108 迷宮
108 迷宮
ランタンの姿が光と熱に包まれて、リリオンは泣きじゃくった。
ランタンを中心に巻き起こった爆発と、真っ黒な汚泥にも似た血の津波との攻防は一瞬にして片がついた。
巨大な多頭竜の全てを賭した敵意は、いやこの迷宮の全てを注ぎ込んだ殺意は、小さなランタンの力の前に為す術もなかった。
暗黒は光に焼き払われて、光は迷宮に刻み込まれた戦いの記憶をはっきりと照らし出す。
天井にはリリララが生成した足場が天界の廃虚のような趣で連なり、壁にはレティシアの雷撃剣の余波である裂け目が深々と刻まれている。地面は黒く焦げ、地震でも起こったような隆起や陥没が無数にあり、リリオンの一刀の延長線上に果てのない断裂を生み出していた。
そういった戦いの記憶が光に塗り潰される。
熱波に溶けて全てが均され、その行方を見届けることもできずに視界が白く染まる。
肌を炙る高熱の力強さが増せば増すほどに、光の中にいるランタンの存在が薄くなっていくような気がした。
ランタンが燃えて、なくなってしまう。
「ランタンっ、ランタンっ!」
防壁から飛び出そうとするリリオンをベリレが押さえつける。
どうして、と睨み付けようとすると俯せに組み伏せられて背中を膝で押さえつけられた。
ベリレも必死だ。今激情に身を任せて防壁から飛び出せば、少女の身体は松明のように燃えてしまう。
ランタンから放たれる熱量は膨大で、もしリリオンの身に何かがあればその熱量をもって怒られる。
あれほど巨大だった多頭竜は燃やし尽くされ、今は灰も残らない。
黒玉の心臓はすでに活動を停止し、だがランタンを包む光が消えることはなかった。
リリオンが何度声を上げても、ランタンは応えなかった。
「く、暴れるなっ……エドガーさま、あれはっ、一体?」
「魔道の暴走か、いやこれは……? しかし、どこからこれほどの力を――」
爆発能力を行使するために必要な魔精は、果たしてあの小さな身体にどれ程残っていたのか。
エドガーは疑問と言うよりもむしろ賞賛するような音色で呟く。
探索者の誰もが消耗していたのと同様にランタンの疲労も並大抵のものではなかったはずだ。力の行使には対価が必要になる。リリオンは押さえつけられながら肩や肘や手首の発する鈍い痛みを感じる。
命を、ランタンは燃やしているのかもしれない。
リリオンはそう思うと居ても立ってもいられない。
身体が痛むのは背に乗るこの熊の少年も同じだろう。身長は同程度、だが体重は向こうが上で、つまり筋肉量も負けている。だがリリオンにはこの血がある。
それは愛した母親の血であり、そんな母を死に追いやった憎むべき種族の血。大嫌いな巨人族の血。
それが身体の内を巡る。力を運ぶ。心臓を鼓動させる。ランタンを助ける力になる。
リリオンの身体が一度大きく震えた。
人族のものとは似ているようで、その肉体は根本から異なる。高密度の筋肉がずれた骨を押さえつける。
ランタンがよくやる乱暴な骨接ぎの、その真似事。
肩を嵌め、肘のずれを直し、手首を戻す。胸骨が砕けている。内部で出血もあるのだろう。呼吸をする度に胸が痛むが、そんな痛みはランタンの名を呼ぶ痛みに比べれば無いも同然だ。
「落ち着けって、ランタンはきっと無事だ! エドガーさまも何か言ってやってください!」
ベリレがリリオンに言い聞かせ、エドガーに助けを求めた。
だがエドガーは炎に魅入られたように光から目を逸らすことができない。
「心配は要らんさ」
ただぽつりとそう呟く。
「ああもうっ、大丈夫だから! あいつは殺しても死なないって!」
ベリレの言葉に、リリオンは僅かな落ち着きを取り戻す。そして何だか少し悔しくなった。
ベリレが自分よりもランタンのことを信頼しているようで。
「それでもよ!」
しかしリリオンは吠える。
ランタンが死ぬはずはない。そんなことはわかりきっている。
だが、それがリリオンが行かない理由にはならない。
鋭く息を吐き出す。同時に俯せの状態から、全身で大地を踏んだ。
リリオンは胸を突き上げられたように身を跳ね起こしベリレを振り解いた。
ベリレの表情がまさかと驚きに染まる。反射的にエドガーが手を伸ばそうとして、それがないことに気が付く。
レティシアは魔精枯渇の影響で炎を見つめぼんやりとし、リリララは高熱になった防壁に晒されて死人のような顔色を赤く染めている。
リリオンは防壁の外へ飛び出した。
痺れるほどの高熱。酸素の尽くが燃焼し、だが背後から魔精の霧を吹き飛ばして大量の空気が吸い込まれるように流入するため呼吸はできる。一呼吸で肺が熱に満たされる。
リリオンは背中を押す追い風に乗って、ランタンの光に飛び込む。
進む。
「ランタンっ!」
リリオンは光の波を掻いて進む。視界は白一色でランタンの姿を探すことはできない。
だがリリオンは導かれるように迷うことなく進んでいく。
炎の揺らめきや、爆発の衝撃がふと失せた。
高熱が高熱のままに安定している。
まるで密度の薄い水の中にいるような、不思議な感覚だった。足元が覚束ない。妙な浮遊感がある。
多頭竜を、迷宮の殺意を一瞬で蒸発させた高熱のはずなのにリリオンの身体は燃えることなく保たれていた。
いる。
高熱のその中心に、ランタンはいる。姿が見えなくてもリリオンにはわかる。
そこに手を入れたら、ついに骨まで焼けてなくなってしまうかもしれない。
そこはリリオンの知る世界の、何よりも熱いところだった。
だがリリオンは躊躇わなかった。
――ランタンになら燃やされたっていい。
「ああ……」
指先から飛び込み、身体が光に包み込まれる。リリオンは腕を彷徨わせた。昔、母を探した時と同じように。
いるはずのランタンがいない。リリオンは更に光の奥へと進む。本当にランタンは炎の一塊になってしまったのかもしれない。そんな不安が一瞬心を横切って、母が見つからなかった瞬間の記憶を蘇らせた。
強く求める。
その瞬間。
指先に当たる、愛しい肌の柔らかさ。
「あ――」
リリオンは少年の真白い裸身を指先に感じると、一気に胸に引き寄せた。いや、引き寄せられたのかもしれない。
光が晴れる。焼け付くような熱が失せる。
「――ランタン」
日溜まりを抱きしめたリリオンはその場に座り込む。高熱の間近であったはずなのに地面はただ暖かい。
「ランタン」
小さく、軽い。
力を使い果たしたランタンはことさら軽く、触れた肌の頼りなさは華奢な骨の感触をはっきりと掌に伝えた。
眼差しを閉ざすランタンは身じろぎ一つなく、眠るように大人しくしている。
「――ぎゃあっ!」
よかった、と再び溢れそうになった涙が引っ込んだ。
「うおっ、なんだっ?! ――みんな無事か!」
リリオンはびっくりして、ランタンを外套の下に隠した。
待機していたシュアが魔精の霧の消失から戦闘終了を確認して最下層に飛び込んできて、そして防壁の後ろにあって焼失を免れた、入り口のすぐ脇に転がる異形の竜種と対面して悲鳴を上げたのだ。
けれど驚愕の顔のまま視線を巡らせ、誰一人として失われていないことを確かめると破顔する。
「ああ、よかった! ドゥイ早く来いっ!」
最下層の暖かさと安心に額を拭い、背後を振り返って弟を怒鳴った。
そんなシュアにエドガーが気さくに声を掛ける。
「まあ、そんな急かしてやるな。誰も死んではいないんだ」
「死んでなくともあっちは血みどろ! 死にかけ! あなたも腕が無くなっているじゃないですかっ! その右目も見えてないんじゃないですか!?」
「はっはっは、煮えてしまったようだな。もう使い物にならんしくり抜いてしまおうか」
エドガーはそう言って左腕を持ち上げてみせた。前腕はすでに無く炭化した肘があるばかりだ。じゅくじゅくと血が滲んでいる。
「それにこれも斬らねばな。焦げた血が身体に巡りそうだ。おお、そうだ。ベリレに試し切りでもさせるか、あれは人を斬ったことはないし――」
「私がやりますので、大人しくしててくださいっ! ああもうっ、これだから探索者は! なんで痛がらないんですか! まったく!」
「やれやれ、そんなに急くものではないだろう。何しろ戦いは終わったのだから」
肩を竦めるエドガーに、シュアはきっと目を吊り上げる。
「そう、あなたたちの戦いは終わり! ここからは私の戦いです! 命令には従って貰います、例えエドガーさまでも、いいですね!」
シュアはエドガーに雷を落とし、腕まくりをすると猛然と探索者の肉体から痛みを取り除くための戦いを始めた。
誰も彼女に逆らうことは出来ず、リリオンさえもランタンを差し出さずにはいられなかった。




