109 迷宮
109
魔精の奔流に飲み込まれた。
多頭竜の、いや暴竜の肉体が失われて、荒れ狂う殺意を溢れ出させた心臓さえも燃え尽きた。
最終目標の心臓は迷宮の心臓に等しい。大迷宮の守護者たる暴竜が死んだ時、迷宮は逃れることのできない死の運命に囚われる。迷宮の機能は緩やかに、確実な沈黙へと向かった。
それは迷宮に張り巡らされている魔精を隅々にまで行き渡らせる血管のようなものが、次々に閉ざされていくからかもしれない。
ランタンは迷宮に注がれる魔精の供給が断たれたのを妙にはっきりと感じ取った。
その血管は植物が枯れるように緩慢に萎んでいくのではない。迷宮に魔精を注ぐ、その根源との繋がりがその根元を指で摘まむように閉ざされるのだ。
しかし、それゆえに迷宮自体は血管に残った魔精でしばらくの間は姿を保つ事ができる。
根源から供給される魔精は心臓に貯蔵されて、無数の血管へと注がれる。閉ざされたのは根源と心臓の繋がり、そして心臓と血管の繋がり。
それまで血管に行き渡っていた魔精が不意に行き場を無くし、暴竜の心臓から血が溢れたように行き場を失った魔精が溢れ出す。それこそが最終目標を討伐した際に起こる魔精の暴発。
そしてその魔精は、行き場を失ったからこそ新たな行き場を求める。
一つは探索者の肉体。そしてもう一つは最終目標の心臓、あるいは魂へと。
綺麗さっぱり燃やされ尽くして影も形も見えない暴竜は、まるで最後に卵を産み落としたように一つの黒玉を残していった。心臓を失ったがゆえに暴竜の意志を依り代として顕現した迷宮核は、黒色の真球を象っていた。
ランタンは真白い光の中でそれを見ていた。
自らの身体を焦がすほどの激情に駆られながら、まるでその真っ黒な球が巨大な生き物の黒目のように思えて、激情に焦がされる己とはまた別の自分が酷く冷静にそれを見つめていることに気が付いたのはついさっきのことだった。
それはどこか懐かしい感覚だった。
暴竜の肉体が失せたように、ランタンの肉体もまた燃え尽きて炎となった。
その炎がふいに失せて、自分とそれ以外の感覚が曖昧な、リラックスして風呂の中に入っているような感覚。
皮膚も肉もなくなって、剥き出しの魂だけがただぼんやりと浮かんでいる。
それは錯覚か、現実か。
まるで人魂だな、とランタンは自分が笑ったのかどうかさえ定かではない。
迷宮核に近付くのだが歩いている感覚はなく、ただふよふよと漂っているようだった。迷宮核は不吉な黒色なのに、魂だけの自分はこの上なく無防備なのに不安は一つもなくて穏やかだった。
いつの間にか激情さえも失せている。光も熱もない。
この不思議な感覚をランタンははっきりと知っている。入浴に似ているというどころの話ではない。
まったく同一の感覚を昔一度――
あ、と声は出ただろうか。
それはランタンの中にある最も古い感覚だった。原始の記憶だと確信する自分がいる。なればその原始の記憶とはいつのことか。顔も思い出せぬ母の胎の内で羊水に浮かんでいたその時か。
ちがう。
自分にとっての最古の記憶は、この世界に這い出る直前の記憶に他ならない。そう思った。それ以前の記憶も朧気ではあるが有しているとしっかりと認識している。だが、だけれども今あるこの感覚こそが最も古い記憶なのだと、矛盾だと認識しながらも思わずにはいられなかった。
世界を渡った。
落っこちてきた。
自分の状況を上手く説明することはできないが、そのような言葉で自分を納得させていた。納得するようにはしていたのだが、しっくりはきていなかった。
ふうむ、と思う。
自分はこの世界に生まれた、生まれ直したのかもしれない。あるいは燃え尽きて、灰の中から再び。
「ふうむ」
思うと声が出た。
迷宮核を見下ろして腰を屈めた。腕を伸ばし、核の表面を撫でる。視界に白い手がある。指も。それから腕を知覚し、剥き出しの肩が。
迷宮核はひんやりとしていて、恐ろしく滑らかだった。だが転がることはない。根が生えたように重たく、ランタンが片手で掴めるほどの大きさだが、まったく持ち上げられなかった。
そんな訳はないだろう。
一度立ち上がって、首を回し、肩を回す。深い呼吸を二回。肺が膨らむ。
自分の身体はそんなに大きくはないけれど、この程度の質量を持ち上げられないわけはない。
ランタンは体前屈をするように無造作に手を伸ばし迷宮核をひょいと掴み上げた。そしてその重量に思わずそれを鎖骨で支え、後ろに三歩踏鞴を踏んだ。
暴竜の意志、迷宮の意志。ランタンは両手で核を支え直し、赤ん坊の雌雄を確かめるように眼前に持ち上げて、鏡面状の表面に映る自分の顔を見た。
黒髪に、焦茶色の瞳。鼻は小さくてそんなに高くない。頬はほっそりしているけど同時に少し柔らかそうで、唇が何となく生意気そうな感じで結ばれている。口を開けると小さい歯が並んでいて、長くも短くもない舌が下の歯をなぞった。少しくすぐったい。
思い通りに動く。
見慣れた自分の顔だ。
肉体は炎となって、魂となって、再び肉を得た。
けれど何か違和感がある。
違和感は感情の揺らぎであり、先程まであった穏やかな感覚が嘘のように遠ざかる。
ランタンは迷宮核を掲げたまま、焦茶の黒目をぐるんと上に向けてしばらく考え込んだ。
「あ」
リリオンがいない。
ランタンは小さな舌打ちを口の中で転がして、がしがしと困ったように頭を掻いた。
なるほど違和感はこれか。
ランタンの傍にはいつだってリリオンがいる。
――こっち、こっちよ、ランタン。
呼ぶ声が聞こえる。
「……そろそろ起きなきゃ」
ランタンは大きく欠伸をして、自分の身体があることを確認した。
「ランタンはいつになったら起きるのかしら……」
「こっちの心配も知らないで、暢気な顔してるな」
「昨日は眉間に皺があったのよ。撫でたら無くなったけど、怖い夢でも見てるのかしら?」
「ふうん、こいつに怖いものなんてあるのか?」
「虫嫌いって言ってたよ」
「へえ、いいこと聞いた。しかし触ってやると安心すんのかね。赤ん坊みたいだな、おらデコピンしてやる」
「いじわるしたらダメっ」
「はいはい、冗談だよ。しっかしマジ起きやがらねえ。これに眠り薬でも混ざってんじゃないだろうな?」
「こら弁を弄るな。まったく人聞きの悪いことを言うんじゃない。中身は甘い血液みたいなものだよ。ちなみにリリララにも同じ物を使ったんだからな」
「じゃあなんで起きねーんだよ。あたしはすっかり元気だぞ」
「まあまあ、リリララ。心配するのもわかるがシュアに当たるんじゃない」
「お嬢、でも。別に当たってはないですけど」
「あれだけの力を発揮したんだ、疲れもするよ。いずれ目を覚ますさ、今はゆっくり寝かしてあげようじゃないか」
「あっ!」
「どうしたリリオン?」
「ランタンがわたしの指を、唇つっついてたら食べられちゃった」
「ん? おやこれは、ははは、何とも愛らしい。戦ってた時とはまるで別人だな」
「ふふふ、本当に赤ん坊のようだね」
「あたしもやったら吸い付くかな? うわ、吸い付いてきた!」
「すごい吸ってるわ。お腹空いてるのかな?」
「おっぱいでもくれてやったらどうよ。ああでもリリオンのじゃ物足りないか、お嬢出番ですよ」
「ばか、何を言ってるんだ! まったく」
「ははは。じゃああたしが、と言わないところがリリララの可愛いさだな。自分の身体付きをよく理解してるね、リリララは。なあにそう悲観するものじゃない。リリララには胸がなくとも立派な尻があるじゃないか」
「うっせ!」
「わたしのじゃダメなの……?」
「いやいや、もうすでにリリララよりも立派に育っているからね」
「うるせえ!」
「この急成長振りを見るに中々のものになるんじゃないかな。ランタンが起きたらびっくりするかもしれないぞ」
「そうかな? うふふ、喜んでくれたら嬉しいな――あ、指先舐めた! わわわ、すごい! くすぐったい!」
「リリオンは、妙に嬉しそうだな。私も、してみようかな――」
「おやあレティシア様」
「な、なんだ、別にちょっとぐらいいいだろう。端っこに少し入れるだけだから」
「ちっ、なんであたしの指は舐めないんだ? くそう、あ、ああっ、うわっ、くすぐったい!」
「そ、そんなになのか?」
「リリララ、まだ爪が生え揃ってないんだから噛まれないようにな」
「戻ってきて! こっち、こっちよっ、ランタンっ!」
「――ベリレ、ドゥイ。見てやるな。せめてもの情けだ」
「……はい、エドガーさま」
「ランタン、か、かわいそうだ。う、うわっ、あんな奥まで!」
「女というのは何とも惨いこと平気でしよる……、ベリレ気をつけろよ。隙を見せたらあの様だ」
「はい、肝に銘じます」
遠くから他人事のような声が聞こえ、近くから嬌声が聞こえる。
目覚めは最悪の一言に尽きた。
ランタンは大きく欠伸をして、がちんと勢いよく歯を閉ざした。そしてがばっと目蓋を持ち上げると、目をまん丸にして自分の顔を覗き込む四人の女と目があった。
ランタンは閉ざした歯の裏側を舌で舐める。夢を見ていたような気がする。夢の中で同じようなことをしたような気がする。
寝起き独特のものとは違う不快感が口の中にあった。妙に唾液が溜まっていて、ランタンはそれを飲み込む。
リリオン、レティシア、リリララ、シュア。
ランタンは眼球だけを動かして彼女らを右から左へ、左から右へと見つめる。
リリオンとレティシアとリリララは揃いも揃って右手の人差し指を胸に抱くように引っ込めていた。ランタンがその指に視線を向けると、レティシアとリリララは拙い物を見られたとでも言うように後ろへと隠す。
「ふああ、おはようございます」
ランタンは小首を傾げようとして、何かに固定されていることに気が付く。再び欠伸を零しながらの誰に向けるでもない呟きは、首の骨が鳴った音に掻き消された。
ゆっくりと頭部を動かすと、幾つも重ねたタオルに項が埋まっていたのだと理解ができた。
ぐっと身体を伸ばしたかったのだが、身体が重たくて身動きが取れなかった。右腕には点滴が刺されていて、細い管を通って透明の液体がゆっくりと身体の中に流れ込んできている。
状況が理解できなかった。
「あの状況の説明を――」
「ランタンっ!」
ランタンが身じろぎするように身体を動かすとリリオンが縋り付いてきた。首に腕を回して、耳元に頬を寄せて何度も名を呼んでいた。その慌ただしさや必死さにランタンは驚いたように首だけで振り返ろうとする。
だがひっしとリリオンがくっついていて、少しも首を動かすことができなかった。
「おわ、なに? どうしたの?」
ランタンは左腕を持ち上げて、響いた水音や腕や肩に感じた抵抗に自分が液体に浸けられているのだとようやく気付いた。
リリオンの腕が邪魔をして顎を下げることはできないので目で確認することはできないが、おそらく湯船の中に寝かされていて、縁に項を預けて、鎖骨から下が水中に置かれていたのだと思う。その液体が体温と同じ温度の所為もあってか、皮膚の延長のように身体に馴染んでいる。
状況はまったく理解できなかったがランタンはぷらぷらと手を振って水滴を吹き飛ばして、リリオンの髪をがしがしと乱暴に掻き回して頭を撫でてやった。
「ランタン、起きたのかっ!」
「ああ、ベリレ。おはよう」
「おはようじゃない!」
「あれ? まだ夢の中だった?」
ランタンはリリオンをあやしながら軽口を飛ばしたが誰一人として笑わなかった。
ベリレは怒るような顔をしたかと思うと急に目を赤くして乱暴に目蓋を擦り、レティシアもリリララも気まずげな表情を一転して胸を撫で下ろした。何度も名前を呼んでいたリリオンはついにしゃくり上げてしまい、ランタンは戸惑いながらことさら優しく少女を撫でることしかできなかった。
ベリレの後ろからドゥイが心配気の顔を覗かせ、右目を眼帯で隠したエドガーは口元に渋い笑みを浮かべた。左の腕は随分と短くなっている。
炭化したのは肘あたりだったはずだが、二の腕の半ばまで切り詰められているようだった。
「遅いお目覚めだな、ランタン。無事で何より」
「はあ……どうも」
エドガーの言葉にランタンは曖昧な返事を返し、この場で最も頼りになりそうなシュアへ助けを求める視線を向けた。
「ランタン、君は――十日間も眠っていたんだよ」
シュアが真面目な顔をしてランタンに告げた。
ランタンが一度ではその言葉を理解できないことを予め知っていたかのように、ランタン目線に合わせるように腰を屈めて、リリオンの抱擁を解くことを諦めてそのままランタンの身体を触診しながら、いかにランタンが昏々と眠っていたかと言うことを聞かせてくれた。
「一度、魔精がすっからかんになってしまったんだ。魔精は後天的に獲得する要素だが、探索者と魔精は分かちがたく結びついてしまっているから失えば――」
「魔精欠乏症ですか」
「ああ、まあ少し普通の症状とは違ったけどね。念のための魔精漬けにさせてもらった」
浴槽を満たしている液体は純水に魔精薬や、あるいは道中に討伐した竜種から獲得した魔精結晶を砕き溶かした薬湯である。それはごく僅か粘性を帯びているようだったが、けれどそれゆえにランタンの身体をしっかりと包み込んで肉体からこれ以上に魔精が失われることを防ぎ、同時に治癒能力を促進してくれたようだった。
「本来は衰弱して昏睡するのが正しい症状だけど、君はただ眠っているようにしか見えなかった。たまにうわごとを呟いたり、むずがったり」
「……いびきとか?」
「ふふ、大人しいものだったよ。けれどその度にリリオンは大騒ぎ、ううんリリオンだけじゃなくて皆ね。今度こそ起きるんじゃないかって、その度に――」
きゅっと、恥ずかしさを誤魔化すようにリリオンの抱擁が強くなった。
ランタンはリリオンをあやし続けた。振り返ることができなくても手慣れた様子で頭を撫で、髪を梳かし、耳を擽って、頬に触れたりすると少女は猫のように震える。
「意識ははっきりしてるし、それだけ軽口が叩けるのなら充分か」
「これ」
ランタンは腕に突き刺さる点滴の管を揺らした。
「もう外してもいいですか?」
「十日間も飲まず食わずではさすがに飢えてしまうから、血管から栄養を入れていたんだ。でも、まあ、しかたないか」
シュアは少しだけ困ったような顔をしたが、ランタンがじっと見つめると根負けしたように、ほっそりとした腕から針を引き抜いた。ぷく、と腕に血の珠が浮かぶ。シュアはそれを湯船に溜まった薬湯で洗い流した。
ランタンは自由になった左手で首に絡むリリオンの腕を触った。
「ほら、もう大丈夫だから。そのままじゃ顔が見えないよ、十日間ぶりにちゃんと見せて」
「や……」
強引に振り返ることはできなかった。リリオンはぐしぐしと湿っぽく鼻を鳴らして、ランタンの髪に頬を押しつけながらいやいやと顔を横に振った。
すっかり困ってしまったランタンの額をリリララが軽く小突き、唇の端を片方引き攣らせるように挑発的な笑みを浮かべた。
「くっくっく、どーすんだ? これを泣かすやつは百億万回殺すんじゃなかったのか?」
「――ええ、そうですね。それは困った。ねえリリオン?」
「――はい」
「リリオン泣いてる?」
「わたし、泣いて、ないよ」
首からするりと腕が引き抜かれ、ランタンは目を瞑り、振り返る。薬湯の水面が揺れて、緩やかな波の音が一つ響く。
「ごめん。心配かけた。もう顔を見ていい?」
「ちょっと待って、――うん、もう大丈夫」
少し間があり、鼻をかむ音が聞こえて、ランタンは目蓋を開ける。
向かい合ったリリオンは真っ赤に充血した目をしており、淡褐色の虹彩は黄金を湛え、溢れんばかりの笑みを浮かべた。
「わたしね、心配したけど、心配してないのよ。だってランタンはちゃんと起きてくれるって知ってたもの」
リリオンはそう言って、ベリレを振り返ってふふんと口角を上げた。
ベリレは面倒くさそうな表情でごりごり後頭部を掻いている。その目に宿る穏やかさはベリレの成長の証だった。
「あーあー、リリオンは優しいねえ。こんだけ心配させられたんだから、なんか我が儘言っても罰は当たらねえと思うぜ。それにほら腕相撲で勝った時のお願い、まだ使ってないんだろ?」
リリララがあやすように茶化すように、リリオンの旋毛を擽って悪戯な笑みを浮かべる。
リリオンはそんなリリララを振り返って、首を横に振った。
「ううん。お願いは、もう聞いてもらったの」
ランタンは声もなく首を傾げる。何でも言うことを聞く、というその約束をランタンは果たした覚えがなかった。
きょとんとするランタンに、リリオンは拗ねたように唇を尖らせる。
「もう、ランタンはわたしの名前を呼んでくれたでしょう? 戦ってる時、大きな声で」
ランタン、ランタンとリリオンは名前を二度繰り返した。
「わたしのお願い。ランタンに名前を呼んでもらえるだけで、わたしはとっても嬉しいの。それだけでわたしは強くなれるわ」
はにかんで、リリオンは頬を膨らませる。
「なのに、最後はまたランタン独りで――」
「……そんなこと言われると、名前呼ぶの緊張しちゃうよ。――リリオン、ありがとうね。リリオンがぶった切ってくれなかったら、今頃僕は食べられてたかも」
「その時は、お腹を切って助け出してあげる。だからまた名前を呼んで」
「うん、リリオン。でも食べられる前に助けに来てほしいな」
ランタンがそう言うとリリオンはころころと声を上げて笑った。
その無邪気さにつられるように、誰もが笑う。
ふとランタンが笑みを消すと、不思議と皆の笑い声が収まった。
「皆様にもご迷惑を――」
ランタンがぐるりと皆を見回して頭を下げようとすると、腕が伸びてきて頭を垂れることを許さなかった。
エドガーだった。
頭部を鷲掴みにする老人の右手は頑なにランタンに頭を下げることを許さなかった。
「お前に謝られては俺たちの立つ瀬がない。ランタン」
エドガーがランタンの名を呼び、言葉に詰まる。言葉の先をレティシアが引き継いだ。
「ランタン、君のおかげで我々は目的を果たすことができた。ネイリング家の目的も、私の思いも。ありがとう、ランタン。あの言葉はなかなか効いた。あんな風に怒鳴られたことなんてなかったよ」
「いや、あの……」
「はっ、堂々としてろよ。戦うお前はマジで格好良かったよ。今度があったら、次はあたしの名前を叫んでくれよ。そしたらなんだってしてやるからさ」
「俺も、ランタンが一緒に戦ってくれたから折れずにすんだ。……格好良かった」
「おい、それあたしが言ったぞ」
「俺だってそう思ったんだから仕方ないだろ!」
ベリレとリリララがぎゃあぎゃあと言い争いを始めて、ふっと空気が緩んだ。
その空気を吸ってエドガーが喉を揉んで咳払いを一つ零した。
「ランタンよ。この目と腕のことを気にしているのならそれはお門違いだ。お前の判断は正しい。あのままではじり貧で、俺はこの身を磨り潰して相打ちに持ち込めれば御の字だと考えていた。それがどうだ。失ったのは老いぼれの目の一つと腕の一本だけだ。おかげで俺は――」
エドガーは右の目でベリレを穏やかに見つめたかと思うと、不意に子熊の頭を撫でた。
ベリレは声を失ったようにぱたりと言い争いを止めて、リリララはにやにやとその様子を見つめた。
「――もうしばらく、これの未来を見ることができる。お前がいなければ叶わなかったことだ。ランタン、顔を上げろ、胸を張れ。お前はあれに打ち勝ったのだ」
ランタンはエドガーの指差した方に視線を向けて、思わず立ち上がった。
迷宮の奥、そこには幾つもの竜頭が捻れ絡まって再生した異形の首級が荷車に雁字搦めに固定されていた。
生命は失われて、けれど今にも襲いかかってきそうなおどろおどろしい雰囲気が漂っている。
戦闘の苛烈さがはっきりと思い出されて、ランタンは今更恐れるように震える息を吐いた。
失ったものは多い。
エドガーの肉体の一部、そしてランタンにとっては肉体の延長とも呼べる戦鎚を始めとした装備。だがそれだけとも言えた。
エドガーの言う通り、首だけとなってこれほど恐ろしい竜種の相手に誰一人として失われなかったことは誇るべき事であるのかもしれない。
だが、けれど、とランタンは未だに煮え切らない。
「お前に文句を付けるやつは誰もおらんよ。それともランタンにとっては、あの程度の獲物では胸は張れんか?」
エドガーは役者の台詞のようにランタンに告げると、堪えきれぬように喉を震わせて笑った。
「くっくっく、まあ、もうすでになかなか堂々たる振る舞いではあるがな。くくっ」
「え?」
ランタンの肌から薬湯が流れ落ち、病人らしい青白い肌が露わになった。それは今の今まで薬湯の中に隠されていた何一つを身に付けることのない裸身である。湯の中に隠れているのは膝から下だ。
全員がそれを見ていて、ランタンは大慌てで薬湯の中に潜った。湯船の底にしこたま尻を打ち付けて、身体を隠すように膝を抱えて顎の下まで。跳ね上がった青い飛沫に、目を凝らしていた不届きな者たちが悲鳴を上げた。
レティシアとリリララがごしごしと目を擦り、シュアが小さく笑う。
「今更何を恥ずかしがることがあるんだ? 十日間もその姿でいて」
そう言われてランタンの身体は一気に血の気を取り戻し、耳の先まで真っ赤に染まった。
湯船の縁にリリオンが顎を乗せて、少し頬を赤くランタンに笑いかけた。
「恥ずかしがることなんてないよ。ランタンはとっても格好良いもの」
リリオンがはっきりとそうランタンに告げた。
ランタンは真っ赤な頬を更に赤くするように、両手で気合いを入れる。
「僕の服、持ってきて」
ランタンが命じるとリリオンは急いで荷車へと向かい背嚢を逆さまにして、リリララとシュアが大きなタオルを用意した。ランタンは睨み付けるように周囲に視線を巡らせると、開き直って威勢よく立ち上がり湯船の縁を跨いだ。
全員の視線が突き刺さったが、無視して堂々と振る舞った。
「拭いてください」
鉄の地面が冷たい。十日間も身体を動かさなかった所為もあり肉体は鈍く、液体の浮力を失ってずしりと重たく、だが飲まず食わずで空っぽの内臓は妙に軽い。
「……手慣れてますね」
「仕事だからな。おーおー綺麗に塞がってるな、土手っ腹に穴開いてたのに」
シュアがランタンの肩にタオルを掛け、リリララは当たり前のように跪きランタンの足を拭いた。レティシアもランタンの髪を乾かしている。
ランタンの腹部にあった刺し傷は綺麗さっぱりと塞がっていた。引き攣るような感覚も無ければ痛みもなかった。
だがリリララの両腕には掻き毟った痕跡が白線となって残っている。魔精を使い切ったリリララは自身そのものが持つ治癒力さえも大きく減じたのだろう。ランタンがその事に気が付くと、リリララは清々しい笑みを返してきた。
「ほら、ランタンこれ履いて!」
リリオンは、結局一度も履いていない絹の下着を眼前に掲げて戻ってきて、その手でいそいそとランタンに履かせようとしてくる。
だがランタンはひったくるようにそれを奪って足に通した。
「わたし、してあげるのに……」
「じゃあ服着せて、――それでここって迷宮のどれぐらいなんですか? 十日というと」
ランタンはレティシアよりも貴族らしく、もう完全に開き直ってリリオンとリリララに服を着せてもらいながらエドガーに尋ねる。
「もうすぐ地上だ。ドゥイとベリレが気張ってくれたからな」
「そうなんですか? 随分と楽しちゃったな」
ランタンは二人に感謝を捧げ、着替えをすませると、さて歩くかと大きく背伸びをした。やはり少しからだが重い。それに空腹だった。
「ダメよ、ランタン。わたしが運んであげるからね」
「えぇ、いいよ。歩けるし」
「だーめ、ご飯だって食べてないんだから」
リリオンはランタンを胸に引き寄せて、軽々と痩せた小躯を抱え上げる。
ランタンはそのびっくりするほどの力強さや、ふっくらとした胸元の柔らかさに目を丸くした。
それは激戦を潜り抜けてリリオンの獲得したものの一つであった。




