【導入】アウェイの洗礼と「壁の花」 2/3
「シレーヌ、先輩……っ」
アリサは手にしていた真新しいバインダーをポロリと取り落とし、ついにその場にしゃがみ込んでしまった。
張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れ、次から次へと大粒の涙が溢れ出してくる。
「すみません……。せっかく、王都の代表として意見交換会に行かせてもらったのに……私、誰ともまともに話せませんでした。手帳のページは真っ白のままで、誰のギルドカードも貰えなかったんです……っ」
しゃくり上げながら、アリサは両手で顔を覆った。
「みんな、凄く頭が良さそうで、仕事ができそうで……。私が話しかけても邪魔になるだけだと思ったら、怖くなって。結局、壁際でずっと冷たくなったジュースを握りしめて、時間が過ぎるのを待っているだけでした。私、外に出たら、ただの役立たずだったんです」
王都ギルドの中では、『アサーション』や『アンガーマネジメント』といった魔法を使いこなし、頼れる筆頭受付嬢として振る舞えていた。
だが、それはあくまで「自分の立場が保証されていて、相手のこともよく知っている安全な箱の中」だったから通用したに過ぎない。
前提知識も信頼関係もゼロの、完全な『初対面の大人たち』がひしめく荒野に放り出された瞬間、アリサは自分が何の武器も持たない無力な子供であることを痛感させられたのだ。
「……ええ。でしょうね」
シレーヌはアリサを慰めるでもなく、冷たい夜風の中でスッと目を細めた。そして、音もなくアリサの隣に歩み寄ると、自分のティーカップをふうわりと香らせながら静かに口を開いた。
「いいこと、アリサ。多くの人が勘違いしているけれど、『コミュニケーション能力』や『人脈作り』というのは、決して生まれ持った陽気な性格や、誰とでもすぐに打ち解けられるカリスマ性のことではないわ」
「え……?」
「それは、後からいくらでも身につけることができる『技術』であり、明確な『法則』なのよ。今日のあなたが失敗したのは、性格が内気だったからでも、能力が低かったからでもない。ただ単に、知らない人と繋がりを作るための『武器』を持たずに、丸腰で戦場に突撃したからよ」
シレーヌは、石畳の上に落ちたアリサのバインダーを拾い上げ、パンパンと土を払って彼女の胸に押し付けた。
「ギルドでの受付業務と、交流会での人脈作りは、全くの別物。……戦場が違えば、使う魔法も変えなければならない。当たり前のことでしょう?」
「戦場が違うから、使う魔法も変える……」
「ええ。あなたは今日、相手から『有益な情報を引き出そう(奪おう)』として近づき、『一問一答の尋問』のような会話をして、自分の『無価値さ』を露呈してしまった。だから相手にされなかったのよ」
ズバリと図星を突かれ、アリサはビクッと肩を震わせた。
思い返せばその通りだ。「西支部は忙しいですか?」「はい」というあの地獄のような会話は、まさに尋問だった。相手に「この子と話してもメリットがないし、つまらないな」と見透かされていたのだ。
「さあ、いつまでも泣いていないで、顔を上げてペンを取りなさい」
シレーヌの凛とした声に、アリサはハッとして袖口で涙を乱暴に拭い、バインダーを受け取って立ち上がった。
銀色の羽ペンを握りしめるその手に、シレーヌは優雅に微笑みかけた。
「これから教えるのは、全くのゼロから、強固な人脈という名の『見えない財産』を築き上げるための、五つの魔法よ。今日の屈辱をバネにして、その頭にしっかりと叩き込みなさい」
アリサが真剣な表情で頷くと、シレーヌは夜空に浮かぶ星を指差すように、スッと指を立てた。
「第一の魔法。【エレベーターピッチ】。
初対面の有力者は、あなたの生い立ちや苦労話に一秒も興味はないわ。自分が何者で、相手にどんなメリットを与えられるのか。それを『三十秒』という一瞬で相手の心に突き刺し、強烈な印象を残す自己紹介の魔法よ」
アリサは一心不乱にペンを走らせる。
「第二の魔法。【オープン・クエスチョン】。
今日あなたがやったような『はい/いいえ』で終わる質問は、会話を殺す毒よ。相手が自ら気持ちよく語り出し、無限に会話のキャッチボールが続く『尋問にならない問いかけ』の魔法」
「第三の魔法。【ウィークタイズ(弱いつながり)の強さ】。
いつも顔を合わせている仲良しグループの中に、新しいチャンスは存在しない。自分とは全く違う世界に生きる『ちょっとした顔見知り』こそが、人生を劇的に変える運命の扉を開くという法則よ」
「第四の魔法。【返報性の原理】。
交流会で『何か仕事をください』と群がるハイエナは誰からも相手にされないわ。人脈とは奪うものではなく、与え合うもの。自分の利益を求める前に、まず自分から相手に『価値』を提供し、味方につける魔法」
「そして、最後の第五の魔法。【ピークエンドの法則】。
人間の記憶は、最も盛り上がった瞬間と『去り際』で全てが決まるわ。ダラダラと居座らず、最高の印象のままサッと身を引き、素早いフォローアップで『ただの飲み会』を『未来の仕事』へと繋げる魔法よ」
シレーヌが淀みなく紡ぎ出した五つの魔法。
それを書き留めたアリサの羊皮紙は、あっという間に真っ黒に埋め尽くされていた。
「三十秒で自分を売り込む、オープンな質問、弱いつながり、まずは与える、そして去り際……」
文字面を見つめているだけで、目から鱗が落ちるような感覚だった。
もし今日、この魔法を一つでも知っていれば。あの華やかな三人組の受付嬢に、もっと違うアプローチができたはずだ。柱の陰にいた年配の職員と、有意義な会話が弾んだはずなのだ。
「……シレーヌ先輩。私、この魔法をマスターしたいです。もう二度と、あんな壁の花になって、惨めな思いをするのは嫌です」
アリサの瞳には、先ほどまでの絶望の涙はすっかり乾き、代わりにギラギラとした熱い決意の炎が灯っていた。
その顔を見て、シレーヌは満足げにコクリと頷いた。
「いい覚悟ね。……実は来週、このブルースターの隣町で、商業ギルドと冒険者ギルドの『合同懇親会』が開かれることになっているの」
「えっ……来週!?」
「ええ。今日のような同業者の集まりではなく、商人や職人など、全く異なる文化を持つ強敵たちが集まる、本当の意味での『異業種交流会』よ。そこが、あなたのリベンジの舞台」
シレーヌはクルリと背を向け、王都へ帰るための馬車乗り場へと優雅に歩き出した。
「さあ、忙しくなるわよ、アリサ。明日から一週間、私が直々にこの五つの魔法の『実践特訓』をつけてあげるわ。……来週の懇親会が終わる頃には、あなたのそのバインダーを、王都の有力者たちの名刺でパンパンに膨れ上がらせてみなさい」
「はいっ!」
アリサはバインダーを胸に強く抱きしめ、夜空に向かって元気よく返事をした。
もじもじして終わるだけの『ただの受付嬢』は、今日で卒業だ。
全く知らない人たちの懐に飛び込み、強固な人脈を築き上げる。
新たな戦場に向けた、アリサの本当の挑戦が、今まさに始まろうとしていた。




