第28話 店主が「カラメルは少しくらい苦くても、それはそれでおいしいですよ」と言った結果、灰都の裏社会で砂糖の焦がし具合を巡る派閥抗争が始まりました
朝霧透は、プリンが好きだった。
卵と牛乳と砂糖。
特別な材料は必要ない。
混ぜて、濾して、蒸して、冷やす。
最後にカラメルをかければ完成だ。
もちろん、簡単に見えて難しい部分もある。
火加減を間違えれば、固くなったり、すが入ったりする。カラメルは焦がしすぎれば苦くなり、焦がさなければ香ばしさが足りない。
それでも、失敗したからといって、プリン作りそのものを諦める必要はない。
少なくとも、透はそう思っていた。
「今日は、みんなでプリンを作りましょう」
その一言が、灰都の裏社会における砂糖の加熱工程を、極めて面倒な問題へと発展させるまでは。
*
「……店主」
王冠が、厨房の作業台に並べられた砂糖を見つめながら口を開いた。
「確認したいことがある」
「はい。何でしょう?」
「カラメルの色は、どこまで濃くするべきだろうか」
「好みによりますね」
「好み?」
「はい。薄い色なら甘みが強く感じられますし、濃くすると苦みや香ばしさが出ます。どちらが正しいというわけでもないですよ」
王冠は黙った。
その隣では、道化師がノートを開いていた。
黒百合は、すでに嫌な予感を覚えているらしく、コーヒーを飲んでいる。
葬送は鍋を持ち上げ、火にかける準備をしていた。
渡り烏は、砂糖の袋を眺めながら何かを思い出すように笑っていた。
鷹宮は腕を組み、零は透の隣で卵を割っている。
「つまり、甘みと苦みのどちらを重視するかによって、完成形が変わるということか」
王冠が確認した。
「そうですね」
「では、基準を統一する必要はない?」
「ええ。みんなが好きな味にすればいいと思います」
道化師のペンが止まった。
「……基準を統一しない」
「はい」
「同じ料理でありながら、異なる完成形を許容する」
「プリンですからね」
「……プリン」
道化師は、ノートに何かを書き込んだ。
黒百合が覗き込む。
「何て書いたの?」
「異なる価値観の共存における、味覚的実証」
「ノートを閉じなさい」
「なぜだ?」
「プリンを作るのよ」
「……分かった」
道化師はノートを閉じた。
だが、数秒後にはまた開いていた。
*
最初にカラメル作りを始めたのは、葬送だった。
「砂糖を鍋に入れて、火にかける。それだけだな」
「はい。ただ、焦げやすいので気をつけてくださいね」
「分かった」
葬送は、慎重に砂糖を鍋へ入れた。
水を加え、火をつける。
そして、鍋を見つめた。
じっと。
ただ、ひたすらに。
「……葬送さん?」
「動かないほうがいいのか?」
「状態を見ながら、必要に応じて鍋を傾けるといいですよ」
「混ぜないのか?」
「最初から激しく混ぜると、砂糖が結晶化することがあるので」
「……なるほど」
葬送は、鍋を見つめ続けた。
砂糖が溶け始める。
透明だった液体が、少しずつ色づいていく。
薄い金色。
琥珀色。
そして、茶色。
「……この辺りか?」
葬送が尋ねた。
「そうですね。もう少し濃くしたければ、少しだけ火を入れてもいいですけど」
「……もう少し」
葬送は、鍋を見つめた。
色が濃くなる。
香ばしい匂いが立ち上がる。
さらに濃くなる。
「……もう少し」
「葬送さん、そろそろ——」
遅かった。
鍋の中のカラメルは、深い茶色を通り越し、明らかに黒に近づいていた。
透は慌てて火を止めた。
「葬送さん! そこまでいくと、かなり苦いと思います!」
「……そうか」
葬送は鍋を見つめた。
「少し、行きすぎたな」
「そうですね。今回は作り直しましょうか」
「……捨てるのか?」
「焦げてしまった部分は、無理に食べないほうがいいですね。でも、砂糖はまだありますから」
葬送は、少しだけ残念そうに鍋を見た。
「……次は、早めに止める」
「はい。一緒に見ていきましょう」
透は新しい鍋を用意した。
葬送はその隣に立ち、今度は透の手元をよく見た。
砂糖が色づき始めたところで、透が言う。
「このくらいからは、色が変わるのが速いんです。好みの色になったら、すぐ火を止めます」
「……分かった」
今度は、葬送が自分で火を止めた。
カラメルは、深い琥珀色だった。
透が頷いた。
「いい色ですね」
葬送は、鍋を見つめた。
「……これなら、食べられるか」
「もちろんです」
葬送の口元が、わずかに緩んだ。
失敗したことが、無駄になったわけではない。
最初の鍋は焦がしすぎた。
けれど、二度目には自分で加減を覚えられた。
その事実が、少しだけ嬉しかった。
*
一方、王冠は別の問題に直面していた。
「……色の基準が曖昧だ」
彼の鍋には、薄い金色のカラメルができていた。
「王冠さん、十分おいしそうですよ」
「しかし、葬送のものとは色が違う」
「好みが違うんですから、当然ですよ」
「同じ材料を使用しているにもかかわらず?」
「はい」
王冠は、鍋を見つめた。
彼の世界では、統一された基準が重要だった。
同じ任務には同じ手順。
同じ状況には同じ判断基準。
基準が揃っていなければ、比較が難しくなる。
だが、プリンには一つの正解がない。
薄いカラメルが好きな人間もいれば、苦みの強いものを好む人間もいる。
それぞれの好みが違うこと自体に、問題はない。
「……店主」
「はい?」
「全員の好みが違う場合、どうすればいい?」
「それぞれ好きなものを作ればいいと思いますよ」
「別々に?」
「はい。小さな鍋なら、いくつか作れますから」
王冠は、ゆっくりと頷いた。
「……選択肢を用意するのか」
「まあ、そうですね」
「誰か一人の基準を全員に適用するのではなく、それぞれが選べるようにする」
「そうすると、みんなが好きな味を食べられますから」
王冠は、鍋を見つめた。
そして、初めて少しだけ笑った。
「……合理的だな」
「おいしいから、でいいと思いますけど」
「それも理由の一つだ」
王冠は、薄い色のカラメルを小さな容器へ移した。
続いて、もう一つ鍋を用意する。
今度は、少しだけ濃く仕上げるつもりらしい。
その様子を見ていた黒百合が、ぽつりと言った。
「……王冠が、自分と違う基準を認めるなんてね」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言ったのよ」
王冠は何も言い返さなかった。
ただ、二つ目の鍋の火加減を、慎重に調整していた。
*
道化師のプリンは、なかなか完成しなかった。
原因は、カラメルではない。
卵と牛乳の配合だった。
「卵を増やせば、固まりやすくなる」
道化師は、ボウルを見つめていた。
「牛乳を増やせば、口当たりが変わる。砂糖を増やせば、甘みが強くなる」
「そうですね」
透は、卵を濾しながら答えた。
「しかし、どの配合が最適なのか?」
「好みですね」
「また好みか……」
道化師は、深く息を吐いた。
彼は情報を扱う人間だった。
答えがあるなら、見つけたい。
正解があるなら、確かめたい。
曖昧なものを、できる限り明確にしたい。
しかし、透の店では、何度も同じ壁にぶつかる。
何が好きなのか。
どちらが心地よいのか。
どんな時間を過ごしたいのか。
それらは、本人に聞かなければ分からない。
そして、本人でさえ、最初から分かっているとは限らない。
「……店主」
「はい?」
「自分の好みが分からない場合は、どうすればいい?」
透は、少し考えた。
「いろいろ食べてみればいいんじゃないですか?」
「……それだけか?」
「はい。食べてみて、好きだったらまた作ればいいし、そうじゃなかったら別のものを試せばいいですから」
道化師は、ボウルを見た。
「……試してから決める」
「そうですね」
「事前に最適解を特定する必要はない」
「ええと……お菓子作りなら、そうですね」
道化師は、ゆっくりと頷いた。
そして、卵と牛乳を混ぜ始めた。
途中で砂糖を少し足し、透に味を確認してもらいながら調整する。
完璧な配合ではないかもしれない。
けれど、道化師は初めて、数値を確認する前に自分の舌で味を確かめていた。
「……少し甘いな」
「じゃあ、次は砂糖を減らしてみましょうか」
「そうする」
彼は、ノートに記録しようとして、やめた。
そして、ボウルの中身をプリン型へ注いだ。
今日のところは、これでいい。
その判断を、誰かに証明する必要はなかった。
*
零は、カラメルを作ることに苦戦していた。
砂糖が溶けていく様子を見ながら、何度も透に確認する。
「……まだ?」
「もう少しですね」
「……今?」
「まだ少し早いかな」
「……今?」
「そうですね。そろそろ火を止めてもいいと思います」
零は、鍋を火から下ろした。
色は、薄い金色だった。
透が覗き込む。
「いい色ですよ」
「……でも、葬送さんのより薄い」
「葬送さんは、苦みが強いほうが好きなのかもしれませんね」
「……私のは、甘い?」
「そうですね。きっと、優しい味になると思います」
零は、鍋を見つめた。
優しい味。
それは、彼女が自分の作ったものに対して、あまり考えたことのない表現だった。
これまで、彼女は仕事の出来を判断するとき、失敗がないか、効率がいいか、要求された水準を満たしているかを気にしてきた。
優しいかどうか。
自分らしいかどうか。
そんなことを考える余裕はなかった。
「……私、甘いほうが好きかもしれない」
零が呟いた。
透は笑った。
「じゃあ、次も甘めに作りましょうか」
「……うん」
「でも、今日食べてみたら、もっと苦いほうが好きになるかもしれませんね」
「……変わってもいいの?」
「もちろん。好みなんて、変わることもありますから」
零は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、今日は甘いのを食べてみる」
「いいですね」
零は、小さな容器にカラメルを移した。
少しだけ、こぼれた。
彼女は布巾を取り、拭いた。
それだけだった。
誰も責めなかった。
誰も失敗を記録しなかった。
誰も、彼女が次に何を選ぶべきかを決めなかった。
零は、自分で作ったカラメルを見つめながら、ほんの少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
*
そして、試食の時間がやってきた。
テーブルには、いくつものプリンが並んでいた。
薄い金色のカラメル。
深い琥珀色のカラメル。
苦みの強いカラメル。
甘みを残したカラメル。
それぞれのプリンは、見た目こそ似ていたが、味わいは違っていた。
「……では、いただこう」
王冠が、最初の一口を食べた。
薄いカラメルのプリンだった。
「……悪くない」
「王冠さん、いつもそれですね」
黒百合が笑った。
「何がだ?」
「おいしいときに、悪くないって言うところ」
「……おいしい」
「最初からそう言えばいいのに」
黒百合は、自分のプリンを食べた。
彼女が選んだのは、少し苦みの強いものだった。
「私は、こっちが好きね」
「苦いほうか?」
王冠が尋ねた。
「ええ。甘いだけじゃ、少し物足りないもの」
「……そうか」
王冠は、黒百合のプリンを少しだけ味見した。
「……確かに、これはこれでいい」
「でしょう?」
葬送は、自分の作ったプリンを食べていた。
カラメルは、かなり濃い。
「……苦いな」
「葬送さんが作ったんですよね?」
「そうだ」
「自分でも苦いと思うんですか?」
「思う」
葬送は、もう一口食べた。
「だが、嫌いではない」
渡り烏が笑った。
「人の好みというのは、面白いものだね」
「そうですね」
透は、皆の様子を見て頷いた。
「同じプリンでも、カラメルが違うだけで印象が変わりますから」
鷹宮は、薄いカラメルと濃いカラメルを交互に味わっていた。
「……店主」
「はい?」
「一つに決める必要はないのだな」
「ええ。どちらもおいしいですから」
「全員が同じものを好む必要もない」
「もちろんです」
鷹宮は、ゆっくりと頷いた。
彼の世界では、統一することが強さにつながる場合があった。
意見をまとめる。
方針を決める。
判断を揃える。
組織を動かすためには、それが必要なこともある。
けれど、すべてを統一すればいいわけではない。
同じテーブルを囲みながら、違うものを好きでいてもいい。
同じ時間を過ごしながら、違う感想を持っていてもいい。
それでも、同じ食卓に座ることはできる。
「……次は、何を作る?」
鷹宮が尋ねた。
透は、少し考えた。
「そうですね。プリンも楽しかったですし、次は……」
零が、小さく手を挙げた。
「……クレープ」
「クレープ?」
「……自分で好きなものを入れられるから」
透は、ぱっと笑顔になった。
「いいですね! クリームも果物も、チョコレートも用意しましょう」
零は、嬉しそうに頷いた。
そして、道化師が静かに顔を上げた。
「……具材の選択は、各自に委ねるのか?」
「はい。好きなものを入れればいいと思いますよ」
道化師は、ゆっくりとノートを閉じた。
しかし、王冠はすでに新しい紙を取り出していた。
「待て。具材を自由に選ぶ場合、アレルギー情報と食材の管理は必要だ。安全性を確保した上で、選択肢を用意するべきだろう」
「それは、そうですね」
透は頷いた。
王冠は、満足そうに紙へ記入を始めた。
「では、具材一覧を作成し、使用する食材の確認を——」
「王冠さん」
黒百合が言った。
「まずは、クレープを食べてからにしましょう」
「……そうだったな」
王冠は、紙を置いた。
全員が笑った。
零も笑った。
彼女は、自分のプリンを最後の一口まで食べた。
甘いカラメル。
少しだけ苦みのあるプリン。
そして、誰かと一緒に食べた時間。
そのどれもが、彼女の中に残っていた。
*
その夜、灰都情報管理連絡会には、またしても報告書が届いた。
「CAFE 灯で、プリンの試作会が行われた模様です」
「……今度はプリンか」
責任者は、深く息を吐いた。
「はい。複数の人物が、それぞれ異なるカラメルを作成し、試食したとのことです」
「それで?」
「味の統一は行われず、各自が好みのものを選んだようです」
責任者は、報告書を受け取った。
そこには、カラメルの色や作業時間、参加者の反応が細かく記載されていた。
彼は数ページを読み、最後に顔を上げた。
「……なぜ、味を統一しなかったことが報告事項になる?」
「複数の重要人物が同じ場にいながら、意見の対立が発生せず、それぞれの選択が尊重されたためです」
「……それは、普通の食事ではないのか?」
「そうとも言えます」
責任者は、目を閉じた。
以前なら、彼もこの報告を重大な情報として扱っただろう。
誰が何を選んだのか。
どのような意図があるのか。
異なる判断を許容することで、組織にどんな変化が起きるのか。
だが、今は違った。
彼は、報告書の余白に一言だけ書き込んだ。
――各自の好みの範囲であり、特段の対応は不要。
そして、部下に返した。
「この件は、ここまででいい」
「よろしいのですか?」
「プリンを食べて、好きな味を選んだ。それ以上でも以下でもないだろう」
「……承知しました」
部下が退室した後、責任者は机の引き出しを開けた。
中には、小さな菓子店で買ったプリンが入っていた。
彼は蓋を開け、スプーンですくった。
カラメルは、少し苦かった。
甘いプリンによく合っている。
「……悪くない」
彼は、静かに笑った。
*
翌朝。
CAFE 灯の厨房では、透がクレープの生地を混ぜていた。
「生地は、少し休ませてから焼きましょう」
そう言いながら、透はボウルにラップをかけた。
零は、作業台に並べられた果物を眺めていた。
「……いちごと、バナナと、キウイ」
「はい。チョコレートもありますよ」
「……クリームも?」
「もちろんです」
零は、少し考えた。
「……全部、入れてもいい?」
透は笑った。
「もちろん。好きなものを入れてください」
零は、嬉しそうに頷いた。
以前なら、彼女はきっと考え込んでいただろう。
何を入れるのが正しいのか。
組み合わせに問題はないか。
誰かに迷惑をかけないか。
そんなことを考え、無難な選択肢を探していたかもしれない。
けれど、今は違った。
自分が食べたいものを、選んでいい。
好きなものを、組み合わせてもいい。
失敗したら、次に変えればいい。
零は、いちごを一つ手に取った。
「……これ、好き」
「いいですね」
「……バナナも好き」
「じゃあ、両方入れましょう」
「……うん」
零は、果物を皿に並べた。
少しだけ、並び方が不揃いだった。
けれど、彼女は気にしなかった。
その様子を見て、黒百合が微笑んだ。
「……ずいぶん変わったわね」
零は、少しだけ首を傾げた。
「……そう?」
「ええ」
黒百合は、コーヒーを飲んだ。
「前なら、そんなふうに迷わず好きなものを選ばなかったでしょう?」
零は、手元の果物を見つめた。
「……まだ、迷うことはある」
「そうでしょうね」
「……でも、迷ってもいいって、分かってきた」
黒百合は、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
零は、少しだけ笑った。
「……それに、失敗しても、ここにいていいから」
その言葉に、透が振り返った。
「もちろんですよ」
何の迷いもなく、そう答えた。
「零さんは、うちのアルバイトさんですから」
零は、目を伏せた。
そして、小さく笑った。
その笑顔を見て、透も笑った。
今日も、CAFE 灯は平穏だった。
少なくとも、店主はそう思っていた。
しかし、その日の午後。
灰都の裏社会では、複数の勢力がクレープの具材を巡る会議を始めていた。
生クリームを先に塗るべきか。
果物をどこに置くべきか。
チョコレートソースは何周かけるべきか。
そして、クレープを折りたたむのか、巻くのか。
それぞれが、自分の好きな食べ方を主張していた。
議論は、次第に熱を帯びていく。
やがて、誰かが言った。
「……店主は、好きなものを入れればいいと言ったはずだ」
その言葉に、全員が黙った。
そして、会議の結論は、ひとまずこうなった。
――各自が好きな具材を選択し、互いの食べ方を否定しないこと。
灰都の裏社会は、また一つ、奇妙な合意にたどり着いた。
その頃、透は厨房でクレープを焼いていた。
「零さん、最初の一枚は少し厚くなっても大丈夫ですよ」
「……うん」
零が生地を流し込む。
少し多かった。
クレープは、思ったより厚く焼き上がった。
「……失敗?」
零が尋ねる。
透は、焼き上がった生地を見た。
「そうですね。薄いクレープとは、少し違いますね」
零の表情が曇りかけた。
しかし、透は続けた。
「でも、これはこれでおいしそうです。クリームを包むなら、ちょうどいいかもしれませんよ」
零は、生地を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「……じゃあ、これで作る」
「はい。次は、もう少し薄くしてみましょう」
零は、クリームを塗り、いちごとバナナを並べた。
チョコレートソースをかける。
少し多かった。
端から、ゆっくりと垂れた。
零は、それを見て笑った。
「……甘そう」
「甘そうですね」
二人は笑った。
クレープは、少し厚くて、クリームが多くて、チョコレートソースが垂れていた。
けれど、零はそれを自分の手で作った。
誰かに正解を教えてもらったからではない。
誰かの期待に応えるためでもない。
自分が食べたいと思ったものを、自分で選んで作ったのだ。
それだけで、十分だった。
透は、クレープを皿に乗せた。
「では、いただきましょうか」
「……うん」
零は、一口食べた。
甘かった。
思っていた以上に、甘かった。
けれど、嫌ではなかった。
「……おいしい」
その声は、いつもより少しだけ明るかった。
透は笑った。
「よかったですね」
灰都の裏社会では、今日も誰かが正解を探している。
けれど、CAFE 灯では、正解が一つでなくてもいいことを、少しずつ知る人間が増えていた。
そして、その小さな変化は、誰にも気づかれないまま、静かに広がっていく。
店主はただ、次のクレープの生地を混ぜながら呟いた。
「次は、ホットケーキもいいですね」
その瞬間、厨房の入口にいた王冠が、ゆっくりと振り返った。
「……ホットケーキ?」
道化師がノートを取り出した。
葬送がフライパンを探し始めた。
渡り烏は、紅茶を飲みながら遠い目をした。
鷹宮は、予定表を開いた。
黒百合は、深くため息をついた。
零だけが、嬉しそうに言った。
「……ホットケーキ、好き」
透は、笑顔で頷いた。
「じゃあ、今度はホットケーキを作りましょう」
灰都の裏社会に、新たな嵐が近づいていた。
――焼き色は、どこまでつけるべきなのか。
――バターは、焼く前に入れるべきか、焼いた後に乗せるべきか。
――シロップは、どこまでかけても許されるのか。
そして何より。
ホットケーキを二枚重ねることに、果たして意味はあるのか。
その答えを求めて、六人の伝説が再び頭を抱えることになる。
もちろん、朝霧透は何も知らない。
彼はただ、クレープを食べ終えた零に向かって、いつものように言った。
「また一緒に作りましょうね」
零は、笑って頷いた。
「……うん。次も、作りたい」
その返事が、何よりも嬉しかった。




