第二十八話 夜の道を渡る者は、朝を急がない
翌朝、リクは寝坊した。
いつもならリュミナと朝食の肉の量をめぐって争う時間にも、彼は寝室から出てこなかった。台所では鍋が湯気を立て、ミナが薬草茶を注ぎ、セリカが王都から届いた書類に目を通している。リュミナは椀を前にして、珍しく静かに待っていた。
「起こさないのか」
彼女が言った。
リオは鍋の香りを確かめながら首を横に振った。
「昨日は手紙を読みましたから」
「朝食は冷める」
「温め直せます」
「肉は?」
「残します」
リュミナは真剣な顔で考え込んだ。
「それは難しいが、今日は許す」
ミナが少し笑った。
「優しいですね」
「私は寛大な竜だ」
セリカが紙面から目を上げずに言う。
「昨日、夜食の栗を二つ余分に食べたから余裕があるだけだろう」
「証拠はない」
「皿が減っていた」
「皿は食べていない」
「栗の話だ」
そんなやり取りの中、アリアンヌは台所の隅に座っていた。
王女の外套ではなく、ミナが貸した灰色の肩掛けを羽織っている。昨夜はほとんど眠れなかったのだろう。目元は赤いが、顔には不思議な静けさがあった。
「リクは、よく寝坊しますか」
彼女が尋ねた。
リオは少し考えた。
「疲れた時は」
「そうですか」
「心配ですか」
「はい」
アリアンヌは素直に頷いた。
「でも、起こしに行くのは違う気がします」
「そう思えるなら、待つ練習は進んでいますね」
彼女は小さく笑った。
「進んでいるのでしょうか。胸の中は、今すぐ扉の前まで行って名前を呼びたい気持ちでいっぱいです」
「呼ばないでいるのも、守ることです」
「母上の手紙にも、そう書いてありました」
アリアンヌは膝の上で両手を組んだ。
「待つことは、何もしないことではない。場所を空けておくこと」
リオは頷いた。
「はい」
しばらくして、リクが寝室から出てきた。
髪は跳ね、目は半分閉じ、毛布の跡が頬についている。彼は台所にいる全員をぼんやり見回し、最後にアリアンヌを見て、少しだけ固まった。
それから、気まずそうに言った。
「……まだいたのか」
アリアンヌは慎重に答えた。
「朝までいる許可をもらったから」
「ふうん」
リクは椅子に座った。
ミナが温め直したスープを出す。リュミナが自分の椀から肉を一切れ移そうとして、途中で惜しくなったのか手を止めた。リクはそれを見た。
「いらない」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてる」
「お前は人の顔を読むのが上手い」
「お前がわかりやすいだけだ」
リュミナは少し考え、結局肉を一切れリクの椀へ入れた。
「昨日は重い手紙だった。特例だ」
リクは一瞬だけ驚き、それから小さく言った。
「ありがと」
アリアンヌはそのやり取りを、まるで貴重な儀式を見るように見つめていた。
リクはそれに気づき、眉をひそめる。
「何」
「ごめ……」
アリアンヌはまた止まった。
「見ていただけ」
「見るなよ」
「はい」
リクはスープを飲んだ。
しばらく沈黙が続いた。
やがて彼は、椀を見つめたまま言った。
「今日はリク」
アリアンヌの手が震えた。
リクは続けた。
「リオンは、夜の道」
リオはその言葉を心の中で繰り返した。
リオンは、隣から夜の道へ変わった。
隣にいるだけではなく、必要な時に渡れるものになった。
リク自身が、そう名づけた。
ミナが静かに記録帳を開く。
リクはそれに気づいて言った。
「書くなよ」
「書きません」
ミナはすぐ閉じた。
リクは少し迷ったあと、小さく付け加えた。
「後でならいい」
ミナは微笑む。
「はい。後で」
アリアンヌは自分の椀に手を伸ばした。
「私も、今日はアリアンヌです」
リクが顔を上げる。
「王女じゃなくて?」
「王女でもある。でも今日は、アリアンヌでいたい」
リクは鼻を鳴らした。
「ふうん」
リュミナが真剣に言った。
「私は今日はリュミナだ」
セリカが即座に返す。
「お前は毎日そうだろう」
「白竜でもある。空腹でもある」
「最後は名前ではない」
「重要な属性だ」
リクが笑った。
アリアンヌも笑った。
朝の台所には、昨日の涙がまだ薄く残っていた。だが、スープと笑いがその上に新しい層を作っている。痛みは消えていない。母の手紙が開いたことで、むしろ増えた痛みもある。けれど、それを抱えたまま朝食を取れる。
リオは、それを奇跡のように思った。
大きな光ではない。
夜の道を渡った先に、急がず訪れる小さな朝。
食後、アリアンヌはリューネ村を歩きたいと言った。
セリカは少し考え、条件をつけた。
「護衛はつける。ただし村人に過剰に頭を下げるな。逆に困る」
「はい」
「王女として命令しない」
「はい」
「畑に入る時は靴を替えろ」
「はい」
「リュミナに食べ物を渡す時は、量を考えろ」
アリアンヌは一瞬戸惑い、それから真剣に頷いた。
「はい」
リュミナが不満そうに言う。
「そこは自由でよい」
「よくない」
村を歩く一行は、奇妙だった。
先頭にセリカ。
その横に白盾を腕につけたままの村長を見慣れた村人たち。
少し後ろにアリアンヌとリク。
リオとミナがそばにつき、リュミナは道端の露店代わりに干してある山菜へ興味を示しては止められている。
村人たちはアリアンヌを見ると、頭を下げる者もいれば、距離を取る者もいた。
怒りが消えたわけではない。
王都がリューネ村にしたことは、王女が一度スープを飲んだからといって薄まるものではない。ミナの声、白竜の封印、魔狼、税、追放者の押しつけ。村人たちは忘れていない。
アリアンヌも、それを感じていた。
彼女は一人一人へ無理に近づかなかった。ただ、名を聞かれれば名乗り、睨まれれば受け止め、子どもに「本当に王女なの?」と聞かれれば「たぶん」と答えた。
子どもは首を傾げた。
「たぶん?」
リクが横から言った。
「こいつも練習中なんだよ」
「何の?」
「自分の名前」
子どもはますます不思議そうにした。
アリアンヌは少し笑った。
「そう。練習中です」
薬草畑では、ミナが声守草の芽を見せた。
「これは、声を守る薬草です」
アリアンヌは膝をついて、小さな芽を見つめた。
「声を守る……」
「証言する人にも、証言しない人にも使える薬にしたいんです」
アリアンヌはミナを見た。
二人の間には、グラントの罪がある。
王女の命令系統が、その罪の背景にある。
けれどミナは、今その薬草の話をしている。許しではなく、仕事として。自分の声で。
アリアンヌは深く頭を下げた。
「あなたの声を奪った王都の罪を、私は忘れません」
ミナは少し黙った。
それから言った。
「忘れないでください。でも、今ここで私に許しを求めないでください」
「はい」
「私は、証言しない日にも声があると決めました。今日は、薬草を見せる日です」
アリアンヌの目に涙が浮かぶ。
「はい」
リクは二人を見ていた。
彼は何かを学んでいるようだった。
怒りを持ったまま、誰かと同じ場所に立つ方法を。
薬草畑を出ると、リュミナが突然言った。
「王女、畑仕事をしてみるか」
アリアンヌは目を瞬かせた。
「私が?」
「土を触ると、名前が落ち着くことがある」
リオは少し驚いた。
「リュミナ様、いいことを言いますね」
「私はいつもいいことを言う」
セリカが小声で言う。
「たまにな」
ミナは小さな移植ごてをアリアンヌへ渡した。
「声守草ではなく、こちらの丈夫な薬草を。失敗しても大丈夫です」
「失敗しても」
アリアンヌはその言葉を繰り返した。
王城では、王女の失敗は罪や恥や政治の材料になっただろう。
だが薬草畑では、芽が倒れても植え直せる。
彼女はぎこちない手つきで土を掘った。
リクが横で見ている。
「下手」
「うん」
「根っこ曲がってる」
「どうすればいい?」
リクは自分も知らないくせに、そばかすの少年から教わったことを思い出しながら指示した。
「土をもう少し広げる。たぶん」
「たぶん?」
「たぶんでいいんだよ、この家は」
リオは思わず笑った。
アリアンヌも笑った。
薬草は少し斜めになったが、ミナは「大丈夫です」と言った。
アリアンヌは土のついた手を見つめていた。
「王城の庭では、土に触ることをあまり許されませんでした」
「なぜ」
リクが聞く。
「王女の手が汚れるから」
リクは鼻を鳴らした。
「変なの」
「うん。変だったのだと思う」
アリアンヌは土を指でこすった。
「汚れるのに、少し安心します」
セリカが言った。
「土は洗えば落ちる。落ちない罪とは違う」
アリアンヌは頷いた。
「はい」
「だが、土の匂いは残る」
リオは言った。
「それは悪くない残り方です」
アリアンヌは手を鼻に近づけた。
土。
薬草。
春。
リューネ村。
彼女は小さく言った。
「覚えておきます」
その日の午後、戻り香の家では王妃の手紙を収める棚が作られた。
リクの手紙とアリアンヌの手紙。
二通は一つの箱に戻さず、別々の封筒に入れ、それぞれの持ち主が決めた場所へ置くことになった。
リクの手紙は、戻り香の家の棚へ。
ラベルは“夜の道”。
アリアンヌの手紙は、彼女が持ち帰る。ただし写しを一部、封をした状態で戻り香の家に預けることにした。
「読ませるためではなく」
アリアンヌは言った。
「私が忘れそうになった時、ここにあると知るために」
リオは頷いた。
「はい」
リクはその棚を見ていた。
「俺の手紙、ここでいい」
「持っていかなくていいのですか」
ミナが尋ねると、リクは少し考えた。
「持ってると、ずっと読む気がして嫌だ。でも遠くにあるのも嫌だ。ここなら、読みたい時に来ればいい」
「わかりました」
「勝手に読むなよ」
リュミナが言う。
「読まない。字は読めるが」
「いや、食べるなよ」
「紙は食べない」
「栗の皮は?」
「食べないと言った」
セリカがため息をつく。
「なぜ手紙棚の規則に食べ物の項目が必要なんだ」
「必要だからだ」
最終的に、棚には小さな木札がかけられた。
“本人以外、開けない。
火気厳禁。
食べ物ではない。”
リオは最後の一文を見て、笑いをこらえた。
夕方、アリアンヌは王都へ戻る準備をした。
リクは、今度は村の入口まで見送った。
王女の馬車の前で、二人は向かい合った。
アリアンヌが言った。
「また来てもいい?」
リクは少し考えた。
「手紙で聞いてから」
「うん」
「急に来るなよ」
「うん」
「栗は持ってきてもいい」
「うん」
「うんばっかり」
アリアンヌは笑った。
「はい」
リクは少しだけ満足そうにした。
それから、ぽつりと言った。
「姉さん」
アリアンヌの呼吸が止まった。
リクは慌てて続ける。
「今日は、呼べただけ。次も呼ぶかはわからない」
アリアンヌの目から涙が落ちる。
「うん」
「泣くな」
「難しい」
「待つ練習と同じくらい?」
「もっと難しい」
リクは困った顔をした。
そして、自分の布袋から小さなものを取り出した。
半分残した焼き栗。
少し硬くなっている。
「これ、返す」
アリアンヌは受け取らなかった。
「いいの?」
「半分ずつじゃなくて、今度はそっちが持ってろ。次来るまで」
アリアンヌは震える手で受け取った。
「わかった」
「食うなよ」
リュミナが遠くから小さく反応した。
「難しい約束だ」
セリカが睨む。
「お前への約束ではない」
アリアンヌは焼き栗を布に包み、胸元へしまった。
「待っています」
「俺も……まあ、たぶん」
リクは顔を赤くして視線を逸らした。
馬車が出発する。
今度は、リクが手を振った。
小さく。
でも、はっきりと。
アリアンヌは窓から手を振り返した。
馬車が見えなくなっても、リクはしばらくそこに立っていた。
リオは隣に立つ。
「大丈夫ですか」
「わかんない」
「はい」
「でも、前より変じゃない」
「よかったです」
リクは村の標柱を見た。
“王都の者を信じるな。”
“それでも、名を聞け。”
“お腹がすいたら鍋へ。”
彼は指でその文字をなぞった。
「姉さんも、名を聞かれた」
「はい」
「王女でも」
「はい」
「俺も、毎朝聞かれる」
「はい」
リクは少し笑った。
「面倒な村だな」
「そうですね」
「でも、悪くない」
リオは頷いた。
「はい」
夜、戻り香の家に新しい瓶が置かれた。
土のついた王女の手。
斜めに植えられた薬草。
半分残した栗の受け渡し。
リクが初めて、訂正せずに呼んだ“姉さん”。
そして、朝を急がない夜の道。
リクはラベルを書くと言った。
少し迷ってから、こう書いた。
“今日は姉さん。”
リオはその文字を見て、胸が温かくなった。
明日は違うかもしれない。
またリクに戻り、リオンを遠ざけ、姉さんという言葉を引っ込めるかもしれない。
それでいい。
今日の香りは今日のものとして残る。
急がず、消さず、押しつけずに。
戻り香の家の夜は静かだった。
棚には“夜の道”の手紙がある。
窓の外には月が出ている。
小川の水面に、細い光の道が揺れていた。
リオは灯りを落としながら思った。
人は一晩で朝にならなくていい。
夜の道を、必要な時だけ少しずつ渡ればいい。
香りは残る。
その足跡のように。
そして明日、また誰かが自分の名前を選ぶために、戻り香の家の台所ではきっと温かいスープが煮えるのだ。




