22
アーノルドとミカエルの姿を視界にとらえた瞬間から、さっきまであった浮かれた気持ちが水をかけられたように冷めていく。
チラリと視線だけで背後を振り返れば、突然この国の王子と出会ってしまったエミリーはあまりの驚きに固まってしまっているし、カミルもどうしたものかと警戒を緩めずとも下手に行動することもできずにいた。
今、この場でアーノルドと話すことができるのは公爵家であるルイくらいのものである。
そう判断したルイは、ここしばらく被っていなかった猫を引っ掴んでさっと被る。なんだかんだでこれまで生きてきた中で8割はルイと共にいた猫である。しばらく被っていなかったとは思えないほどスムーズに、ルイ・コレットとして話すことができた。貴族の礼をとって、あくまで偶然出会ったと言うことを強調しながら、アーノルドの機嫌を損ねないように慎重に言葉を選んだ。
「……お久しぶりです、アーノルド殿下。こんなところで会うなんて奇遇ですね。これからお出かけですか?」
あくまで社交辞令程度の会話しかせずにさっさと話を切り上げようというルイの考えとは裏腹にアーノルドは意外なほど素直にルイの問いかけに答えた。
「……ああ、これからミカが見たいと言っていた演劇を見に行こうとしていてね。」
いっそルイの問いかけなど無視してとっととこの場から離れてくれた方がよっぽどマシではあったが、おそらくアーノルドはルイの後ろにいるエミリーとカミルに目ざとく気づいて律儀に返事を返してきたのであろう。彼は世間一般的に見れば貴族の階級にあまり拘らない平等な優しい王子だと評判だから。
「それは良いですね。遅れてしまったら大変ですし、私はこれで。」
そそくさとその場を後にしようと話しを切り上げるルイ。普通であればかなり不躾な会話でもあるのだが、腐ってもルイは公爵令息。それに元ではあるがアーノルドの婚約者であった。人の目の少ない個人的な会話としては十分だと判断して、2人に道を譲るように体をのける。
ルイに倣うようにして道を譲ったカミルとエミリーを見て、予想外の出来事ではあったが、このまま何事もなく終わりそうだと少し詰めていた息を吐いた時、ルイの目の前を通り過ぎようとしたアーノルドが不意にこちらへと視線を向けた。
「ところで、コレット公爵令息。」
「……はい?」
ルイはその問いかけになんだか嫌な予感がして、すぐに返事を返せなかった。
「俺は、カミル殿に付きまとうなと言ったはずだけど?」
その言葉にルイは何故だかわからないがざあっと全身の血の気が引いていったような心地になった。言葉自体は柔らかく、雑談でも降ってきたかのような軽さであったのに、何故だか鳥肌が立ち、ゾワゾワとした寒気が止まらない。恐る恐る顔を上げアーノルドの顔をチラリと覗き見たルイはひっという悲鳴を口から出る寸前で無理やり喉の奥へと押し込んだ。
口元は軽く笑みの形を作ってはいるが、ルイが何よりも異質に感じたのはその瞳である。
カルタナ王国の王族にのみ現れるというそのルビーの瞳は、婚約していた頃はそれはそれは綺麗な宝石のようで彼とルイは彼と目を合わせて話しているだけで幸せな気持ちになった。それが今はかつての澄んだ色が微塵も見つからないほど暗く濁っており、どろりとした黒く底の見えない感情がとぐろを巻いているように瞳の中を蠢いていた。その瞳から見つめられたルイは見えない鎖のようなものにがんじがらめにされたかのように指一つ動かすことができない。
不自然に固まってしまったルイを不思議そうに見やるカミルとエミリー。2人がいなければルイはおそらくそのまま倒れ込んでしまっていただろう。それほどまでの恐怖に支配された。
問いかけに一言も返すことができないルイをしばし見つめていたアーノルドはやがて痺れを切らしたように一方的に話し始めた。
「どうしたの?黙りこくって。まさか俺が言ったことを忘れてたわけじゃないだろう?それとも彼に迷惑をかけるつもりでまだ付き纏ってるの?それに、よく見たらそちらの彼女は確かハートベル商会のご令嬢だね。まさか今度は地位が低い彼女を脅して金でも巻き上げるつもり?そういう行動を改めろと言ったことすら忘れてしまうほど君は愚かだったかな?」
その言葉に気色ばんだのはルイの後ろにいたエミリーとカミルである。アーノルドのあんまりな言いように、カミルはギリと音がなるほど拳を握りしめ、エミリーなど今にも食ってかかりそうになっている。
それでも2人が感情に任せてアーノルドへと飛びかからないのは、彼がこの国の王族であることと、今アーノルドへと突っかかって迷惑を被るのはこの場で1番地位の高いルイであることを理解しているためである。
一方ルイは、そんな2人の様子に気づくこともなく、アーノルドの言葉が意味もなくぐるぐると脳内を巡り、もやがかかったように思考が鈍くなっていく。
めいわく……迷惑?それに脅す……?そうか、僕は殿下にそう思われてるんだ。じゃあ、やめないと。……あれ?でも、そしたら……また、僕は…………。
こちらを冷たく見下ろすアーノルドの表情が首を切られる前に見た彼の表情と重なり、無意識のうちに震える手を首元へと運んでいた。
そうして触れたのは傷の凹凸の残る己の首ではなく、なめされた革のつるりとした触感。
次の瞬間、もやがかかっていた頭の中からぱあっと霧が晴れたような心地がした。
落ち込んでいく思考に比例して暗く沈んでいたサファイアの瞳は輝きを取り戻し、いつのまにか詰めてしまっていた息を大きく吸う。
急に様子の変わったルイにアーノルドは怪訝そうにルイの手元を見て、その首元に巻かれた装飾品に何故か不快感を露わにさせた。
「その首元のものはなに?仮にも公爵令息だというのならそんな安っぽい、品位を落とすようなものはつけないことだね。」
その言葉についにエミリーとカミルが耐えきれなくなり、アーノルドへと噛みつこうとしたが、ほんの少しだけルイの言葉の方が早かった。
「やめてください。」
凛とした声が響き、アーノルドへと噛みつこうとしたカミルとエミリーはもちろん、なおもルイへと文句を垂れようとしていたアーノルドまで驚きに目を見開いていた。
「殿下、数々のご忠告痛み入ります。これまでの非礼もまとめてここで深くお詫び申し上げます。……ですが、僕のこれまでの愚行に彼らは関係ありません。脅してもいませんし、彼らはこんな僕のことも友人と呼んでくれる優しい人達です。このチョーカーも友人からの贈り物です。殿下にとっては安物かもしれませんが、僕にとっては何よりも大切なものです。」
そう言って真っ直ぐにアーノルドを見つめるルイに意外なほどにアーノルドはたじろいだ。
「僕の宝物を婚約者でもない殿下がとやかく言うことはやめてください。」
アーノルドにとってのルイは、いつもうっすらと笑みを浮かべてアーノルドの話しを静かに聞き、決して否定しない人形のような完璧な公爵令息であった。そんな彼が瞳に強い光を宿して言葉は丁寧ながらもキッパリと第三王子であるアーノルドを咎めた。
するりと優しげな表情で首元のチョーカーを撫で、少しだけ後ろを振り向いて2人の友人へと笑いかけるルイのその顔をアーノルドは見たことがなかった。
「……っ、る、」
「アーノルド様。」
そうして呆然とその様子を眺めているアーノルドがなおも何かを言い募ろうとしたその時、控えめながらもやけに響く声をかける小柄な人物が1人。ハッとしたようにアーノルドは先ほどから一言も話さず、亡霊のように彼のそばへと控えていたミカエルを見る。彼はアーノルドの腕へと自分の腕を絡ませながら、甘えたように、しかしそのペリドットのグリーンの瞳に何の感情も映さずにアーノルドへと話しかけた。
「そろそろ行きましょう?もう演劇が始まっちゃう。」
「……ああ、そうだね。」
少し考えるような顔をした後、ミカエルへと優しく微笑みかけながらそっと彼の手を取るアーノルド。一見仲睦まじい恋人のようなその仕草だか、ルイの目には2人がまるで台本に沿って話しているような、細部まで指示された通りに動いているような、そんなぎこちなさを覚えた。
それまでルイを見つめていたアーノルドはミカエルから声をかけられた瞬間からルイに興味を失ってしまったかのように一瞥もせずに横を通り過ぎていく。同じようにミカエルもルイの横を通り過ぎようとしたその瞬間、するりとルイの手の中に小さな紙を差し込まれた。反射的に受け取ってしまったそれを、捨ててしまおうかと思ったルイだったが、紙を渡される一瞬、まるで懇願するようにルイのことを見たミカエルのことが引っかかってしまって、結局雑に自分のポケットの中へとしまった。




