第29話 店主が「ホットケーキは少しくらい形が違っても大丈夫ですよ」と言った結果、灰都の裏社会で焼き色と厚みを巡る前代未聞の品評会が開催されました
ホットケーキというものは、不思議な食べ物だ。
小麦粉と卵と牛乳を混ぜ、熱したフライパンに流し込む。しばらく待てば表面に小さな泡が浮かび、それが弾けた頃合いを見計らって裏返す。
たったそれだけのことで、食卓に小さな幸せが生まれる。
少なくとも、朝霧透はそう思っていた。
「今度はホットケーキを焼きましょうか」
喫茶店CAFE 灯の厨房で、透がそう提案したのは、昼営業が終わり、常連たちがそれぞれの時間を過ごしていた日のことだった。
カウンターでは、王冠が新聞を読んでいた。
窓際では、黒百合が紅茶を飲んでいた。
葬送は厨房の入口から、次に何を作るのかと興味深そうに覗き込んでいる。
道化師はスマートフォンを操作し、渡り烏は鷹宮宗一郎と何やら世間話をしていた。
そして零は、洗い終えた食器を拭きながら、透の言葉に顔を上げた。
「……ホットケーキ?」
「はい。零さん、好きだと言っていましたよね」
「……好き」
零は小さく頷いた。
それから、少し考えるように目を伏せた。
「……自分で、焼いたことはない」
「そうなんですか。簡単ですよ。少しくらい形が違っても大丈夫ですから」
透は何気なく言った。
その言葉に、王冠が新聞を畳んだ。
「形が違っても……問題ない、と」
「ええ。丸くならなかったり、少し焦げたりすることもありますけど、味はちゃんとホットケーキですから」
王冠は数秒、沈黙した。
その隣で、道化師がゆっくりとスマートフォンを下ろした。
「なるほど。形状の統一を目的とせず、完成品としての価値を認めるわけか」
「え?」
「規格から外れたものを、ただちに失敗と定義しない」
「いや、ホットケーキの話ですよ?」
「わかっている」
道化師は真顔で答えた。
わかっていなかった。
おそらく、誰よりもわかっていなかった。
*
その日の夕方、《CAFE 灯》の厨房には、なぜか八人分のエプロンが用意されていた。
透が用意したのは、粉と卵と牛乳、それから砂糖とバター、シロップだけだった。
しかし、王冠が持参した道具一式は違った。
「……王冠さん。これは何ですか?」
「調理用の計量器具だ」
「温度計もありますけど」
「フライパンの温度を一定に保つためだ」
「厚さを測る器具まで……」
「焼き上がりの均一性を確認する」
王冠は当然のように答えた。
その横では、道化師が紙に何かを書き込んでいた。
「焼き色、厚み、表面の気泡、内部の水分量。これらを記録すれば、再現性の高い焼成条件を導き出せる」
「いや、そんなに難しく考えなくても……」
「店主」
王冠が静かに口を開いた。
「君の言葉を尊重する。形が違ってもよいというのなら、まずは違いを把握する必要がある」
「そうですか?」
「そうだ」
透は少し考えた。
「まあ、皆さんが楽しめるならいいですけど」
その瞬間、道化師のペンが止まった。
王冠の目が細くなった。
渡り烏は額に手を当てた。
「……お前たち、今度は何を始めるつもりだ」
「何も始めませんよ」
透は笑った。
「ただ、一緒にホットケーキを焼くだけです」
その言葉が、この場で最も誤解されていることを、本人だけが知らなかった。
*
最初に焼くのは、葬送だった。
「俺に任せろ」
彼は大きな手でボウルを持ち上げ、混ぜ終えた生地をフライパンへ流し込んだ。
問題は、流し込む量だった。
葬送は、厚みがあったほうが食べ応えがあると考えた。
結果、フライパンの上には、一般的なホットケーキの三倍ほどの厚みを持つ何かが誕生した。
「……葬送さん?」
「何だ」
「それ、ちゃんと中まで焼けますかね」
「焼けばいい」
「まあ、そうなんですけど……」
表面が焼けてきた。
葬送はフライ返しを握った。
そして、勢いよく裏返した。
ぼふん、と音がした。
生地はフライパンから舞い上がり、空中で一回転し、厨房の天井に張りついた。
全員が見上げた。
しばらくして、重力に負けたホットケーキが落ちてきた。
葬送は反射的に両手で受け止めた。
「……惜しい」
本人は真剣だった。
黒百合が口元を押さえた。
零は目を丸くしていた。
道化師は何かを記録しようとしていたが、渡り烏にノートを閉じられた。
「記録するな」
「だが、今の軌道は――」
「記録するな」
「……了解」
透は笑いながら、天井を拭くための布巾を取り出した。
「葬送さん、次はもう少し小さくしてみましょうか。厚いと、中まで火が通りにくいですから」
「そうか」
葬送は落ち込む様子もなく、頷いた。
「なら、次は薄くする」
「はい。少しずつ調整すれば大丈夫ですよ」
葬送は、もう一度生地を流した。
今度は、ほどよい大きさだった。
裏返すときには、先ほどの反省を生かして慎重にフライ返しを動かした。
少し不格好ではあったが、両面にきれいな焼き色がついた。
「……できた」
「おお、いい感じですね」
透が笑顔で言うと、葬送は焼き上がったホットケーキをじっと見つめた。
戦場で幾度となく勝利を収めてきた男が、たった一枚の焼き菓子を前に、どこか誇らしげな顔をしていた。
「次は、もっと上手く焼く」
「楽しみですね」
その一言で、葬送は本当に嬉しそうに笑った。
*
次は王冠だった。
彼はフライパンを適温に保ち、計量した生地を慎重に流し込んだ。
円形。
均一な厚み。
表面に浮かぶ気泡。
焼き色も、申し分ない。
裏返す動作に無駄はなく、焼き上がったホットケーキは、まるで見本写真から抜け出してきたような完成度だった。
「……完璧だ」
王冠は静かに呟いた。
透は皿を受け取り、感心したように頷いた。
「すごいですね。お店で出せそうです」
王冠の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
しかし、透は続けた。
「でも、少しくらい形が違っても、それはそれでいいんですよ」
王冠の手が止まった。
「……そうだったな」
彼は自分のホットケーキを見つめた。
均一に焼けた表面。
計算された厚み。
整った円形。
それらを実現するために、彼は手順を確認し、条件を揃え、失敗の可能性を一つずつ取り除いた。
それは、彼が長年生きてきた世界そのものだった。
不確実なものを排除し、想定外を防ぎ、すべてを自分の管理下に置く。
そうしなければ、多くのものを失う世界だった。
けれど。
「……店主」
「はい?」
「形が違ってもよいというのは、どこまでだ」
透は少し考えた。
「食べられるなら、だいたい大丈夫じゃないですかね」
「……だいたい」
「もちろん、生焼けだったらもう少し焼いたほうがいいですし、焦げすぎたら次は火を弱くするといいです。でも、きれいな丸じゃないから駄目、ということはないですよ」
王冠は、ゆっくりと頷いた。
完璧であることと、失敗しないこと。
その二つを、彼はいつの間にか同じ意味として扱っていた。
しかし、この店では違うらしい。
失敗したなら、次を考えればいい。
形が違うなら、違うものとして楽しめばいい。
誰かの作ったものが自分より不格好でも、それだけで価値がなくなるわけではない。
「……なるほど」
王冠は、手元の計量器具を片づけた。
そして、余った生地をフライパンに流し込んだ。
今度は、あえて計量しなかった。
少し大きく、少し歪んだホットケーキが焼き上がった。
王冠はそれを見つめ、ほんのわずかに笑った。
「……こちらも悪くない」
黒百合が、横から覗き込んだ。
「珍しいわね。あなたが自分で規格を外すなんて」
「必要なときには、外すこともある」
「ホットケーキで?」
「……ホットケーキでだ」
黒百合は、とうとう笑い声を漏らした。
*
道化師は、表面に泡が浮かぶ瞬間を観察していた。
「興味深い。泡の発生頻度と焼き色の変化には、一定の相関があるようだ」
「道化師さん、そろそろ裏返していいですよ」
「もう少し待とう。気泡の大きさが――」
「焦げますよ」
「何?」
道化師が慌ててフライ返しを差し込んだときには、表面が少し茶色くなりすぎていた。
裏返したホットケーキは、片面だけが濃いきつね色だった。
「……これは失敗か?」
道化師は真剣な顔で尋ねた。
透は焼き上がりを確認し、首を傾げた。
「焦げているところもありますけど、食べられそうですね。味見してみましょうか」
一口食べた道化師は、沈黙した。
「……うまい」
「でしょう?」
「外側が少し香ばしい。内部は問題ない。つまり、焼き色の均一性と味覚的な満足度は必ずしも一致しない……」
「道化師さん」
「何だ」
「難しいことは置いておいて、おいしいならいいんじゃないですか?」
道化師は、口を閉じた。
そして、もう一口食べた。
「……そうだな」
彼は自分のノートを閉じた。
何でも分析し、理由を探し、正解を導き出す。
それが彼の得意分野だった。
だが、世の中には、分析するより先に味わったほうがいいものもあるらしい。
「店主。次は、もう少し焼き色をつけてみてもいいか」
「もちろんです。自分の好きな焼き加減を探してみてください」
「……好きな焼き加減」
道化師はその言葉を小さく繰り返した。
そしてノートを開きかけ、やめた。
代わりに、もう一枚焼くための生地をボウルに取り分けた。
*
零の番が来たのは、厨房に甘い匂いが満ち始めた頃だった。
彼女はフライパンの前に立ち、慎重に生地を流し込んだ。
透は隣で見守っていた。
「最初は弱めの火でいいですよ。表面に泡が出てきたら、裏返してみましょう」
「……わかった」
零はじっと生地を見つめた。
泡が浮かぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
小さな泡が弾けるたび、零の目がわずかに動いた。
「……今?」
「もう少しですね」
さらに待つ。
「……今?」
「そうですね。やってみましょう」
零はフライ返しを差し込み、そっと裏返した。
少しだけ形が崩れた。
円形の端が歪み、片側が薄くなっている。
零の手が止まった。
「……失敗?」
「ううん。ちゃんと裏返せましたよ」
透は、いつもと変わらない声で答えた。
「初めてなんですから、十分上手です」
零はホットケーキを見つめた。
整っていない。
王冠のものほど美しくない。
葬送のものほど厚くもない。
道化師のものほど香ばしそうでもない。
それでも、フライパンの上で焼けていく自分のホットケーキを見ていると、不思議な気持ちになった。
誰かに指示されたわけではない。
決められた役割を果たすためでもない。
ただ、自分が食べたいと思ったものを、自分で作っている。
「……透」
「はい?」
「……これ、好きな形にしてもいい?」
「もちろんですよ」
「……丸じゃなくても?」
「もちろん」
「……少し、大きくても?」
「食べきれるなら大丈夫です」
零は、しばらく考えた。
それから、残った生地をフライパンに流した。
小さな円を三つ。
大きな円を一つ。
焼き上がったホットケーキを皿に重ねると、妙な形の塔ができた。
零はそこにバターを乗せ、シロップをかけた。
さらに、透が用意していたチョコレートソースを手に取った。
「……これも、かけていい?」
「ええ。好きなだけどうぞ」
零はチョコレートソースをかけた。
少し多すぎた。
皿の端まで流れていった。
それでも、零は満足そうだった。
「……できた」
彼女はホットケーキを見つめた。
「……私の、ホットケーキ」
その声は小さかった。
けれど、そこには確かな喜びがあった。
透は微笑んだ。
「おいしそうですね」
零は一口食べた。
ふわりとした生地に、バターの塩気とシロップの甘さが広がる。
チョコレートソースが、さらに甘さを重ねる。
「……おいしい」
零は、もう一口食べた。
「……すごく、おいしい」
黒百合はその様子を見つめていた。
かつての零なら、他人の好みを優先していたかもしれない。
誰かにとって正しいものを選び、自分の望みを後回しにしていたかもしれない。
けれど今、零は自分で選んだものを食べている。
形も、量も、甘さも。
誰かに許可を求める必要のない、小さな選択を。
「……よかったわね、零」
黒百合が声をかけると、零は顔を上げた。
「……うん」
それから、ほんの少しだけ照れたように付け加えた。
「……次は、もっとチョコレートをかけたい」
「まだかけるのか」
王冠が思わず口を挟んだ。
「……うん」
「……そうか」
王冠は、それ以上何も言わなかった。
好みというものは、他人が決めるものではない。
それがどれほど甘くても。
*
ホットケーキが焼き上がると、一同はテーブルを囲んだ。
皿の上には、さまざまなホットケーキが並んでいた。
王冠の、見本のように整った一枚。
黒百合の、少し薄めに焼いた一枚。
葬送の、厚みは控えめになったものの、まだ少し不格好な一枚。
道化師の、片面だけが濃い焼き色になった一枚。
渡り烏の、何も考えずに焼いた結果、端が少し欠けた一枚。
鷹宮の、バターをたっぷり乗せた一枚。
そして零の、チョコレートソースが皿の端まで広がった奇妙な塔。
透は自分のホットケーキを切り分けながら、楽しそうに言った。
「こうして見ると、同じ材料でもずいぶん違いますね」
「……そうだな」
鷹宮は自分の皿を見下ろした。
「同じものを作ろうとしても、作る人間によって違いが出る」
「そうですね。でも、それが面白いんじゃないでしょうか」
透は、何でもないことのように答えた。
「全員が同じものを作れなくても、それぞれおいしければいいですし」
鷹宮は、その言葉を噛みしめるように黙った。
彼の世界では、統一された基準が重要だった。
結果を比較し、成果を測り、同じ条件のもとで判断する。
それは組織を維持するために必要なことだった。
だが、その基準を人間の生き方にまで持ち込んだらどうなるだろう。
同じ成果を出せない者は価値がないのか。
他人と同じ速度で進めない者は、置いていかれるしかないのか。
そうではないと、この店は何度も教えてくれる。
うまくできない者にも、次がある。
違うものを好む者にも、席がある。
そして、何も成し遂げていない時間にも、意味がある。
「……店主」
「はい?」
「この店では、誰が焼いたものでも、同じように食べるのか」
「もちろんですよ。せっかく皆さんで作ったんですから」
透は笑った。
「どれも、それぞれ違っておいしいと思います」
鷹宮は、静かに頷いた。
それから、自分のホットケーキを一切れ切り分け、隣に座る渡り烏の皿に置いた。
「食べるか」
「お前の皿から取ればいいだろう」
「こちらのほうが食べやすい」
「……そうか」
渡り烏は苦笑しながら、その一切れを口に運んだ。
「悪くないな」
「そうだろう」
鷹宮は、わずかに得意げだった。
そのやり取りを見て、透は嬉しそうに笑った。
「皆さん、仲がいいですね」
六人の伝説と一人の大物は、そろって動きを止めた。
仲がいい。
ただ、それだけの言葉だった。
しかし、彼らにとっては、簡単に口にできる言葉ではなかった。
利用価値があるから付き合う。
利害が一致するから協力する。
互いの弱みを握っているから、一定の距離を保つ。
そんな関係なら、いくらでも築いてきた。
だが、同じテーブルを囲み、互いの焼いたホットケーキを食べて、ただ笑っている。
そんな関係が、自分たちにもできるとは思っていなかった。
「……そうかもしれないわね」
黒百合が答えた。
その声は、いつもより少し柔らかかった。
*
一方、その頃。
灰都情報管理連絡会の会議室では、ある報告書を前に、数名の職員が頭を抱えていた。
「また《CAFE 灯》か」
「今回はホットケーキです」
「……何?」
「ホットケーキの調理を通じ、異なる成果物の価値を一律に否定しないという方針が確認されました」
「待て。なぜ、我々の報告書にホットケーキという単語がある」
「現地協力者からの報告です」
「その協力者は、何をしていたんだ」
「喫茶店の近隣で張り込みを……」
「張り込みの結果がホットケーキなのか?」
「はい」
報告書には、王冠が計量器具を片づけたこと、葬送が調理方法を変更したこと、道化師が分析を中断したこと、零が自分の好みに合わせて盛り付けを行ったことが、詳細に記載されていた。
最後には、こんな一文があった。
『同一の素材から生まれた異なる成果を、優劣のみで評価せず、各々の嗜好と特性を尊重する傾向が見られた』
管理官は長い沈黙のあと、報告書を閉じた。
「……もういい」
「しかし、今後の対応方針を――」
「何もしなくていい」
「よろしいのですか?」
「我々がホットケーキの焼き色を管理して、何になる」
誰も答えられなかった。
「ただし」
管理官は、疲れた顔で付け加えた。
「今後、《CAFE 灯》に関する報告書には、確認できた事実と推測を明確に分けて記載しろ。ホットケーキを焼いたことと、組織改革を実施したことは同じではない」
「承知しました」
「それから……」
管理官は、少し迷った。
「その店のホットケーキは、本当においしいのか?」
職員たちは顔を見合わせた。
「……確認しておりません」
「そうか」
管理官は、書類を机に置いた。
「ならば、確認する必要もない。仕事に戻れ」
会議は終了した。
ただし、その日の帰り道、管理官が近くの喫茶店でホットケーキを注文したことは、記録されなかった。
*
夜。
片づけを終えた厨房で、零は洗ったフライパンを棚に戻していた。
「……透」
「はい?」
「……今日、楽しかった」
透は、布巾を畳む手を止めた。
「そうですか。よかったです」
「……また、作ってもいい?」
「もちろんですよ。いつでも作りましょう」
零は、少しだけ俯いた。
「……次は、もっと上手に作りたい」
「いいですね」
透は笑った。
「でも、今日のホットケーキもおいしかったですよ」
「……形、変だった」
「そうですか? 僕は、零さんらしくていいと思いましたけど」
零は目を瞬かせた。
「……私らしい?」
「ええ。チョコレートがたっぷりで、甘くて、見ているだけで楽しくなるホットケーキでした」
「……甘かった」
「かなり甘かったですね」
二人は顔を見合わせ、笑った。
零は、もう一度フライパンの置かれた棚を見た。
次はどんな形にしよう。
もっと小さくしてみようか。
何枚も重ねて、間にクリームを挟んでみようか。
それとも、猫の形にしてみようか。
考えるだけで、少し楽しくなった。
以前の彼女なら、失敗しない方法を先に探していたかもしれない。
誰かが望むものを確認してから、それに合わせようとしたかもしれない。
けれど今は、自分が何を作りたいのかを考えている。
うまくできなくても、また作ればいい。
そう言ってくれる人が、この店にはいる。
「……透」
「はい?」
「……明日も、ここにいていい?」
透は、きょとんとした顔をした。
「もちろんですよ。零さんは、うちのアルバイトなんですから」
「……そっか」
零は、小さく笑った。
その返事が、何よりも嬉しかった。
*
翌日の昼。
透は、カウンターでメニューを整理していた。
「そういえば、次は何を作りましょうかね」
その言葉に、葬送が即座に顔を上げた。
「オムライスはどうだ」
「いいですね。卵をふわふわにするのは少し難しいですけど」
「……ふわふわ」
零が反応した。
「……やってみたい」
「では、今度はオムライスにしましょうか」
透は楽しそうに笑った。
「卵が破れても、ケチャップライスがはみ出しても、食べられれば大丈夫ですからね」
王冠は、静かに新聞を畳んだ。
道化師は、反射的にスマートフォンを取り出した。
鷹宮は、何かを思案するように目を閉じた。
渡り烏が深く息を吐く。
黒百合は、もう笑っていた。
そして灰都のどこかでは、また新しい誤解が生まれようとしていた。
しかし、この店の厨房にいる人々は、まだ知らない。
次に彼らを待ち受けるのが、卵の火加減を巡る問題なのか。
ケチャップで描く文字を巡る問題なのか。
あるいは、誰かが初めて自分の名前を書こうとする、小さな出来事なのか。
ただ一つ、確かなことがある。
《CAFE 灯》では、どんなに不格好な料理ができても、誰かが失敗しても、次の一枚を焼くことができる。
誰かと同じ形にならなくてもいい。
誰かより上手でなくてもいい。
好きなものを、好きなように。
それを笑わずに受け止めてくれる人がいる。
だから今日も、喫茶店の扉には、小さな看板が掛かっていた。
――本日も営業中。
誰でも、好きなときに来て、好きなときに帰ればいい。
そして、明日もまた。
少し不格好なホットケーキのような日々が、ここから始まるのだった。




