126
126
「恥ずかしいわ……」
子猫のように触ってやると喜ぶくせに、リリオンはランタンに見つめられて頬を赤らめた。
疑いの視線でも、あるいは他意の含まれた視線でもなくランタンの視線は、ただ己の知りうる少女の身体と現状との差異を探る冷静なものだったが、リリオンの声音の熱っぽさはランタンを慌てさせる。
ランタンは頬を張られたように顔ごと視線を逸らし、ごめんごめんと言いながら肩を並べて湯船に浸かった。
大きく息を吐き、目蓋の裏に思い出すのは目に焼き付けた白い裸身だ。
リリオンの身体は綺麗だと思う。無数の傷があるその身体を。
それはランタンと出会う前から存在する古傷だ。
白い身体から絹糸ほどの一筋、無理矢理に色を抜いたような傷は刃物によってつけられたもの。小指の爪ほどもない膜を張り付け光沢を帯びた皮膚は火を押しつけられたものだろう。
リリオンの身体を初めて洗ってやったあの日から、ゆっくりとだが確実に薄くなっている。時間と魔精摂取の影響による治癒は、けれどまだ時間は掛かるだろう。
それは少女の身体に刻み込まれている。
反面、探索者となってからの傷はほとんどない。一つ一つの探索や戦闘で大小の怪我をしているが、それは汚れを拭き取るように消え去っている。その事実は少なからずランタンの、彼女の保護者としての自尊心を満足させる。
現状で目立つものは騎士団との訓練で負った多少の打撲痕と、やはり膝と尻の青痣だ。
後者の傷はランタンを動揺させた。
だがリリオンが痣の原因を誤魔化した理由をランタンはそれ以上問い詰めることはしなかった。言いたくないこともあるだろう。ランタンがある種の安心を得るためだけに、それを曝くことが正しいのかわからない。
リリオンにかんして過保護であり心配性であるランタンだが、リリオンの意外な頑固さを知っているし、リリオンが口を噤む理由にも心当たりがあった。
リリオンはランタンに心配をかけまいとしている。知られていないことを、誇りに思っている。
ベリレを問い詰めれば口を割らせることは可能だろうが、ランタンはそれもしなかった。
リリオンのことも大切だが、なんだかんだとベリレのことも嫌いではない。
一つだけ年下なだけだが、ランタンは自分よりも遥かに大人びた容貌の少年をもっと年下に感じることがある。死んでも口には出さないが、可愛い弟分のようなものだ。なりはでかいが、なんだかんだと繊細な子熊なのである。
ベリレがすでに傷ついているのは顔を見ればわかった。その日以来、騎士団との訓練にはいっそうの熱が入り、夕食後には遅くまで槍を振る姿を毎日見るようになった。
ランタンも翌朝から再び戦いの中へと身を投じた。
迷宮崩壊戦の依頼仕事を二つ三つとはしごして、見知らぬ探索者たちと肩を並べて戦った。
かつて囁かれた探索中毒の称号が戦闘中毒や戦闘狂へと移ろっていくにつれて、ランタンの実力は多くの探索者の知るところとなった。
迷宮特区に張り巡らされる石壁に上り、ランタンの戦い振りを一目見ようとする者も珍しくはなかった。
噂以上だと驚く者もいれば、噂通りだと唸る者もいたし、こんなものかと拍子抜けをしたり、どうってことないと強がる者もいる。
いつも連れ立っているリリオンの不在を気にする探索者はランタンがうんざりするほど多くいた。
二人で一つである、とまでは言わないがそれに近い認識が広がっている。リリオンのことを詳しく聞いてくる探索者もいた。悪意がありそうな者も、ただの興味本位の者もいたが、ランタンの警戒心が存在しない悪意を感じ取ることもあったはずだ。
また一人で活動するランタンを、自らの探索班に望む者たちも再び顔を出し始めた。以前と違うのは、ランタンに指揮者となって欲しいと願う探索者たちの存在だ。
ランタンの参加する迷宮崩壊戦では死者が出ない。それはある種の驚きと尊敬をもって語られる。
ランタンは自らに敵意を剥き出しにされようとも、いざ崩壊戦が始まってしまえばそれを助けてやらずにはいられなかった。もちろん自らの評判を気にする下心がないわけでもなかったが、身体が動いてしまうのだから仕方がない。
助け方は投げたり、蹴ったり、ぶっ飛ばしたりと些か乱暴だったが、それが思いもよらぬ噂を生み出した。ランタンが窮地に陥った探索者を蹴り助けると、鎧に靴底の赤が刻まれるのだ。それが幸運の印であるとして。
毛むくじゃらの中年探索者に蹴って欲しいと言われたときは、さすがに引いた。極軽装の女探索者に言われたときは、無言で逃げ出した。女は鎧など身につけていなかったのだ。
ともかくとしてランタンは勧誘も、変態的な願いも全てを拒絶した。愛想を振りまくためには受けた方がよかったのかも知れないが、流石のランタンもそこまですることはできなかった
騎士団との訓練にも幾度も参加したが、レティシアを誘うことはなかった。
探索直後のような大勢の貴族の来訪はめっきりなくなったが、その代わりにレティシアはアシュレイの下へと出向くことが多くなった。リリララもそれに付いて行っているようだ。
なので面子は相変わらずリリオンとベリレだった。
レティシアがいないことにシドは山ほど文句を言って、ランタンに大量の魔道を浴びせかけた。そしてそれを迎撃するというのがお決まりになり、なかなかいい訓練になった。
リリオンと外を歩くのは、訓練に向かうときだけだった。
リリオンは訓練が終われば文句も言わずに真っ直ぐ屋敷へと帰ったし、ベリレもしっかりとリリオンに連れ添ってくれた。
リリオンはランタンの帰りを待つ傍らで、ベリレと鍛錬をしたり、ダニエラに勉強を教えてもらったりしているようだった。一向に上達しない魔道も、投げ出すことなく学んでいるらしい。
リリオンを恐ろしいと言ったダニエラだが、彼女はなかなかリリオンを可愛がっている。曰くランタンよりも素直で真面目なのだという。厳しいがリリオンも懐いていた。おばあちゃん、と呼んで物凄く怒られたとも言っていたが。
ランタンが屋敷に戻ると、人形の洋服が替わっていることがあった。
それはリリオンの手製で、驚く程良くできていた。それに気が付いてからランタンは仕事の帰りに綺麗な布や、上等な裁縫道具を買って帰るようになった。討伐した魔物の毛皮を鞣してもらって、それを渡した翌々日に、人形はもこもこのコートを羽織っていた。それを褒めると次の日にはマフラーと帽子もしていた。人形は一足も二足も早く冬の装いとなった。
リリオンは訓練のない日には、いつも玄関まで出てきてランタンを見送ってくれる。お昼の弁当を持たせてくれることもあった。
ランタンは戦い続ける。
ある日、ランタンを指名しての依頼仕事が舞い込んできた。探索者ギルドが寄越した仕事ではない。依頼者は以前にもランタンを指命して依頼を出したことがあるらしいのだが、当時のランタンはもちろんそんなものには見向きもしなかったし、そもそも依頼仕事を受け付ける窓口に近寄ることもなかった。
依頼内容は攻略済迷宮の護衛であるらしい。
巨人族によって大地の大半を海抜零メートル、あるいはそれ以下の平地にされてしまった世界では鉱石資源の大部分を迷宮に頼っている。鉱業業者は攻略済迷宮での採掘権を探索者ギルドから購入して採掘を行う。
攻略済迷宮であっても魔物に襲われる危険がないわけではない。
崩壊までの間に魔物が再出現することは往々にしてあり、そのために探索者が雇われることもあった。探索者雇う場合は通常複数の探索者、つまり班単位で雇うのだが依頼主はランタン一人だけを指名した。
依頼主は私兵を山ほど有していて、本来は探索者を必要としない大きな業者であるようだ。
依頼料は破格である。だがものの見事に胡散臭かったのでランタンは断った。そもそも依頼仕事を受けているのは同業者の目を気にしてのことであるし、金に困っているわけでもない。
だが断りを入れた翌日、いつものように迷宮特区へ向かうと件の依頼主に待ち伏せをされた。通せんぼうするような私兵の群れに警戒するランタンに、馬車から降りた貫禄のある商人は渡したい物があると言った。
それは大量の打撃武器だ。
毎日違う武器を持って戦場に現れるランタンを見かねて、というのが建前らしい。
我々が扱う鉱石は高品質で。加工を任せている工房は由緒ある。きっとご満足頂ける云々、と矢継ぎ早に捲し立てて、自社の刻印がぎらぎらと刻まれた鎚やら棍やらを押しつけていった。
商工ギルドのエーリカにも似たような企みをしたな、とランタンは懐かしく思い、ありがたくそれを使わせてもらうことにした。
彼らの思惑通りの宣伝効果があったかはわからない。
だが少なくとも商工ギルドの耳には入ったようで、ランタンが武器を受け取った当日にエーリカが会いに来た。
一仕事終えた後、昼飯を御馳走になりながらその対価としてやりとりの子細を語った。聞いたエーリカは外面を取り繕うこともなく盛大に舌打ちをして、昼から黒麦酒で唇を湿らせた。
もともとランタンと懇意にしていたエーリカからすれば、横やりを入れられたと感じたようだ。ランタンに文句を言うことはなかったが、言いたそうにはしていた。
間に合わせで済ませるしかないランタンに武器は幾つあっても足りなかった。
自慢げにどうぞ壊してみて下さいと言われたので、言葉の通り使い捨てにしたのは言うまでもないが、その時のエーリカは知るよしもないのである。
ランタンが無垢さを装って微笑むと、エーリカは大人の顔を取り繕った。
ランタンにとっては世間話でも、エーリカにとっては商談である。
鉱業業者に張り合って、同じように武器を融通するということはない。業者は商人ギルドでそれなりの地位を築いていて、同じ事をしていては商工ギルドに勝ち目はないと踏んだようだ。
エーリカはランタンに運び屋の派遣を提案した。
以前と代わり映えのないことだが、それはすでに商工ギルドを支える柱の一つとして確立している。実績は充分で、積載から運搬、換金までを一手に引き受けてくれるのだから手間がなくていい。その日の午後から、早速運び屋が派遣されることになった。ランタンに話をつける前から、ギルド内で段取りは整っていたようだ。
「仕事の早いことですね」
「ふふ、ランタンさまのおかげで商工ギルドの方針が決まり、皆が手伝ってくれるようになりましたから」
「エーリカさんの頑張りのおかげですよ」
ランタンが言うと、エーリカは微笑んで麦酒を舐めた。
「ランタンさまも最近、また一段とご活躍をされているみたいですね。けれどリリオンさまのお姿が見えないようですが――」
酒精に頬は赤く、だが理性的な瞳をしている。ランタンがエーリカの軽い探りに片眉を僅かに持ち上げると、彼女は苦笑で答えた。
「父が気にしているんですよ」
「グランさんが?」
「ええ、ランタンさまが一人で来るって、病気でもしてるんじゃないかって、喧嘩でもしてるんじゃないかって」
エーリカの苦笑が堪えきれず声になって弾けた。ランタンは目を丸くする。
何度か一人で工房を訪れたが、グランはそんな素振りを見せなかった。武器製作で忙しそうにしていて、少し顔を出すだけであとは弟子の職人に対応を任せるばかりだった。
「娘としては、ちょっと妬けますね。私が子供の頃、父は鉄を叩くことだけが全てのような人でしたから」
「そうなんですか? いつも声を掛けてもらっていますけど。その、ええっと……あの、鬱陶しいぐらい」
「あら、それは父が失礼を。うふふ、変わり者の夫婦ですから、私にもまだわかりませんが、別居することの一因になるぐらいには偏屈でしたよ。それが――」
過去を見つめる視線がふとランタンに焦点を結ぶ。エーリカは夢から覚めたようにはっとした。
「ランタンさまとリリオンさまに出会ってずいぶんと変わりましたわ。以前は見て盗めなんて言っていたのに、今はお弟子さんたちにもいくぶん優しくなったみたいですし」
ころころと笑ったかと思うと、眼差しを伏せる。次々に変化していく表情の多彩さにランタンはリリオンを思い出した。
「それで、差し出がましいようですがリリオンさまとは」
「喧嘩なんてしてませんよ、病気にもなってないです。元気ですよ。最近は人形遊びに夢中になっているみたいで」
「あら、そうなんですか? 懐かしい、私もよく人形遊びはしましたわ。父はもちろん、母も自分の世界に没頭する人でしたから、職人仕事だから手伝うこともできませんでしたし。でもランタンさま、……人形は一時孤独を紛らわせてくれますけれど、消し去ってはくれませんよ」
エーリカは言い聞かせるように、それでいて独り言のように言葉を投げかける。
「でも仲良くしているのでしたら結構なことです。私もお二人が仲良くしていると幸せな気持ちになりますから」
今日三つ目の迷宮崩壊戦を前に、ランタンはさすがに疲労の色を隠せなかった。
小さく欠伸をする様子は、屈強な探索者に囲まれると小動物のそれを思わせる幼さがくっきりと浮かび上がる。
「軽いなあ……」
呟きながら今日、五本目の戦鎚をくるりと回した。先端の重さは以前の戦鎚よりも二割ほど重い。それでも軽く感じるのは、試しに使ってみた四本目が十キロぐらいあったからでもあり、また多頭竜から得た魔精がようやく肉体に馴染んできたからかも知れない。
ランタンは欠伸を噛み切るようにがきんと歯を閉ざして、横目に探索者の小競り合いを見つめる。
この場で勃発した諍いではなく、今日以前の前衛戦力の引き抜きに端を発したものであるらしい。法外な分配率を餌に探索者を引き抜いたものの、その前衛戦力を一度の探索で使い潰してしまったのだとか。
一つは引き抜かれたことで、もう一つは未帰還により戦力を失った探索班同士が迷宮に挑むこともままならず依頼仕事でかち合ってしまったようだ。
「飽きもせずによくやるよ」
「ああん? なんか言ったか?」
呟きに反応してランタンを振り返った男とは初対面だ。戦い前の緊張からか、探索者たちはぎすぎすしていることが多い。飽きもせず、と言ったのは似たような小競り合いが今日二度目だからだ。一度目は女の取り合いだった。
ランタンは眠そうな目を男に向けた。
「言った。もう少ししたらそれをぶつける相手が這い出てくる、それまで体力温存したら?」
「はあ? なんでテメーにそんな指図を受けなきゃなんねえんだよ。あれか? 俺はテメーに助けてもらおうなんて考えてねえからな、調子のってんじゃねーぞ!」
ランタンが参加する戦いで死者が出ない。
ランタンがそれを許さないという噂は、尊敬と同時に侮りを生むものでもあった。
仲間を見捨てられない甘さ。
それは闘争の中では不必要な要素である、と考える探索者は少なくない。
戦闘時にわざわざ探索者を助けるランタンは、ならば探索者に手を出さないだろうという考えがある。高を括って実際に手を出してくる相手もいる。けれどそれは一握りの良識ある探索者や、ギルド職員である観測手が止めに入ってくれる。
ランタンの幼さが彼らを動かすのかも知れない。そのおかげでランタンは自らの手を汚さずに、今は済んでいる。
「どうしたらいいんだろう……」
疲労のせいか、弱音のような独り言が出た。無視された形の男が、ランタンに詰め寄る。
そして見えざる力に吹っ飛ばされた。鎧の胸元がはっきりと陥没している。
「俺が最後か」
現れたのはネイリング騎士団部隊長のシドだった。
「てめえ何を――ぐっ」
吹っ飛ばされた男は背を地面に打ちつけて、けれど後転する勢いに任せて体勢を立て直した。シドを睨み抜剣した瞬間、だが喉をかきむしって苦しむ。
「黙れ」
真っ青な顔色は急激に酸素を奪われたが為のことだ。
大気を操って男の周囲から空気を奪ったのだ。
「ランタン、どうする? 殺すか?」
「――止めてください、貴重な戦力ですよ。と言うかレティシアさんの名を下げますよ、そんなことをしたら」
「そうか? この程度のことでレティシアさまの名は汚れん。それに上下ははっきりとさせておくべきだ」
シドが男から視線を切ると、男はようやく呼吸を許された。咳き込むような荒い呼吸が、涎の垂れる口元で鳴り響いている。皆が黙りこくっている。
シドは一瞬にして場を呑んだ。
実力では負けていないとランタンは思う。この影響力の差はなんだろうか。
ランタンだけがシドに口を聞くことができた。
「今日は、どうされたんですか?」
「仕事をしにきたに決まっているだろう。俺は甲種探索者だぞ」
突き出した右手には確かに探索者証が揺れている。そしてそれを見せびらかすように、場にいる探索者たちを振り返った。堂々とした立ち振る舞いは傍若無人ですらあったが、同時に風格も感じさせる。
人の上に立つことに慣れているのだ。
「ふむ、これがお前の言う貴重な戦力か。なるほど、今日はもう帰っていいぞ。貴重な戦力ならば温存しておくが吉だからな。俺が全部終わらせる」
「は?」
探索者たちは帰ることはなかったが、それでもシドに口を挟めないようだった。色んな感情が渦巻いてはいたが、大人しく遠巻きに見ているだけだ。
シドは背から錫杖を抜き取ると地面に魔道式を描き始める。迷宮口を四重にぐるりと円で囲み、まったく読み取ることのできない謎の紋様で円と円の間を埋めていく。
魔道を修めているらしい探索者がみるみる顔を青ざめさせていく。シドはまったくお構いなしで、魔道式を書き終えると自らが刻んだ地面の溝に綺麗な金色の液体を流し込んだ。
「それはなんですか?」
「ダニエラさまに師事しているのに不勉強だな。これは常温で液体の黄金、魔道の触媒だ。この程度の迷宮相手には多少もったいないが、半端に余ってもしょうがない。まあこんなものだろう。おい、観測手。薬を入れろ。式を踏むなよ。入れたらさっさと円の外側に出て、隠れていろ」
事前に入念な用意を行って発動する大規模魔道をシドは発動させようとしている。シドの身に着ける宝石たちが色取り取りに輝いて、魔道式の溝を満たした水金に細波が立った。
大気を奪うことができるのならば、その逆もまた然り。
シドは口の中で何か言葉を転がしている。聖書の一節だっただろうか。確かに不勉強だ、と思う。ダニエラが一度読み聞かせてくれた気がする。
シドのそれは淀みなく、何億と唱えたであろう滑らかさを感じさせた。
探索者たちは石壁の後ろ側に待避していて、観測手も似たようなものだった。ランタンだけがシドの隣にいて、興味深そうに迷宮口の闇と魔道式の揺らめきを見つめている。
薬を投げ入れて十分程、シドは瞬きもせずに魔道式に力を注ぐ。
「そろそろですね」
「──俺に話しかけるなって言ったろ。罰として着火役だ。全部出たことを確認したらやれ。いいか、円の内側には入るなよ」
地の底からの地響きを感じながら、ランタンは魔道式に近付いた。
空気の密度が違う。実感として触れられるほどに圧縮されている。魔道式の向こう側の景色が屈折して揺らめき、霞み、重なり合っている。
迷宮の崩壊に合わせて噴き出した瓦礫が、上から押さえつけられるように鈍い。溢れ出る魔物たちの動きも緩慢で、魔精が式の中に閉じ込められて円中に薄い青が広がる。
空の青色に似ている。
ランタンは円のぎりぎりまで近付いていたが、本能的に一歩後ろに下がった。
なるほどこれは確かに罰だ。とんでもなくおっかない。まさしく爆発物の中に手を突っ込む気分だった。
手だけを目一杯突きだして、爆発。
着火。
ランタンから放たれた火が、一瞬のうちに魔道式の内側を満たした。音はない。極大の真っ白な火柱が天に向かって伸び、瓦礫も魔物も何もかもを一瞬で灰燼に帰してしまった。
ランタンは光に目を灼かれ、慌てて後ろに下がった。
その襟首をシドが掴まえる。
指向性を持った火柱は空へと抜けたが魔道式が壊れた瞬間、強烈な吹き戻しを発生させた。煮え立つ大地に目がけて吸い込むような風が吹き、迷宮口を囲んでいた石壁が引き倒されて崩壊し、探索者たちは争うどころではなく、嵐をやり過ごす虫の群れのように身を寄せ合って一塊になっていた。
吹き戻しがやんだ、そこには溶融した大地に沈んでいく瓦礫の山があるだけだった。
「少し張り切りすぎてしまった。どうだランタン、楽はできたか?」
「おかげさまで」
「よし、ならば俺のおかげで楽ができたとレティシアさまに報告をするんだぞ。これはレティシアさまからの頼まれごとだからな。あと今日の仕事はこれで終わりだろ? ならばついて来い」
戸惑うランタンの腕を掴み、どことなく上機嫌なシドは問答無用で歩き出した。
ランタンが腕を振り解いたのは迷宮特区を出てからのことであり、疑問を口に出したのはそれからのことだった。
レティシアからの頼まれごととはどういうことだろうか。
「お優しいレティシアさまは、お前ごときの働き過ぎを心配しておられる。聖女と呼ぶに相応しい優しさだな。お前にはもったいないことだが。そして忠実なる騎士である俺に、お前の手伝いを頼んだというわけだ。でなければお前が過労死しようと知ったことではない」
レティシアに頼られたことだけが、シドにとっての喜びであるようだった。使命を果たせたことに満足している。
「それで、僕はどこへ連れて行かれるのでしょうか?」
「娼館だ。前に約束をしただろう」
ランタンは足を止めた。シドは不思議そうにランタンを振り返った。
「おい、ぐずぐずするな」
「行かない」
ランタンの拒否に、シドは上機嫌さを一発で吹き飛ばした。くわっと目を見開く。
「まさか、――レティシアさまに言いつけたのか!?」
「言ってないです」
シドはあからさまにほっとして胸を撫で下ろした。
「じゃあ何でだ?」
「……シドさんはレティシアさんのこと好きじゃないの?」
「お慕いしているが、それがどうした」
「なのに、そう言うところへ行くの?」
「お前、小娘のようなことを言うんだな、面倒な奴め。ついてないわけじゃないんだろ?」
確かめようとしたシドの手からランタンは逃げ出す。そんなランタンにシドは目を剥いて驚きの声を発した。
「ついてないのか!?」
「ありますよ! 馬鹿っ、往来で変なこと言わせないでください!」
顔を赤くしたランタンは怒鳴り、すれ違う人に笑われたのではっとして深呼吸をした。大きく肩で息をして、耳の先はまだ赤かったが、どうにかして平静さを取り戻す。
「ともかくとして僕は行きませんし、奢って頂かなくても言いつけたりしません。今日はありがとうございました。それでは」
帰ろうとしたランタンの襟首を、シドは引っ掴んだ。
「なんですか。絶対に行かないですからね!」
「仕方がない、帰るのは許そう。だが許すのは帰ることだけだ。そっちは屋敷じゃない。方向音痴ってわけじゃないだろう」
「ギルドに用事があるんです」
「ダメだ。これ以上レティシアさまに心配をかけるな。羨ましい」
「……心の声が漏れていますけど」
シドはランタンの襟を放し、ふんと鼻を鳴らした。
「まったく、酒でも飲みながら話ができればよかったんだが。……帰る前に一つ聞くがベリレに何かあったかしらんか? お前ばかりではなくあれも少し動きすぎだ。技が荒れていて見ていられん。エドガーさまの小姓に俺が小言を言うのも憚られる。心当たりがあったら、――いや、心当たりがなくても注意をしろ。お前には心許しているようだし、あれも言うことを聞くだろう」
打って変わって真面目な表情のシドに、ランタンは頷いた。
「あれはあれで思い詰める質だからな」
「シドさん」
「なんだ、さっさと帰れ」
「レティシアさんに、シドさんのことを一杯褒めておきます」
口をへの字にして渋々そう言ったランタンに、シドは満足気に唇を歪めた。
「よし、駄賃をやろう。気をつけて帰れ」
銅貨一枚を握って、ランタンは走って帰る。




