てるような、困ったような、戸惑いが代わりに揺れる。
「ランタンが俺に、リリオンを預けてくれたのに、俺は守ってやれなかった」
心底悔しそうにベリレは項垂れた。
月が高い。ベリレの槍から逃げ出そうとするように。この熊の騎士見習いの夜練はそれほどに激しいものだった。
怪我なんて大げさなものではない。ちょっとした青痣は消えない傷ではない。やがて肌に溶けるように薄れ、なくなってしまうものだ。
だが慰めこそがベリレを傷つけるような気がした。
ベリレは鼻をグスグスとならしていて、もしかしたら泣いているかも知れない。それを指摘しては本当にベリレを傷つけてしまう。ランタンならば見て見ぬ振りをして欲しい。
ランタンはベリレの脇腹に拳をぶつけて、何事もなかったように呟いた。
「相手は本当にただの酔っ払いか? 僕だったらお前を蹴る。的がでかいからね、蹴りやすいし」
ランタンの考えすぎかもしれない。あるいはどこかでそれを望んでいるのかもしれない。意識して狙ったことを。
知っているからこそ狙ったのか。それともリリオンを、そこに流れる血の気配を本能的に選んだのか。
ランタンはベリレが落ち着きを取り戻すまで、腕を組んで静かに考えた。蹴り転がされたリリオンのことを思うと腹の底が熱っぽくなる。それが吐き出されるのを押し止めるように、ランタンは真一文字に唇を閉じる。
「……俺はそうだと思った。顔赤かったし、酒臭かったし、ふらついてたし。でも俺が文句を言おうと思ったらリリオンが止めたんだ。俺の腕を引っ張って、逃げるみたいに。それで、お前には言わないでって」
「そうか」
ランタンは溜め息のように呟く。迷うような瞳をベリレが腰を屈めて覗き込んだ。
「なんだよ」
「意外だ」
「なにが?」
「ランタンのことだから、もっと詳しくどんな奴だったかを聞いてくると思った。それで――」
「ぶち殺しに行くって?」
ベリレが真面目な顔で頷くので、ランタンは苦笑して頭を掻いた。
「正直なところ殺してやりたい。でも、うーん、なんだろう、それはいけないことじゃないかな」
なんの説得力もない言葉が上ずった。今さらそれを言うか、と自分に呆れてしまう。
自分自身を不思議がるランタンに、ベリレはもっと摩訶不思議そうな顔を向ける。
「……僕のこと快楽殺人鬼かなんかだと思ってる?」
「思ってない。でも喧嘩っ早いのは確かだろ」
「先手必勝の法則に則ってるだけだよ」
数で優位に立てない以上、不意を突くのは常道だ。一転して開き直ったような笑みにベリレは不満気に口を曲げた。
「俺は、俺だけじゃなくてリリララもだけど、ランタンのこと結構、危険視してた。探索前のことだけど」
そういう評価を下されるようなことを、していないわけではない。ランタンが頷くと、ベリレは遠慮がちに口を開く。
「どうして?」
ひどく曖昧な問いかけだった。ランタンは少し考える。
心の中を正しく言葉にできるとは思わない。ベリレに答えると言うよりも、自分自身を知るために口を開く。
「理由は色々。必要ならばそれをするし、実際に目の前でそういうことをされたら必要なくてもするかもしれないし。それに危険に対して、少し鈍感になったのかもね。昔は些細なことに怯えてたし」
そして実際に些細なことが命の危険に直結していた。鈍感になったのではなく、余裕ができたというのが正しいのかも知れない。昔は寝起きする場所を知られるだけで、死は足音を立てて近付いてきた。
「殺すべきか、否か。危険かも知れない。だから排除しようってんじゃ、同じ穴の狢だ」
「……巨人族のことか?」
「うん」
「俺は、ちょっと気にしすぎじゃないかなって思う。俺、お前の方が怖いし」
「こんなに優しいのに」
探索とは違う。けれど気にしすぎて損をすることは探索では少なく、またランタンが頼ることのできる経験は少ない。
「どうしても正解を選びたくなる。だから余計に迷うのかも」
何だか妙に気恥ずかしくて、言うんじゃなかった、とランタンは思う。
ベリレは一つ呼吸を置くと、意を決したように口を開いた。
「ランタンは、リリオンのことが好きなん、のか?」
断言しようとして、すんでの所で疑問に置き換えたのか、言葉の締めがぐちゃぐちゃだった。
ランタンは、言うんじゃなかった、と小さく、本当に小さく苦々しく、だが言葉にした。そして空を指差した。
「あれ並な言葉だね」
ベリレが月を見上げたその瞬間に、肺にある空気を全部吐き出して夜風を吸い込んだ。体内に入り込んだ冷たさに、己の身体の熱がはっきりと浮かび上がった。
「好きだよ」
言って、だがベリレをとやかく言えないような半端な表情をランタンはしている。
「でもそれが、どういうものかはわからない。一番最初にあったのは保護欲とか、自己証明のためとか、そんな感じだったと思うし。今はちょっと違うのは確かだよ。でもそれは父性とか、妹へ思うような感情かも知れないし、他のかもしれないし……」
「なんだそれ」
呆れたように溜め息を吐かれて、ランタンはそっぽを向く。
「知らないよ。親もいないし、兄弟もいないし、友達もいないような、いるようなだし。その辺の感情の区別を僕は知らない。ああ、もちろんベリレのことも好きだよ。これは区別できるけど」
「……なんだよそれ」
「ふん、こっちの台詞だ。なんでお前とこんな話をしなきゃなんないんだ。ああもう、馬鹿みたいだ」
照れ隠しなのか悪態を吐くランタンは芝を蹴っ飛ばした。
「なんでってなあ。――俺だって、ちょっと、悔しかったんだぞ」
「何が?」
「女の子と二人で歩くなんて初めてだったのに、ずっとランタンのことしか話さなかったし、もっとこう、ほら、あるだろう!」
「ない」
リリオンとベリレが並んで歩く姿を想像すると身長や体格差がちょうどいい具合なので、ランタンはむすっとして一言で斬って捨てた。
思いがけずベリレと話し込んでしまって、リリオンの温めるベッドに潜り込んだのは東の底に僅かな光が漏れ出す頃だった。リリオンの体温が恥ずかしく、それから更にしばらく眠れなくて、結局眠れたのは空が白み始めてからだ。
「ふあああああ――……」
目覚めると夜のことが夢のように淡く思い出された。
ベッドの中にリリオンはおらず、かといって寝顔を覗き込まれることもなくランタンは一人だった。ランタンは大きな欠伸を吐き出して、重たげに身体を起こす。
「……ベリレの阿呆」
呟きは完全な八つ当たりで、目蓋はまったく持ち上がらない。
布団を蹴り飛ばしたまではよかったが、ランタンは脚を投げ出して座ったまま、時間が止まったように身じろぎ一つしなかった。
カーテンが開けられている。入り込む日差しが暖かい。もう一眠りしてしまおうか。ランタンは倒れ込むようにベッドに横たわった。
「――ランタンっ!」
すると見計らったようにリリオンが部屋に飛び込んでくる。横になるランタンを見つけると、大きな猫のような身のこなしでベッドに上り、ランタンにのし掛かると目をぱちぱちさせながら顔を覗き込んだ。
「あらあら、ランタンはお寝坊さんね」
そしておままごとみたいな口調でランタンに語りかける。
「なに、それ」
「ヘルヴァだってお着替えしているのよ。じゃあわたしがお着替えさせてあげましょうね」
窓際の人形は毛皮のコートを脱いで、清楚なドレスを身につけていた。冬を先取りしすぎたと気付いたのだろうか。ランタンが横目にそれを見ているとリリオンはランタンの服に手を掛けた。
裾を捲り上げると真っ白い腹部が露わになる。脂肪が削ぎ落とされたそれは、連日の戦闘のためである。リリオンは愛おしそうにそれを一撫でする。少女の指先が少しばかり脂っぽい感じがした。
「いい天気よ。ほら、起きてランタン」
「とても鬱陶しいことになってるけど、なに? どうしたの?」
「お出かけよ!」
それは決定事項であるらしい。ランタンの悪態にまったく怯むことなく少女は言い放った。そしてランタンの身体を抱き起こし、本当に着替えさせようと裾に手を掛けて一気に捲り上げる。
「ひぃ、寒い」
体温の染みこんだ寝衣が剥ぎ取られると、日差しの暖かさよりも冷気の方が強く感じられる。ランタンは思わず悲鳴を上げて自らの身体を抱きしめた。冷気とリリオンの手から逃れるために。
「脱がせてあげますからね」
「自分でやるからいい! 手を突っ込むんじゃない! ったくもう」
ランタンは用意された服を手繰り寄せて急いで身を包んだ。裾から頭を突っ込んで、襟から頭をぽんと出すと拗ねるように唇を尖らせるリリオンと目があった。ランタンは溜め息交じりに問う。
「――それで? お出かけってどこに」
「お外よ」
「だからその外の、どこにって」
「都市の外よ。早起きしてお弁当も作ったんだから! だからお寝坊さんのランタンは朝ご飯は抜きよ」
高らかに宣言するリリオンにランタンはきょとんとした。
「えっと、聞いてないけど」
「言ってないもの。ランタンだってそうでしょ」
リリオンは真面目な顔をして言った。それから恥ずかしがるような、不安を隠すような甘い声で囁く。
「……ちょっと意地悪したくなっちゃったの」
ランタンは視線を逸らし、手探りで少女の髪を撫でて、急いで身支度を調えた。ベッドから飛び降りると寝癖を手櫛で押さえつけて、引き千切るような勢いで身体の筋を伸ばす。用意された水桶で顔を洗い、口を濯いだ。
「レティシアさんがね、いいところに連れて行ってくれるの。きっとのんびりできるわ。ランタン、最近、忙しそうだったから」
ランタンが腰に戦鎚を括り付けると、リリオンは急かすように肩を押して部屋を出た。鼻歌を奏で、繋いだ手を振り回して、髪を揺らしながら妖精みたいにランタンの周りを踊り歩いている。
ランタンは都市外に出るのは初めてのことだった。下街を探検し、その端の端にある壁の綻びを眺めたことがあるぐらいだ。
「おはようございます」
玄関広間まで行くとすでにレティシアとリリララが待ち構えていた。
「おはよう、よく眠れたみたいだな」
「おせーよ!」
「心遣いありがとうございます、レティシアさん」
ランタンはレティシアにだけ微笑みかける。リリララは眉間に深い皺を刻み、リリオンの袖を引っ張ると聞こえるように愚痴る。
「あの生意気な態度はどうよ。反省がないんじゃないのか」
「許してあげて、まだちょっと眠たいのよ」
探索を行うような本格的なものではなかったがレティシアもリリララも活動的な装いをしている。
「ひらひらは着てないんですね」
エプロンドレスを脱ぎ捨てたリリララは風も冷たいというのに脚を見せびらかしている。ランタンが指差して指摘すると肉付きのいい足を揺らし、かと思うとスカートを履いていないことをいいことに鞭のような上段蹴りを繰り出した。
ランタンは事も無げにそれを躱す。
「ベリレはいないんですか?」
「外で用意をしてもらっている。そう言えば、あの子も眠そうにしていたな」
屋敷の前には馬車が用意されていた。いつも乗せてもらう豪奢な箱馬車ではなく、無骨な雰囲気があった。都市外を移動するためのものであるようだ。
そして馬車とは別に、一頭の巨馬の手綱を引いているベリレがいた。先導兼護衛役なのだろう。目の下の薄く隈が見えるが大丈夫だろうか。
「あ、レティシアさま!」
「おはよう。……それはなに?」
ベリレは帯剣し、馬には弓矢と槍も備えられている。そしてなぜか孤児に纏わり付かれて、戸惑っていた。装備品ではないようだ。
「わからん」
孤児は猫を抱いている。ランタンたちが近付くとその猫を見せびらかすように掲げた。リリララは念のために警戒し、けれどレティシアは孤児に視線を合わせ、気さくに声を掛けた。
「どうしたんだい?」
「これ……」
幼い声だった。不安げに震えているのは身分の高さへの擦り込まれた恐れからだろう。
孤児の猫はまだ子供でにぃにぃと鳴いている。薄汚れて痩せていた。
「ご婦人方はああいうのが好きだからな」
リリララが小さく、低い声でランタンに呟く。子犬や子猫を小道具として使うことは孤児にとっては常套手段であるらしい。いかにも哀れであればあるほど、稼ぎはいいのだという。
「なでてもいい?」
レティシアに続きリリオンまでもが引き寄せられて、子猫の小さな頭を指の先で擽っている。リリオンはもとよりレティシアも女性にしては背が高く、また美しいせいか孤児はしどろもどろになっている。
「でもそういう雰囲気じゃなくないですか?」
「ただ猫を見せびらかしにきたってか? っていうかなんでお前引いてるんだよ」
一向に猫へと近付こうとしないランタンにリリララが胡乱げな視線を向ける。ランタンは猫を抱きかかえるリリオンを見つめるもののそれだけだった。
「あ、まさか」
「違います」
「まだ何も言ってねえよ」
「ああいうのには好かれないんです」
ランタンはつまらなそうに言った。どういう訳か、ランタンは大小問わず動物に嫌われる質だった。
「へえ、じゃあ試してみろよ」
だがリリララは面白そうににやにやと笑い、ランタンの腕を引っ張ってそれに近付く。それに気が付いたリリオンがはっとして振り返った。
「ランタンも抱っこする?」
「しない」
「大人しくて、いい子よ。小さいし、大丈夫よ」
「怖がって動けないだけだよ」
灰を被ったような斑色の子猫はリリオンの腕の中で大人しくしている。鼻の先が桃色で、髭が細く頼りなくて、三角の耳が震えている。ランタンにはそれが怯えに震えるように見えた。
拒否するランタンにリリオンが無理矢理、子猫を押しつけた。ランタンは反射的にそれを抱いた。小さい。肉も薄ければ、指先に触れる肋骨の感触もまた脆い。軟体生物みたいにぐにゃぐにゃしていて、温かかった。
「うわ!」
そして暴れ狂い、まだ柔らかな爪でランタンを引っ掻く。
子猫よりも百倍巨大で、千倍恐ろしい魔物でも流させることが難しい赤い血が手の甲に浮かび、そういった魔物たちに等しく死を与えてきた腕から逃げ出した子猫は一心不乱に地を駆け、だが事も無げにベリレに首根っこを摘まみ上げられた。
そしてじたばたと暴れている。
「ほらね」
ランタンは肩を竦め、あとはよろしく、とベリレに一声掛けて一足先に馬車に乗り込んだ。薄皮を裂いたひっかき傷からの出血は胡麻粒ほどの滴の連なりで、指で拭うだけで収まった。ランタンは念のためにちろりと舐めて、吐き出そうとした溜め息を飲み込んだ。
リリオンたちが馬車に乗り込んだ。リリオンは定位置のランタンの横に、レティシアとリリララが向かいに腰掛ける。
リリララが申し訳なさそうにしているのが珍しくて、ランタンは思わず笑ってしまった。
「指先から邪悪な気配でも発してるんですかね」
「心を惑わす力があるんじゃないか? 確かめなかったが、きっとあれは雌だな」
リリララと同じように肩を落としているリリオンの脇腹を撫でると少女が嬌声を上げる。魔性の指から逃れるために身を捩り、それでいて悦ぶような。
「にしてもあんなに暴れなくてもいいのに」
「腰が引けてたからな、その所為じゃないか? 動物は人の恐れに敏感だと言うし」
「あんなちっこいの、怖くないですよ」
ランタンは手の中に小さな命の暖かさを思い出し、その掌をズボンで拭った。
「それであれはなんだったんです?」
「よくわからん。私に子猫をくれようとしたらしいが」
「貰わなかったんですか?」
レティシアは頷く。それからまた笑った。
「失敗したかな。ランタンに手傷を負わせるとなるとなかなかの番猫になったかもしれん。リリララの相棒にどうだ?」
「――勘弁してくれよ」
硬くなった表情をようやく和らげてリリララは頭を抱えた。
もう馬車は動き始めていた。迷宮特区が外殻壁で囲まれているように、都市もまた壁に囲まれている。壁にはいくつか門があり、運び込まれる、あるいは運び出されるものによって使われる門が分けられている。区別は物ばかりではなく人にも及ぶ。
貴族のための通用門は無駄に装飾が施されているし、書状の一枚を見せるだけで荷物検査をされることもない。それに余程のことがなければ混雑することもなかった。
「もう外?」
聞いたのはランタンだった。
「ああ、もう外だよ。リリララ、幌を」
門を出てすぐに幌を畳んだ。天気は良かったし、遮るものなく降り注ぐ日差しは強い。それでも馬車の走りに吹く風が冷たいのは、ランタンが昂揚しているからかもしれなかった。
ベリレが十メートルほど先行している。後ろからは四頭の騎馬が追従してくる。ネイリング騎士団の面々だが、シドはいないようだ。
都市から遠ざかるほどに都市の大きさがはっきりと認識できて、馬車が走る街道も広々としてよく整備されており、人々の営み以上に文明の豊かさを思わせた。
「危ないわよ、ランタン」
「平気、平気」
揺れる車上に立ち上がる。ランタンは地平線になっている平野のその向こうを見ようとしてリリオンに心配される始末である。
街道は八大都市とそれらの主要な衛星都市を、そして王都を繋ぐ。あらゆる物を運ぶ大動脈であり大公路と呼ばれているようだ。公路から、それこそ血管のように枝葉を延ばす街道は町や村、農園、そして騎士団の砦などに繋がっている。
道が運ぶ物は好ましいものばかりではないし、道そのものに害を及ぼす存在も外には多い。盗賊、野生動物、そして魔物だ。
「はー、すごいな。広い」
「変なやつ」
リリララが風に耳を戦がせながら呟いた。
「迷宮の方が妙な景色は多いだろうに」
「こんなに広い迷宮はないですよ」
ランタンは風を受けるように手を広げて、その解放感を純粋に喜んでいるようだった。
「子供みたいだな」
「ほら、もう座って、赤ちゃんランタン」
「リリララさん、席替わって」
自らの膝をぽんぽんと叩いたリリオンに一瞥をくれてやり、ランタンは半ば本気で頼み込んだ。
「嫌だね」
だが言葉と同時に蹴られてバランスを崩したランタンは、リリオンに腕を引かれて少女の膝に引き込まれた。そのまま膝枕をされそうな勢いだったので、ランタンはもぞもぞと身を捩って、押さえつけるような抱擁から抜け出す。
「それ以上やったら飛び降りるよ」
「恥ずかしがらなくってもいいのに」
「蹴り落とすと言わないところが優しさだな」
ランタンはそっぽを向くついでに座席に膝立ちになり、やはり景色を眺めることはやめられなかった。風に靡くランタンの髪をリリオンがそっと手で押さえる。
「それでどこに行くんですか? リリオンは教えてくれなかったんですけど。それともまだ秘密?」
「ひこうじょうよ!」
ランタンの問い掛けにリリオンが満を持してというように発表する。
言い慣れない言葉は音の一つ一つが甘ったるくて、ランタンはそれが意味のある単語に聞こえなかった。ぽかんとしてリリオンの顔を見つめ、それからレティシアに補足説明を頼んだ。
「ふふふ。飛行場、だよ。竜場と呼んだりもするんだが、ようは竜種を飼ってる牧場だ。軍用や竜籠用の。私たちがここに来るときに使った子を預けてあるんだ。あまり放っておくと忘れられてしまうかも知れないからね」
「竜種! へえ、すごい!」
「でしょう!」
ランタンが驚きの声を上げると、リリオンが何故だか自慢げに胸を張った。