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カボチャ頭のランタン  作者: mm
05.Sunrise
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 幾つもの迷宮を攻略してきたが、その崩壊を間近で観察することは初めてだった。

 迷宮が溜め込んだ力が一気に消費され、あるいは解き放たれていく。隠しきれずに漂う魔の気配がなければ目を奪われかねないほどに、力強く雄大だ。

 魔を放つ、とはそれほどのことなのかもしれない。

 吹き上がった水柱が頂点に近付くにつれて解け、虹が見えたのは一瞬だ。頭上を覆うように霧が広がる。まるで魔精の霧をそっくりそのまま空に広げたようだった。

「足元っ!」

 それに気が付いた探索者は十六人もいて、けれど声を出したのはランタンだけだった。四人の新人たちは、あの男に心乱されたせいか霧から落ちてくる魚形の魔物にばかり集中している。

 馬鹿、阿呆、間抜け。

 ランタンは舌打ちする暇もない。

 魚形の魔物は空中に放り出されて身をくねった。大型犬ほどの大きさで、牙も鱗も刃物のようで、だが水中から放り出されていかにも無力だ。障害物程度の邪魔にはなるが、それだけだ。

 新人たちはその姿に安堵したのかもしれないし、それでもその魔物を倒すことで男を見返すことができると考えたのかもしれない。

 けれど崩壊戦の目的を考えれば、移動能力を喪失したそれらは後回しにして然るべきだ。

 新人たちは依頼書にも記されていた出現する魔物の情報がすっかりと抜け落ちてしまっているようだった。まさか依頼書に目を通していないなどとは思いたくもない。

 新人たちの足元に、すでに広がった水溜まりに潜むそれにまるで気が付いていない。

 ランタンの忠告にさえ、余計な世話だと言わんばかりの態度である。

 水溜まりに潜むのは海月虫ジェリーバグという魔物である。海月くらげが、その無数の触手を細く節だった昆虫の脚に取り替えた姿をした魔物であり、それらは水溜まりと同化しながらすでに新人たちを取り囲んでいた。

 薄気味悪い魔物である。

 そもそもランタンはそういう脚をした魔物が好きではない。かさかさざわざわと、(せわ)しなく動き回るのも気持ち悪いし、子猫ほどの大きさもあるのに妙に軽やかなのも不愉快だ。それが十匹以上もいて、探索者の脚から這い上がる様など背筋が痒くなる。

 海月虫は探索者の下肢に取り付くと、水を固めた饅頭のような身体をぐんにゃりと変化させた。

 衣服に液体が染みこむように探索者の身体に広がって、上へ上へと上っていく。

 一人につき二、三匹。だがそれだけで大の男を包むに足りた。

「うわあっ、なんだこれ! いつの間に!?」

 愚図、鈍間のろま、木偶の坊。

 慌てふためく様を見るほどにランタンは冷静になっていく。

 新人たちはそれらが鳩尾ほどの高さまで這い上がったところでようやく、自らが魔物に寄生されたことに気が付いた。それこそまさに虫に集られたように、慌てふためきながら身体を払っている。

 だが無意味だ。

 それは汚れを広げる行為に等しい。跳ね広がった水染みを足がかりに、海月虫は寄生範囲を広げていく。

 海月虫の核は脚の付け根にある。それは小粒の真珠ほどの大きさしかなく、一度身体に寄生されてしまったら、それを見つけ出して除去することは難しい。

 海月虫に攻撃することは、寄生主を攻撃することと同意である。

 直接攻撃によって海月虫を排除しようと思えば、脚を付け根から切り落とすのが速いだろう。このまま口までを覆われて、溺死かそれとも窒息死か、苦しんで死ぬよりはマシだろう。

「動くな!」

 声変わりの訪れない少年の声に大喝されて、暴れ回っていた新人たちの身体が凍り付いた。

 戦鎚をくるりと手の中で転がし、ランタンはそれを隠すように背中に回した。

 そして最も身近にいた一人へ強烈な蹴りを放った。空を向いた爪先がお辞儀をするように、爪先の裏で蹴り押した。

 鎧に靴底の赤が刻まれ、寄生された探索者は馬鹿みたいな勢いですっ飛び、縦に三度も四度も回転して、寄生した海月虫はその勢いに耐えかねて、まるで脱水機に掛けられたように切れ切れになって引き剥がされた。

 あとの二人も似たようなものだ。身体を吹っ飛ばしたのが爪先か、踵か、あるいは掌かの違いがあるだけで。

 残りの一人はやんちゃそうな指揮者である。

 馬鹿で阿呆で間抜けで愚図で鈍間で木偶の坊の集団であっても指揮者面をしていただけのことはある。

 ランタンの大喝からいち早く抜け出して、自らの脚に剣を立てようとした。大胆な発想だが、悪い判断ではない、皮膚表面を薄く削ぐことができればの話であるが。

 彼にそんな技量はないだろう。だがそれを選んだのもしかたあるまい、と思う。

 三人から引き剥がされた海月虫は、核を覆う水分をほとんど失ったが死んではいなかった。足元一面に広がる水溜まりに着水するやいなや、失った水分を補填して再生する。そして再生した海月虫は、ランタンに目もくれず指揮者に襲いかかったのだ。

 海月虫は目を持たない。水を伝う震動と、魔精を感知する感覚器官によって探索者を察知する。

 指揮者が狙われた理由は三つ。距離が近かったこと、すでに寄生されていたこと、そして活性薬を二杯服用したことだった。

 無駄に活性化した彼の魔精が、海月虫にはさぞ手頃な獲物として匂ったのだろう。

 あの山賊紛いの男の狙い通りに囮として仕立て上げられたのだ。

 手法の善悪はさておき、なかなかよく考えている。

 ランタンは背に回していた戦鎚を下段から弧を描くように掬い上げた。新人指揮者の身体は二桁の海月虫によって完全に包み込まれていて、彼は剣を投げ捨て、へばり付く水気を払おうと顔面を掻き毟っている。息ができなくなってまだ五秒もたたないのに、かなりの混乱ぶりだった。

 ランタンはその喉元に柄を滑り込ませて、新人の顎を上げさせた。水の中にある瞳が限界まで見開かれ充血している。口を閉ざしているのは、魔物に口腔を犯される事への根源的な恐怖のためだろう。

 ランタンは手首を小さく使って、新人の胸骨に戦鎚を打ち付けた。革の鎧を徹して肺に衝撃を加え、彼が財産のように溜め込んだ酸素を問答無用に吐き出させる。

 そして開いた口に、海月虫が忍び込むより早く鶴嘴を咥えさせた。猛禽が柔らかな舌を啄むように、鶴嘴を内頬深くに押し当てる。

 ランタンは水溜まりに泥濘(ぬかる)んだ地面に踏ん張って、新人を引っ掛けたまま戦鎚を振り回し、問答無用にぶん投げた。

 新人の頬が奥歯の近くまでぱっくりと裂けて、水切り石ように横回転して水面を跳ね、血と海月虫が撒き散らされる。

 ランタンは血で汚れた先端を洗うように戦鎚を水溜まりに潜らせた。新人が投げ捨てた剣を鶴嘴に引っ掛けて拾い上げ、安全地帯にまで吹っ飛んだ彼らの方に放り投げた。

 ランタンに投げられた混乱からはすでに回復している。指揮者は頬の痛みの方が強いのか、思いがけず意識がはっきりしていた。

 二杯の活性薬の賜か、なかなか三半規管が強いようだ。ならば耳も無事だろう。

「跳ねてる雑魚を四人で囲んで、一斉に叩け」

 新人指揮者は飛び付くように足元に転がった剣を拾った。頬の裂傷は出血が少ない。奥歯の白さまでよく見えた。

「それぐらいならできるでしょ? いいか、一匹を全員でだよ」

 海月虫の知覚範囲はそれほど広くはないようだ。水溜まりに深々と足を入れているのはもうすでにランタンだけで、二度の寄生失敗に懲りない海月虫はついにランタンへと一斉に襲いかかってきた。

「寄るな、気持ち悪い」

 瞬間、全身から放たれた爆発の衝撃と高熱に、海月虫はランタンに触れることもできずに蒸発した。




 迷宮から現れた魔物は四十を少し超えた程度で、ギルドの予想も大きく外れているわけではない。その内魚形の魔物は十二匹で、体当たりだけでも当たり所が悪ければ骨折ぐらいはしそうなものだが、おっかなびっくりに腰の引けた新人たちの手でゆっくりだが確実に数を減らしていた。

 海月虫の正確な数は観測手に尋ねてもわからないのではないかと思う。それらは全てランタンの爆発に焼かれて、生を許される個体などあるはずもなかった。ランタンから吹き荒れた熱波はそういうものだ。

 一瞬で沸騰した水溜まりは、今なお迷宮口から湧き続ける水と混じりちょうど良い具合の温度に下がった。ランタンは踝まで揺蕩たゆたう水溜まりをじゃぶじゃぶと蹴って迷宮口から離れた。

 崩れた水柱の所為で髪まで濡れてしまった。これほどに濡れているのはランタンと新人たちばかりで、他の探索者は水際で魔物と戦っている。

 水棲系迷宮の発生は少なく、それの崩壊戦に参加した経験が豊富だとは思えないが、中堅の探索者ならば迷宮口からどれ程距離を取ればいいのかぐらい当たり前に知っている。

 ランタンだって、新人たちがいなければこのような無様は晒していない。

 迷宮崩壊によって出現した魔物は海月虫と魚形の魔物を先鋒とし、海馬(シーホース)の群れを主力とし、最大戦力に一匹の巨大な蟹をおいた一群である。

 海馬は薄青に透ける巨馬である。水面から水底までを自由に駆けるそれは、今は水溜まりの水面を駆け回っている。蹄と瞳が黒く、鬣は魚鱗の連なりで、面近くにまで垂れる尾鰭にまで繋がっている。

 普通の馬よりも一回りも巨大なくせに駆ける姿は軽やかで、水面に広がる波紋は水滴一粒を落としたように小さいものだった。

 だがその波紋が不意に牙を剥く。

 海馬は水を操る水妖である。蹄を中心に同心円状に広がるはずの波紋が半円を描き、それは水の鎌を成して探索者の脛に襲いかかった。

 亜人の探索者たちは、みな軽々とそれらを躱した。生得的な身体能力が、魔精によって更なる冴えをみせ、躱すと同時に襲いかかった。

 彼らは個の武勇の集まりだ。猫人族が二人に、犬人族が二人、牛人族が一人。単一種族の探索班ではないのに、好き勝手に暴れているように見えるのに、けれど同時に群れとして成立しているのが不思議だった。

 そしてもう一つ、魔女の率いる探索班は個の武勇はそれほどでもないのだが、きちんと統率が取られている。練度が高いと言うよりは、魔女への忠誠心が高いという感じだろうか。彼らの纏う奇妙な一体感は、命令に従う事への陶酔によるものだ。

 よく躾けられている。

 致命的な速度で迫った水の鎌を、槍持ちが大雑把な下段払いで打ち壊す。そして剣士二人が海馬へと迫った。

 刺突攻撃は直線的であるがゆえに最速だが、海馬に点での攻撃は、箇所を選ばなければ悪手である。海馬は水の塊であるがゆえに物理攻撃を飲み込む。一定以上の臂力や、技量があれば別だが、彼らにはそれがない。

 けれど迷いなく剣を突き出した。

 なぜなら魔女の命令だから。

 鋒が海馬の首筋と胴体に抵抗無く吸い込まれた。海馬の嘶きは悲鳴ではなく、罠に掛かった探索者への嘲笑である。透き通っていた海馬の肉体が白んだ。表面から内へと渦巻きながら海馬の肉体が流動して、突き刺さった剣ごと探索者を飲み込もうしているのだ。海月虫の比ではない強引さで、溺死させようとしてくる。

 剣士二人はそれでも剣を放さない。大柄な男の足が引きずられて、すでに手首まで海馬の肉体に囚われていた。槍持ちは魔女の側まで後退し、剣士が取り残された。

 魔女の短杖が振るわれる。

 その先端から剣士の背を叩くような力の奔流が飛び出した。

 剣士二人の首筋が赤く、また飲み込まれた剣が海馬の体内で牙を剥いた。

 瞬間的な身体能力の強化と、剣士の肉体を介した魔道剣の発動。

 海馬の首が沸騰し、気泡が皮膚病のように浮かび上がった。蒸気が吹き上がる嘶きはまさしく悲鳴で、胴体は一瞬にして白く濁った。気泡を孕んだ胴体が凍り付いているのだ。

 氷と炎の魔女。

 剣士たちが力任せに剣を引く抜き、生死を確認することなく魔女を振りかえった。

 また別の海馬が大回りに魔女へと迫る。槍持ちが腰を落とし、不格好な中段構えから力任せの足払いを放った。不格好に腰が引けた分だけ遠く、魔女への思慕の分だけ振りが早い。

 あれでは当たらない。

 だが海馬の脛が叩き折られた。

 槍の穂先に纏った冷気が、海馬の脛とすれ違う瞬間にその余波だけで凍てつかせるほどの威力を発揮したのだ。柔軟性を失った脛が海馬の速度と重さに耐えきれずに自壊したのだ。

 慣性に従い、脚を失ってなお前進する海馬を盾持ちが受け止めた。衝突の衝撃に海馬の肉体が水風船のように破裂した。魔女はまさしく氷のような視線だけで、飛散するそれらを氷漬けにして、自らの身体が濡れることを防いだ。

 魔女の僕たちは、おそらく目を瞑っていても戦えるだろう。彼らは完全に魔女によって管理されていた。

 おそらく魔女はこの場で、ランタンを除いて最も武勇に優れた探索者だろう。

 それだけに不思議だった。

 敵方の最大戦力である巨大な蟹は噛み付き蟹(バイティングクラブ)と呼ばれる難敵である。腹側が真珠のように白く、背は毒々しい紫で、体高は三メートル近く、脚を広げた横幅はその倍以上はある。探索者の左に回り込もうとする習性は、右の鋏が獰猛に発達しているからだろう。それは鰐の頭部に似た形をしている。

 噛み付き蟹の名の所以である。

 この大きさであっても育ちきってはおらず、成体ともなると右の鋏は竜の顎門同然となる。この個体であっても、鋏に捕まってしまって命を残すのは難しいだろう。それに甲羅もぶ厚く、海馬とは別の意味で物理耐性が高い。

 そんな魔物に、あの男とその仲間たちは他に目もくれずに向かっていった。

 新人探索者を囮に使うような輩ならば、まず真っ先に他者に押しつけそうな厄介な魔物であるのに。

 麻薬で闘争心ばかりが高まり、やはり真面な思考ができていないのだろうか。

 個々の武勇は亜人に及ばず、集団の統率は魔女に及ばず、彼らの荒々しさは勇気と呼ぶよりは蛮勇と呼ぶに相応しい。

 ――ランタンは魔物も探索者も同じように観察していた。

 ランタンにとって周りは全て潜在的な敵である。

 昔も、今でさえそれは変わらない。いや今でこそ、はっきりとそう思うようになった。

 敵意や悪意が露わなのは判りやすくてよい。

 例えばあの魔女は、例えばあの猫人族は、リリオンに巨人の血が混ざっていると知ったらどう思うだろうか。レティシアたちは受け入れてくれた。だが全ての人がそうではないし、受け入れられない人間の方が圧倒的に多いとランタンは思う。

 その血に怯えるだけならばまだよい。拒絶し、罵倒するのだって最悪ではない。

 ランタンが恐れるのは数の力が暴力に結びつき、そして排除されることだった。

 グラン武具工房の前で自爆しようとした迷宮解放同盟の女はエドガーによって法の下に裁かれて、速やかに処刑された。女がしたことはそれだけのことだ。

 もしエドガーが止めなくても、それが公的な処刑人の手に寄るか探索者の手に寄るかという差異だけで、結果は変わらなかっただろう。

 そして女の罪がそれほどのものではなかったとしても、もしあの場にエドガーが居らず、あの場を収めることができなければ、やはり女の結末は変わらなかったのだと思う。

 あの時の脅し文句の通りに探索者たちは、彼女を殺して迷宮に放り込んだだろう。

 なぜならそういう雰囲気だったから。

 下らないと思う。だがどうしようもないとも思う。

 一度火のついた探索者の衝動を収めるためには、エドガーほどの影響力が必要だ。

 古今東西に探索譚は多く存在し、ネイリング邸にも書物としてそれらが幾つも存在した。ランタンの読み書きの勉強に使われることもあったが、ダニエラ曰く真実を記してあるものは一割に満たないらしい。そして探索者ならばそんなことは当たり前に知っているのだという。

 探索者の仕事場はもっぱら迷宮で、日夜繰り広げられるそこでの死闘を目撃する他者は基本的に存在しない、観測者なくして語る者は居らず、探索譚は基本的に金儲けのための創作か、あるいは誇張された自分語りである。

 巷で真実として語られる探索者の武勇伝は、地上での粗暴な振る舞いの結果であることが往々にしてあり、それ故に探索者は一般人に誤解を受けることも多かった。もちろん誤解ではないことも多いが。

 大探索者と呼ばれるエドガーだが、彼が英雄として広く知れ渡るようになったのは探索の結果ではなく、地上で暴れ狂う黒竜を討伐して都市を救った功によるものだ。

 迷宮を探索するだけでは、英雄になるには足りないのだ。

 だからギルドはランタンに依頼仕事を斡旋しようと画策し、ランタンは自らこの崩壊戦に参加したのだ。

 ランタンは力を見せつける必要があった。ランタンがもっとも厄介な物の一つに思う、探索者からの信頼を得るために。語られる武勇に真実味を持たせるだけの。

 だからこの場にいるのだ。

 今はまだ、まったく足りていない。あの男はランタンをインチキ野郎と呼び、新人探索者はランタンの諫言に耳も貸さず、問答無用で海月虫に集られた。

「だっ、おらあ!」

 鋏を含めた五対の脚。その一番下に振り抜かれた剣が小さな火花を散らしてぽっきりと折れた。泥濘に足を取られて身体が泳ぎ、一人の探索者が大蟹に身体を預けるようにしてぶつかった。脚の一つがその身体を抱きしめるように捕らえた。

 男をぎちぎちと締め上げて、板金鎧が嫌な音を立てて拉げて悲鳴が上がる。だが彼の仲間は見向きもしないし、指揮者もそれを助けるようにと指令は出さない。

 ランタンは水面を揺らす悲鳴に足音を隠す。そして戦鎚から持ち替えた手斧が男を捕らえる脚の付け根に深々と埋まった。

 関節を断ち切り、だがランタンの力をもってしても引き抜けない。

 ランタンは舌打ち一つで手斧から手を離し、ぐったりする男を引っ掴んで後退した。拉げた鎧が胴体に突き刺さっている。引き抜けば出血を増すだけだ。肋骨と、右腕も折れている。

「さすがに固いな。無理なら後ろに下がってて、邪魔だから」

「――勝手に指図してんじゃねえよ!」

 ランタンの呟きに、指揮者が反応して怒鳴った。

「馬鹿」

 ランタンが吐き捨てるのと、一瞬の隙を見逃さず鋏が指揮者ともう一人を纏めて捕らえるのは同時だった。

 見捨てたい、と少しも思わなかったかと言えば嘘になる。だがランタンはその気持ちを微塵も表に出さなかった。罵倒したときにはすでに走り出しており、跳躍と同時に戦鎚を握り込んだ。振りかぶり、爆発で己の身体を撃ち出して、鶴嘴を鋏の付け根に叩き込む。

 食いでのありそうな、身の詰まった蟹である。それは大木に打ち込んだように鶴嘴を飲み込んで放さない。振り抜けば柄から折れていただろう。

 愛用の戦鎚ならば、内側から爆発で引き千切れたのに。

 指揮者の男は一瞬の判断で自らの鋏の間に剣を差し込んでいた。背を丸め、手甲のように剣を腕に添えて、逃げ出すことはできずとも鋏が閉ざされるのを防いでいる。さすがにランタンに怒声を向けることもできずに、死に抗っていた。

 いい反応だ。捕まらなかったらもっとよかったが。

「貸して!」

 ランタンは戦鎚を手放し、視線の先にいた魔女の僕に声を掛けた。剣士は一も二もなく当たり前のように剣を投げ寄越して、そしてそんな自分に驚いている。初めて表情らしい表情を見た。

 だがもっと驚いているのは魔女だった。氷のような眼差しを見開き、初めて熱を宿しランタンを見つめた。

 睨まれたのかもしれない。ランタンは愛想笑いを浮かべて、くるくる回って向かってくる剣を一発で掴み取り、戦鎚に向かって振り下ろした。

 かもしれないではなく、確かに睨まれたようだ。

 掌が霜付くような冷気が剣に宿った。柄から鋒まで冷気どころかはっきりと氷に覆われて、それは原始的な棍棒そのもの。ランタンはそれを戦鎚の頭に叩き付けた。

 氷が砕け、鶴嘴は貫通し、蟹は最大の武器を失って、男たちは間一髪の所で胴体が繋がったまま鋏と一緒に地面を転がった。

 触覚のように突き出た蟹の黒目がランタンを捉え、口元にマグマのような泡。くらくらするような水の気配。ランタンは視線で魔女を牽制した。

 これ以上の手助けは不要。なぜならその方が見栄えがいいから。

 巨蟹が圧縮した水鉄砲を放つ寸前に、ランタンはその泡の中に爆圧を蹴り込んだ。発射直前の水鉄砲がその出口を焼き固められて甲羅の内側で炸裂する。ランタンは爆風を足蹴に蟹から飛び降り、蟹は甲羅の破片を撒き散らしながら縦横斜めに二回転して瀕死である。

「ありがと」

 ランタンは剣士に氷の気配が残る剣を返し、水溜まりに沈む戦鎚を拾った。

「ちょっと、私の兵隊を勝手に使わないで」

「それは失礼」

 魔女はランタンに文句をつけ、顎髭の猫人族がランタンの背を叩く。

「大将、さすがに派手だな」

 海馬を掃討し、手間取る新人たちを見かねて雑魚狩りも手伝った亜人たちがぞくぞくと戦列に加わった。

「止め、手伝ってもらえますか? お姉さんも」

「言われずとも、依頼仕事ってのはそういうもんだ。一番良い素材(とこ)は大将に取られちまったからな。野郎どもせいぜい稼ぐぞ!」

 亜人たちが最後の力を振り絞る巨蟹へ一斉に襲いかかり、また魔女の僕たちも、魔女以外の命令に従うという失態を取り返すべく負けじと迫った。

 そして魔女から発せられた吹雪のような冷気の放射に蟹の動きが目に見えて鈍った。

 まだもう少し活躍が足りないか。

 ランタンの瞳に炎が揺らめき、蟹の脚が全てもげるのに、そう時間は掛からなかった。

 

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