第三十五話 初霜の日、金木犀は息をひそめる
初霜は、夜明け前に降りた。
リューネ村の屋根が白く縁取られ、薪小屋の戸口には薄い氷が張り、戻り香の家の前に植えた金木犀の若木も、小さな葉を震わせていた。
朝、最初にそれを見つけたのはリクだった。
彼は毛布を肩に引っかけたまま外へ飛び出し、金木犀の周りに立てた柵を確認した。昨日のうちに藁を足しておいたはずだ。根元には乾いた葉を敷き、風よけもつけた。それでも、霜は葉の先まで白く触れていた。
「リオ兄ちゃん!」
戻り香の家の中から、リオは慌てて出てきた。
リクが金木犀を指さす。
「白い。これ、大丈夫なのか」
リオは葉へ手を近づけた。
折れてはいない。霜に驚いているが、まだ香りは残っている。王都の温室で育った若木には厳しい朝だろう。だが根元の土は冷え切っておらず、ミナが混ぜた薬草灰がよく効いている。
「大丈夫です。少し寒がっていますが、生きています」
リクは眉をひそめた。
「木も寒がるのか」
「香りが縮こまっています」
「それ、寒がってるってこと?」
「たぶん」
リクは少しだけ安心したように息を吐いた。
「たぶんか」
その時、リュミナが扉から顔を出した。
「私の息で温めるか」
リクは即座に振り返る。
「燃やすなよ」
「燃やさない。少しだけ温める」
セリカも出てきて、白い息を吐いた。
「お前の“少し”は信用できない」
「私は加減を覚えた」
「いつ」
「今から」
「駄目だ」
ミナが藁の束を持ってきた。
「追加で覆いを作りましょう。昼になれば霜は溶けます。冬の間は、夜だけ布をかけるといいです」
リクはすぐに藁を受け取った。
「俺がやる」
「手が冷えますよ」
「いい」
彼は金木犀の根元にしゃがみ、ぎこちなく藁を足していった。
王都から歩いて来た金木犀。
アリアンヌが持ってきた木。
リクが「枯らさない」と言った木。
けれど、枯れるかもしれない木。
その可能性も含めて、彼は世話をしている。
リオはその姿を見ながら、エレオノーラ王妃の手紙を思い出した。
夜に咲く花は、急がない。
金木犀は秋の花だ。
月見草は夜の花だ。
リクの名前は、そのどちらの香りにも触れている。
冬を越すには、花ではなく根の時間が必要なのだろう。
朝食の時、リクはいつもの名乗りを少し変えた。
「今日はリク。リオンは夜の道。王子の服は風通し済み。金木犀は……寒がってるけど、生きてる」
ミナが記録帳を開こうとして、リクに見られた。
「後でならいい」
「はい」
リュミナがスープを飲みながら言った。
「寒がるものには肉が必要だ」
「木に肉はやらない」
「人間には必要だ」
「それはわかる」
「では増やす」
「何でそうなる」
セリカが淡々と言う。
「冬支度中は全員よく食べる。ただし保存食を勝手に開けるな」
リュミナは真剣に頷いた。
「許可を取る」
「取っても駄目な時は駄目だ」
「厳しい冬だ」
リクは少し笑った。
その笑いは、霜の朝に小さく立つ湯気のようだった。
冬支度が本格的に始まった。
戻り香の家では、香棚の整理が行われた。夏から秋にかけて増えた瓶を、用途ごとに並べ直す必要があった。
“夜の道。”
“今日は姉さん。”
“植えてもいい。”
“まだ聞かない。”
“証言しない日。”
“証言ではない歌。”
“二つの岸。”
“持てないほどではない。”
“途中の者もここにいる。”
“名だけでは寒い。”
“半分残した栗。”
瓶は増え続けている。
香りが増えるということは、物語が増えるということだ。だが、ただ増やすだけではいけない。必要な時に取り出せるよう、誰のものか、どの程度強いか、どんな時に使ってはいけないかを記録しなければならない。
ミナは新しい台帳を作った。
表紙には、リクが木片を削って貼った小さな札がある。
“香りの棚。勝手に開けるな。食べ物ではない。”
リュミナは不満そうだった。
「なぜ毎回書く」
セリカが言った。
「お前が毎回聞くからだ」
リュミナは少し考えた。
「確かに」
リオは台帳の最初にこう書いた。
“香りは戻る道であり、鎖ではない。
本人の同意なく使わない。
記憶を急がせない。
強い香りの後は、休息と食事を取ること。”
最後の一文に、リュミナが満足げに頷いた。
午後、王都から手紙が届いた。
差出人はアリアンヌ。
封筒には金木犀の香りが薄くついている。リクはそれを受け取ると、すぐには開けず、金木犀の若木のところへ持っていった。
「ここで読む」
リオも、ミナも、セリカも、リュミナも、少し離れて見守った。
リクは封を開け、自分で読んだ。
――リクへ。
――王都にも初霜が降りました。温室の金木犀は無事です。リューネ村の木は大丈夫でしょうか。
リクは小さく鼻を鳴らした。
「心配してる」
彼は続きを読んだ。
――もし葉が少し傷んでも、すぐに枯れたと思わないでください。メリッサが、若木は冬を覚える必要があると言っていました。
――冬を知らない木は、春の芽の出し方も知らないそうです。
リクは金木犀の葉を見た。
霜はもう溶けている。
葉先には小さな水滴が残っていた。
――私も、冬を覚えている途中です。
――審理は続いています。王女として立つ日もあれば、アリアンヌでいることが遠い日もあります。リクが言ったように、王女の服は重いです。でも、今は脱ぎ捨てるのではなく、畳み方を覚えています。
――エルヴィンが、服は畳むだけでなく、虫干しも必要だと言っていました。たぶん、リュミナの言葉を誰かから聞いたのだと思います。
リクは吹き出した。
「王都まで行ってる」
リュミナが遠くで胸を張った。
「真理だからだ」
リクは手紙に戻る。
――金木犀の木に、私の代わりに水をやってくれてありがとう。
――枯れたらまた植えればいいと言ってくれたことを、何度も思い出しています。私は、失敗したら終わりだと思って生きてきました。霊廟でも、王城でも。
――でも、もしかすると、枯れたらまた植えることもできるのですね。
――次に行く時は、冬囲いを手伝います。
――その時、リクが嫌でなければ、王妃の手紙をもう一度一緒に読みたいです。全部ではなく、一行だけでも。
――今日はアリアンヌ。
――王女の服は、椅子にかけています。
リクは手紙を畳んだ。
しばらく黙っていた。
それから、金木犀の根元に手を置いた。
「冬を覚える、か」
リオは静かに言った。
「いい言葉ですね」
リクは頷いた。
「瓶にする?」
「したいですか」
「うん。でも、まだ。冬が終わってから」
「はい」
その日から、リクは毎朝金木犀を見に行くようになった。
葉が落ちるたびに不安そうな顔をした。
ミナは「落葉は病気ではありません」と説明し、リュミナは「葉を減らして冬に備えるのは賢い」と言った。セリカは「お前も冬に備えて余計な間食を減らせ」と続け、リュミナは聞こえないふりをした。
ある朝、リクは落ちた葉を一枚拾って戻り香の家へ持ってきた。
「これ、捨てるのも変だし、どうすればいい」
リオは葉の香りを嗅いだ。
夏の金木犀とは違う。
花の甘さはない。
土と冷気と、少しの苦さ。
「しおりにしましょうか」
「しおり?」
「王妃様の手紙や、エルヴィン殿下の冊子に挟むこともできます。読みたい時に」
リクは少し迷った。
「エルヴィンの冊子に挟む」
リオは少し驚いた。
「王妃様の手紙ではなく?」
「母さんの手紙は、月見草でいい。これは、王子の服に風通しするやつ」
リオは頷いた。
「なるほど」
リクは落ち葉を丁寧に乾かした。
エルヴィンの“王家の名を持つ者が、王家でなく生きるための法的覚書”の最初のページに挟む。
注釈の横に。
“リクが怒った場合:怒ってよい。”
リクはそこを見て、小さく笑った。
「ちょっとだけ読む」
「今ですか」
「ちょっとだけ」
彼は難しい法律の文章を読み始めた。
すぐに顔をしかめた。
「意味わかんない」
「一緒に読みますか」
「うん。でも今日は一行だけ」
「はい」
一行だけ読む。
それも、夜の道を少し渡ることだった。
冬が近づくにつれて、戻り香の家には寒さで古傷が痛む患者が増えた。
忘却石に触れた兵士は、冬の朝になると妹の名を忘れかける。
声を奪われた別の女性は、冷たい空気で喉がこわばると、また声が出なくなるのではと怯えた。
白盾の裏に名が見つかった家の子孫は、冬の焚き火を見ると、焦げた麦の匂いを思い出して眠れなくなった。
ミナの声守草の薬はよく効いた。
リオの香りは、戻る道を示した。
セリカは白盾の裏を一日に二名までしか読まないようにした。冬の重さは、人の心を沈めやすいからだ。
リュミナは、患者にスープを運ぶ係を買って出た。
最初は皆が不安に思った。
だが意外にも、彼女はきちんと運んだ。
ただし、必ず一言添えた。
「残すなら私が食べる」
ミナが叱ると、リュミナは真剣に言った。
「食べ物を残す罪悪感を減らしている」
患者の中には、それで笑う者もいた。
だから、完全には止められなかった。
初雪の前日、アリアンヌが再び来た。
約束通り、冬囲いを手伝うために。
今度はメリッサとハルトだけを連れてきた。馬車には藁、布、金木犀用の支柱、それから王都の料理人が作った保存肉が積まれていた。
リュミナは保存肉の匂いを嗅いで、非常に真剣な顔になった。
「王都の料理人は成長している」
セリカが言う。
「お前の評価で外交が進みそうで怖い」
アリアンヌは村に入ると、まず金木犀の前へ向かった。
リクが待っていた。
「遅かったな」
「ごめ……」
彼女は止まる。
「道がぬかるんでいました」
「それなら仕方ない」
リクは藁を指さす。
「こっち持って」
「うん」
二人は金木犀の冬囲いを始めた。
リオとミナは手伝いながらも、少し離れて見守る。セリカは必要な指示だけ出し、リュミナは保存肉の包みに近づこうとしてリクに止められた。
作業はぎこちなかった。
リクは縄を結ぶのが下手だった。
アリアンヌは藁を巻くのが下手だった。
二人とも、何度かやり直した。
けれど、やり直した。
「これでいい?」
アリアンヌが聞く。
リクは少し考える。
「たぶん」
「たぶん」
二人は顔を見合わせて笑った。
冬囲いが終わると、金木犀は少し不格好な姿になった。
藁と布に包まれ、小さな柵に守られ、花の香りはもうほとんどしない。
リクはそれを見て言った。
「見た目、変だな」
アリアンヌも頷く。
「でも、暖かそう」
「うん」
「春に、ちゃんとほどかないと」
「忘れない」
「私も、来られたら」
「手紙で聞いてから」
「うん。はい」
リクは満足そうに頷いた。
その夜、戻り香の家で、二人は王妃の手紙を一行だけ読んだ。
リクが選んだのは、この一行だった。
――夜に咲く花は、急ぎません。
アリアンヌが選んだのは、この一行だった。
――待つことは、相手が自分の足で来られるように、場所を空けておくことです。
二人はそれ以上読まなかった。
手紙を閉じ、棚に戻した。
その後、スープを飲んだ。
リュミナは当然のように言った。
「よい順番だ」
誰も否定しなかった。
寝る前、リオは新しい香りを作った。
初霜。
金木犀の落ち葉。
冬囲いの藁。
王都から歩いて来た保存肉。
王妃の手紙を一行だけ読む夜。
エルヴィンの冊子に挟まれた落ち葉。
アリアンヌの「王女の服は椅子にかけています」。
リクの「金木犀は寒がってるけど、生きてる」。
ラベルは、リクが決めた。
“冬を覚える。”
それは、花のない季節の香りだった。
香りが消えたように見えても、根が眠っていることを忘れないための香り。
名前も、関係も、罪の記録も、すぐに芽を出さない時がある。
その時間は、失敗ではない。
冬を覚える時間だ。
戻り香の家の外で、夜風が冷たく鳴った。
金木犀は藁の中で静かに息をひそめている。
リクも、アリアンヌも、リオも、村も、王国も、それぞれの冬を覚えようとしていた。
香りは残る。
花がなくても。
葉が落ちても。
土の下で、次の春を待つ根のように。




