03 一本のパス
地下街の湿った冷気が、コンクリートの床に滴る汗をなぞっていく。
電光掲示板の赤い数字が、試合の残時間【7:07】を刻み、無機質な静寂を強調している。■第3話ブラシュアップ
地下街の湿った冷気が、コンクリートの床に滴る汗をなぞっていく。
電光掲示板の赤い数字が、試合の残時間【7:07】を刻み、無機質な静寂を強調している。
スコアは【赤2-5白】
チャージングの判定により、赤のビブスを付けた弍估へフリースロー1投が与えられていた。
フリースローレーンには、岩肌のような凹凸を晒す白チームの巨躯が並んでいる。
15歳の少女を左右から圧殺せんばかりに並び立つ男たちは、もはや人間というより、冷酷なコンクリートの支柱に近い。
その巨大な影に呑み込まれながらも、弍估だけが、深海に沈む真珠のような静謐な輝きを放ち、悠然とボールを支配していた。
……トォン、……トォン
コンクリートを叩く硬質な音が、ドーム状の空間に反響している。
頭上を滞空する数機のドローンが、15歳という幼さに不釣り合いなその美貌を、冷酷なレンズ越しに『極上の餌』として全世界へ配信し続けていた。
弍估はコートの中央へ視線を置いたまま、指先をわずかに動かした。
集中しているようにも見える仕草の奥から、低く澄んだ声が静かに落ちていく。
「……ねえ。君たちは、“Blood Money 3x3”の駒なんですか?」
白チームの男たちは答えなかった。
フリースローレーンに立つ巨体の肩も動かない。だが、そのうち一人の視線だけが、ほんの一瞬、隣へ流れた。
弍估は瞬きを一つする。
「……そう」
――シュパッ
ボールがリングを通過し、ネットが小さく揺れる。
フリースローは正確に決まった。
それ以上は追わず、視線をコートへ戻すと、白チームの司令塔がボールを受け取り、ゆっくりとツーポイントラインの外へ下がっていく。
ピッ。
【ショットクロック12.00s】がリセットされた。
赤い数字が刻まれ始めるのを横目に、弍估は一歩だけ前へ出た。腰を落とし、相手の肩とボールの位置を同時に見る。
「運営にいくら返せば、君のその首輪は外れるのですか?」
男のドリブルが止まった。
指がボールを押さえたまま固まり、喉が小さく上下する。やがて何事もなかったようにボールが床へ落ちたが、今度はその視線が弍估から外れない。
ダンッ。
乾いたドリブル音が地下街へ響いた。
「敵を一人、金で買えるんでしょう?」
弍估は腰を落としたまま、男の足元へ視線を滑らせる。
「値段次第では……仲間を売ることも、生き残る手段になる」
司令塔の眉が、ほんのわずかに動いた。
その一瞬を境に、弍估の重心が落ちる。
右足が床を捉え、肩を開かないまま間合いへ滑り込むと、次のドリブルへ移ろうと返された手首、その指先とボールのわずかな隙間へ指を差し込んだ。
――バシッ
白い球体が、司令塔の手元から激しく弾け飛ぶ。
敵の意図を冷徹に貫いたその軌道は、あらかじめ計算された角度を描き、背後から迫る二人の男の足元――その狭い死角へと転がっていく。
弍估は無駄な追跡の動作すら捨てていた。
視線だけで転がる球体を捉えたまま、予測された未来の定点へ向けて、ただ重心を滑らせるように一歩を踏み出す。その背後から二つの足音が重なり、白の男たちが左右から夾撃するように間合いを狭めてきた。
ギッ、ギッ。
弍估の視線が、一度だけ足元へ落ちる。
歩幅30センチ。距離、2メートル。
一人が踏み込んだ。
もう一人の足音が重なった瞬間、弍估の左肩がわずかに引かれる。二人の進路が交差するより早く、その身体が半歩だけ横へ流れ、伸びてきた腕が頬先を掠めて空を切った。
「……遅すぎます」
弍估は足を止めない。
自ら誘い込み、視界から外した男たちの懐をすり抜けながら、ボールが転がり着くピンポイントの空間へ、迷うことなく掌を差し出す。
――パシッ
予測された未来の定点へ、白い球体が吸い込まれるように収まった。
背後で男がたたらを踏み、遅れてもう一つの足音が床を叩く。
ドンッ。
身体を起こした視線の先には、マークを完全に外した向日葵がいる。
その前へ白の男が駆け込んだが、七合目の巨体が横から進路へ滑り込み、肩をぶつけて男の足を鈍らせた。ほんの一瞬だけ開いた細い道へ向けて弍估の手首が返り、低いボールが七合目の脇を抜け、白の男の伸ばした腕の下をくぐって向日葵の足元へ滑り込む。
「――っ!」
一歩踏み込んでボールを拾った向日葵は、胸元へ引き寄せることなくそのまま膝を深く折った。沈み込んだ足裏から腰、そして肩へと力が淀みなく伝わった瞬間、軽やかに跳ね上がった身体から放たれたボールがリングを綺麗に射抜き、ネットを小さく揺らす。
弍估は一度だけリングを見上げ、それから向日葵へ視線を戻した。
「……綺麗なフォームだ。合格ライン、だな」
【残り時間 6:59s】
【スコア 赤5-5白】
電光掲示板の数字が切り替わる。
弍估がコートへ足を踏み入れてから、わずか8秒。四つ開いていた点差は消え、地下街を満たしていたざわめきも、同点を示す電子音の前では途切れていた。
白チームの男たちは、硬直したまま微動だにしない。
荒い呼吸を刻む肩の上下だけが、ドローンの冷徹なレンズに切り取られた無機質な空間を揺らしている。
弍估はその間に身を滑らせ、司令塔の眼前でピタリと歩を止めた。
周囲のざわめきを切り裂くように、ほんのわずかに身を屈めながら、低く澄んだ声を染み込ませていく。
「有難うございました。……今の『パス』、助かりましたよ。次も、もう一本お願いしますね」
その言葉が床へ落ちた瞬間、時間の密度が劇的に変わる。
――ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……
頭上の電子音が刻むショットクロックのカウントダウンだけが、真空の底に響くかのように重く世界を支配していく。
司令塔の脳裏へ毒が巡り、背筋が凍りつくまでのわずかな静寂。
「……あァ!?」
絞り出された掠れ声に跳ね飛ばされるように、すぐ隣で男の肩が大きく跳ね上がった。
「有難うございました、だと?」
「今、わざと女にスティールさせたのか!」
「寝返るつもりかよ!」
怒気を孕んだ声とともに一人の男が踏み込み、その横でもう一人の足がピタリと止まる。
さきほどまで敵を威圧していたはずの硬い拳からすっと力が抜け、疑わしい視線が司令塔の顔面を射抜いていく。
動揺した司令塔の目が反射的に味方へと泳ぎ、生まれたばかりの微小な亀裂が、音を立てて連鎖を始めていた。
弍估は崩れゆく男たちの足元を見据えながら、静かに、ただ一歩だけ後ろへ引く。
――何も語らない。
弍估の前で生まれた亀裂が、音もなく深くなっていく。




