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追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


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第百十八話 透明になった水にも、朝のことを忘れさせない

翌朝、隣室の水差しは透明だった。


底には何も沈んでいない。


葉の欠片も、紙の繊維も、埃もない。


朝の光が水を通り抜け、机の上に淡い揺れを落としている。


リクはその揺れを見て、少し安心した。


けれど、安心しすぎるのも少し怖かった。


昨日、濁った水を替えた。


古い水は土へ戻した。


蓋がずれていたことを見て、蓋を直した。


今日は水が澄んでいる。


では、昨日のことは終わりなのか。


リクは水差しのそばに置かれた札を見た。


“濁っていたら、全部を責めずに替える。”


“飲む水ではなくなっても、土へ戻せる。”


“濁った理由は、必要なら後で見る。”


「透明になったら、昨日のこと忘れていい?」


リオは隣で水の光を見ていた。


「忘れてもよい部分と、忘れない方がよい部分があります」


ミナが言った。


「葉の欠片を責め続ける必要はありません。でも、蓋がずれていたことは覚えておくとよいですね」


セリカが頷く。


「責める記録ではなく、次の手入れのための記録だ」


リュミナが台所から言った。


「焦げた鍋を洗った後も、火が強すぎたことは覚える」


セリカがすぐ返す。


「お前はよく覚えろ」


「覚えている。だから昨日より少し弱火だ」


「本当か?」


「たぶん」


リクは木札を書いた。


“透明になった水にも、朝のことを忘れさせない。”


その下に、


“責めるためではなく、次の手入れのために覚える。”


朝食のあと、アリアンヌから手紙が届いた。


――リクへ。


――廊下の水差しは、今朝は透明でした。


――私は安心しました。


――でも、昨日、蓋がずれていたことまでなかったことにしそうになりました。


――透明な水は、昨日の埃を消してくれます。


――でも、蓋を直したことまで消してはいけないと思いました。


――メリッサが、蓋の横に小さな印をつけました。


――閉まっているか見やすいように。


――誰が閉め忘れたかを責める印ではありません。


――今日はアリアンヌ。


――王女の服は、襟元の糸くずを見つけやすいように、朝の光の下で見ました。


リクは手紙を読んで頷いた。


「蓋の印」


ミナが微笑む。


「責める印ではなく、見やすくする印ですね」


リオは今日だけの棚に札を置いた。


“透明な水は、昨日の埃を消してくれる。でも、蓋を直したことまで消さない。”


セリカがその隣に、


“責める印ではなく、見やすくする印。”


と書いた。


リュミナが鍋の蓋を見た。


「鍋の蓋にも印がいるか」


セリカが言う。


「お前の場合、蓋の前に火加減だ」


「両方だ」


昼前、白盾記録院から報告が届いた。


隣室の水差しは、今日は澄んでいた。


担当官は昨日の紙繊維の件を記録から消そうとしたという。


“もう替えたので、残す必要はないのではないか。”


年長の記録官は首を振った。


“容疑者を探す記録ではない。支援の水が濁った時、どう替えたかの記録です。”


そして、昨日の記録に追記した。


――翌朝、水は透明。

――蓋を確認しやすい位置へ変更。

――飲む人の名前は記録しない方針を継続。


レインはその報告を聞いて、静かに頷いた。


「方針を継続」


ミナが言った。


「一度濁ったからといって、飲む人を見張る方へ戻らないことですね」


セリカの声は低い。


「失敗のあとに監視を増やすのは簡単だ」


リオは札を書いた。


“支援の水が濁った時、どう替えたかの記録。”


その下に、


“一度濁ったからといって、見張る方へ戻らない。”


リクはもう一枚足した。


“翌朝、水は透明。”


午後、レムリア商市から手紙が届いた。


料理長の水差しは、今日は透明だった。


しかし料理長は、昨日自分が“手を洗わずに触ったかもしれない”と言ったことを気にして、水差しに近づかなくなったという。


サラ・ベルテが尋ねた。


“今日は飲みませんか。”


料理長は答えた。


“また濁らせるかもしれません。”


すると、昨日の男が入口から言った。


“濁ったら替えるんでしょう。”


料理長は黙った。


それから水を一口飲んだ。


サラは記録した。


――一度濁らせたかもしれない人も、飲んでよい。


リュミナは椀を置き、深く頷いた。


「大事だ」


セリカも頷く。


「失敗の疑いだけで、水から追放するな、だな」


ミナは今日だけの棚に札を書いた。


“一度濁らせたかもしれない人も、飲んでよい。”


リオがその隣に、


“濁ったら替えるんでしょう。”


と置いた。


リクは小さく笑った。


「強いな、その人」


「はい」


ミナは微笑んだ。


夕方、国王から手紙が届いた。


――リクへ。アリアンヌへ。


――廊下の水差しは、今日は透明だった。


――私は安堵した。


――だが、安堵のあまり、昨日の濁りをなかったことにしそうになった。


――また、昨日濁ったから、今日から水を飲む者の名を記録せよと言いそうにもなった。


――どちらも違うのだろう。


――昨日の濁りは、昨日の手入れとして残す。


――今日の水は、今日も飲んでよい水として置く。


――今日は、スープを飲んだ人。


――追伸。二杯目は半分。昨日落とさなかった匙を、今日は少し誇らしく思った。思っただけで、宣言はしなかった。


リュミナが満足そうに目を細めた。


「宣言はしなかった」


セリカが笑う。


「それを書いている時点で少し宣言だな」


「思ったことは記録してよい」


「まあ、そうだな」


リクは今日だけの棚に札を書いた。


“昨日の濁りは、昨日の手入れとして残す。”


“今日の水は、今日も飲んでよい水。”


“思っただけで、宣言はしなかった。”


夜、リクは隣室の水差しを見に行った。


透明な水。


蓋はきちんと閉まっている。


蓋の横に、小さな印をつけた。


閉まっているか見やすいように。


誰かを責めるためではない。


見張るためでもない。


次に水を入れる人が、少し困らないように。


「昨日のこと、残ったな」


リクが言った。


リオは頷いた。


「はい」


「でも、昨日の水はもうない」


「はい」


「土に行った」


「はい」


「今日の水は、今日飲んでいい」


「はい」


ミナが隣で静かに言った。


「記録は、今日を罰するためではなく、今日を少し安全にするために使えるのですね」


リクは水差しの揺れを見て、ゆっくり頷いた。


その夜、リオは新しい香りを作った。


透明になった隣室の水。


蓋の横につけられた小さな印。


翌朝の水を見張りへ戻さなかった白盾記録院。


一度濁らせたかもしれない料理長が飲んだ一口。


昨日の濁りを昨日の手入れとして残した王。


宣言しなかった二杯目の小さな誇り。


ラベルは、


“透明になった水にも、朝のことを忘れさせない。”


その瓶は水差しの近くではなく、蓋の印が見える場所に置かれた。


見張らず、忘れず。


香りは残る。


透明な水にも。


昨日の濁りを罰に変えなかった記録にも。


そして、きれいになったからといって何も起きなかったことにせず、かといって今日の水を疑いで濁らせもしなかった、蓋のそばの小さな印にも。

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