第一章 第十二話 邪神に剥奪された人権
――ヴィナグレイス。
ガディスニア大陸、ラスメイータ王国。
二番目に大きな南方の大陸……その湾岸に国土を広げる王政国家である。
地理的優位を活かし、水産業や貿易が盛んに行われており、そういった発展の基幹には女神アステロニカの加護があった。
動植物が変異した生物は、魔物と通称されているが、魔物の生息域は陸地だけではない。
海洋にも魔物は棲んでいる。
物資を乗せた貨物船が、輸送中に海上で襲われるケースも少なからず発生していた。
そのような危険を回避する為、商人や組合は依頼をして護衛を雇うわけだが、無償で安全は買えない。
雇用人数が増えるにつれ、出費は比例する。
利益と損害を鑑みて、ある程度は許容するしかないのだろうが……しかし、ここラスメイータ王国では魔物が潜む海域に面しているというのに、被害が極僅かであった。
それはひとえに、女神アステロニカの加護に守られているからに他ならない。
――だが。
女神が守護するのは……世界の秩序。
下界に住む人々の心は思考の外だ。
そも、考えようとすらしないだろう。
女神――神族にとっては、百年余りで……長命種でも、数百年で輪廻する矮小な魂でしかない。
異世界から召喚され勇者となった者に、身体を弄ばれ壊された少女がいようと、女神は慈悲を与えなかった。
「……うっ……っ……おえぇぇぇぇぇ……っ!!」
ラスメイータ王国の王城アカラス、上階の最奥――第一王女アナスタシアの私室にて。
天蓋付きのベッドに蹲り、アナスタシアは嘔吐していた。
真夜中をまわり、明かりが灯されていない部屋は暗い。
カーテンが閉められた窓から差し込む月光が、ベッドの上で涙をこぼす人影を照らしている。
「……なんで……なんで…………違う……私じゃ……私じゃない……うっ……」
言葉にならない嘆きを漏らし、再び吐き気に襲われる。
違う違う、と何度も自分に言い聞かせて――。
涙を枯らす勢いで、しかしそれでも激情を重ねることが、壊れてしまった心を踏み留まらせる行為だというように。
吐瀉物と唾液、涙で汚れたシーツを握りしめ、自己暗示をし続ける。
元は可憐で淑やかな、女性だったのだろう。
コバルトブルーの長髪は、だが頭皮を掻きむしりでもしたのか毛先は乱れ、抜け落ちたそれらがシーツに染みた体液に混ざっている。
成熟した色香と、浮世離れした儚さが同居する麗らかな顔は――頬がやつれ唇は渇き、宝石のような輝きを放っていた瞳は灰色に。
そこには絶望と後悔があった。
「……私は……私は何をした……の……違う……してない……私は……してない……っ!!」
と、支離滅裂にも聞こえる断固とした否定を叫び、アナスタシアが枕を投げる。
それは側に置かれたサイドテーブルに当たり、飾られていた花瓶が床に落ちた。
――パリンッ!
寝静まった城内に、響き渡る破砕の音。
しかし、それをやった部屋の主は……視線すら向けない。
ブツブツ、うわ言のように呟いて、アナスタシアは――。
「おやおや。これはこれは、随分と重傷だねぇ。いやまあ、定められた予定調和とはいえ、哀れには思うけどね」
――フフフ。
そんな、どこか人を小馬鹿にした忍び笑いが聞こえた。
バッ、と枕に埋めていた顔を上げ……そして、アナスタシアが愕然とする。
ベッドの脇に見知らぬ男が、一冊の本を抱え突っ立っている。
尖った耳に、頭には帽子。
金色の両目が愉快そうに笑っていた。
ここは、第一王女アナスタシアの私室。
王城アカラスの最奥であり、関係者以外は……貴族だろうが、許可を得ないと立ち入れない。
廊下や階段には日夜、騎士が待機している。
――なのに。
「……だ…………」
「おっと、陳腐な質問はやめたまえよ。そんな凡庸な台詞、ワタシの物語には不要だ」
そう先んじて制すると男は。
「ワタシは《原初の識者》。君たち傀儡に分かりやすいように言うと……邪神族になるね、うん」
誰何を遮っておきながらも、男――《原初の識者》は、素性をサラッと明かした。
――邪神族。
それは世界の秩序を乱す存在。
子供でも知っている、ヴィナグレイスの常識だ。
しかし、半分は……いや八割、信じられていない。
空想上の、お伽噺に登場する種族だと思われていた。
普通に下界で生きていて、遭遇することが皆無だからである。
ラスメイータ王国の第一王女であると同時に、女神アステロニカを奉る星深化教会に於いて聖女を務めているアナスタシアは、そういった聖職者という立場上、邪神族に関する歴史書を読み、知識としては頭に入っている……が、認識は民衆と大差ない。
現代より、遥か昔にいた邪悪な存在、神族の怨敵――。
「……だ……誰で…………っ」
胃液がこみ上げる喉を動かす、アナスタシアは。
灰に染まった目で睨もうとして……首が飛ぶ。
自称、《原初の識者》を名乗る男の繊手が振るわれ、色々な液体で濡れた頭部が床を跳ねた。
「陳腐な質問は受け付けない。始めにそう言ったよね。ワタシは勇者と違って、暇ではない……ん? まあ、暇ではあるのか……いまのところは」
と、思案する素振りを見せ、《原初の識者》がベッドの反対側に。
化粧台の脚に接触して止まった頭を拾う。
「ワタシはね、常々考えていることがあるんだよ。生物は……人も神も、進化をし続けるべきである、と」
アナスタシアを手に、《原初の識者》は窓際に向かう。
閉じられていたカーテンを開け、月明かりを浴びた。
「成長とは素晴らしいものだ。勉学、魔法、信仰……文明を文明たらしめる必要不可欠な屋台骨にして、知的生命体を次の段階へ運び、星を再生させる礎となる」
分かるかい? そうアナスタシアに優しい声音で尋ねて――。
《原初の識者》が、城下に広がる港町……王都を見下ろした。
「神界ルリシセグンスの神々は、現状維持にしがみついている。馬鹿馬鹿しいとは思わないかい。自分達とは相容れない邪教徒には教科書通りの正論を振りかざし、世界の秩序を調整という大義名分をのたまっている。ワタシにすれば、それは進化を拒んでいる現実逃避だ」
《原初の識者》が、アナスタシアを両手で持った。
切り離された頭部は、だが……生きている。
出血はしておらず、驚愕と恐怖に見開かれた瞳が停止したように固まっていた。
《原初の識者》は、目を合わせて――
「だからこそ、ヴィナグレイスには変革が必要なのさ。新たな世界を開拓するには、いつの時代でもキッカケが発生する。それが起きないと、連鎖反応は促せない。言うなれば、ワタシは世界を……ヴィナグレイスを円滑に回す、この星にとっての血脈なんだよ」
その語り口調は、アナスタシアの耳に届いていた。
だが、内容を理解出来ないでいた。
《原初の識者》は、持論に酔いしれるわけでもない……ただ、純粋に世界のありかた、その理想を言っていて――。
それが本心なのか否かを、アナスタシアには推し量れなかった。
「ワタシと君の出会いは破滅への予兆だよ。今夜を境に、ヴィナグレイスは変革の時を迎える。それは超常的な何者かに命令されたわけでもない。世界が……星が、希求をした結果に過ぎない。ワタシは、その後押しをする役柄なのさ」
パラパラ、と《原初の識者》が持っていた本が捲れる。
解読不可能な形態の文字が、宙に溢れて夜闇に消えた。
「世界に変革を齎す楔は、既に打ち込まれている。勇者は『女神部』に処理をされ、魔王の二柱――テレサとエリスは勇者の輝かしい英雄譚の犠牲となった。……ああ、犠牲といえば……君を忘れては悲劇が成り立たないよね」
白銀の月に照らされて、金色の瞳孔が縦に細まった。
四肢と離れ離れのアナスタシアは、顔を背けることが出来ない。
「ラスメイータ王国、王位継承権第一位にして第一王女の……アナスタシア・ラスメイータ。女神アステロニカに祝福を受け、星深化教会の聖女となり、異世界より召喚された勇者ソウマの仲間に抜擢……そして勇者の魔眼によって精神を支配され、異性と手すら繋いだことのない清らかな身体を無意識下で犯された」
フフフ、と含み笑いが漏れて――。
《原初の識者》は、まるでこれまでの軌跡を見てきたかのように話していた。
「君を強姦した勇者は、魔王討伐後……『女神部』に処理をされた。……あ、『女神部』というのは神界ルリシセグンスにある……女神の下僕、みたいな感じかな? ワタシも最近まで寝ていたから詳細な仕組みは知らない。興味本位で顔合わせしてきたけど、真面目で良い傀儡だったよ」
《原初の識者》の口角が上がる。
数時間前に郊外の孤児院であった出来事を思い起こす。
「特にヴィル……と言ったかな? あの子は異質だよ。女神カトレアの力で生を受け、創造主であるカトレアに心酔している。にも関わらず、心の中には空虚な穴がぽっかりと空いていた。カトレアの愛情を享受しながらも、ヴィルは無味無臭な現実を抜け出せずにいる。そんな二面性を内包させた、ワタシが描き出す物語の……不確定な存在だ」
でもね、と《原初の識者》は。
「観測が困難でも、客観的に傍観することは容易なのさ。ワタシの復活を聞きつければ、神界は黙っていないだろう。彼が上に報告したかは分からないが……いずれ、ワタシはまた彼らと再開をする。そういう未来だと決まっている」
ガタン、と両開きの窓が外側に開いて――。
冷たい夜風が室内に吹いた。
「しかし結末を記すには、まだ悲劇が物足りない。うん、勇者に犯された、淫らな聖女の肩書は今宵で改名だ」
長い長い自分語りを告げ終わった《原初の識者》。
その指先が中空を、ゆるりと泳いだ。
「アナスタシア――君の憎悪を増幅させ、ワタシが運命を塗り替えてあげよう。きっと君は、誰も……『女神部』も予想していなかった厄災に生まれ変われる」
その書物――神転録アスカリネインが動きに呼応して。
貞操に続き人権を剥奪された王女の魂が、《原初の識者》により世界を蝕む災いに変質をした。
【次話予告】
女神に守られた港町を蝕む邪神の信徒――。




