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「泥、跳ねてるわよ」
「あ、どうも。大丈夫です、ありがとうございます」
魔女がランタンの頬を指で拭うと、その兵隊たちが恨めしげな、いや羨ましげな視線を向けてくる。ランタンは魔女の命令に忠実に、一所懸命に戦った兵隊たちに他意がないことを伝えるように魔女の指から逃れて、掌で頬をごしごしと擦った。
冷気の残滓が魔女の指先にあり、微かに触れた頬がちりちりと痒みを帯びる。
魔女はランタンに触れていたままに手を持ち上げた状態で、逃げていった体温を不思議がるように指を擦り、それから己の兵隊を労った。
「ご苦労さま、まあまあだったわ。ぐずぐずしていないで、海馬の解体に掛かりなさい」
優しさの欠片もない命令に、だが兵隊はそれだけで満足したようだ。魔道の剣なり槍なりを収めた。そして水溜まりの中へと躊躇うことなく足を進めて、横たわる海馬を陸地にまで引っ張り出している。
ランタンは揺れる水面に顔を映して、泥が落ちたことを確かめる。すると猫女の探索者が水遊びでもするようにランタンの隣に座り込んで、挑発的な笑みを浮かべた。左右に伸びた三本髭が繊細な銀細工のように揺れる。
「綺麗になってるわよ。こういう時、人族はいいわね。汚れが落ちやすくて」
女は泥に汚れてはいなかったが、服に毛皮にとたっぷりと濡れていて、立ち上がるのも重たそうに水を滴らせた袖を絞った。それを肘まで捲り上げて、よっこらしょと年寄りみたいに立ち上がり、腕の水気を飛ばすと内反りの曲刀を手品のように手中に収めた。
「さて、後始末をしないとな。あたしんところはランタンの総取りで構わない。そちらは?」
「働いた分は頂戴するわよ。脚の四本が適正でしょうね」
ランタンの頭上越しに猫女と魔女が言葉を交わした。
「四本、ね。なかなか言うわ」
「私の兵隊を勝手に使ったのだから当然よ。鋏を寄越せと言わないのだから謙虚でしょう」
構わないわね、と向けられた視線にランタンは頷いた。
猫女はランタンが納得したのなら、という感じで踵を返すと海馬の解体に取り掛かった。やはり亜人族の身体能力は素晴らしい。あの牛人族は水牛の血脈だろうか、海馬を二体も三体をいっぺんに陸地へと引き上げてしまった。
そして猫女は鱗に覆われた臀部の皮を削ぎ、曲刀を滑らせると背から鬣までを一発で斬り飛ばした。魔精が揮発したのだろう、青い血はその水の身体に溶け出し区別は付かない。
依頼の成功報酬とは別に、出現した魔物の素材は基本的に探索者の好きにしてよい。
ギルドより派遣された観測手たちは魔物の全滅と、迷宮の完全崩壊を確認すると早々に去ってしまった。素材の分配は探索者たちの裁量に任せられ、それについて揉め事が起こることはしばしばあった。
止めを刺した探索者の物である、という認識はあったが、それはあくまでも戦いの最初から最後までを、個人、あるいは一つの探索班で終えたという大前提に基づいての認識である。触れてもいない魔物を自分の獲物だと嘯く業突く張りも中にはいる。
迷宮崩壊戦では、探索班ごとに戦闘が繰り広げられ、だが班同士の連携があまり取られないのは分配についての揉め事を減らすためである。それらを取り纏めることができるほどの指揮能力を持つ探索者がいれば別であるが。
「あなたがいらないことをするから」
魔女がうんざりしたように言った。
それはランタンが新人を助けたこと、そしてあの山賊のような探索者を助けたことを指していた。それは魔女にとってだけではなく、多くの探索者にとって不要のことであった。探索者となったからには戦いの中で死ぬことは必然である。
新人指揮者が水溜まりでじゃぶじゃぶ顔を洗っていた。彼の仲間はその様子に顔を顰めている。探索者の戦いの中では軽傷の部類だが、街の喧嘩ぐらいであれ程に肉が裂けることは珍しい。彼らの姿は初々しくもある。
迷宮より湧き出た水は、戦いの最中で踏み荒らされて泥水となったが、ぽっかりと穴が開いたように澄んだ水面が数カ所あった。
さすがに泥水では洗わないよな、とランタンが眉を顰めていると顔を上げた指揮者と目があった。
ぱっくりと裂けた頬が痛々しい。何か物言いたげにしていたが、ランタンと並ぶ魔女に視線をずらしたかと思うと苦々しく顔を歪めた。命の礼を、と言うような顔つきではなかった。憎悪と呼ぶほど強烈ではなかったが、それでも不愉快そうではある。
「余計なお世話だったみたいね」
新人班はランタンの言いつけ通りに魚形の魔物を四人で囲んで叩いた。一種の狂乱であったのだろう、止めを刺した後も叩いたせいで換金素材である鱗は見るも無惨な有様で、換金に持っていったとしても値段にならないほど身も崩れている。安い飯場にたたき売るか、あるいはそのままたたきにして食べてしまうか。
また山賊探索者も新人たちと似たような感じだった。場数の分だけ遠慮がない。
「誰が助けてくれなんて言ったっ!」
「誰も」
指揮者の男が掴みかからんばかりの勢いで詰め寄り、唾を飛ばして怒鳴った。ランタンが素っ気なく肩を竦めると、馬鹿にされたと感じたのか眉間の血管を蠢かせて激昂する。
「甲種探索者が人様の獲物を横取りするんじゃねえ! 俺らだけでやれたんだ!」
噛み付き蟹はそれなりの魔物だったが、確かに彼の探索班だけで討伐も可能だった。二人ほど班員を磨り潰さなければならないだろうが。
「俺らはな、死ぬことなんて怖くねえんだよ!」
「そうかその割りにあいつらを囮にしたり、策を巡らせていたじゃないか」
ランタンの冷笑が、男に柄へと手を伸ばさせた。鞘の中で刀身が音を立てるほど乱暴に柄を握り、だがそれが引き抜かれることはなかった。分別か、あるいは恐れか。
「怖かろうが怖くなかろうが、生きてるにこしたことはないだろう?」
ランタンは重たげに、つまらなそうな視線を水面へと這わせた。迷宮特区を吹き抜け、四方八方から区画に滑り込む秋風が僅かに水面を波立たせている。
ゆっくり息を吐いたのは、多少なりとも苛々している己を自覚したからだろう。
「脚二本、持っていって」
ランタンは視線も合わせずに男に言い放った。彼らの働きへの適正な対価である。迷惑料をもらって報酬無しにしてもよかったが、ランタンが勝手に首を突っ込んで勝手に迷惑を被っただけとも言えた。男は舌打ちをし、だがしっかりと脚の二本を拾っていった。誇りで飯は食えず、配下を飢えさせるのは指揮者の恥だ。
「自業自得ね。文句をつけられるなんて判りきった事じゃない、探索者やるような男なんて皆そうよ。傲慢で乱暴で、話し合えばわかるとでも思っていたの? ばかばかしい」
魔女が呆れたようにランタンに呟いた。
「あなたの、お仲間は」
「兵隊よ。間違えないで」
そして、冷たい視線でランタンの横顔を睨んだ。
「あの人たちは、あなたに対して真面目ですね」
「対価があるもの。わたしはあいつらに力を与えてやってる。魔道も、それを鉄で固めた得物の扱いも。その代わりにあいつらは私の命令に従う。そういう約束事よ」
彼女の兵隊が二人一組となって海馬を水溜まりから引き上げ、下半身が水浸しなのも気にせずえっちらおっちらと海馬を刻み始めた。亜人に比べて手際が悪いが、黙々と働いている。それら個人を見ると探索者としては辛うじて及第点という感じだが、魔女の加護を一度得た彼らはなかなか勇猛な戦士である。
「……内臓はどうなっているんだろう?」
「基本的には魚類と同じよ。ただ全てが透明なだけで。胃がなくて、そのままお尻まで直通。死ぬと溶けてしまうから、氷漬けにしないと腑分けは難しいわね。もっとも毒にも薬にもならないから、わざわざ氷漬けにする価値もないけど」
ランタンのぼんやりした呟きに、魔女が律儀に答えた。ランタンは感心したように、へえ、と息を漏らした。
兵隊も、亜人たちも海馬の蹄、鬣から鱗に尾の先までを切り離すと革袋の中にそれを詰め込んだ。それから黒い瞳をくり抜いて別の袋にしまい、海馬のゼリー状の肉体を細かく刻んだものを緩衝材として口を縛った。
亜人たちは更に魚形の魔物の鰓に金属のロープを通して一纏めにしている。新人たちはロープの用意などないので、腸を抜き取ってせめてもの軽量化を図ったようだった。剣を使って目刺しにして、大した値も付かないだろうそれを肩に担いで去って行った。
「あなたは何もしなくてもいいの? 言っておくけど、手が空くのを待っているのなら無駄よ。私の兵隊は貸さないわよ」
兵隊たちは魔女と会話するランタンをちらちらと気にしていた。視線に宿る不安に顔を歪めたのは魔女だけで、ランタンはそれらを完全に無視する。
「とは言っても、どうやって持って帰ろうかな」
「……? 甲種探索者なんだから馴染みの運び屋ぐらいいるでしょう。あなた、まさか呼んでいないの?」
ああ呆れた、と魔女ははっきり口に出した。
「だって初めてのことですし」
「それだって頭を使えば考えつくことでしょう。それともあの巨体をここで腐らせる気なの? ……そうか、あなた結晶にしか興味がないんだったわね。評判悪いわよ、生意気だって」
「知らないよ、そんなこと」
「――それで食えてるんだからいいじゃん。にしてもお喋りなんだな、見た目に反して。あんた、四人もはべらせてまだ男が足りないのかい?」
魔物をあらかた解体し終えた猫女が、ランタンの頭上からひょっこりと顔を出して笑った。魔女はこめかみをぴくりと動かし、けれど相手をするのも面倒というように言葉を返すことはなかった。猫女は親しげにランタンの肩に腕を回した。
「ランタンはこれから用事はある? よかったら一緒に飲まない?」
「……疲れたから帰ります」
ランタンは素っ気なく猫女の誘いを躱した。猫女は、ただ酒を飲み損ねた、とでも言うような舌打ちを隠さなかった。
そんな猫女にランタンはふと思い立って尋ねる。
「班の指揮者ってどうやって決めましたか?」
「指揮者ならカードで決めたわ」
「……占いみたいなこと?」
「あっはっは、まっさか! カード勝負で負けたやつに押しつけたのよ。指揮者なんて面倒なことやりたくはないからね。ほら見てよ、あれで同い年よ。やっぱり老けるわね。苦労が多くて」
「……苦労か。そうか、なるほど」
ランタンは己の童顔を一撫でし、ようやく蟹をどうにかしようと考え始めた。
蟹は殻がぶ厚く身がぎっしり詰まっている。これを一人で運ぶとなるとかなり骨が折れる。本当に捨てていってしまおうかと思ったが、魔女の言葉が頭を過ぎった。それをしては腐臭と共に悪評を広めかねない。
ランタンは流しの運び屋でもいないものかと石壁に上り、遠くで見慣れた起重機の姿を見つけた。
「運び屋の真似事をさせたら怒られるよなあ」
怒りながらでもしてくれそうな気がして、だからランタンは声を掛けなかった。馴染みの引き上げ屋は降下か、引き上げか判らないが起重機の座乗で迷宮口を見つめている。
「あ、い、いたっ、――ランタン!」
声を掛けなかった代わりに、声を掛けられた。
石壁の下から声を掛けられて視線を向けると、ネイリング家の下男であるドゥイが空の台車を牽いていた。見慣れた姿である。
牽く荷車に、牽かれかねない勢いでランタンに駆け寄り、そして当たり前のように言い放った。
「お、俺が、運べばいい獲物は、どど、どこだ?」
ランタンは戸惑いながらも、ありがたく獲物に指差した。
「で、でかい!」
ドゥイを寄越したのはダニエラであるらしい。ランタンの知識の偏りを、教師であるダニエラはよく知ってくれているようで、初めての崩壊戦で一番大きな魔物を倒してその後始末に困っていることを千里眼のごとく見抜いていた。
「怒ってました?」
「お、怒ってなかった、と思う、けど……」
歯切れの悪い言葉にランタンは荷台に揺られながら顔を顰めた。ダニエラの授業を、半ば無断ですっぽかしたことに今さら思い至った。
「けど?」
「心配してた」
ランタンはダニエラに詫びとして辛口の清酒を買って屋敷に戻った。酒精に慣れぬランタンが口に含めば火を吹くような風味と度数を誇るのだが、なかなかどうしてダニエラはこれが好みであるらしいことを師事する間に知ったのだ。
「ドゥイさんもありがとう、迎えに来てくれて」
ランタンが言うとドゥイは慌てて首を振った。どうにもドゥイはランタンを怖がっている節がある。初対面からそうだったし、探索を共にして多少改善はされたが、未だに態度の節々に緊張が見て取れる。むず痒い、憧憬の感情と共に。
「これ、重くないですか?」
「だ、大丈夫だ。バケモノ竜の首に比べたら屁でもない。でもやっぱりランタンは、すすすごいな! こんな大きいバケモノ蟹を倒してしまうんだから」
新人探索者たちや山賊紛いの男たちは一言もランタンに礼を言うことはなかった。礼を言われたかったわけではないが、それでも敵対的な視線を向けられると苛つきはする。
ドゥイの素直な賞賛にランタンは荷車に揺られながらほんの僅か頬を緩めた。
屋敷へと戻るとランタンは蟹を使用人たちに押しつけた。使用人たちは魔女によって半冷凍状態にされたとは言え、足の早い巨大な生ものを渡されて困り果てる。困り果てながらもそれを引き受けてくれた。
「煮るなり焼くなり好きにしていいよ」
それは本心でもあり冗談でもあった。働いた分だけ空腹で、夕飯には早いが、間食をするには夕飯に差し障りのある微妙な時間帯である。使用人の笑みは愛想と苦笑だ。
「お風呂の用意がしてありますよ」
使用人の一人は、鉛のような密度を誇る鋏を掌で叩きながらランタンに告げた。それからこの蟹の魔物が食用になるかを尋ねに厨房へ走って行った。
中庭でベリレが槍を振り回している。グラン工房で抱いた槍の重さを思い出しているのだろうか、重石を先端に括った槍が轟音を奏でている。ただでさえ巨大な筋肉が張り詰め、白く湯気が上がっている。だくだくと身体が濡れているのは汗と、時折、井戸水を頭から被っているためだろう。
赤くに上気する肌、その胸元に刻まれた三日月の傷跡が、褐色の暈を背負うようだった。
「もう帰ってきてるのか」
真面目くさったむっつりとした顔でベリレは一身に槍を振るっている。風圧で芝生が千切れ、身に纏った汗が霞のように散った。眉間に皺を寄せて、ランタンの視線にも気が付かない。
「ベリレ」
「……!」
声を掛け、同時に手斧を放り投げた。投げ渡すように、のんびりとした弧を描いたそれは跳ね上がった槍の石突きに打ち砕かれた。いい腕だ。固定されていない、粘り気のある鉄の塊をこうも破壊するには腕力だけでは足りない。
「お見事、――ただいま。ベリレは、すぐ帰ってきたの?」
「おかえり。うん、ちょっと買い物とかもしたけど、すぐに。リリオンは、ランタンの部屋にいると思う」
「なんで僕の部屋に」
反射的に呟き、苦笑したランタンは、未だ寄ったままの眉間の皺に気が付き、重なり合って逸らされる褐色の視線に心がさっと冷たくなった。
「何かあった?」
ランタンの問いに主語はなかった。
ベリレはぎこちなく首を振って、それから、何もなかった、と硬質な声音で言った。
ベリレは素直な少年だが、ランタンはその言葉を信じることはできない。もう一度聞いて、けれどベリレが年相応の苦悩を瞳に宿した。ランタンは溜め息を呼ぶような深い呼気を、そのままごくりと飲み込んだ。
「そうか、ありがとうベリレ。お守りを任せちゃって」
汗ばんだ巨躯に触れて感謝を告げ、ランタンはあてがわれた自室へと小走りで向かった。
鳩尾の辺りに氷塊の冷たさと痛みがあるのを無視してドアノブを回した。
「……あ、ランタン。おかえりなさいっ」
リリオンは窓際の椅子に座っていて、ランタンの姿を瞳に入れるとぱっと笑った。裁縫をしていたようで手にしていた縫い針を針山に突き刺して、布製の人形を出窓にそっと寝かしつけゆっくりと立ち上がった。
リリオンは別れたときと違う服を着ている。跳ねるようにランタンに駆け寄ると、丈の長いスカートが夕の気配を浴びて象牙色に揺れた。
「ランタン?」
「――ああ、うん、ただいま」
リリオンはいつものように、ランタンの帰りを嬉しそうに笑った。
いつもと変わらぬように見える笑顔にランタンは少しだけ拍子抜けして、けれど探るように淡褐色の瞳を覗き込んだ。ベリレの気まずげな表情が、どうしてもぬぐい去れず心に残っている。
街で何かあったのでは、と不安になる。
リリオンはそんなランタンの心情を察してか、安心させるように身を寄せて甘えた。
「んー、ランタン。魔精の匂いがするわ」
髪に顔を寄せて戦いの移り香をすんすんと嗅いだ。そして歴戦の探索者みたいな冗談を飛ばした。魔精の匂いとは魔物の血の臭気だ。ランタンは反射的に自分の襟ぐりを鼻に寄せた。迷宮の水気と汗の入り交じった生乾きの匂いは意識してしまえば無視できないほどには不愉快だが、血生臭くはなかった。
「戦いはどうだった?」
リリオンはランタンの身体を掴んだまま、顔だけをようやく遠ざけて小首を傾げる。
「久し振りだったから、なかなか手間取ったよ。まあ、魔物はそうでもなかったんだけど」
ランタンは自らの武勇を自慢げに語ると言うよりは、まるで魔物の図鑑でも読み聞かせるように自らが戦った魔物のことを伝えた。リリオンは興味深げに頷き、空想の中でランタンと肩を並べて戦うように身体を揺らす。
「ランタン、虫嫌いなのにね。わたしがいたら、わたしが代わりに戦ってあげたのに」
「そう言えば蟹も虫の一種なんだよね。蜘蛛の親戚かなんかだったかな」
「へえ! ランタンはなんでも知っているのね!」
リリオンはそう言って、一度離した顔を再びランタンの黒髪に埋めた。味わうような深い呼吸を一つ、前髪に頬を滑らせてまっすぐに視線を合わせた。
「いっぱい汗もかいているのね。いっしょにお風呂に入りましょ! それともご飯が先かしら?」
リリオンはいつもの強引さに加えて、少し性急で、甲斐甲斐しくランタンの身体から武器を取り上げた。それらが使い捨てであることを承知しているからこそだろうか、問答無用に戦鎚と戦棍を壁に並べた。外套も脱がされて、リリオンは汚れを払うと壁のフックに引っ掛ける。
ランタンはそれがあることを確認するように、リリオンとお揃いの狩猟刀と竜紋の短剣に触れた。
「――ランタンがね、きっとお風呂に入りたがると思ったからお風呂の用意をしておいたのよ。ご飯の用意もできてるわ。クリームコロッケを作ったの、前に食べたいって言っていたから、……ちょっとだけ料理人さんにも手伝ってもらっちゃったけど、わたしが作ったの!」
「そうなんだ、ふふふ、ありがと。さっき言ってた蟹、持って帰ってきたから、クリームに混ぜ込んでもいいかもね」
「でも蟹は蜘蛛なんでしょう? 戦うのと食べるのは別なの?」
「味による、かな。ほら、同じ料理でも旨い不味いあるでしょ」
ランタンの言葉にリリオンは微笑むばかりだった。恒常的な飢えに晒されたことがあるがゆえに、もしかしたら明言を避けたのかもしれない。
「リリオンは料理上手だもんね。楽しみにしてるよ」
「うん!」
迷宮やあの下街の廃虚の生活ではたびたび振るわれたリリオンの腕も、屋敷の生活ではすっかりと暇をしていた。二人だけの生活を懐かしく思いながら、料理をより楽しむため、身の汚れを洗い流すために浴場へと向かった。
「そういえばリリオンはすぐ帰ってきたんだよね、ベリレから聞いたよ。――何もなかった?」
「んー、えっとね、お人形を買ったわ。これくらいでね、中に綿が入っているの」
意を決するようなリリオンの問いに、リリオンはあっけらかんと答えた。
「あ、さっきいじってたやつ?」
「やつ、じゃなくて子よ」
リリオンにしては珍しくじろりとした視線でランタンを睨んだ。その迫力にランタンは思わず素直に謝って、誤魔化すような咳払いを一つ溢した。
「ええっと、やりなおし。こほん、――さっきいじっていた子のこと?」
「ええ、そうよ。さっきお直ししてあげていた子のこと。――雑貨屋さんの窓の所に座っていたの。きっとずいぶんと昔から座っていたのね、縫い糸がダメになっていて」
リリオンの言葉尻が小さく溶ける。
ランタンが横目にリリオンを見るとリリオンは懐かしさと寂しさを宿した眼差しを廊下の奥へと向けた。一分の汚れもなく、いかにも高価そうなこの絨毯の敷かれる先にリリオンは過去を見ていた。
「昔、ママが帰ってくるのをお留守番をしているときにね、一緒に遊んだ子に似ていたの。わたしの初めての友達。ずっとその子と一緒だったから、その子もよく糸が解れて綿が飛び出たり、腕が取れちゃったりして」
ママ、と口に出すとリリオンの瞳が優しくなる。
「ママに直してもらって、それをずっと見ていたらわたしもできるようになってたのよ。……あの子は、どうしているのかしら?」
廊下の突き当たりに過去を映し、その更に奥にリリオンは家の留守を任せた友達のことを思い出している。一人での留守番、その寂しさを友達に感じさせてしまっている事への、後悔に似た響きがあった。
布と糸と綿で作られたそれが、リリオンにとっては唯一の遊び相手だったのだろう。
「そっか、綺麗に直りそう?」
「うん。ランタンも、困ったときはわたしに言ってね」
リリオンは膨らみ掛けの胸を叩いて、少し顔を歪めた。二次性徴が始まりつつあるがゆえに敏感になっているのだ。けれどそれはランタンにはどうすることもできないので、ただ恥ずかしげに視線を逸らすだけだった。
浴室の熱気が漏れ入る脱衣所に二人揃って入り、ランタンは肌に張り付く服を脱ぎ去った。訓練の汗に、実戦の汗だけでも嫌になるのに、迷宮の水気までもを含んだそれを脱ぐと鎧を脱いだような心地よさがあった。
ランタンは盗み見るようにリリオンへと向けた視線を、思わずはっと強めた。
左の膝に紫色の内出血が張り付いていた。リリオンの白い肌の中でそれは毒花のような存在感を放っていた。左の尻たぶにも、色は薄いが打ち付けた痕がある。
だが探索者ならばどうという傷ではない。傷に数えることもない変色に過ぎなかった。
「それ、どうしたの?」
ランタンは努めて、当たり前に聞いた。
「転んじゃったのよ。それで、――それで買ったばかりのあの子の腕が取れちゃったの。かわいそうなことしちゃった」
リリオンはそれを恥じるように唇を噛んだ。
リリオンは確かによく転びそうになったり、実際に転んだりすることが少なからずあった。迷宮や下街の荒れた道の方よりも、人が多く、石畳が並べられた平坦な道を歩きづらそうにすることも。
それならいい、と思う。けれどそうでないような気が、ずっとしていた。
ランタンの視線がリリオンの膝から上へと滑った。横顔を見つめ、けれど視線は合わない。
「転んじゃったんだ」
「うん、――その、ランタンが言ってたあれかな、成長痛? だったかしら、それで」
言葉を重ねたリリオンは、大丈夫よ、とことさら明るく言い結びランタンの手を取って浴室に向かった。
嘘が下手だ、とランタンは思う。




