第二話 青い香りは獣の夢を見る
最初に森から現れたのは、狼ではなかった。
狼の形をした、別の何かだった。
背丈は馬ほどもあり、雪を踏む四肢は異様に長い。毛皮はところどころ剥がれ、そこから覗く皮膚には黒い蔦のような紋様が浮かんでいる。目は濁った赤。牙の隙間から垂れる涎は雪に落ちるたび、じゅ、と小さな音を立てて白い地面を焼いた。
村人の誰かが悲鳴を上げた。
その悲鳴につられるように、森の奥からさらに二匹、三匹と魔狼が姿を現す。合計で七匹。リオは数を数えながら、同時に匂いを読んでいた。
血。飢え。腐った魔力。眠り草。
そして、人の手。
魔物はただ腹を空かせて村を襲っているのではない。鼻先に見えない縄をかけられ、誰かの意志でここへ連れてこられている。
「家に入れ! 窓を塞げ!」
銀髪の女が叫んだ。
その声に、村人たちは弾かれたように動き出した。慣れている。恐怖に震えてはいるが、逃げ方を知っている。これは一度や二度の襲撃ではないのだ。
女は剣を構えた。右腕はやはり少し震えている。痛みを押し殺し、気力だけで動かしている者の匂いがした。
「名前を聞いても?」
リオが言うと、女は前を見たまま答えた。
「セリカ。ここの村長だ」
「元騎士ですね」
「今はただの村長だ」
「では、セリカ村長。十息だけ時間をください」
「十息で何ができる」
「七匹を眠らせます」
セリカは一瞬だけ、リオを見た。
冗談を聞いた顔ではなかった。信じてはいない。だが、信じたいとも思っていない。ただ、利用できるなら利用するという目だった。
「五息だ」
「厳しいですね」
「この村の冬はいつも厳しい」
セリカが雪を蹴った。
彼女は魔狼の正面へ飛び出した。剣の軌跡が白い空気を裂く。第一の魔狼が跳びかかり、その牙が彼女の肩を狙った。セリカは半身を沈め、左足を軸に回る。刃が魔狼の前脚を浅く切った。
浅い。
呪いのせいだ。右腕の踏み込みが遅れる。剣筋の最後で力が抜ける。
魔狼は怯まなかった。むしろ傷口から黒い霧を噴き、狂ったように首を振った。
リオはその間に鞄を開いた。
小瓶を三本、雪の上に並べる。
一本目は、青。眠りを誘う香り。
二本目は、琥珀。獣の記憶を呼び戻す香り。
三本目は、透明。風に香りを乗せるための媒体。
宮廷では、誰も彼の調香を魔法とは呼ばなかった。火球のように目に見えず、治癒魔法のように傷を塞がず、剣技のように歓声を浴びることもないからだ。
だが、世界は匂いでできている。
母を探す子犬は乳の匂いを追い、兵士は血と鉄の匂いで戦場を思い出し、恋をした少女は春の花を一生忘れない。記憶は言葉より先に匂いへ宿る。恐怖も、愛も、呪いでさえも。
リオの魔法は、その宿った記憶に触れる術だった。
「風よ」
彼は透明な小瓶を雪に垂らした。
液体は地面に落ちる前に霧となり、足元からふわりと舞い上がった。
「森を思い出せ」
次に琥珀の瓶を割る。
ぱりん、と澄んだ音がした。
甘く湿った香りが広がる。春の巣穴。母狼の腹。まだ目も開かぬ仔が聞く心音。獲物を追う前に飲んだ谷川の水。月夜の遠吠え。飢えではなく、生きるために走っていた頃の獣の記憶。
魔狼たちの動きが乱れた。
一匹が足を止め、鼻をひくつかせる。別の一匹が首を振る。赤く濁っていた目に、一瞬だけ夜の森の色が戻った。
だが、それを押しつぶすように黒い紋様が濃くなる。
「足りないか」
リオは青い瓶を手に取った。
その中身は、ただの眠り薬ではない。眠り草の花弁を七日間月光に晒し、銀鹿の角で濾し、最後に人の涙を一滴だけ落としたものだ。
誰の涙か。
かつて悪夢に苦しむ王妃が、眠れた朝に流した涙だった。
リオは瓶の蓋を開けた。
青い香りが、雪の上を滑った。
それは煙ではなく、音楽に近かった。目に見えぬ旋律が村の入口を満たし、魔狼たちの鼻孔へ入り込む。
一匹目が倒れた。
前脚を折るようにして膝をつき、雪に鼻先を埋める。二匹目は吠えようと口を開けたまま、声を出せずに横倒しになった。三匹目、四匹目。黒い蔦の紋様が皮膚の上で暴れるように蠢いたが、やがて力を失って薄れていく。
村人たちは、戸口や窓の隙間からその光景を見ていた。
誰も声を出さなかった。
五匹目が眠った時、セリカが低く呟いた。
「本当に、眠らせた……」
「まだです」
リオは森の奥を見た。
残りの二匹が、眠らない。
いや、眠れないのだ。
二匹の首には、黒い石の首輪が嵌められていた。石の表面に刻まれた紋様から、強い腐臭がしている。王都の地下牢。湿った壁。泣き声を吸った鉄鎖。
支配の魔道具。
しかも宮廷式だ。
「セリカ村長、首輪を壊せますか」
「近づければな」
「では近づけます」
「どうやって」
「嫌われてみます」
リオは鞄から小さな布包みを取り出した。
中身は乾燥させた赤い苔だった。南方の火山地帯に生える、火喰い苔。魔物にとっては強烈な刺激臭を放つ。人間でいうなら、鼻の奥に雷を突っ込まれるようなものだ。
リオは苔を指で潰し、自分の外套に擦りつけた。
瞬間、二匹の魔狼の視線が彼へ向く。
セリカが目を見開いた。
「お前、馬鹿か!」
「よく言われました」
「宮廷でか」
「主に師匠に」
魔狼が跳んだ。
リオは走った。といっても、戦士の走りではない。雪に足を取られ、鞄を揺らし、息を切らしながら、村の入口に積まれた薪の山へ向かう。
背後で牙が鳴った。
熱い涎が首筋に飛ぶ。
死の匂いが近い。
だが、死の匂いは初めてではなかった。王城の寝室にも、謁見の間にも、香水で飾られた舞踏会にも、それはいつも潜んでいた。
リオは薪の山の直前で、身体を横へ投げ出した。
魔狼の一匹が勢い余って薪へ突っ込む。積まれていた丸太が崩れ、雪煙が上がる。
「今です!」
叫ぶより早く、セリカは動いていた。
彼女の剣が、魔狼の首輪を正確に叩く。
一撃。
黒い石に亀裂が走る。
だが割れない。
セリカの右腕が硬直した。呪いの黒い蔦が、鎧の隙間から皮膚へ浮かび上がる。痛みが走ったのだろう。彼女の唇から、押し殺した呻きが漏れた。
もう一匹の魔狼が、彼女の背後から迫る。
リオは考えるより先に、雪を掴んで投げた。
もちろん雪玉で魔狼は止まらない。
だが、その雪には先ほど潰した火喰い苔の粉が混ざっていた。
魔狼が悲鳴を上げた。鼻を焼く刺激に首を振る。ほんの一瞬、動きが止まる。
その一瞬で、セリカは剣を持ち替えた。
右ではなく、左。
剣士としては不自然な構え。だが、彼女の目は迷っていなかった。
「壊れろ」
二撃目。
黒い首輪が砕けた。
魔狼の赤い目から、色が抜けた。巨大な身体が雪に沈むように倒れ、穏やかな寝息を立て始める。
最後の一匹は逃げようとした。
だが、村の屋根の上から矢が飛んだ。少年の放った矢だった。矢は魔狼の足元に刺さり、進路を逸らす。その瞬間、セリカが踏み込み、左手の剣で首輪だけを斬った。
七匹目が倒れた。
沈黙。
雪が降る。
リオは雪の上に座り込んだまま、肩で息をした。喉が痛い。膝も痛い。情けないほど心臓が暴れている。
だが、誰も死んでいない。
その事実の匂いは、焼きたてのパンに少し似ていた。
「おい」
セリカが近づいてきた。
リオは見上げる。
「はい」
「さっきの作戦は二度とするな」
「効果はありました」
「寿命にも効果がある。縮む方にな」
リオは笑おうとして、咳き込んだ。
村人たちが恐る恐る家から出てくる。最初に近づいてきたのは、弓を持った少年だった。年は十三か十四。頬にそばかすがあり、唇をきつく結んでいる。
「村長、その人……王都の人間なのに」
「見ればわかる」
「でも、魔狼を」
「見ればわかると言った」
少年は黙った。
次に、白い頭巾をかぶった少女が現れた。腕に薬草籠を抱えている。年は十六ほど。淡い栗色の髪が頬にかかり、大きな目でリオを見つめていた。
少女は何かを言おうとして、口を開く。
だが、声は出なかった。
代わりに彼女は籠から布を取り出し、リオの擦りむいた手へ巻いた。
「ありがとうございます」
リオが言うと、少女は小さく頷いた。
彼女からも匂いがした。
薬草。雪解け水。古い本。声を奪われた者の、閉じ込められた歌。
リオは思わず尋ねた。
「あなたも、呪いを?」
少女の指が止まった。
周囲の空気が固くなる。
セリカが低い声で言った。
「リオ。お前は余計なことを嗅ぎすぎる」
「すみません。職業病です」
「その職業は、ここでは歓迎されない」
「でも必要ではあります」
セリカは答えなかった。
その時、眠っていた魔狼の一匹が小さく震えた。黒い紋様が消えかけている首元から、かすかな匂いが立ち上る。
リオは立ち上がり、近づいた。
「触るな」
セリカが制止する。
「大丈夫です。もう支配は切れています」
リオは魔狼の毛皮に指を触れた。
鼻の奥に、映像のような匂いが流れ込む。
暗い森。
眠り草の群生地。
黒い外套の人物。
手袋をした指。
銀の指輪。
そして、囁く声。
――村を壊せ。竜を起こす前に。
リオは息を止めた。
竜を起こす前に。
つまり、誰かは知っている。リューネ村の白竜が、ただの伝説ではないことを。そして、眠り続ける竜が目覚めることを恐れている。
「セリカ村長」
リオは振り返った。
「この村の白竜は、どこにいますか」
村人たちが一斉に顔を強張らせた。
少年が弓を握り直す。薬草師の少女は目を伏せる。セリカの右腕には、また黒い蔦の紋様が浮かび始めていた。
彼女は長い沈黙のあと、村の奥を指さした。
そこには小さな丘があった。
雪をかぶった丘の上に、崩れかけた祠が建っている。その背後には巨大な岩壁があり、岩壁の中央に洞窟の口が黒く開いていた。
洞窟から、冷たい風が流れてくる。
リオはその風を吸い込んだ。
花の匂い。
星の匂い。
そして、長い長い夢の底で泣いている少女の匂い。
「白竜は、あの奥で眠っている」
セリカが言った。
「三十年前から一度も目覚めない。目覚めれば村を焼くと言われている」
「誰に?」
「王都の使者に」
やはり、とリオは思った。
「その使者は、眠り草を持っていましたか」
セリカの目が鋭くなる。
「なぜそれを知っている」
「国王陛下も、同じ香りで眠らされています」
雪が、村の音を奪った。
誰も動かなかった。
リオは言葉を選んだ。ここで王都の陰謀を叫んでも、村人たちの恐怖は解けない。彼らに必要なのは真実ではなく、明日を生きる理由だ。
「僕は王都を追放されました」
リオは静かに言った。
「けれど、ここに来たのは偶然ではないと思っています。王妃様が残した香り、国王陛下の眠り、第二王子の指輪、そしてこの村の白竜。すべてがつながっています」
セリカは黙って聞いていた。
「白竜に会わせてください」
「会ってどうする」
「匂いを読みます」
「またそれか」
「はい。またそれです」
セリカは疲れたように目を閉じた。
右腕の呪いが、手首から肘へ這い上がっている。リオは瓶を差し出した。先ほどの青い香りではない。痛みの根を眠らせるために作ったものだ。
セリカはしばらく瓶を見ていた。
やがて、奪うように受け取り、自分の腕へ数滴垂らす。
黒い蔦がわずかに薄れた。
彼女の眉間の皺も、ほんの少しだけ緩む。
「……効くのか」
「完全ではありません」
「完全でなくても、三年ぶりに指が動いた」
セリカは右手を開き、閉じた。
その動きはぎこちなかったが、確かに動いていた。
薬草師の少女が驚いたように目を見開く。少年も、村人たちも、声を失ってそれを見ていた。
リオは微笑んだ。
「香水も、たまには役に立ちます」
セリカはふん、と鼻を鳴らした。
「調子に乗るな。村に入れるとは言っていない」
「では洞窟には?」
「もっと言っていない」
「交渉は難航しそうですね」
「当然だ」
そう言いながらも、セリカは村の奥へ歩き出した。
数歩進んでから、振り返らずに言う。
「来い。ただし、妙な真似をしたら斬る」
リオは鞄を拾い上げた。
「妙な真似の基準を先に聞いても?」
「私が妙だと思ったらだ」
「なるほど。非常に明快です」
薬草師の少女が、声を出さずに少しだけ笑った。
その笑みを見た瞬間、リオは胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。
王都では、彼の香りは権力者の寝室を守るために使われた。毒を消し、悪夢を遠ざけ、嘘の上に花を飾るために。
だが、この村では違う。
凍えた手が動く。怯えた子どもが息を吐く。声を失った少女が笑う。
そのために使えるのなら、追放も悪くない。
洞窟へ近づくにつれて、空気は重くなった。
祠の前には、古い注連縄が張られている。縄には無数の小瓶が吊るされていた。中身はすべて乾いた眠り草。風が吹くたび、瓶同士が触れ合って、かすかな音を立てる。
ちりん。
ちりん。
まるで誰かの夢の中で鳴る鈴のようだった。
「この先に白竜がいる」
セリカが言った。
「だが、近づきすぎるな。眠っていても竜だ。呼吸だけで人の心を凍らせる」
「呼吸には記憶が乗ります」
「つまり?」
「危険ですが、手がかりもあります」
リオは洞窟の入口に立った。
奥は暗い。だが、その暗闇の向こうから、確かに香りが流れてくる。
白い鱗。
冷たい月。
砕けた約束。
そして、王妃のハンカチに残っていた祈りと同じ匂い。
リオは胸元の小瓶に触れた。
「王妃様……あなたはここを知っていたんですね」
洞窟の奥で、何かが動いた。
地面が低く震える。
眠っているはずの白竜が、ほんのわずかに息を変えた。
そして、リオの頭の中に声が響いた。
――その香りを、どこで手に入れた。
それは少女の声だった。
凍った湖の底から届くような、透明で寂しい声。
セリカが剣を抜く。
「どうした」
リオは答えようとした。
だがその前に、洞窟の奥で二つの瞳が開いた。
銀色の光が、闇を裂く。
白竜は眠ってなどいなかった。
目覚めることを、ずっと待っていたのだ。




