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テスとの戦闘に夢中になってしまい、夕食までには戻る、と告げて屋敷を出たのにすっかりと陽は落ちてしまった。日中はまだ暖かく夏を思わせるが、陽が沈む時間が確実に早くなった。
ランタンは街灯の灯り始める街並みを歩いていた。遅くなったのでリリオンは心配しているかもしれない。今日だって出かけにリリオンはついて来ようとしたし、レティシアも馬車を出すとも言ってくれた。
テスはやはり強い。
文字通りにずいぶんと骨が折れたので、レティシアの言葉に甘えておけばよかったかもしれない。みっともない姿だったのでリリオンは連れて来ないで正解だったが。
木刀をへし折ったランタンはあの後、凄まじい集中力を発揮してテスとそれなりにやり合ったのだが、戦鎚代わりに木刀の切れ端では流石に善戦するのが精一杯だった。
切れ端を投げつけて牽制し、左手を餌にもう一本の木刀を奪取した所まではよかった。そう考えていたのだが、歩きながら戦闘内容を反芻し続けた今、テスはあえてランタンに木刀を奪わせたのだとしか思えない。
木刀に意識が偏るがあまり懐の内に入り込まれて、テスに好き放題に暴れられてしまった。小躯を活かして身の内に入り蹂躙する。それは本来ランタンの十八番だ。
得物に頼るがあまり攻めが単調になった。肩から肘、肘から手首、手首から指先。それだけの長さで充分だったのに、手から先に木刀という長さを手に入れてしまった。
テスが相手でなければもう少しどうにかなっただろうが、そんなことを言いだしては切りがない。結局のところテスを相手に、自分の力を信じ切れなかったのだ。得物の重さと長さに頼った新米探索者の時分から成長がない。
「もっと強くならないと、もっと――」
最後の最後、ランタンは取っ組み合いの殴り合いに持ち込んだ。速度で劣る相手に勝機を見出すためには、組み討ちに持ち込むほかになかった。だがそれも結局は技術によって馬乗りになられて、手加減無しの拳を顔面に叩き込まれた。
鼻が潰れて、それが止めになった。
二人の戦いを鑑賞していた野次馬たちも声を失うぐらいに鼻血が出た。殴られたランタンは、テスの拳が己の顔面を貫いたのだと錯覚した。それぐらいの一撃だった。
だが不思議と清々しくもあった。
全身から溢れる汗や、茹だるような己の体温と、どれだけ息を吸っても荒いままの呼吸。
脳天に響く痛みと敗北の屈辱が不快ではない。
負けたことは悔しい。だが納得がいく。
ただ純粋にテスが己よりも強かっただけだ。
テスの強さとはそういうものだ。
一切の迷いがなく、問答無用。
やるときは徹底的に、と言うのはランタンの信条だがテスのそれには及ばない。
まだまだ甘い、弱い。
ランタンは元々高くもないが一度真っ平らになって、そして元通りに復元された鼻に触れた。
潰れた骨や肉、破裂した血管、何もかもが時間を巻き戻したように治癒している。鼻ばかりではなく肋骨も、他の箇所も。
治癒はギルド医ではなく、治癒魔道の使い手によって行われた。
高位の治癒魔道の使い手をランタンは初めて目にした。治癒魔道師は遮光カーテンのような厚い布で全身をすっぽり覆っていて、一言も声を発さなかった。嘘か誠か、死に瀕する怪我人をこの世へと呼び戻すことも出来るという高位治癒魔道師は、その希少性と有用性から権力によって保護されている。
そう言った存在がギルドを訪れているからこそテスは問答無用だったのだろう。
治療の過程は不思議なものだった。魔道薬によってランタンの治癒力を向上させて、ただ怪我をした箇所に指を触れさせるだけだった。ずれた骨を接ぐだとか、ある程度鼻の形を作ってだとか、そういった下準備が一切無かった。
裂傷は咲いた花が再び蕾を結ぶように閉じて、骨折は骨の断面が磁力を帯びたように互いを引き寄せ合った。そして治った。一番酷い鼻骨骨折ですら十分もかからなかった。裂傷などは一撫でで済んでしまった。
保護されることも頷ける力だ。治療をする側はもちろん、される側も相応に体力を消耗し、治療中の何とも言えないぞわぞわする感覚は永久に慣れることはないだろうが。
「んー……」
ランタンは歩きながら大きく伸びをした。治療疲れは身体の芯にあり、だが四肢の末端に近付くほど強く感じられる怠さは久し振りに全力で身体を振り回したがゆえの疲れだった。
それは心地良い。
ぐるりと首を回した。
テスと拳を交えていた時、ランタンはそれにのみ没頭していた。
テスは余計なことを考える余裕をランタンに与えはしなかった。
そういった意識の空白は久し振りのことのような気がした。迷宮から離れているために、そして多くの知識を得たことによりランタンは考え込むことが増えた。
ずいぶんと荒っぽい方法だが、テスなりの気遣いだったのだろう。
ランタンは商業区の人波を滑らかな足取りで通り過ぎて、貴族の屋敷が連なる高級住宅街へと足を踏み入れる。
朝昼は各貴族の御用商人たちが商いに訪れたりもするのだが、夕も過ぎると商人たちはぱったりと姿を消す。代わりに夜警をする巡回騎士と、屋敷から屋敷へと走る馬車とそれを護衛する歩兵の姿がちらちらと目につくようになる。
食事時になると馬車はなく、どこからか馬糞拾いの孤児が現れる。彼らは拾ったそれを商人ギルドへと売りに行き、商人ギルドはそうやって集めた馬糞を肥料にして領主、つまるところの貴族や土地持ちの豪農などに卸している。
孤児が食事時に多く現れるのは、貴族と会わないためだ。
例えば孤児が道の真ん中にいても馬車は立ち止まらず彼らを轢き、貴族が咎められることはなかった。法はそのように作られている。同じ罪を犯したとしても、貴族には貴族のための法があり、平民には平民のための法があり、そうでない者たちにはそもそも法の守護などない。
公にそれを行うことは稀であるが、手癖悪い貴族は難癖を付けて孤児を殺してしまうこともあるし、屋敷に引き入れて残酷な所行を行うこともあるという。巡回騎士が路地裏で悪行を行うこともしばしばある。
それを知っているから孤児はあまり貴族の前に出ようとはしない。だが生きるために、ここで馬の糞を拾わなければならない。
そして時折、貴族の前に出てくることもある。貴族は不意に哀れみを見せることがあった。馬車を止めて、車上から孤児に金を放り投げる。そして孤児はそれを拾って叩頭し、馬車は悠然と走り出す。そういった不確実な確率に頼りたくなることもある。
そう言った日常が、ここにはある。
ランタンが一人、てくてくと歩いていると、まさか孤児に見られることはないが、それでも不審な姿ではあった。
孤児ならもっと見窄らしく小さい、商人ならば夜には出ない、騎士ならばもっと大きく、貴族ならば馬車に乗っている。
なれば外套を揺らして我が物顔で歩くあれはなんだ、と。
背後から響く足音に舌打ちを転がす。
駆け寄ってくる巡回騎士は夜の闇に浮かび上がる白い顔がランタンであることを認識すると、ぎょっとしたように慌て、そして追い越していった。
「ったく、人をお化けみたいに」
ランタンは騎士たちにとって触れてはならない存在だった。
ネイリング家の後ろ盾とはそういうものだ。この地においてネイリングはほぼ最高位に位置する家名である。単純にこれよりも上位の存在となると王家の血筋だけになる。
駆け抜けていった騎士たちは、いつものように不審者をしょっ引こうとしたのだろう。だがランタンに手を出しては、どのような処罰があるかわからない。
「貴様、あやしい奴めっ!」
ランタンへの言い訳のように聞こえた怒鳴り声に、目を細める。一度振りかざした拳をどこかに叩き付けなければ収まりがつかないのかもしれない。ランタンへと振り下ろすはずだったそれが、別の誰かに振り下ろされる。
細めた目を一度瞑り、夜目を利かせて騎士たちに目を凝らす。
月明かりに伸びる影が細い。薄汚れた子供の足が騎士たちの足元から覗いている。擦り切れたサンダルが平べったい足に大きくて、棒のような脛とそれでなお小振りな膝が自重を支えきれぬように震えている。
騎士の一人が手を伸ばすと子供が転んだ。肩から掛けた木桶が地面にぶつかって軽い音を立てた。
「――子供相手に、そんなに乱暴にしなくてもいいでしょう?」
ランタンは騎士に歩み寄りながらその背中に声を掛けた。振り返った騎士の顔は苦々しい。もしかしたらそれほど酷いことをするつもりはなかったのかもしれない。だが転んだ子供は怯えている。
「言うほど怪しくもないし」
ランタンが子供を指差して呟くと、騎士は威嚇するように鎧を鳴らした。
「先日、ネイリング公爵家を狙った自爆未遂があったばかりだ。万全を期して何が悪い。こういった孤児を利用した手口も珍しくない。我々の仕事に口を挟まないでもらいたい」
「ああ、なるほど、確かに。それでその子がそれなんですか?」
見窄らしい衣服に凶器を隠せるような余裕はなく、痩せた身体は擬態でも何でもなく、木桶の底にへばり付く馬の糞は発酵が進めば爆発するかもしれないが人を殺傷するには至らない。
「……結果としては、違うようだ。だが我らも万に一つを見逃すわけにはいかんのだ」
騎士の一人が子供を一瞥して鼻を鳴らした。
「ふん、――ここは貴様のような下賎な輩が存在していい場所ではない、さっさと失せることだ」
騎士は去り際に舌打ちをした。騎士の言葉は子供に向けられたようであり、また同時にランタンへと向けられたものでもあった。ランタンは遠ざかる騎士に一瞥を送ることもなく、へたりこむ子供を見下ろした。乾燥した髪は伸ばしっぱなしで、痩せすぎて男女の区別はつかない。
「今日はもう帰った方がいい。少し騎士たちがぴりぴりしてるみたいだし」
子供は立ち上がって、迷う素振りを見せるように桶の中を覗き込んだ。転んだ拍子に片側へ馬糞が寄ってしまったようだが、そうでなくとも底が見えるほどにしか拾えていないようだった。子供は哀れっぽく桶の中とランタンの爪先に視線を彷徨わせた、
帰るにも稼ぎが足らない。
「手、出して」
ランタンが言うと子供は汚れた手を恥ずかしげもなく広げた。
ランタンはいくつかの四半銅貨を手の中に落としてやった。四半銅貨一枚で、パンが一つ買えるように法律で定められている。銀貨の一枚を渡してやってもランタンの懐は痛まなかったが、銀貨と言えば孤児には大金で額面が大きすぎて使いどころがなかった。孤児が普通の店で銀貨を使えば盗みを疑われるし、普通でない店で使おうと思えば命ごと奪われかねない。
子供はもらった四半銅貨をもう返すまいと強く握り締めると、礼も言わずに逃げ出すように夜の闇に走り出した。
「くっ」
ランタンは喉を鳴らして苦笑する。最近は皆にちやほやされた。だが結局一人ならばこんなものだ。彼らは英雄に尊敬や憧憬を抱き、公爵家に畏怖はする。
ランタンは、まだそういったものではない。
あの子供はエドガーのことを知っているのだろうか。きっと知っているだろう。なんとなくそんな気がした。
ランタンは薄汚れて痩せた背を見送って、再び歩き出した。
屋敷の正面、正門を守る守衛が何やら見慣れない騎士と話をしていたので、ランタンは邪魔をしないようにと裏門から屋敷に戻った。リリオンと何度か屋敷を探検したので、勝手知ったる他人の家である。
屋敷は朝、出かける時と雰囲気が違っていた。どことなく空気が張り詰めている。
ランタンの帰りが遅いことを心配して、というような感じではない。
時間的に夕食はもう済んでいるだろう。ランタンはもっと早くに帰ってくる予定だったので夕食の用意を頼んでいた。せっかく用意してもらって料理も冷めてしまったに違いない。この空気の張り詰めは料理人たちの怒りだろうか。
「失礼しまーす」
声も小さく調理場に声を掛けて中を覗き込むと、料理人たちがげっそりとしながら皿を洗っていた。ランタンの声に一斉に反応する様子は、幽鬼じみていて気持ちが悪い。誰かが落としたのだろう、皿の割れる音が響いた。
「ランタン!」
「……なんですか、お化けを見たみたいに驚いて」
老年の料理長が包丁を片手に駆け寄ってきて、ランタンの小さな肩をがっと掴んだ。危うく耳が削ぎ落とされそうだ。
「いつ帰ってきた!?」
「つい先程ですけれど、……あの、僕の食事は」
「ない、お出ししてしまった。ああ、本当にあれでよかったのか……? もっといい物を用意するべきだったんじゃあ。いやだがすでに――」
「あの」
「はっ、――ランタン、お前はさっさと大食堂へ行け」
「あ、もしかして料理が余」
「ないと言ったらない。走れ、いいなっ!」
料理長はランタンに口を挟むことも許さずに回れ右をさせると、包丁の先で背中を突くようにして調理場から追い出した。振りかえると鬼の形相で追い払われる。
一体何なんだ、とランタンは空腹に鳴き出しそうになる腹を押さえながら小走りで大食堂へと向かった。大食堂は日常的には利用されず、ランタンも探索直後の祝宴で使ったことがあるだけだった。そこは特別な日や特別な客が来たときにだけ使用される。
「誰か来てるのか」
料理長の疲労から見て、粗相が出来ないほどの大物が急に訪れたという感じだろう。そしてランタンの食事はその客に食べられてしまった。
大食堂への扉の前に完全装備の騎士が二人いた。巡回騎士とは装備の品質が天と地の差がある。さらに言えばネイリング騎士団よりも良い装備をしていると一目でわかる。
「――何奴!」
駆け寄るランタンに手前側の騎士が腰を沈めて抜刀姿勢を取った。すでに鯉口が切られている。
騎士から発せられた闘気が、流れ出した水のようにランタンの全身を包み込んだ。本当に水没したかのような息苦しさや身体の重さを感じる。騎士の実力の高さが肌でわかる。
だが先程までそれを倍にして足らない重圧の持ち主と戦ってきたランタンにとって、騎士の闘気は苦にならない。
テスとの戦闘の残滓か、ランタンの感覚が鋭敏になっている。間合いに入れば斬る、と騎士の闘気が雄弁に物語っている。何となくわかる。肌に触れるそれから、騎士の次の動作が。
間合いの外で止まってやってもよかった。
テスに負けたからこそ、強さを誇示したかったのかもしれない。無関係の相手に。子供じみた己が恥ずかしい。
これは八つ当たりである。だが、やる。やりたいことを、やる。
初動を制する。間合いのぎりぎり外で足を踏み切る。
次の瞬間、ランタンは騎士の出足を遮って、抜刀しようにも腰も回せぬ懐に踏み込むんだ。
「――こんばんは」
そして、まあまあ、とでも言うように鯉口を指で封じた。
「ネイリング家にお世話になっている者で、ランタンと言います。怪しい者ではありません、たぶん」
言いたいこと言うとゆっくりと二歩下がり、三歩目で封をする指を離した。
金属の匂いが冷気を帯びている。特殊加工された最高級の魔道銀の鎧。胸元と右肩に八角花冠の紋章がある。騎士は、額に冷や汗を一筋垂らして、脱力したように肩を落としたが、張り付いたように柄から手が離れない。まだ二十にもならないぐらいだろうか。
年下のランタンが言うのも何だが、若いからこそ意志が、魔精の流れが読みやすい。
もう一人の騎士は若い方より一回り以上は年上で、僅かな警戒心を残したままだが堂々とした佇まいだった。彼の方にはむしろランタンの意思が読まれていたのではないかと思う。
「中に入っても?」
ランタンが尋ねると苦笑とともに頷く。
「もちろん構わない。だが、その必要もなさそうだぞ。――しゃんとしろ」
若い騎士に声を掛け、騎士は扉を守る守護像のように佇まいをあらためた。
内側から扉が開かれて、まずはじめに顔を覗かせたのはベリレで、よく見ると扉を引いたのはリリララだった。そしてエドガーが続き、レティシアとリリオンが、シュアやドゥイまでもがいる。迷宮探索をした仲間が勢揃いしている。
リリオンがぷんすかと頬を膨らませてランタンに詰め寄った。
「ランタンっ、遅いわ! どこ行っていたのよっ?」
「探索者ギルドって、出かけに言ったでしょ? まあ遅くなったのは確かだけど、色々あって」
「色々って?」
リリオンはランタンの手を取って、それを揺らした。だがすぐにあっと言うような表情になった。
「そんなことよりランタンっ!」
「そんなことより、なに?」
「ちがうのよっ。ランタンのことがそんなことじゃなくてね、本当よ」
リリオンは慌てた様子でランタンの手を引っ張って、あのねあのね、と繰り返すが埒があかない。表情がころころ変わって面白い。少し興奮状態にあるようだった。
ランタンは、わかってるから、とリリオンを宥めながらもレティシアに助けを求めた。
「お客様がお訪ねになられているんだ、ランタンも一緒にと思ったのだが、先程食事も済んでしまった」
「――お客様とはつれないな。私は友人だと思っているのだが」
「ありがとうございます、アシュレイさま」
レティシアが格式張った立礼をする。
騎士の刻まれた八角花冠の紋章。あれは近衛騎士団にのみ許された紋章である。
つまるところアシュレイと呼ばれたお客様とは、そのような存在である。
紋章を認識した瞬間から覚悟はしていたが、扉の奥から悠然と現れたアシュレイにランタンは知らず息を呑んだ。
知識としては知っている。
第十三王女。王位継承権に男女の区別はないので、つまり王位継承権の十三番目。現王の二人目の妻の娘であり、末姫である。やや病弱の気があるが、母親譲りの美貌を携える才媛。ダニエラから教えられた知識が、泡のように浮かび上がって全て弾けた。
聞くと見るとでは印象がまるで違う。
深い琥珀色の髪と、滑らかな真珠の肌、薔薇の唇。淡紅色の瞳が恐ろしく強い意志を発していて、口元に浮かんだ笑みの尊大さがまったく不愉快にならない。病弱にはまったく見えない。
レティシアを初めて見たときに感じた高潔さを、もっと濃密にしたような。
闘気などとはまるで違う重圧があった。そっと、だが抗いがたく項を押さえつけられるような。
「ランタン。この御方はアシュレイ・ダイアンサス・アストライア王女だ。ありがたくも我らの帰還を――」
レティシアの言葉をアシュレイが手振りの一つで遮って、ランタンと向かい合った。
紋章を認識した瞬間から覚悟はしていたが、あまりにも美人なのでランタンは驚いてしまった。向かい合ってぼけっと見惚れていると、リリオンがぎゅっと手を握った。
「――いたっ。……ああ、ええっと、ランタンと申します。はじめまして。申し訳ありませんが礼儀に疎くて、跪いた方がよいのでしょうか?」
「ふふふ、そんなことを聞かれたのは初めてだ。もちろん答えるのも」
アシュレイは口元に手を当てて笑うと、その手でランタンの手を取った。ほっそりとした指が冷気を帯びている。もう片方の手を取るリリオンにちらりと目配せをして、アシュレイはランタンの小さな手を両手に包んだ。リリオンは握った手の指を絡ませる。
アシュレイの指の細さを知っているような気がした。
「跪く必要はない。私は、ただ友人の助けになってくれたことに礼を言いたくて来たのだ。ありがとう、ランタン。レティに死なれては、ただでさえ少ない友がまた減ってしまうところだった」
アシュレイはランタンの手を包んだまま、祈りを捧げるように目を瞑り、吐息のような微かな声で聖句を詠った。
それはまさに祈りであり祝福であったが、ランタンは顔を寄せられてどぎまぎしてした。手が離れていくことに名残惜しさが感じられた。
「レティシアさんは本物のお姫様とお友達なんですね、すごい。あ、いや、レティシアさんが偽物というわけではないですけれど」
レティシアは幼少の頃アシュレイの遊び相手を務めていたことがあるらしい。名誉ある役目である。
「私はあまり身体が強くなくてな。お転婆なレティはきっと内心つまらないと思っていただろうが、それでもよく私の相手になってくれたよ」
アシュレイが懐かしげに言うと、レティシアも目を細めた。
「騎士の真似事をして剣舞を見せてくれたり、私の知らない外のことをいろいろ教えてもらったり。もっとも耳にタコができるほど聞かされたのはヴィクトルの話だがな。なあ、レティ?」
「――ええ、まあ、そうでしたでしょうか?」
「ふっ、おかげでヴィクトルの好き嫌いやら何やらを覚えてしまった。あれが私の伴侶となる可能性も確かにあったが無駄になったな。しかし、そんなレティが今日は口を開けばランタンの話ばかりをする」
「いないからって、悪口言わないでくださいよ」
「私がランタンを悪く言うわけないだろう、まったくもう」
ランタンがわざとらしく唇を尖らせると、レティシアは王女の御前だというのに思わず腰に手を当てて嘆息してみせた。その様子にアシュレイはほうと吐息を漏らした。
「……やはりあの占い師は当たるな」
小さく呟くと、意味深にレティシアへと笑いかける。レティシアは王女の視線を浴びてぎくりと身を強張らせた。
ランタンは首を傾げたが、そう言えばレティシアが占いの結果に従ってランタンを求めたのだと思い出した。
迷っている時、人は何かに縋りたくなる。
ランタンは繋がれたままの手に視線を落とした。リリオンの手が大きくて、指が長くて、繋いでいると言うよりは握り締められている。
「今日は事前に知らせもなく訪れて悪かったな」
「いえ、ご多忙なのは承知しております。アシュレイさまならばいつだって歓迎いたしますよ」
「助かる。――今日は皆から探索のことを聞かせてもらい大変有意義であった。レティとリリオンからはランタンのことも。本当はランタンの探索譚も聞かせて欲しかったのだが、あいにく私は帰らねばならない」
貴族が探索者を招いて、その探索譚を語らせることはままあることだった。上昇志向の強い探索者などはそれをきっかけに貴族との繋がりを結ぼうと躍起になるし、貴族は貴族で有名な探索者をパーティに呼ぶことが一種のステイタスでもある。
ランタンにもそういう話がないわけではなかった。単独探索者の頃も何度か声を掛けられたし、レティシアを介して紹介を望む貴族は多い。だがランタンはそれら全てを断っている。
「でしたらまたいずれ、お暇なときにでも呼びつけて下さい。大した探索はしておりませんが、それでよろしければ」
そんなランタンはアシュレイにそう言って微笑んだ。
「――ああ、またいずれ」
アシュレイは去り際に、ランタンの髪に触れたかと思うと頭を撫で、またリリオンの頭も撫でた。
ランタンもリリオンも驚いたように、目を丸くした。
「――良い匂いがするね、ランタン」
ひそひそと囁くリリオンに、ランタンは頷く。




