8.灰青
リオンが鏡の中へ溶けていくと、淡い光は静かに消えた。あとに残ったのは、いつもと変わらない大きな鏡と、広い部屋の静けさだけだ。
「……行っちゃった」
花凛は鏡の前に立ったまま、ぽつりと呟いた。ついさっきまで隣にいたのに、もう姿が見えない。声も聞こえない。
首元のチョーカーに触れてみると、リオンの瞳と同じ色の石が、ほんのりと温かかった。
「お仕事、忙しくなるのかな……」
リオンは仕事場へ行くと言っていた。紫狼が現れて、調べないといけないと言っていたから、きっと紫狼に関わることを調べるのだろう。しばらくは忙しくなるのかもしれない。
そんなことを考えながら、花凛は教えられた書斎へ向かった。
書斎には、壁一面に本が並んでいた。和綴じの本もあれば、洋書のような装丁の本もある。背表紙には見たことのない文字が並んでいたが、不思議なことに、手に取ると意味が理解できた。
「これ、翻訳されてるのかな?」
試しに一冊、和綴じの本を開く。
そこには、猫神の加護について書かれていた。加護とは、猫神から授けられる特別な力のこと。猫神様が「祝福」と言っていたのは、このことなのだろう。
身体能力を高めるものや、神力を増幅するもの、神具を扱うためのもの……さらには、対象の正体や状態を見抜くものまであるらしい。
「鑑定……識別……」
花凛は先程のリオンの瞳を思い出した。ヘーゼル色の瞳が、普段とは違う色に煌めいていた。あれは、紫狼を調べるために加護を使ったのかもしれない。
「リオン君も加護を持ってるんだ。……いったいどんな加護を持ってるんだろう?」
灰青と呼ばれた青年がリオンを大宮司様と呼んでいたことを思い出す。ちょうど、その本には大宮司についても載っていたので目を通す。
(大社に仕える神職……)
ならきっと普通の人にはない特別な加護をいくつも持っているのだろう。けれど、花凛が知っているのは、神術が使えることと、転移ができることくらいだ。
もっとリオンのことを知りたい。そう思ったところで、花凛は本を閉じた。
「……でも、本人に聞いた方が早いよね」
今度、時間がある時に聞いてみよう。そう決めて、花凛は別の本を手に取った。
————
それから数日。
リオンは朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくるようになった。朝食と夕食の時間だけは、どうにか一緒に過ごしてくれる。その夕食も花凛を待たせるのが悪いからと辞退されそうになって、一悶着あった。そんなに忙しいのに昼食の準備はきちんとして行ってくれる。
「ただいま、花凛ちゃん」
「おかえりなさい、リオン君」
今日もチョーカーで連絡を受けて、大鏡の部屋で出迎える。リオンは疲れた様子を見せながらも、嬉しそうに花凛の頭を優しく撫でてくれた。
「今日はどうだった?」
「書斎の本を読んでたよ」
「そう。何か分からないことはあった?」
「いっぱいあった。リオン君が帰ってきたら聞こうと思ってたんだよね」
「うん。今日の花凛ちゃんを、いっぱい教えて?」
そう言ってくれるけれど、食事が終わる頃には、リオンはまた大社へ戻らなければならなかった。
「ごめんね、花凛ちゃん。もう少し一緒にいたいんだけど……」
「ううん、お仕事だもんね」
花凛は笑って首を振った。リオンが忙しいことは分かっている。自分が助けてもらったばかりなのだから、わがままを言うつもりもなかった。
けれど、リオンが再び鏡の向こうへ消えたあと、家は急に広くなったように感じられた。
そんな日々が続いて……。
「……暇だなぁ」
朝食を終えリオンを見送った花凛は、ソファに寝転がり、天井を見上げた。書斎の本は面白い。けれど、さすがに連日ともなれば飽きてくるというものだ。
「……十三比良坂、行きたいなぁ」
ふと、そんな考えが浮かんだ。先日の探索では、最初の階層しか見ていない。
スライムを倒した時の感覚は、今でもはっきり覚えている。神術を使うのは楽しかったし、見たことのない魔物を探すのも面白そうだった。
(紫狼に出会った時は少し怖かったけれど。普通、入り口付近には居ないってリオン君も言ってたし)
けれど、リオンは忙しい。なら……少しくらいなら、自分ひとりで行っても大丈夫なのではないだろうか。……せっせと花凛に色々なものを贈ってくれる彼に、魔法石の一つでも贈り返したい気持ちもあった。
「入り口付近なら、危険も少ないって本にも書いてたし……」
言い訳のように呟いて花凛は立ち上がった。
リオンからは、家の中は好きに使っていいと言われている。けれど、家から出る時は必ず一緒に、とも言われていたことを思い出す。
——その言葉を思い出して、花凛は一瞬だけ足を止めた。
悩むこと数瞬。理性より欲望が勝ってしまった。
「……ちょっとだけなら」
すぐに帰ってくればいい。チョーカーもあるから、何かあればリオンを呼べる。
そう自分に言い聞かせて、花凛は冒険用の服に着替えた。あれからリオンが着々と服を増やしていて、そのどれもに防御の術がかかっていたので、今では選べるほどに服がある。けれど、その中でも花凛は最初の冒険で使った服を選んだ。
腕輪に触れると、魔道具箱の中身が淡い光の文字となって浮かび上がる。
水筒、食料、回復薬、短刀、書、玉。 鏡だけは収納せず、前回と同じようにネックレスとして首にかけた。
必要な物が入っていることを確認し、花凛は小さく頷いた。
「よし。忘れ物なし」
大鏡の部屋へ向かい、リオンがしていたように鏡へ手を触れる。鏡面が水面のように揺れた。花凛は少しだけ緊張しながら、鏡の中へ足を踏み入れる。
記憶を頼りに、転移先の建物から出ると、記憶と同じ街並みが広がっていた。
大きな門を抜け、石段を下りる。鳥居が現れ、その向こうには、静かな神域が横たわっていた。
「……誰もいない」
周囲を見回してから、花凛は巨大な岩へ向かった。リオンが唱えていた言葉を思い出す。
「猫神の大宮司が命ずる。十三比良坂の道よ、開け」
けれど、花凛が唱えても何も起こらなかった。
「あれ?」
もう一度、同じ言葉を口にする。やはり岩は光らない。
「……大宮司じゃないと駄目なのかな」
困っていると、背後から声が聞こえた。
「そら、そうやろ。神職やない者が唱えても、開く訳あらへん。」
「えっ?」
背後から聞こえた声に、花凛は振り返る。そこには、灰色の髪と青い瞳を持つ青年——灰青が立っていた。猫耳が頭の上でぴんと立ち、その隣には千草もいる。
「灰青さん……?」
「こんにちは、銀杏のお姫さん」
灰青は、楽しそうに目を細めた。
「今日は銀杏の君は一緒やないん?」
「うん……お仕事で忙しくて……」
「まぁ、せやろな。……やからって、一人で来たんか?」
灰青の視線が、花凛の首元へ落ちる。黒いチョーカーを見て顔を顰めた。
「大方、無断で、ってところやろなぁ……」
言い当てられてギクリと花凛は身を強張らせた。
「まぁ、ええわ。それで? 何しに来たんや?」
「……ダンジョンに入ってみたいなと思って……」
「……娯楽目的か」
灰青の目が鋭くなる。けれど、不快そうな光はすぐに消えて、ニコリと読めない笑みを浮かべる。
「まぁ、ええわ。お姫さんが行きたいんやったら、連れてったってもええで?」
「灰青様!」
「黙り、千草。銀杏の君が神鏡まで持たせてるんや。少なくとも、何も知らん素人ではないやろ」
「灰青さん……いいの……?」
きらりと花凛の目が輝いた。灰青は鷹揚に頷く。
「ここで帰しても、一緒に行っても、どうせ銀杏の君のご不興は買うやろし。せやったら、俺が面白い方、選ばせてもらうわ」
灰青はそう言いながら、花凛のチョーカーをもう一度見た。
「それにしても、えらい大層なもんを付けてもろたんやな」
「これ? 防御の術が付いてるんだって。お揃いなの」
「……お揃い、ねぇ」
灰青の青い瞳が、今度こそ大きく見開かれた。千草も花凛の首元を見つめる。
「銀杏様と、同じものを?」
「うん。予備をくれたんだって」
「予備、ねぇ……」
灰青は口元を押さえ、肩を震わせた。
「灰青くん?」
「いや、なんでもあらへん。……ほんま、銀杏の君は、隠す気があるんかないんか分からんなぁ」
「何の話?」
「こっちの話や」
灰青は笑いを収めると、花凛へ手を差し出した。
「ほな、お姫様。今日は俺らが案内したるわ」
「よろしくお願いします!」
花凛がその手を取ると、灰青は楽しそうに笑った。千草はそんな二人を見つめたあと、静かにため息をつく。
「灰青様……くれぐれも、無茶はなさらないように」
「分かってるって。……まあ、せいぜい見つからんことを祈るだけやな」
灰青が岩へ向かって歩き出す。花凛もその隣に続いた。
花凛の首元の石が、ほんの一瞬だけ淡く光ったことには誰も気づかなかった。




