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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第三十四話 秋の金木犀は、王都から歩いて来た

夏祭りの香りが戻り香の家の棚に落ち着く頃、山の風は少しずつ冷たくなった。


朝、薬草畑へ出ると、葉の縁に白い露がついている。声守草の花は乾燥棚に移され、赤鈴草は種をつけ始めた。リューネ村の子どもたちは冬支度の手伝いを嫌がりながら、薪を運び、干し草を束ね、リュミナの目を盗んで干し肉小屋の鍵を確認していた。


「なぜ鍵を増やした」


リュミナは不満そうに言った。


セリカは薪割り場で淡々と答える。


「お前が夜中に保存食を“状態確認”したからだ」


「確認は大事だ」


「数が減っていた」


「状態が悪いものを処理した」


「全部良い状態だった」


「だから処理できた」


リクが横で腹を抱えて笑っていた。


ミナは薬草籠を抱えながらため息をつく。


「今年の冬は患者さんも増えそうですし、保存食は大事にしてください」


「患者も食べるのか」


「食べます」


リュミナは真剣に考え込んだ。


「なら増産だ」


「食べる量を減らすという発想はないんですか」


「ない」


リクが言った。


「堂々と言うなよ」


戻り香の家は、以前より忙しくなっていた。


白盾記録院から紹介された人々が来る。


名を見つけた者。


名を失った者。


罪の記録を読んで眠れなくなった者。


誰かを許せないまま生きる方法を探す者。


そして、ただ温かい食事があると聞いて来た者。


セリカは最初、最後の者たちを追い返そうとした。だがリュミナが「食べに来た者も、何かを忘れているかもしれない」と言い、ミナが「一杯食べて落ち着いてから話せることもあります」と言ったため、戻り香の家では一日一鍋だけ、旅人にも開かれることになった。


リオはその決まりを“開き鍋”と名づけた。


リュミナは非常に気に入った。


「開き鍋はよい制度だ」


「あなたが一番並んでいます」


「私は制度の確認をしている」


「毎日ですか」


「制度は継続が大事だ」


そんな秋のある朝、王都から一台の馬車が来た。


豪華な馬車ではない。


だが、窓辺に飾られた小さな枝から、金木犀の香りがした。


リクは戻り香の家の入口で、その匂いを嗅いだ瞬間に顔を上げた。


「姉さんだ」


声には驚きよりも、どこか当然のような響きがあった。


馬車が止まり、アリアンヌが降りた。


薄い外套をまとい、髪を簡素に結んでいる。顔の黒紋はかなり薄くなっていた。完全に消えたわけではない。だが、以前のように彼女を飲み込む影ではなく、古い傷跡のように肌に残っている。


彼女の手には、小さな鉢植えがあった。


金木犀の若木。


まだ背は低く、枝も細い。けれど小さな橙色の花が、いくつか咲いていた。


リクはそれを見て黙った。


アリアンヌは村の入口の標柱の前に立ち、セリカへ頭を下げた。


「アリアンヌ・リュゼ・ヴァルクスです。リクに会いに来ました。約束通り、事前に手紙を出しました」


セリカは頷く。


「受け取っている。入れ」


リュミナがすぐに問う。


「肉は?」


アリアンヌは慣れた様子で、後ろの侍女に合図した。


「干し肉、栗、王都の豆、それから料理人が試作した薬草入りの燻製です」


リュミナは深く頷いた。


「入れ」


「お前の許可ではない」


セリカの声にも、以前ほどの鋭さはなかった。


アリアンヌは戻り香の家の前まで歩いた。


リクはそこに立っている。


しばらく、二人は黙っていた。


秋の風が金木犀の香りを揺らす。


アリアンヌが先に言った。


「リク」


「今日はリク」


「うん」


「リオンは夜の道。王子の服は……今日は風通し中」


アリアンヌの目が少し潤む。


「うん」


リクは照れたように顔をしかめた。


「それ、持ってきたの?」


彼は金木犀の若木を指した。


アリアンヌは鉢を抱え直した。


「王城の温室で育てたものです。もし、村が許してくれるなら、戻り香の家の近くに植えたいと思って」


リクは目を細める。


「王城の匂いを持ってくるのか」


アリアンヌは少し怯えたように手を止めた。


「嫌なら、持ち帰る」


リクは鉢に近づいた。


花の匂いを嗅ぐ。


金木犀。


王妃の小箱。


白い噴水。


焼き栗を落とした庭。


母の手紙。


姉の涙。


けれど、そこに別の匂いもあった。


長旅の土。


馬車の揺れ。


アリアンヌが自分で水をやった手。


王城の花を、そのままではなく、ここまで運んできた匂い。


リクは少し考えた。


「王城の匂いだけじゃない」


アリアンヌは息を止める。


「うん」


「ここに植えたら、リューネの土の匂いも混じる?」


ミナが微笑んだ。


「混じります」


リュミナが言う。


「肥料も要る」


「あなたは黙っていてください」


ミナに言われ、リュミナは少し口を閉じた。


リクは金木犀の若木を見つめた。


「じゃあ、植えてもいい」


アリアンヌの顔が崩れそうになった。


リクは慌てて言う。


「泣くなよ。まだ植えるだけだから」


「うん」


「うんばっかり」


「はい」


セリカは植える場所を決めた。


戻り香の家の入口から少し離れた、朝日が当たり、冬の風が強すぎない場所。薬草畑に近く、台所の窓からも見える。ミナが土を確かめ、リオが香りを読み、リュミナが「実は食べられるのか」と聞いて、全員に止められた。


アリアンヌは自分の手で穴を掘った。


王女の手は、以前より土に慣れていた。


リューネ村で一度薬草を植えた経験が、彼女の動きを少しだけ変えていた。ぎこちなさはあるが、土を怖がっていない。


リクは隣で見ている。


「そこ、深すぎない?」


「そう?」


「たぶん」


「たぶんで大丈夫?」


「この家はたぶんでできてる」


リオは思わず笑った。


アリアンヌも笑い、ミナが根の位置を整えた。


若木は土に収まった。


リクとアリアンヌは、二人で土をかけた。


手が一度だけ触れた。


二人とも少し動きを止めた。


けれど、手を引っ込めなかった。


金木犀の根元に水をやると、土から湿った匂いが立ち上った。


王都の花。


リューネ村の土。


戻り香の家の前。


リクは小さく言った。


「ここなら、嫌じゃない」


アリアンヌは何度も頷いた。


「うん」


リュミナが真剣に言う。


「花が咲いたら、香りを取る」


「もちろんです」


リオが答える。


「食べられるかも調べる」


「調べません」


リクが即座に言った。


その日の昼、戻り香の家では秋の鍋が作られた。


王都から届いた豆と、リューネ村の根菜、少しの栗、山羊肉、薬草。リュミナは燻製を追加するよう強く主張し、ミナが量を調整した。


アリアンヌは台所で手伝った。


王女が鍋をかき混ぜる姿に、村人たちは最初こそ驚いたが、最近はもう「王女も混ぜるのか」程度の反応になっている。リューネ村は、奇妙なものに慣れるのが早い。


リクは木札に新しい文字を彫っていた。


戻り香の家の約束。


“名を聞きます。

急かしません。

怒ってもいい。

泣いてもいい。

食事はあります。”


その下に、小さく。


“植えてもいい。”


リオがそれを見て尋ねた。


「何を植えても?」


リクは肩をすくめた。


「名前とか、木とか、手紙とか。よくわかんないけど」


「いいですね」


「変かな」


「戻り香の家らしいです」


リクは照れたように鼻をこすった。


昼食後、アリアンヌはリオへ小さな包みを渡した。


「これは、王城からではなく、エルヴィンからです」


包みを開けると、中には一冊の薄い冊子が入っていた。


表紙には、丁寧な字でこう書かれている。


“王家の名を持つ者が、王家でなく生きるための法的覚書。”


リクは顔をしかめた。


「何これ」


アリアンヌは少し困ったように笑った。


「エルヴィンが書いたの。あなたが将来、リオンという名や王族としての権利をどう扱うか考える時、選択肢を知っていた方がいいだろう、と」


リクは冊子を警戒するように見た。


「また王子の服か」


セリカが横から言う。


「服の仕立て書かもしれないな」


リクは少し笑った。


アリアンヌは続ける。


「読む必要はありません。持っていなくてもいい。戻り香の家に置いておいてもいいし、燃やしても……」


「燃やすな」


リクは即座に言った。


アリアンヌは驚く。


リクは冊子を手に取り、ぱらぱらとめくった。


難しい言葉が多い。


だが、ところどころに注釈がある。


“リクが読む場合:これは、王族になるよう迫る文ではない。”


“リクが怒った場合:怒ってよい。”


“リュミナが読んだ場合:食事に関する権利ではない。”


リュミナが覗き込んだ。


「なぜ私への注釈がある」


リクは笑った。


「読まれてる」


セリカも口元を緩めた。


「エルヴィン、少し学んだな」


リオは冊子の香りを嗅いだ。


罪を負う王子の手。


法律の紙。


慎重な謝罪ではなく、選択肢を置こうとする匂い。


エルヴィンはまだ裁きの中にいる。


自由ではない。


だが、彼もまた自分の罪の形を少しずつ変えようとしているのかもしれない。謝罪を急がず、リクが必要な時に使える道具を置く。これもまた、待つことの一つだった。


リクは冊子を閉じた。


「今は読まない」


「はい」


アリアンヌが頷く。


「でも、置いとく。手紙棚の近くに」


「うん」


「エルヴィンには……まだ聞かないって言っといて」


アリアンヌは微笑んだ。


「伝える」


その日の午後、ノアが再び村へ来た。


彼女は金木犀の若木を見ると、歌いたいと言った。


リクは少し迷ったが、頷いた。


ノアは弦を鳴らし、即興で短い歌を作った。


王都から歩いてきた花。


夜の道を知る少年。


土に触れる王女。


根を分ける家。


歌は柔らかく、秋の光によく合った。


リュミナは歌の終わりに言った。


「腹には少し軽いが、花には合う」


ノアは笑って礼をした。


アリアンヌはその歌を聴きながら、金木犀の根元に手を置いていた。


リクは隣に立ち、木の高さを測るように手をかざす。


「小さいな」


「そうね」


「冬、越せるかな」


ミナが答える。


「囲いを作れば大丈夫です」


セリカが言う。


「リク、お前が作れ」


「俺?」


「植えてもいいと書いた責任だ」


「木札に書いただけなのに」


「書いたなら働け」


リクは不満そうにしたが、どこか嬉しそうでもあった。


「じゃあ、そばかすのやつにも手伝わせる」


「頼め」


アリアンヌが言った。


「私も手伝いたい」


リクは彼女を見る。


「王都に帰るだろ」


「次に来た時、まだ必要なら」


「じゃあ、遅いかも」


「そう」


アリアンヌは少し寂しそうにした。


リクは慌てて言った。


「でも、春に支柱を替えるとかあるかも。たぶん」


アリアンヌの顔が明るくなる。


「たぶん」


「たぶんでいいんだよ」


「うん」


夕方、アリアンヌは帰る前に、金木犀の若木の前でリクと向き合った。


「また手紙を書く」


「うん」


「次に来る時は、支柱を替える手伝いをする」


「うん」


「うんって言うなって、いつも言われるのに」


リクは少し笑った。


「今日は俺が言った」


アリアンヌも笑った。


リクは少し迷い、言った。


「姉さん」


「はい」


「この木、枯らさない」


アリアンヌの目に涙が浮かぶ。


「ありがとう」


「でも、枯れたらまた植える」


彼女は少し驚いた。


リクは金木犀を見たまま続ける。


「一回でうまくいくとは限らないだろ。薬草も、畑も、名前も」


アリアンヌは深く頷いた。


「うん」


「だから泣くなよ」


「難しい」


「知ってる」


二人は少し笑った。


馬車が去る頃、金木犀の香りは夕風に溶けていた。


リオはその香りを小瓶に取った。


王都から来た若木。


リューネの土。


リクの「枯れたらまた植える」。


アリアンヌの涙。


エルヴィンの法的覚書。


ノアの歌。


戻り香の家の木札に増えた一文。


ラベルには、リクが書いた言葉をそのまま使った。


“植えてもいい。”


その夜、リクは金木犀の根元に小さな柵を立て始めた。


そばかすの少年も手伝い、ミナが縄を持ち、リュミナが「竜の息で温めるか」と言って止められた。セリカは少し離れて見守り、リオは灯りを持っていた。


木は小さい。


冬を越せるかはわからない。


花が毎年咲くかもわからない。


けれど、植えた。


それだけで、香りは始まっている。


戻り香の家の棚には、新しい瓶が並んだ。


“植えてもいい。”


それは、記憶を根づかせるための香りだった。


名前も、怒りも、手紙も、赦しも、まだ小さな木のようなものかもしれない。


枯れることもある。


折れることもある。


けれど、また植えればいい。


香りは残る。


土の中にも。


まだ細い枝にも。


そして、誰かが水をやろうと決めた手のひらにも。

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