【導入】アウェイの洗礼と「壁の花」 3/3
翌日から、王都ギルド『暁の翼』の閉館後の執務室は、アリサのための特別な「修練場」と化した。
「遅いわ、アリサ。今の自己紹介、すでに四十五秒が経過しているわよ。忙しい大商人なら、とっくにあなたの前から立ち去って別の有益な相手を探しているわ」
「ああっ、すみません! もう一回、最初からお願いします!」
シレーヌが持つ金時計の針がカチカチと無情な音を立てる中、アリサは必死に声を張り上げた。
シレーヌによる『五つの魔法』の実践特訓は、想像以上に過酷なものだった。
知識として手帳に書き込むのと、実際に相手を目の前にして言葉に出すのとでは、天と地ほどの差があるのだ。
「いいこと? あなたがやっているのは、ただの『自分の経歴の暗唱』よ。相手の心にフックをかけるには、言葉を極限まで削ぎ落としなさい。『私と話せば、あなたにこんないい事がありますよ』という結論を、最初の十秒で提示するの」
シレーヌは腕を組み、冷徹な商人の役になりきってアリサを指導する。
「はいっ! えっと……『初めまして! 王都ギルドで筆頭受付嬢をしております、アリサと申します。本日は、冒険者の斡旋ルートを見直したいと考えている商人の方に、手数料を二割削減できる新しい提携プランをご提案に参りました』……!」
「……ギリギリ合格点ね。では次、『オープン・クエスチョン』の特訓よ。私は今、機嫌が悪くて無口なドワーフの鍛冶師の役をやるわ。私に『はい』か『いいえ』以外の言葉を三ターン以上喋らせてみなさい」
「む、無口なドワーフ……! 分かりました。あの、その腰に下げている長剣、素晴らしい装飾ですね。どのような工程で、その美しい波紋を出しているんですか?」
「ふん。企業秘密だ」
「ええっ!? そ、そんな……あ、じゃあ、その剣を作る上で、一番苦労されたのはどの部分ですか……?」
毎日、夜遅くまで続くロールプレイ(模擬会話)の反復練習。
最初はしどろもどろになっていたアリサだったが、三日、四日と経つにつれて、次第にシレーヌからの厳しい「返し」にも、焦らずに言葉を紡げるようになっていった。
会話の主導権を握る感覚。相手の興味を引き出し、気持ちよく喋らせる技術。
それは、剣士が素振りを繰り返して剣の軌道を体に染み込ませるように、アリサの中に確かな『スキル』として蓄積されていった。
そして、運命の決戦の日――。
ブルースターの隣に位置する、内陸の商業都市・ゴールドリーフ。
その中央にそびえ立つ商業ギルドの大広間が、今回の『合同懇親会』の舞台だった。
「ふぅ……っ」
大広間の重厚な両開き扉の前に立ち、アリサは深く、長く息を吐き出した。
扉の向こうからは、先週の意見交換会とは比べ物にならないほどの、野太い笑い声やグラスのぶつかる音が響いてくる。
参加しているのは、ギルドの職員だけではない。
海千山千の豪商たち、気難しい一流の職人、そして彼らの護衛として雇われている凄腕の冒険者たち。全く異なる常識と文化を持つ、強烈な個性を持った「異業種」の大人たちが入り乱れる、真の交流会だ。
「……大丈夫。今の私には、先輩と特訓した『魔法』がある」
アリサは胸に抱えたバインダーをキュッと抱きしめ直した。
先週の彼女は、丸腰のまま戦場に迷い込んだただの村人だった。しかし今日の彼女は違う。強力な武器を手に入れ、使い方も完璧に頭に叩き込んできた『戦士』なのだ。
(もじもじして壁際でジュースを飲んでいるだけの私は、もう終わり。今日、私はこの会場にいる全員を『最高の味方』に変えてみせる!)
アリサは顔を上げ、力強い瞳で真っ直ぐに前を見据えた。
そして、迷いのない手つきで、大広間の扉を大きく押し開けた。
――ブワッ!
扉が開いた瞬間、むせ返るような熱気と、香ばしい肉の焼ける匂い、そして様々な思惑が交錯する大人の会話の渦が、アリサの全身を包み込んだ。
「さあ、見せてごらんなさい、アリサ。あなたの人脈構築の力を」
アリサの少し後ろで、視察という名目でついてきたシレーヌが、扇子で口元を隠しながら楽しげに微笑んだ。
「はいっ!」
アリサは広大な会場を見渡した。
右手のテーブルには、何やら難しそうな顔で書類を見つめている商人たちのグループ。
左手の酒樽の近くには、豪快にエールを煽りながら武勇伝を語る屈強な冒険者たち。
そして会場の中央には、誰とも群れず、腕を組んで周囲を鋭く観察している一人の初老の男性の姿があった。
(……まずは、あそこから!)
アリサは狙いを定め、ピンと背筋を伸ばして歩き出した。
靴音が、大理石の床に力強く響く。
初対面の壁を打ち破り、見知らぬ誰かを「かけがえのない人脈」へと変えるための、五つの魔法の実践編。
受付嬢アリサの、新たな戦いの幕が、今ここに切って落とされた。




