恋
「結婚……されていらっしゃいませんの?」
少し驚いたように返ってきた言葉が、どうしてだか今は不快ではなかった。
「ああ、いやしたこともあったが離縁した。上手くいかなくてな」
昔の話さ、と加えて几帳の向こうを窺う。落ち着かない様子の衣擦れが聞こえてくる。
「……どんな方、でしたの」
不安げな冬子の声。それすらもなんだかおかしくて、だけどそれ以上を答える気にはなれなかった。
「どうしてそんなことを聞くんだよ。そんなことよりこの前あんた初瀬詣での道中だったんだろう、どうだったんだい、楽しかったか」
息を飲む音が聞こえる。まずいことでも聞いただろうか、墨染に目をやると慌てたように冬子に駆け寄る着物の端が几帳の向こうへ消えていった。気まずい。またひとつ、ふたつ、栗子を口にするが上手く噛み砕けない。口の中がざらざらする。
「……ごめんなさいませ」
しばらくの間の後、おずおずと謝罪の言葉が冬子の口から発せられる。
「なにがだね」
「……聞かれたくないことを、私、お伺いしてしまったのでしょう、ですからそんな風に……意地の悪い方ですわ」
しおらしいかと思えば勝手に拗ねる。何を考えているのか探りあぐねていると影が近付いていたのに気付くのが遅れた。几帳に寄りかかるような近さだ、目を凝らせばその顔の造形すらもはっきりと見えそうで成友の心臓がどきりと跳ねる。
「……楽しくありませんでした。いえ、楽しくはありましたの、でも、いつもほどは」
息遣いまで聞こえてきそうな距離。そういえば女房の気配がいつの間にかなくなっている。
「始めは、ええ、少しからかうつもりでしたわ。どうせ扇をわざわざ返しになんてきやしないのでしょうと。後になってどうして母様の檜扇をそんなことに使ったのかひどく後悔いたしましたわ。でも」
叱られた子供が言い訳を並べるように。どこか水分を含んだ声はけれどどこまでも成友の耳に心地よかった。
「左京亮様から文を頂いて、わかりましたわ。私、あなた様にお会いしたかったので……きゃ」
がたん、突然ふたりを隔てていた几帳が冬子ごと成友の元へ倒れてきた。
「ちょ、」
成友は慌てるが冬子は倒れたまま。どうしたものか、抱き上げてよいものか、とにかく人を呼んだ方がいいのでは。この物音であの真面目な女房が飛んでこないことを疑問に思いつつ墨染の名を叫ぼうとしたが、細い指が伸びてきて成友の口を塞ぐ。
「今ひと時、ただそれだけで良いのです。私……」
胸元に飛びこむ形で成友に体重を預ける冬子の潤んだ瞳はその名の通り冬の空のような色だった。髪は盗み見た印象そのままに豊かで美しく雪解けの水のように床に広がっている。肌は白く儚げで、触れたそばから氷のように割れてしまいそうだと思いながらそっと紅梅の映える肩を押し返す。
「落ち着け、冬子」
名前を呼ぶとその小さな肩が跳ねた。歳がいくつだと言っただろう、結婚を焦るような年齢には見えない丸い目がますます丸まり成友をじっと見つめてくる。
「そういうことは男が言うもんだ。この様子じゃあ恋人がいなかったってのも嘘じゃあなさそうだな」
笑って冬子の鼻筋を撫でる。
「なんで独り身なんだよあんた。こんなに可愛いのにな、今まで言い寄ってきたやつらが碌でもなかったのか? それとも気に入りの僧に似てんのかね、俺」
呆けたように成友を見つめていた冬子だったが、じわじわと顔が歪みだす。ふえ、と声が漏れるともうだめだった。潤んでいた瞳からぼたぼたとこぼれ落ちる涙が成友の二藍の狩衣を濃く染める。
「全然、全然似ておりませんわ、ですのにどうしてだかあなた様の声が耳から離れませんでしたの。綺麗な声だと言って頂けて胸がときめきました、清真様を――憧れの方を垣間見ても以前のように胸が温かくなることはなくて、……成友様のそっけない文に締め付けられるような幸せを感じました。文など随分頂くこともなくなっていた、その為かと思いましたけれど、今日、あなた様の声を聞いてそんなことではないと……成友様の、その、少し意地悪な話し方が私の胸を締め付けますの。これは、」
そこで止まらぬ冬子の口を、今度は成友の武骨な手が塞ぐ。聞いていて恥ずかしい告白だがそれよりも。
「だから、そういうのは男が言うもんだって」
そうして顔をそっと寄せる。
「あんたの父親が言ってた通りだ。思い込みが激しくて行動力が無駄にある」
でも、だから。
「おかげで気付いたよ、俺があんたに向ける感情の名前が」
「……なん、でしょう」
物を知らぬような顔で、けれどこの期に及んで女房が駆け込んでこないということはそう手配してあるということだ。まんまと罠に嵌められた、と笑いながらそのぷっくりとした小さな唇に狙いを定めて。
「その名は――」
これにてオマケその1はおしまいです。
次のオマケは番外編というかこれこそオマケのコピー本再掲分になります。
あと少しだけお付き合いいただけたら幸いです。




