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夜明け前に目を覚ましたのはリリオンと枕を並べる姿を、迎えに来るだろうベリレに見られたくなかったからだ。
ベリレに朝起こしに来いなどと命令はしていないが、エドガーの小間使いとして経験を積んでいる彼は時折鬱陶しいほどに気を回すことがあった。
並んでの寝姿は迷宮で散々晒した姿だったし、そうやって眠っていることは屋敷に住まう人々ならば一人残らず知っている事実であるが見られたくはない。迷宮と地上ではどうにも勝手が違う。
ランタンはことさら頑ななリリオンの抱擁から抜け出して、手早く身支度を整えた。顔を洗い、口を濯ぎ、髪を梳かし、首筋に吸い跡や肩に噛み跡がないことを確認し、戦いに備えた衣服を身につける。
それからリリオンを起こした。
そっと目を閉じて、ぽけっと口を半開きにして、すうすうと寝息を立てている。起きて動いているときは大人びることもあるが、夢の中にいる少女はやはり少女でしかない。幼い少女でしかないはずなのだ。
身体の輪郭が僅かに透けるような絹の寝衣。肩紐が両肩とも外れ掛かっていて、剥き出しの肩を竦めるようにして身体を丸めている。捲れ上がった裾からのぞく脚は、先程までランタンの足に絡まっていた。ランタンの方を向くように横たわった身体は、ごく自然に胸を寄せるような形になっている。
幼い寝顔と、そうでない肢体。
このままこっそりと部屋を出て置き去りにしてしまおうかと思った。
「う、うぅん……」
不満を呟くように、リリオンが夢の中で唸った。
置いていって拗ねられても面倒だ。
ランタンは手を伸ばすと、リリオンの鼻を摘まんで引っ張った。リリオンはびっくりしたように目蓋を開き、爪先までぴんと足を伸ばした形で、淡褐色の瞳をきょろきょろした。
ランタンは無駄のない無駄な身のこなしですでに背を向けており、悪魔のような笑みを噛み殺して白々しく振り返った。
「ああ、起きたんだ。おはよう」
「……? おはよう、ランタン、何かした?」
「なんのこと? 起きたんなら早く支度して、ベリレに着替え覗かれるよ」
リリオンはしばらくベッドの上で鼻を触っていたが、ランタンが急かすといそいそと服を着替え始めた。それと平行してランタンが髪を結ってやり、身支度が整う頃に扉がノックされた。
リリオンの支度が整ったのを確認してから、ランタンは扉を開いた。扉を開いたのに、その先が塞がっているのかと思った。朝一番に見るベリレの巨体は、なんだか日頃よりも一回りも大きく感じる。いや、リリオンの成長ばかりに目をやっていたがベリレも成長しているのだろう。
「おはよう、早いね。ベリレ」
「ランタンも。寝てると思ったから。起きてたんだな」
ベリレは革の防具を身につけている。身体が大きいからか、一枚革の胴鎧が前掛けのようだった。背中で交差させるように革紐を編み上げて、腰をぐるりと一周して臍のあたりでしっかりと結んである。
腰にはエドガーから頂戴した長剣が佩かれていた。それとは別に使い込まれた長剣も。
「起きてるよ、眠いけどね」
朝食は歩きながら取ることにした。早番のメイドに見送ってもらい、早朝の肌寒い空気に外套の襟を合わせた。
左右を身体の大きい二人に挟まれるのはあまり面白い気分ではない。貴族の居住区はこの時間帯は眠っているも同然で道を行く人はほとんどいない。
真っ直ぐ進むと目抜き通りの端まで出る。振り返れば教会があり、敬虔な信者が朝も早くから祈りを捧げに訪れている。信者たちを相手にした屋台が出ていたがあまり繁盛はしてはいないようだった。
「先輩たちから、旨い屋台聞いてきたから」
欠伸をしながら腹を押さえたリリオンにベリレが言った。わあ楽しみ、とリリオンがランタンの頭上を通り越してベリレに告げた。ランタンも欠伸を溢した。
「じゃあ騎士の人とかち合っちゃうかもしれないんだ。いたら紹介してね、挨拶するから」
「あ、そうか」
ほんの少し緊張したようなベリレの心配を余所に、その屋台に騎士らしき人影は見られなかった。夜勤終わりか、あるいはこれから仕事へ向かう労働者たちがちらほらと見られる。屋台主以外、全員が眠たそうにしていた。
「おじさん三つ。大盛りで」
「あいよ」
賽の目に切ってカリカリになるまで揚げられたパンを器に盛りつけ、どろどろになるまで煮込んだ甘い味付けの野菜のスープをたっぷりとかける。それに短くて太いソーセージが二本添えてあり、これで銅貨三枚ならばかなりお得だ。
「騎士って歩き食いしていいの?」
「いい、はず」
「そっかじゃあ、――いや時間もあるしゆっくり食べようか」
適当な段差に腰掛けて味わって食べることにした。汁物は歩き食いには向かない。
「スープって言うか、シチューだね。ちょっと癖がある、山羊乳かな。結構いける」
「甘くて美味しいね」
パンは揚げてあるおかげで香ばしく、たっぷりとシチューを吸ってもカリカリとした食感が失われていなかった。それが器にこれでもかと言うほど盛られるのでかなり食べ応えがある。ソーセージは塩味の効いた素朴な味わいだったが、シチューで甘くなった口にはちょうどよい。
「だろう」
二人が褒めるとベリレは自慢げに呟いた。そしてようやくシチューに手をつけ始める。
ベリレとリリオンはもう二枚銅貨を支払いソーセージを三本追加してもらっていた。それでいて二人はランタンよりも食べるのが早い。
「朝からよく食べるなあ」
「……そんなんだから背が伸びないんじゃないか?」
勇気を出して言いました、とベリレの顔に書いてある。そんな顔をされると怒りづらい。
ランタンはベリレの肘を指で弾いて痺れさせるだけにとどめて、ようやく一杯を綺麗に平らげる。そして少し離れた壁際で今か今かと待ち構えていた孤児を手招きした。
食べ終わった食器と回収の対価である銅貨を渡した。
「このスープはなかなか美味かった。おまけだ。街を綺麗にしてくれてありがとうな」
ベリレはおもむろに懐へ手を伸ばすと孤児に更に三枚の銅貨を渡し、優しく背中に手を添えてそんなことを言った。
「ありがとうございます!」
孤児は驚きと尊敬にも似た視線を鎧姿のベリレに注ぎ、そして礼を言って去って行った。
「な、なんだよ」
「何も言ってないよ」
「本当の騎士さまみたいだったわ」
孤児にも負けず驚きの視線を送るとベリレが照れていた。
デザートに林檎を買って、歩きながら丸のままのそれを齧る。
「う、外れだ」
「わたしの当たり!」
「俺のは普通?」
ランタンの林檎は皮が渋く酸味が強い。一口で顔を顰める。リリオンの林檎はどうやら甘いようで、ベリレの林檎は可もなく不可もなくであるようだ。
「交換するか?」
「ありがとう、でも大丈夫。リリオンも気にせずお食べ。これはこれで眠気覚ましになる」
騎士の本分とは主君への忠誠であり、勇敢さであり、優しさである。
弱者への保護は積極的に行うべき騎士の誉れだ。
「信じられない」
「悪い騎士がいるのは確かだけど、騎士の全部が全部そうじゃない。そんなのは極一部の少数だ。……少ないから良いってわけじゃないけど」
ベリレが苦々しく呟いた。
例えば都市に駐留するネイリング騎士団の評判はよい。
ネイリング騎士団の主な仕事はレティシアの警護である。都市の治安維持は地元の騎士団の役目なので迂闊に顔を突っ込めば政治的な問題になりかねない。都市に駐留する騎士団は六十名ほどの精鋭で構成されており、またネイリング騎士団の特殊性とでも言うべきかその大半が探索者上がりで、この都市の出身者も多いようだった。
六十名もの騎士たちが四六時中も金魚の糞よろしくレティシアの尻に引っ付いていては、守るべき主がノイローゼになってしまうので警護任務から外れた騎士たちは昔を懐かしむように、不人気な依頼仕事を積極的に請け負っているらしい。
自らの振る舞いが主の評判に繋がると理解している彼らは、探索者上がりらしく盛大に飲み食いをして金を落とし、騎士らしく礼儀正しく振る舞っている。探索者の中からちらほらと入団希望者も出ているようである。
「さすがに独断では決められないから保留らしいけど、高位探索者もいたって」
「ふうん」
「なんだよ、すごいじゃないか、――ってランタンも高位探索者だったな、そういえば」
「そういえば、ね。昇進してから一度も働いてないけど」
「でもランタンだけ、今日はお仕事なんでしょ!」
リリオンが思い出したように憤慨して、ランタンの手をぎゅっと握った。いかにも怒っていますというように繋いだ手をぶんぶんと振り回して、ランタンが鬱陶しそうにその手を振り払うとうううと悔しそうな唸り声を上げた。
「昼までは一緒にいられるんだし、そんなに拗ねるなよ。それに崩壊戦ってそんなに時間掛からないだろうし」
「でも、……さみしい」
「あー、ええっと、ほらランタンがいない間に、また剣の練習すればいいだろ。俺が付き合ってやってもいいし」
「うー」
慰めるベリレにリリオンは肯定とも否定とも取れない微妙な返事を返した。ベリレは困ったように頭を掻いて、助けを求めるようにランタンに視線を向けた。ランタンはそれを気にすることもなく、最後の欠伸を吐き出して、大きく背伸びをする。林檎の芯を物陰に投げ捨てると野犬か大鼠か、小さな生き物がそれを咥えて去って行った。
騎士団はすでに下街の広場に集まっている。朝の調練は示威行動も兼ねているのかもしれない。直接都市の治安維持に参加することは出来ないが、武力を示せばそれだけで犯罪に対する牽制になる。
騎士団に恐れを抱いたのは犯罪者だけではなかった。リリオンが強く手を握った。縋るように。
騎士たちの全てが男性である。五十五名からなる五列横隊と指揮官が一人。略装のようだったが、金属製の鎧を身につけている。探索者上がりとは思えない規律の高さ。
彼らは騎士の彫像のように無言不動で整列し、ランタンたちを待ち構えていた。
「いつもはもっと集まりが悪いんだ。昨日、ランタンが来ることを伝えたからほとんどいるぞ。大丈夫、悪い騎士じゃない」
「だってさ」
ランタンが勇気づけるようにぽんと腰を叩いてやるとリリオンは頷き、三人は走って騎士の下へ向かった。
「遅くなりました。ランタンたちを連れてきました」
「ご苦労、予定より早かったな。――よし、休めっ!」
駐留騎士団の指揮を任されるのはシドという男だ。十本の指に十三の指輪を嵌めて、二本の腕に六の腕輪をし、一本の首に二の首輪を巻いている。痩せ形の身体付きと、背負った錫杖から魔道使いであることが見て取れる。
三十半ばぐらいの人族で穏やかそうな人相なのだが、目に痛い派手な赤い髪をしている。それはどうやら天然の赤毛ではなく染めてあるようだった。
シドがしゃがれた声で号令を掛けると、騎士たちは一斉に一糸乱れぬ動作で肩幅に足を開いた。
所々から、待ってたぞ、とか、遅えよ、とか声が上がっている。
「動き回ってるときは気にならないけど、自分の身体ってのは結構重たいものなんだよ。小さくて軽そうな身体でもね。ようこそ、ランタンにリリオン。駐留部隊を預かっているシド・グレイスだ。ネイリング騎士団ティルナバン駐留部隊は二人を歓迎しよう!」
団員たちも歓迎してくれるようだった。驚いているランタンたちにシドが笑った。
「君らが来るまで立ちっぱなしの予定だったからな、歓迎もするさ。二人の自己紹介は、まあ不要か。訓練の内容は聞いているか?」
「ベリレから、一応は」
騎士団の訓練には集団訓練と個人訓練の二つに大別される。
前者の集団訓練は集団戦闘の訓練で、それは無数にある陣形の内容を確認したり、号令に息を合わせて進行、突撃、旋回、展開、後退などを繰り返したり、あるいは集団を二つに分けて模擬戦争を行ったりというものだ。探索者であるランタンとリリオンには今のところ無用の訓練であるし、飛び入りで参加できる類いのものでもない。
今日の訓練は後者である。
後者の個人訓練は個人の技能を高めるための訓練であり、基本的には団員同士で相手を入れ替えながら一対一を体力尽きるまで繰り返すという荒行である。過去には真剣を用い命尽きるまで戦闘を繰り返し、生き残った強者が騎士として認められるという死の選抜試験を兼ねることがあったらしい。
「俺は参加しないけどね。監督が役目だから、じゃあ適当に相手見つけて、適当に始めるように。基本的に手加減無しだけど止め刺したらダメだぞ」
「言われなくてもわかっていますよ」
つい先日に言われた注意を今日も受けてランタンは肩を竦める。言われなければ、止めを刺すと思われているのだろうか。ランタンは戦棍を腰から抜くと、ぐるんぐるんと手首を回した。
「あ、あと君ら同士が戦うことは禁止だ」
「えっ、わたし、ランタンとしたいのに! どうして!?」
シドが付け加えた言葉に、リリオンが悲鳴のような声を上げた。やる気十分の騎士たちに視線を向けると、唇を引き攣らせて不安げに目を伏せた。
「あの人たちと……」
その可憐さに騎士たちが歓声を上げたり、落ち込んだりしている。手合わせのどさくさに紛れて不埒な真似をしそうな数名をランタンが睨みつけた。
「変なことされたら言うんだよ。て言うかその時は殺していいから」
「ダメだっつうの。せっかくうちの訓練に参加するんだから、知らない奴相手の方がいいだろう?」
リリオンを慰めながら、知らない人と二人組を作るのか、と思ったら胃が重たくなったように感じた。どうしようかな、とベリレに視線を向けると目が合う。手始めにベリレとやろうか。
「ベリレもダメだからな。お前は別に今日じゃなくても出来るだろ」
期待に胸を膨らませていたベリレががっかりと肩を落とした。そんなベリレの肩をシドは拳を押しつけるように殴り、ランタンはひっそりと溜め息を溢した。
どうしよう。リリオンと同じように、あの人たちと、と喉奥で呟く。
「どんなもんか知りたがってる奴も多からな。我慢しろよ。適当に散開して、ほら、さっさと始めろ! サボるやつには魔弾をぶち込むからな!」
「よっしゃあ、じゃあランタンはまず俺からだ!」
「いいや俺だ!」
探索者上がりの騎士たちは血に飢えた獣のようにランタンを取り囲んだ。他の騎士に誘われたリリオンが心配そうな視線をランタンに向けて、けれどほっとしたような面持ちのランタンに勇気づけられたのか、鞘を払って右肩に担ぐように構える。
「がんばっておいで。――僕は別に誰からでもいい、っていうか何なら二、三人纏めてでもいいですけれど」
先程までの不安の裏返しか、ランタンが憎まれ口を叩いた。
血管の切れる音がランタンにも聞こえた。
「んだおらあ! なめんじゃねーぞ!」
「近衛に勝ったからって調子乗るなよ!」
「奴ら顔面で選ばれるだけなんだよ!」
「レティシアさまに可愛がられてるからって羨ましくなんてないんだからな!」
「――あ、そうだ。外套が汚れると嫌だからちょっと脱ぎますね。いいでしょう、レティシアさんからの貰い物なんです」
「泣かす! 絶対に泣かーす!」
怒号が早朝の澄んだ空に吸い込まれていく。怒り心頭な彼らであるが、誰彼を押し退けて襲いかかってはこなかった。
シドがルールを定めると、驚くほど従順にそれに従う。体格的には騎士団の中にあって並以下だが、間違いなく騎士たちから認められていた。
「あんまり変わらない気がするけど」
立ち切りと呼ばれる訓練法がある。それは一人を相手に、数名あるいは数十名が交代交代に掛かり、一時たりとも休みを与えずひたすらに追い込んでいくという地獄の訓練である。そして、これからランタンが行うものでもある。
「全員抜きをしたら、何かご褒美とかあるの?」
ランタンが一人目の騎士に向かって無邪気に問い掛けると、騎士のこめかみが目視できるほどに痙攣した。取り敢えず煽れるだけ煽っておくに越したことはない。
「そんときゃ街で一等の娼婦を奢ってやるよ。だが生意気な口を聞いたからには負けたときのことはわかってるだろうな。そんときゃお前の尻を貸してもらうからな!」
「でけえ声で馬鹿言ってるんじゃねえ!」
シドの指先に風が収束した。拳大に圧縮された大気の塊。それが騎士に向かって撃ち出された。
それが合図だった。
騎士が風の魔弾を両断すると、圧縮された大気が解放されて暴風が吹き荒れた。ランタンほどの体重ならば容易に掠ってしまうほどの風量。その暴風の中を騎士が無風の中を行くが如くに突っ込んでくる。
風の流れは右回り。
その風の流れに乗った横薙ぎをランタンは戦棍で受け、風に乗って距離を取った。
「逃がすか!」
追い足が速い。着地の右足、その股関節を狙った剣が地を走る。
右足が地に触れる直前、ランタンは左掌に爆発を巻き起こした。爆風にランタンの身体が旋転する。
踏み込みどころか僅かな予動作もない空中での方向転換、急加速。
必中のはずの逆袈裟は虚しく空を斬り、地を踏むはずだった右足は騎士の肩口を踏み付けている。
「まず一人」
ランタンの押し蹴りが騎士の左肩を脱臼させた。
「じゃあ、つ――」
「言われるまでもねえよ!」
次の騎士は連接棍の使い手であるらしい。手首を柔らかく使い打棍を回している。ひゅんひゅんと鳴る高音の風切り音が僅かに変化した瞬間、打棍が剃刀のごとき鋭さでランタンのこめかみを狙った。逃げ遅れた髪の数本がぱっと空を舞う。風圧が耳を舐める。
連接棍相手は初めてだ。ベリレの棘鎖よりも単純だが、それでも攻撃の軌道が読み辛い。
ランタンはちらりと唇を舐めて、自分の笑みに気が付く。
早朝特有の薄い青空が次第に色を濃くし、太陽が日差しを強くした。もう二時間以上もランタンは戦い続けていた。
騎士たちとの戦闘はすでに百を超えて、ついに三巡目に突入している。ふうふうと息も荒く、すでに肩で呼吸して久しい。
ランタンはいつも首元まできっちりと嵌めている上着のボタンを二つも外し、赤く上気し濡れた胸元を晒し、額から滑り落ちて唇に触れた汗の粒をぷっと吐き出した。
極小さな水滴が騎士の右の眼球に触れる。同じように汗みどろの騎士が反射的に目を閉じて、ランタンは重い、それでいながら滑らかな足取りで騎士の死角に回り込んだ。
「右だ!」
「教えちゃダメよ!」
騎士たちはもう個人訓練を切り上げて、全員でランタンを取り囲んでいる。その中にはリリオンもベリレもいた。大柄な騎士たちの中にあっても二人の長身は頭一つ抜けている。
リリオンは両手を拳にしてランタンを応援し、ベリレは羨ましそうに戦う騎士を睨んでいた。個人訓練は早々にランタン対騎士団となった。
耳で聞いて理解するよりも早く、騎士はランタンの動きを察知していた。だがそれよりもさらに早くランタンは男の影を踏む距離に詰めている。鎧の上から戦棍を叩き付ける。
「げ」
攻撃を受けることは織り込み済みであったらしい。鎧に衝撃が触れた瞬間、ランタンに向けて斬撃を飛ばす。ランタンは無様にも後ろに倒れ込んでそれを避けた。
倒れるのが数瞬遅ければ、顔面から鼻が消え失せていた。
勝ち星を重ねるランタンだがその身体には幾つもの傷が刻まれている。さすがに無傷ではいられない。
戦士、特に探索者にとって怪我を最大限避けるべき部位は脚である。動けなくなることは戦闘での死を意味し、また探索それ自体に致命的な影響を及ぼすからだ。目の前の騎士は下半身を金属の鎧で覆っている。機動力は下がるが、それを犠牲にするだけの価値がある。
それ故に知恵あるものならば、まず脚を狙う。
ランタンの左の太股には少なからずの血が滲んでいる。この傷をもらったのは一巡目の半ばあたりだったはずだ。
戦いの数をこなすにつれて、不思議とランタンに傷を負わせる者は少なくなっていった。
「もらったぁっ!」
倒れたランタンの、怪我の右足を騎士は踏み付ける。傷口に騎士の体重が擦り込まれ、再びの出血があった。けれどランタンは眉一つ動かさない。
騎士は剣を逆手に持ち替えると、それを振り下ろさんが為に腕を振りかぶる。
散々手こずらされた相手に止めを刺す好機である。興奮する心理はよくわかる。
――大振り。
ランタンは倒れたまま、肘から先の力だけで戦棍を鋭く横振った。鎧の構造上、横からの圧力には脆弱だ。膝関節が曲がってはいけない方向に曲がった。極度の内股になった騎士の身体が傾ぎ、鋒が標的を失って杖のように地面を突いた。
ランタンは跳ね起きると同時に、騎士に掌打を叩き込む。
三巡目に入ったところから、ランタンも容赦がなくなっていた。応急処置で戦線復帰できるように負かしていては、この戦闘は永遠に終わりを見せない。失神させるか、四肢の何れかをぶち折って戦線離脱に追い込んでいた。
「次」
ベリレがまた出遅れた。シドの言いつけを守る真面目さと、先輩騎士を立てなければという気持ちが枷になっているようだ。だがベリレを負かすのは骨が折れるので出てこないのはありがたい。ランタンは情けなく眉を下げたベリレを見て笑った。
そしてリリオンがはらはらした心配げな眼差しを絶えず向けてくる。心配させないように、もっと頑張らないといけない。ベリレとは違う理由でリリオンもまた飛び出しそうだ。
脚の怪我は一つだけでも、腕に刻まれた切り傷は大小合わせて十を超え、肘から先の袖はほとんど衣服の体を成していない。
最終目標との戦闘でもこれほど長時間に渡ることはない。握力が尽きかけている。肩から先が、他人の肉体であるかのように錯覚する。
それでいながらランタンは更に勝ち星を四つ増やした。
騎士たちはもう一度、今一度と、我先にとランタンの前へと飛び出してくる。
生来の負けん気からか。
元とは言え先輩探索者としての意地だろうか。
それとも精強として知られるネイリング騎士団の矜恃ゆえだろうか。
それとも背も小さく、筋肉も少なく、ただ生意気であるばかりの少年に負かされたことが癪であるからか。
「よっしゃ、今度は負けんぞ!」
「馬鹿っ、次は俺の番だぞ!」
「――なんなんだろうな、その強さ」
もつれ合うようにしてでてきた二人の騎士が、その足元から巻き起こった旋風によって上空に投げ出された。素っ頓狂な悲鳴を上げて問答無用に後退させられ、代わりに出てきたのは今まで静観を決め込んでいたシドだった。
「不参加じゃないんですか?」
「部下たちが不甲斐ないんでな。それにこのまま戦力をすり減らされてはレティシアさまの警護もままならないし、部隊を預けて下さったドゥアルテさまに申し訳がたたないし、レティシアさまに顔を合わせられないし、レティシアさまに失望されてしまうかもしれないし――」
「……レティシアさんの名前が多いですね」
「レティシアさま、だ」
シドの染めた赤毛が、逆巻いた風によってはためいた。
「レティシアさまは、どうして俺ではなくお前を連れて行ったのだろうとずっと考えていた。仮にも部隊長だ。実力ならば負けないと思う、見ていた限りでも、どうかな? お前でなければならない理由がわからない。――けれどこうして向かい合うと」
シドの細い指が己を指し、そしてランタンに向けられる。
瞬間、不意打ちに風の魔弾が射出された。反射的に戦棍で受け止めると、ランタンは殴りつけられたような衝撃で後退を余儀なくされた。風の塊を打ち込まれたとは思えない硬質さだった。金属を思わせるほどの密度と重さ。柄が曲がった。
「受けた……!」
「当たったら鼻血じゃ済まないですから」
シドはランタンの言葉を聞いていないようで、ただ防がれた事実にのみ笑みを浮かべた。
十の指の十三の指輪、それに飾られた色取り取りの小さな宝石が一斉に煌めきだした。膨大な魔精がシドの周囲に渦巻き、騎士の意志によって様々な色を帯びる。
「ならばこれは?」
火、水、氷、風。雷がないのはそれが彼にとって特別な意味を持つからだろうか。地面から磨いたような石球が生成され浮遊する。リリララのそれよりも精度が高い。火球とは違う、熱のない光の球がシドの周囲を浮遊し、またそれとは真逆の空間に穴が開いたような漆黒の球も。
見た目から効果がわからない魔道は厄介だ。
防御すべきものと回避すべきものをランタンは瞬時に区別していく。実際に目に見えるわけではない。だが無数の魔弾とシドの間に魔精の流れが見えた。繋がりがある、ということは射出後も操作が可能だと言うことだろう。それも背負った錫杖を使わずして。
「なあ、レティシアさまのスカートを捲ったって本当か?」
「さあ? 記憶にないです。酔ってたみたいですし。もう、ベリレって意外とお喋りなの?」
「記憶にあるじゃねえか」
魔弾が一回り大きく膨れあがったかと思うと、握り固められたように元の大きさに戻った。圧縮され、威力は倍と見ていいだろう。威力だけでなく数も更に倍にした。
対応を誤れば挽肉では済まないだろう。
命のやり取り。
「ふうううう」
ランタンの瞳に赤が揺らめいた瞬間。
「――こらあ! 何をやってるんだ!」
「あ」
鳴り響いた怒声にシドが間抜けな声を出して、大慌てに魔弾を空に向けて放った。空間が歪んでいるかと思うような大威力の破壊が撒き散らされている。物理的な存在である氷球と石球の破片が、ぱらぱらと地面に音を立てる。
「シュアさんだ」
騎士の輪を蹴散らすようにしてシュアがランタンに駆け寄った。医療鞄を提げていて、凜々しい軍装である。
「ランタン、大丈夫かい? 怪我の具合を見せてごらん」
「これぐらいは別に。……誰かに呼ばれたんですか?」
「訓練と言えども怪我は付きものだからね。ここは私の職場だよ、遅出が許される身だけど、今日はもっと早く来ればよかったな。人が二人も宙を舞っているのが見えたから急いできてみればこの有様だ。まさかこんな阿呆集団だとは思わなかった、寄って集って!」
シュアはランタンの前に跪いたかと思うと、いそいそと上着のボタンを外していく。リリオンがいつの間にかランタンの背後に立ち、ごく自然に戦棍を預かり、ごく自然に腕から袖を引き抜いた。ランタンはされるがままで、シュアが甲斐甲斐しく医療用ガーゼで血と汗を拭った。
「……あの先生、俺らの方がひどい有様なんですけど」
「唾でも付けておけ。――さすがに傷は浅いな、でもこれから仕事だろう、まったく」
「まあ、そうなんですけど」
「ランタン。わたし、ランタンの代わりにお仕事しようか?」
「ありがと、でも大丈夫。早めに終わったから、昼過ぎまでには回復するよ」
ランタンがシドへ首を巡らせると、シドは無言で頷いた。訓練は打ち切りだ。
中途半端に終わってしまったが仕方がない。医者に逆らってはいけない。疲れたのも事実だったし、身体の錆も充分に落とせたように思う。
シドが近付いてきて、小声で囁いた。
「ランタン、レティシアさまには内緒で頼む」
「考えときます」
シドが渋い顔をして、途方に暮れたように空を見上げ顔を覆った。
「高級娼婦三人でどうだ?」
「言いつけますよ」
「四人」
「そういうことではないです」




