再会
「冬子様」
開いた妻戸の向こう側へ案内の女房が声をかける、そこで初めて自分が会いに来た姫君の名前が冬子であると知る。
(いや、まあそんなものか)
そういえば以前結婚した妻の名はなんだったか、忘れたのか聞いていないのかすらあやふやだ。
「……どうぞ」
返ってきたのはしかし愛想のない、確か墨染という地味な名前の女房の声だった。案内してきた女房の方はそれで務めは果たしたとばかりに成友を渡殿に置いたままそそくさと主寝殿の方へ帰ってしまう。
(どうぞ、ってこたぁ、……入っていいもんかね)
ほんの少しの間、逡巡していると几帳の隙間から人影がひとつ現れた。
「どうぞ、と言っておりますのに。こんな時には控えめなんですね、左京亮様」
もちろん姫の冬子ではない。墨染だ。睨まれた時の顔でしか覚えていなかったが、名前の通り華がないのは記憶通り、言葉の棘もそのままだった。
「……失礼するよ」
几帳をひとつすり抜けるのに少し間を開き、廂に踏み入る。その奥の御座にいるのだろう冬子の影が几帳越しに見えるが、意識してそちらから視線を逸らす。背の高い成友からは垣間見るどころか上から直接見えてしまうのだが、やはりさすがに失礼だ。しかし一瞬視界に入った美しい黒髪はしっかりと成友の脳裏に焼きついて離れない。
墨染が腰を下ろしたその手前に用意された円座に遠慮なく座る。梅花の香が微かに香る。
「わざわざ届けにいらしてくださって、ありがとう存じますわ」
届けろと言ったのは冬子の方なのに。そう返そうにも数日ぶりに聞いたこの涼やかな声が成友の口を塞ぐように耳元をくすぐる。心地よい声音。少し嫌味ったらしい言葉の方が似合うというのも皮肉だが、綺麗な声には違いない。
「大切なものだとお父上に伺いましたよ。そんなものをあんな乱暴に放り捨てるなんて、悲しまれるのでは?」
亡き母上が、とは何となく言えなかった。そこまで聞いてしまったと言っていいものか迷ったからだ。けれどほぼ言ったようなものだ、冬子の影が微かに動くと墨染が冬子の代わりに一歩分成友に寄る。女房に渡せと言う事だろう、懐から檜扇を取り出すと、恭しく差し出された掌に乗せてやる。墨染は丁寧に扇を開くともったいぶったように傷や汚れがないか確認している。嫌味ったらしい、と成友は舌打ちをするのを何とか堪える。
「……確かに」
ひとしきりこねくり回した檜扇を持って几帳の向こう側へ消える。どうぞ、と小さな声が聞こえて扇は本来の主の手元に戻ったようだ。ぱたたた、と穏やかだが遠慮がない扇の開く音がする。
――静寂。庭を吹き抜ける風が草木を撫でる音だけが成友の耳に届く。定位置に戻った墨染も、几帳の向こうの冬子も何も言葉を発さない。居心地が悪い。
(もう用がないなら帰れってことかね)
定家はああ言ったがやはり気に入られたなんてことはなく、ほんの気まぐれと我侭で男を振りまわしてみたかったというところだろう。そう結論を出してひとつ息を吐くと荒々しく立ち上がった。
「じゃあ渡すもんは渡したし、そろそろ」
「左京亮様」
しかし澄んだ声がその袖を引く。
「……あの、……その、もう少し……あっ、甘葛などいかがでしょう、それとも粉熟……柑子や栗子の方がよいでしょうか」
どこか必死な様子におや、と思う。追い払われるどころか歓迎されていたのだろうか。傍らの女房を見ると不本意そうではあるものの大人しくまた几帳をすり抜けるとその手に色々な種類の菓子が山ほど乗った膳を持って戻ってきた。
「左京亮様が、何をお好みか……そも、どういう方なのかも、……ご結婚をなされていらっしゃるかも知りませんで……いえ、あの、ですから、その」
先程までの澄ました様子はどこへ行ったのか、車の簾越しにも見せなかった戸惑う様子に成友はなんだかおかしくなってふ、と笑い声がもれてしまう。
「どうしたんだよ、急にしおらしくなっちまってさ。そうだな、甘い物も辛い物も何でも好きだが酒は安くてするする飲める方が好きだ。結婚もしてねえよ。なんでそんなこと急に言い出すんだ」
再び円座に腰を下ろすと墨染は何か言いたげな視線を投げかけるが、無言のまま目を閉じる。成友の言葉遣いも態度も何もかもが気にくわないようだが、客人に文句を言わない分別はあるのだろう。主人思いのいい女房だ。成友は膳から栗子をふたつ摘むとひょいと口の中に放り込んだ。
次で成友と冬子編おしまいです。