兄の送迎
こんなにも鮮明にあの時の事を夢で見たのは初めてだった。
自分で周りに言いふらしていたように、彼との出会いは運命的で、とても綺麗なイメージとしてしか残っていなかったのだ。
事実はこんなにも血なまぐさいものであったのに。
自分が危険な目にあって、助けて、と思っていたら颯爽と現れて助けてくれて、額にキスをして名も告げずに彼は去って行った。綺麗なところだけトリミングして私の中ではその程度の出来事だったとインプットされていた。
人間はあまりにもつらい物事を防衛本能で記憶から消してしまうというのは、どこかで聞いたことのある話だが、自分も例外ではなかったらしい。今の今まで恐ろしい人間に命を脅かされかけたことなど忘れていた。
もしかしたら、覚えていないだけで悪夢にうなされて喉を掻き毟ったり、口を閉じれずに震えたこともあったかもしれない。
現に、執事長に母が娘の夜泣きが凄いと相談しているところを目撃したことは一度だけあったのだ。自分には全く身に覚えのないものであったから首をかしげただけであまり気にせずにいた。
なぜ今になって正しい記憶を思い出したのだろう。
考えなくともわかる。自分にとって一つの節目の時が来たんだ。
「おはようハル。…本当に出て行っちまうんだな」
「おはよう店長、クレアさん。ああ、カミラもいたのか」
「いるさ今日くらい。前置きもなしに突然同僚が出て行っちまうんだから」
パン屋の朝は早い。昨日のうちに仕込んでおいた生地を日が昇るころに窯に入れる為、朝食よりも早くにみんな厨房に集まる。
いつもどおりの時間に足を運べば、店長に店長の奥さんのクレアさん、自分と同じくパン屋で住み込み働きしている22歳独身貴族のカミラも集っていた。
「いつも一番最後に現れるのにさ」
「こんな時ぐらいちゃんと時間どおりに現れるに決まってんだろ。唯一の同僚が今日限りでいなくなるんだから」
「ずいぶん根に持つな」
生活も格好もだらしがないカミラだが、いつか自分の店を持つのだと、当たり前だというようにいつもの口調で夢を語ってくれたのはいつだったっけ。
「ちゃんと起きられるなら毎日サボっていたという事か?カミラ」
「そりゃ言葉のあやってもんさ店長。俺はいざという時やればできるってこと」
調子がいいのも彼のステータスだ。それに店長がジト目で返し、彼がさらに調子に乗ったところに私が上げ足を取って、クレアさんが笑う。
こんなたわいもない一連の流れも今日限りか。一年も続けていれば嫌でも寂しいと思わざるを得ない。
「いやしかし驚いたな。まさか急にハルが城に遣えるようにスカウトされるだなんて」
「本当にそれさ。しかも執務補佐だと?エリート街道まっしぐらじゃねえか」
「俺自身も驚いてるよ。自分でも職務を全うできるか心配で良く眠れなかったさ」
侍女と正直に伝えることは出来ないので、みんなには執務補佐とかいうあいまいな仕事の名前で退職理由をこじつけた。
「もう決まったことだから我々がとやかく言うようなことは無いとはわかってるけどさ。…その、お前はちゃんと乗り気なのか?昨日から全然元気ないから」
「…無理やりやらされているんじゃないか?確かに断りづらいスカウトだが、拒否権くらいあるだろう」
「私も心配だわ。無理しようとしていない?」
3人とも心配そうに私を覗きこんでくる。
ああ。みんな優しすぎる。嬉しい。大好きだ。
「ありがとう。違うよ、ちゃんと自分の意思で城に行くんだ。心配かけてごめん」
大丈夫だと、ふにゃりと笑って見せる。
「そうか。お前が決めたことならもう何も言わない。ただ、辛いときは逃げること」
「逃げてもいい、じゃないんだ?」
「ああ違うな。考えるよりも先に逃げ出せ、脱兎のごとく。どうせ現状を打破しようと無理をしているうちにお前は身を破滅させるタイプだろう。この1年でそれくらいは見えたさ」
すぐに逃げろ、かあ。
初めて聞くタイプの激励に苦笑いが零れる。
「みっともなくお前が城を飛び出してどこも雇ってくれなかったら、またそのエプロンを付ければいいさ。店長の俺よりお前が一番生地を同じ形に丸められるからな」
「あはは、ここでまたこき使われるのも悪くないや」
アルバイトはこのパン屋で2件目ではあったのだが、1年も働いた思い入れは強い。
じわ、と込み上げるものに気づかないふりをして、十分に温まった窯に、銅版の上に等間隔に並べられた生地たちを滑り込ませた。
パンたちを無事みんな窯の中に送り出したら、さあひと段落だと従業員全員で奥さんのクレアさんが準備してくれた朝食にありつくのがお決まりだった。
いつもと変わらず、行儀悪くもにぎやかな朝食をすませば焼きあがったパンたちを店頭に並べたり配達するために箱に詰めたりする。
主力である配達要員の自分がいなくなるので、店長とカミラは食べ終わったらすぐに準備に取り掛かり、いつもより早く店を後にするらしい。
「じゃあまたなハル!たまには顔見せに来いよ」とか「むしろ配達を頼め。そしたらめったに上がれない城に堂々と行けるからな」と慌ただしく出て行った彼らを見送って、ごたついた厨房を奥さんのクレアさんと一緒に片づける。
「ハル、時間があるならクッキーでも焼いてみる?」
「お、いいですね!やりましょう」
実はたまに時間が空いた時には奥さんのクレアさんとこうしてお菓子作りなんてものをたしなんだりすることがあった。
おかげでクッキーやスコーンのような簡単な物からフィナンシェやシフォンなどの凝ったものもできるようになった。
その後クッキーも綺麗に焼き上げ、奥さんのクレアさんとお茶を優雅に飲んでいると昨日同様兄が城から迎えに来てくれた。
「アルも、どう?」と尋ねれば「今は仕事中だ」と突っぱねられたので無理やり口にクッキーを押し込む。
仕方なしに口を動かすうちに頬が緩んでいたところを見ると味は好みだったようで「口に合って良かった」と笑えば兄は苦笑する。
その傍らで奥さんのクレアさんが口に手を当てて頬を染めていたのはよくわからなかったが。
程よくして店を奥さんのクレアさんに見送ってもらい、兄とたわいもない話をしながら城に向かう。
兄と一緒だったので簡単に手続きを済ませられ、何事もなくシノノメがいる北側の塔にやって来たところで兄が足を止める。
「悪いが、騎士の俺が案内できるのはここまでだ。この北の塔は魔道関係者しか立ち入りを許されていないんだ」
「えっそうだったのか」
「そうだ。昨日は例外で公爵令嬢という高い身分の方の命だったから入れただけだ。ちなみに騎士の本部がある南の区域には魔道士は許可なく入ることは許されない。申請を出せば難なく入れるが。だから、真逆の位置にいる俺とお前は今後簡単に会うことは出来なくなるだろうな」
どうやら申請許可云々はずいぶんガバガバなものみたいだが、これで兄とはめったに遭遇することはない。そのことにほっと息をつく。
私が次シノノメに会った時にはこの鏡の魔法を封印しなければならなくなるので、どっちにしろ兄が会った“ハル”という青年に会うことは今後一切ないのだが、魔法を解いた兄の妹の“ハルシア”の姿で会う事だけは避けたかったので有り難い。
うん。兄に会えなくなるだなんて、寂しくなんか、ないよ。
「おいおい、そんな不安そうな顔をするな。お前図体がでかいくせに子犬のようなまなざしをこっちに向けるな。罪悪感が凄い」
「いや、アルに会えなくなるのかと思うとやっぱ寂しいよ。今まで、本当にありがとう」
「おいよせよ。頑張れば会えないこともないんだ。そんな今生の別れのような雰囲気はおかしいぞ」
「…そうだね」
「まったく…俺は今二番隊に所属しているが、ついこの間一番隊に移籍することが決まった。もし何かあったらこの一番隊のアレクセイ・カトゥリゲスを尋ねればいいさ。騎士の俺が北の塔を尋ねるよりもよっぽど簡単なはずだ」
「うん。ありがとう」
やはり兄は優しい。妹の私には一等優しかったけれども、昨日会ったばかりの平民(という事にしている)ハルに対しても差別することもなく気兼ねなしに優しい言葉をかけてくれるのだ。
彼は、やっぱり私の自慢の兄だ。
「じゃあ、また」
「ああ。元気でな」
彼の最愛の妹との別れだったらどうしていたんだろうか。いくら私が足を動かそうにも泣きながら腰に抱き着いて離れたりしないかもしれない。
そもそも送り出すことを良しとしないか。
1年半も男として生活していた経験は大きい。もはや自然にできるようになった男の仕草で、なんのためらいもなく兄と拳をぶつけ合わせ、踵を返して私は北の塔へ足を踏み入れる。
「あ、ハル!一つだけわがままを言っていいか!」
兄が声を張り上げ、私を呼び止める。
「実は今日、妹の誕生日なんだ!」
ドクン、と視界が揺らぐ。
「誰にも聞かれないのもなんだか癪だ。お前が妹の代わりに聞いてはくれないか!」
私はぐらぐら揺れる足を無理やり動かして兄にまっすぐ体を向ける。
「誕生日おめでとうハル!お前がこの世に生まれてきてくれて、本当に嬉しい!いつも俺の宝でいてくれて、本当にありがとう!」
兄の言葉に、私は笑って拳を上げることしかできなかった。
そうでもしないと、思わず口を開けば嗚咽が出てしまいそうだったから。
運命か偶然か。謀られたかのように私は今日14歳になった。
.