昔の記憶
それは珍しくもなんともない、ほんの些細な不幸で、まだ九つになったばかりの少女は父親と母親の亡骸を前に命の、そして自分の立場の儚さを奥歯で噛み締めることしかできなかった。
「姫様だけでも、どうか、ご無事で」
父親の乳兄弟であり、最期の時まで寄り添っていた男がそう言って少女の背中を押す。そうされたところでまだ幼さの残る少女にはこの悲劇から巣立つ力も知識もなく、後ろ盾がなくなったことでいっそ生への希望すら持ち得なかった。
「ととさま、かかさま……」
袴着を終えてもまだそんな風に呼ぶことを、父も母も複雑な表情で咎めていたものだ。そんなやり取りももうできない。小さな身体に抱えきれないほどの悲しみと寂しさはもう何度涙として溢れ出ただろう。しかし少女には限界が近づいていた。命が無事でいたところで何もない。お腹も空いた。
美しかったはずの着物は雨や泥、糞尿に汚れて見るも無残。艷やかに手入れをされていた髪もバサバサで、まるで狂人のよう。頼れるはずだった家人も誰一人迎えにこないということはきっと皆――。
(もう、ひとりは、いや)
ずるり、ずるりと汚れきった着物を引き摺り歩く姿に道行く人々は後退る。まるで怨霊のようだ、とひそやかに交わされる声にも気付かぬまま、ひとりきりの少女は時折足をもつれさせ倒れながら、ゆっくり、ゆっくりと歩みをすすめる。
(ととさま、かかさま、かねこ、くずのは、おじさま、)
家族の名前を呼ぶ。乳兄弟の名を呼ぶ。ずっと一緒だった女房の名前を。呼べば彼らの元へ連れて行ってもらえる気がした。真っすぐ伸びるこの道をしまいまで突き当たればそこに彼らがいる気がした。
「ちょっと」
その声が自分に向けられているなんて、最初は気付かなかった。
「ちょっと、あんただよ。そこの頭のおかしいお嬢さん」
まるで汚れきった物に触れる事を厭わず、少女の肩を力強く引く腕があった。
「……あた、し」
顔を上げるが簾のように視界を遮る前髪で、相手の顔がよく見えない。声の主が女であることだけは、わかるのだけれど。
「ああ、耳は聞こえてるね。あんた、アレだろ。例の侍従のとこの姫君だろ」
「あなた、は、どなた」
こんな乱暴な言葉使いをするような者を少女は知らない。顔も合わせない下働きの誰かだろうか、それとも。
「やっぱりそうか。姫さんだけが消えたってんでいろんな噂が飛び交ってたけど、……そうかい。生きてたんだね」
ぽん、と。頭に軽い衝撃。それが頭を撫でられているのだと気付いたときには枯れ果てたはずの涙が溢れていた。
「あたしゃ侍従殿にはなにかとご恩があってね。……いい育ちのお嬢さんの耳には入れにくい関係さ。でもここで会ったのも何かの縁だ。……今の今まで放ったらかしってことは縁者に当たるのも難しいんだろう、酷だが、あんたの生きる道を示してやれるのはもしかしたらあたしだけかもしれない」
少女の前髪をかきわける女の指先は下働きにしては美しく手入れされていて、羽織る袿も立派なものだった。そして何よりようやく見えた顔が。
(きれいなひと……)
ぽかん、と見惚れていると、女はしかし唇を歪めるような美しいとは言い難い笑みを浮かべた。
「さすがに姫君だ、洗って化粧もすりゃあ十分上物だ」
そうしてぐいと少女の手を引く。
「さあ、自分から死ぬ気がないならおいで。辛い道かもしれないが、生きてりゃ儲けもんさね」
拒否する選択肢も与えず、ずんずんと都の中心から遠ざかる。そうして引き摺られるようにして女について行く少女の耳に、不思議な言葉が吸い込まれる。
「極楽浄土なんてえのは、迎えてもらうようなとこじゃあない、あたしらが連れて行くとこなんだからね」
まだその言葉の意味は、少女にはさっぱりと理解ができなかった。
とても短いオマケなので説明不足だらけですが、ひとまず!
そのうち加筆修正する……かな……未定ですけど……。