表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/8

第二話 青い香りは獣の夢を見る

最初に森から現れたのは、狼ではなかった。


狼の形をした、別の何かだった。


背丈は馬ほどもあり、雪を踏む四肢は異様に長い。毛皮はところどころ剥がれ、そこから覗く皮膚には黒い蔦のような紋様が浮かんでいる。目は濁った赤。牙の隙間から垂れる涎は雪に落ちるたび、じゅ、と小さな音を立てて白い地面を焼いた。


村人の誰かが悲鳴を上げた。


その悲鳴につられるように、森の奥からさらに二匹、三匹と魔狼が姿を現す。合計で七匹。リオは数を数えながら、同時に匂いを読んでいた。


血。飢え。腐った魔力。眠り草。


そして、人の手。


魔物はただ腹を空かせて村を襲っているのではない。鼻先に見えない縄をかけられ、誰かの意志でここへ連れてこられている。


「家に入れ! 窓を塞げ!」


銀髪の女が叫んだ。


その声に、村人たちは弾かれたように動き出した。慣れている。恐怖に震えてはいるが、逃げ方を知っている。これは一度や二度の襲撃ではないのだ。


女は剣を構えた。右腕はやはり少し震えている。痛みを押し殺し、気力だけで動かしている者の匂いがした。


「名前を聞いても?」


リオが言うと、女は前を見たまま答えた。


「セリカ。ここの村長だ」


「元騎士ですね」


「今はただの村長だ」


「では、セリカ村長。十息だけ時間をください」


「十息で何ができる」


「七匹を眠らせます」


セリカは一瞬だけ、リオを見た。


冗談を聞いた顔ではなかった。信じてはいない。だが、信じたいとも思っていない。ただ、利用できるなら利用するという目だった。


「五息だ」


「厳しいですね」


「この村の冬はいつも厳しい」


セリカが雪を蹴った。


彼女は魔狼の正面へ飛び出した。剣の軌跡が白い空気を裂く。第一の魔狼が跳びかかり、その牙が彼女の肩を狙った。セリカは半身を沈め、左足を軸に回る。刃が魔狼の前脚を浅く切った。


浅い。


呪いのせいだ。右腕の踏み込みが遅れる。剣筋の最後で力が抜ける。


魔狼は怯まなかった。むしろ傷口から黒い霧を噴き、狂ったように首を振った。


リオはその間に鞄を開いた。


小瓶を三本、雪の上に並べる。


一本目は、青。眠りを誘う香り。


二本目は、琥珀。獣の記憶を呼び戻す香り。


三本目は、透明。風に香りを乗せるための媒体。


宮廷では、誰も彼の調香を魔法とは呼ばなかった。火球のように目に見えず、治癒魔法のように傷を塞がず、剣技のように歓声を浴びることもないからだ。


だが、世界は匂いでできている。


母を探す子犬は乳の匂いを追い、兵士は血と鉄の匂いで戦場を思い出し、恋をした少女は春の花を一生忘れない。記憶は言葉より先に匂いへ宿る。恐怖も、愛も、呪いでさえも。


リオの魔法は、その宿った記憶に触れる術だった。


「風よ」


彼は透明な小瓶を雪に垂らした。


液体は地面に落ちる前に霧となり、足元からふわりと舞い上がった。


「森を思い出せ」


次に琥珀の瓶を割る。


ぱりん、と澄んだ音がした。


甘く湿った香りが広がる。春の巣穴。母狼の腹。まだ目も開かぬ仔が聞く心音。獲物を追う前に飲んだ谷川の水。月夜の遠吠え。飢えではなく、生きるために走っていた頃の獣の記憶。


魔狼たちの動きが乱れた。


一匹が足を止め、鼻をひくつかせる。別の一匹が首を振る。赤く濁っていた目に、一瞬だけ夜の森の色が戻った。


だが、それを押しつぶすように黒い紋様が濃くなる。


「足りないか」


リオは青い瓶を手に取った。


その中身は、ただの眠り薬ではない。眠り草の花弁を七日間月光に晒し、銀鹿の角で濾し、最後に人の涙を一滴だけ落としたものだ。


誰の涙か。


かつて悪夢に苦しむ王妃が、眠れた朝に流した涙だった。


リオは瓶の蓋を開けた。


青い香りが、雪の上を滑った。


それは煙ではなく、音楽に近かった。目に見えぬ旋律が村の入口を満たし、魔狼たちの鼻孔へ入り込む。


一匹目が倒れた。


前脚を折るようにして膝をつき、雪に鼻先を埋める。二匹目は吠えようと口を開けたまま、声を出せずに横倒しになった。三匹目、四匹目。黒い蔦の紋様が皮膚の上で暴れるように蠢いたが、やがて力を失って薄れていく。


村人たちは、戸口や窓の隙間からその光景を見ていた。


誰も声を出さなかった。


五匹目が眠った時、セリカが低く呟いた。


「本当に、眠らせた……」


「まだです」


リオは森の奥を見た。


残りの二匹が、眠らない。


いや、眠れないのだ。


二匹の首には、黒い石の首輪が嵌められていた。石の表面に刻まれた紋様から、強い腐臭がしている。王都の地下牢。湿った壁。泣き声を吸った鉄鎖。


支配の魔道具。


しかも宮廷式だ。


「セリカ村長、首輪を壊せますか」


「近づければな」


「では近づけます」


「どうやって」


「嫌われてみます」


リオは鞄から小さな布包みを取り出した。


中身は乾燥させた赤い苔だった。南方の火山地帯に生える、火喰い苔。魔物にとっては強烈な刺激臭を放つ。人間でいうなら、鼻の奥に雷を突っ込まれるようなものだ。


リオは苔を指で潰し、自分の外套に擦りつけた。


瞬間、二匹の魔狼の視線が彼へ向く。


セリカが目を見開いた。


「お前、馬鹿か!」


「よく言われました」


「宮廷でか」


「主に師匠に」


魔狼が跳んだ。


リオは走った。といっても、戦士の走りではない。雪に足を取られ、鞄を揺らし、息を切らしながら、村の入口に積まれた薪の山へ向かう。


背後で牙が鳴った。


熱い涎が首筋に飛ぶ。


死の匂いが近い。


だが、死の匂いは初めてではなかった。王城の寝室にも、謁見の間にも、香水で飾られた舞踏会にも、それはいつも潜んでいた。


リオは薪の山の直前で、身体を横へ投げ出した。


魔狼の一匹が勢い余って薪へ突っ込む。積まれていた丸太が崩れ、雪煙が上がる。


「今です!」


叫ぶより早く、セリカは動いていた。


彼女の剣が、魔狼の首輪を正確に叩く。


一撃。


黒い石に亀裂が走る。


だが割れない。


セリカの右腕が硬直した。呪いの黒い蔦が、鎧の隙間から皮膚へ浮かび上がる。痛みが走ったのだろう。彼女の唇から、押し殺した呻きが漏れた。


もう一匹の魔狼が、彼女の背後から迫る。


リオは考えるより先に、雪を掴んで投げた。


もちろん雪玉で魔狼は止まらない。


だが、その雪には先ほど潰した火喰い苔の粉が混ざっていた。


魔狼が悲鳴を上げた。鼻を焼く刺激に首を振る。ほんの一瞬、動きが止まる。


その一瞬で、セリカは剣を持ち替えた。


右ではなく、左。


剣士としては不自然な構え。だが、彼女の目は迷っていなかった。


「壊れろ」


二撃目。


黒い首輪が砕けた。


魔狼の赤い目から、色が抜けた。巨大な身体が雪に沈むように倒れ、穏やかな寝息を立て始める。


最後の一匹は逃げようとした。


だが、村の屋根の上から矢が飛んだ。少年の放った矢だった。矢は魔狼の足元に刺さり、進路を逸らす。その瞬間、セリカが踏み込み、左手の剣で首輪だけを斬った。


七匹目が倒れた。


沈黙。


雪が降る。


リオは雪の上に座り込んだまま、肩で息をした。喉が痛い。膝も痛い。情けないほど心臓が暴れている。


だが、誰も死んでいない。


その事実の匂いは、焼きたてのパンに少し似ていた。


「おい」


セリカが近づいてきた。


リオは見上げる。


「はい」


「さっきの作戦は二度とするな」


「効果はありました」


「寿命にも効果がある。縮む方にな」


リオは笑おうとして、咳き込んだ。


村人たちが恐る恐る家から出てくる。最初に近づいてきたのは、弓を持った少年だった。年は十三か十四。頬にそばかすがあり、唇をきつく結んでいる。


「村長、その人……王都の人間なのに」


「見ればわかる」


「でも、魔狼を」


「見ればわかると言った」


少年は黙った。


次に、白い頭巾をかぶった少女が現れた。腕に薬草籠を抱えている。年は十六ほど。淡い栗色の髪が頬にかかり、大きな目でリオを見つめていた。


少女は何かを言おうとして、口を開く。


だが、声は出なかった。


代わりに彼女は籠から布を取り出し、リオの擦りむいた手へ巻いた。


「ありがとうございます」


リオが言うと、少女は小さく頷いた。


彼女からも匂いがした。


薬草。雪解け水。古い本。声を奪われた者の、閉じ込められた歌。


リオは思わず尋ねた。


「あなたも、呪いを?」


少女の指が止まった。


周囲の空気が固くなる。


セリカが低い声で言った。


「リオ。お前は余計なことを嗅ぎすぎる」


「すみません。職業病です」


「その職業は、ここでは歓迎されない」


「でも必要ではあります」


セリカは答えなかった。


その時、眠っていた魔狼の一匹が小さく震えた。黒い紋様が消えかけている首元から、かすかな匂いが立ち上る。


リオは立ち上がり、近づいた。


「触るな」


セリカが制止する。


「大丈夫です。もう支配は切れています」


リオは魔狼の毛皮に指を触れた。


鼻の奥に、映像のような匂いが流れ込む。


暗い森。


眠り草の群生地。


黒い外套の人物。


手袋をした指。


銀の指輪。


そして、囁く声。


――村を壊せ。竜を起こす前に。


リオは息を止めた。


竜を起こす前に。


つまり、誰かは知っている。リューネ村の白竜が、ただの伝説ではないことを。そして、眠り続ける竜が目覚めることを恐れている。


「セリカ村長」


リオは振り返った。


「この村の白竜は、どこにいますか」


村人たちが一斉に顔を強張らせた。


少年が弓を握り直す。薬草師の少女は目を伏せる。セリカの右腕には、また黒い蔦の紋様が浮かび始めていた。


彼女は長い沈黙のあと、村の奥を指さした。


そこには小さな丘があった。


雪をかぶった丘の上に、崩れかけた祠が建っている。その背後には巨大な岩壁があり、岩壁の中央に洞窟の口が黒く開いていた。


洞窟から、冷たい風が流れてくる。


リオはその風を吸い込んだ。


花の匂い。


星の匂い。


そして、長い長い夢の底で泣いている少女の匂い。


「白竜は、あの奥で眠っている」


セリカが言った。


「三十年前から一度も目覚めない。目覚めれば村を焼くと言われている」


「誰に?」


「王都の使者に」


やはり、とリオは思った。


「その使者は、眠り草を持っていましたか」


セリカの目が鋭くなる。


「なぜそれを知っている」


「国王陛下も、同じ香りで眠らされています」


雪が、村の音を奪った。


誰も動かなかった。


リオは言葉を選んだ。ここで王都の陰謀を叫んでも、村人たちの恐怖は解けない。彼らに必要なのは真実ではなく、明日を生きる理由だ。


「僕は王都を追放されました」


リオは静かに言った。


「けれど、ここに来たのは偶然ではないと思っています。王妃様が残した香り、国王陛下の眠り、第二王子の指輪、そしてこの村の白竜。すべてがつながっています」


セリカは黙って聞いていた。


「白竜に会わせてください」


「会ってどうする」


「匂いを読みます」


「またそれか」


「はい。またそれです」


セリカは疲れたように目を閉じた。


右腕の呪いが、手首から肘へ這い上がっている。リオは瓶を差し出した。先ほどの青い香りではない。痛みの根を眠らせるために作ったものだ。


セリカはしばらく瓶を見ていた。


やがて、奪うように受け取り、自分の腕へ数滴垂らす。


黒い蔦がわずかに薄れた。


彼女の眉間の皺も、ほんの少しだけ緩む。


「……効くのか」


「完全ではありません」


「完全でなくても、三年ぶりに指が動いた」


セリカは右手を開き、閉じた。


その動きはぎこちなかったが、確かに動いていた。


薬草師の少女が驚いたように目を見開く。少年も、村人たちも、声を失ってそれを見ていた。


リオは微笑んだ。


「香水も、たまには役に立ちます」


セリカはふん、と鼻を鳴らした。


「調子に乗るな。村に入れるとは言っていない」


「では洞窟には?」


「もっと言っていない」


「交渉は難航しそうですね」


「当然だ」


そう言いながらも、セリカは村の奥へ歩き出した。


数歩進んでから、振り返らずに言う。


「来い。ただし、妙な真似をしたら斬る」


リオは鞄を拾い上げた。


「妙な真似の基準を先に聞いても?」


「私が妙だと思ったらだ」


「なるほど。非常に明快です」


薬草師の少女が、声を出さずに少しだけ笑った。


その笑みを見た瞬間、リオは胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。


王都では、彼の香りは権力者の寝室を守るために使われた。毒を消し、悪夢を遠ざけ、嘘の上に花を飾るために。


だが、この村では違う。


凍えた手が動く。怯えた子どもが息を吐く。声を失った少女が笑う。


そのために使えるのなら、追放も悪くない。


洞窟へ近づくにつれて、空気は重くなった。


祠の前には、古い注連縄が張られている。縄には無数の小瓶が吊るされていた。中身はすべて乾いた眠り草。風が吹くたび、瓶同士が触れ合って、かすかな音を立てる。


ちりん。


ちりん。


まるで誰かの夢の中で鳴る鈴のようだった。


「この先に白竜がいる」


セリカが言った。


「だが、近づきすぎるな。眠っていても竜だ。呼吸だけで人の心を凍らせる」


「呼吸には記憶が乗ります」


「つまり?」


「危険ですが、手がかりもあります」


リオは洞窟の入口に立った。


奥は暗い。だが、その暗闇の向こうから、確かに香りが流れてくる。


白い鱗。


冷たい月。


砕けた約束。


そして、王妃のハンカチに残っていた祈りと同じ匂い。


リオは胸元の小瓶に触れた。


「王妃様……あなたはここを知っていたんですね」


洞窟の奥で、何かが動いた。


地面が低く震える。


眠っているはずの白竜が、ほんのわずかに息を変えた。


そして、リオの頭の中に声が響いた。


――その香りを、どこで手に入れた。


それは少女の声だった。


凍った湖の底から届くような、透明で寂しい声。


セリカが剣を抜く。


「どうした」


リオは答えようとした。


だがその前に、洞窟の奥で二つの瞳が開いた。


銀色の光が、闇を裂く。


白竜は眠ってなどいなかった。


目覚めることを、ずっと待っていたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ