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本日三話目です。

 グレン・エマーソン様


 この手紙をあなたが読んでいるということは、私はあなたの前からきちんと消えることができたということですね。


 まずは心から謝罪をさせてください。

 本当に申し訳ありません。

 私利私欲から、あなたの生活を乱し、困惑させたことは、許されることではありません。

 申し訳ありません。


 もとからご存知のように、私はあなたの妻ではありません。

 私はあなたのことを良く見知っていましたが、あなたの方は私と出会ったことすら、覚えておられないと思います。


 ――本当なら、普通に出会って、あなたと恋がしたかった。

 つれないあなたを一生懸命、振り向かせたかった。


 あなたが、偽物である私に優しくしてくださる度に、その思いは胸を引き裂くようでした。


 あなたに嘘をつき続ける罪、あなたを迎えることができる幸。

 すべて私が選んだこととはいえ、長く続けるのは無理がありました。


 最近では、嘘のヴェールが剥がれかけて、とうとうあなたに心配をかけてしまっていましたね。

 頑張ってはみましたけれど、私では女優になれそうにもありません。


 ――本当は、ずっとずっとそばにいたかった。

 あなたが傷ついたときも、楽しいときも、必ず帰る場所を用意しておきたかった。


 あの夜のことばにも気持ちにも嘘はありませんが――結果として果たせず、申し訳ありません。


 今回の謀に協力していただいたアメリア・エマーソン夫人を、どうかお怒りにならないでください。

 すべて、私の罪です。

 本当に申し訳ありません。


 さようなら。


 メリッサ・オーウェル





 グレンが手紙を読み終わり、まず受けた衝撃は、妻と偽られていたことに対してではなく、リサの本当の名前すら知ろうとしなかった自らの愚かさによるものだった。


 確かにリサがこの家に来てから、定例議会の準備のためグレンの帰宅は深夜をまわることも少なくなかった。

 だが、顔を合わせて食事したことは数えきれないほどあるし、くだらない話をした夜もたくさんあったし、ちょっとした口論さえあったはずだ。


 なのに、グレンは――目の前にいるリサが一体何者で、何の目的でグレンの妻をしているのか、問い詰めなかった。


 それは、母までもがリサを妻と扱っていたからでもあるし、何よりグレン自身が早々にリサの空気に馴染んでしまったからでもある。


 問い詰めれば、消えるかもしれない。

 怒って自分のことを嫌いになるかもしれない。


 気づけば、いなくなることを恐れる気持ちが、グレンの口に蓋をした。

 それが、この唐突な別れにつながるとわかっていれば、どうにでもしたというのに。


「……さようならって、どういうことだ」


 リサのいないリビングで立ち尽くすグレンの足元から、冷気が上がってくる。

 外は吹雪きはじめていたが、部屋は十分に暖められているはずだ。それなのに――グレンの耳の奥ではごうごうと吹き荒れる音が止まず、手足が凍えそうなほど寒かった。



 ◇◇◇◇◇



「やあね、何よその顔」

「…………」


 いつもであれば、こんな顔に産んだのは母であるあなただろう、と軽口を返すグレンだが、今回ばかりはそんなことばも口にはできなかった。


 リサがいなくなって、二日目の朝。

 無理矢理仕事を休んだグレンは実家を訪れた。


「……どうせ、リサさんがいなくなって落ち込んでるんでしょう? だらしがないわね」

「一体、どういうことなのか説明してもらおうか」


 母が置いた茶器には触れず、グレンは絞り出すように言う。


 なぜ、偽りの妻をグレンのそばに置いたのか。

 なぜ、リサはいなくなったのか。


 すべてを母が知っているはずだという確信が、グレンの瞳に光を灯した。



 ◇◇◇◇◇



 白を基調に作られた建物は、天井が高く明かりを取り込みやすいつくりになっていた。

 一昔前までは療養所と言われれば暗く悲しい場所と思いがちだったが、ここであれば病やけがを癒すに相応しいのかもしれない。


 案内された病室に入れば、夕焼け色の髪の女性がこちらに背を向けて、窓の外を眺めていた。


「……リサ」


 はじかれるように振り返ったリサは、目をいっぱいに見開いて口元をおさえた。

 一緒に暮らしていたときはいつも見られた喜びに輝く瞳も、期待に染まっていた頬もない。

 ただそこには、なぜお前がここにいるのだという驚きしかなかった。


「すべて、母さんから聞いた」

「……」


 リサのオーウェルという家名でもしかしたら、という思いはあったが、調べてみればやはりメリッサ・オーウェルは下級貴族の末娘だった。確か、年は二十。

 初等学校で教育を受け、十五で社交界デビューをし、どこにでもいる貴族の娘らしくその後はいくつか恋でもして結婚するであろう娘。


「俺と君が初めて会ったのは、君のデビューのときだったそうだな」


 正直、母からその話を聞いても、グレンはぼんやりとしか思い出せなかった。

 まだ幼さを残したデビュタントと思しき少女と交わした会話さえ、そういえばそんなことがあったかもしれないと思う程度だ。


『あなたにとっては、その程度でも、リサさんにとっては人生を変えるほど大きなことだったのよ』


 初めて会ったパーティから、リサはグレンのことをずっと追っていたらしい。

 だが、リサは下級とは言え貴族の娘。グレンは政務官を担ってはいるが、平民だ。

 顔を合わせる機会はほとんどなかった。


 デビューの思い出は思い出のまま、年頃になったリサが嫁ぎ先を決める頃。


 ――リサの病が発覚した。


『療養所に入る前に、どうか少しだけ思い出をください、ってあんな可憐な子に言われて断れるはずないじゃない。ちょうどあなたの乱れた食生活も気になっていたし……かわいい子が家で待っていればあなたにとっても良いことかと思って』


 そう言って平気で年頃の女性を送り込む母には一言も二言もあったが、嬉々としてリサの料理を食べ、彼女が洗濯した衣服を着、彼女が整えた心地良いベッドで休んでいたグレンに何か言えるはずもなかった。



「リサ」


 グレンが一歩一歩近づくと、口元を覆ったままのリサがいやいやをするように首を振った。

 それに悲しい気持ちになりながらも、グレンは構わずベッドの脇へ立ち、リサの顔をのぞきこんだ。


「……病めるときも健やかなるときも、そばにいると誓うのが夫婦なのではないのか」


 グレンのことばに、リサの眉がぎゅうっと寄る。

 金茶の瞳は、たっぷりと濡れて今にも雨をこぼしてしまいそうだった。


「…………」

「あの夜くれたことばを、反故にするのは、許さない。リサが帰る場所は、俺が用意する。どんなときでも最後まで夫婦としてそばにいる」


 ひとつひとつ、区切りながらグレンが言い終わる頃には、とうとう俯いたリサの頬から、とめどなく涙がこぼれだした。

 真っ白なシーツに次々灰の染みができていく。


「そばにいてくれ。メリッサ」


 それに対し、リサは首を何度も横に振る。

 もう遅いのかとグレンの胸に真っ黒なものが広がったそのとき、看護師が入ってきた。


「あら、お見舞いの方ですか? うまく話せないと思うので、良かったら使ってください」


 紙とペンを差し出しながら、何が楽しいのか、看護師の口調は明るく跳ねるようだった。

 それに内心苛立ちながら、グレンは聞く。


「話せないって……そんなに状態が悪いんですか」

「悪いって……大げさですね。随分放っておいた親知らずを四本も抜いたから、そりゃ話せないし食べられませんよ。顔の腫れが引くころには退院できますけど」


 笑いを今度こそ隠そうともせず、看護師が言ったことばに、グレンはぽかんと口を開けた。

 慌ててリサを振り向けば、恥じ入るようにシーツを目元まで引き上げ、ベッドに隠れてしまう。


「病って……歯のことか」

「……あって……ひゅふふはひっはいひはは……」


 ようやく聞けたリサのことばは、何一つ意味を成さなかった。

 シーツの脇から紙とペンを差し込めば、やがて紙が一枚返される。


『手術が失敗すれば、味覚に異常が出る可能性があったんです。貴族の妻はつとまりません。命の危険性も少なからずあったし……』


 何を大袈裟な、とは思うが、貴族の夫人は茶会やらパーティーやら忙しい。ものを食べたり飲んだりする機会も多いのだろう。

 味覚に異常があればそれらに支障が出るということか。


「それと、俺のそばからいなくなることに何の関係がある」


 今度は長くかかってから、また一枚紙が返された。


『決まっていた男爵家への嫁入りがなくなったので、最後にグレンさんと思い出が欲しくて我が儘を言ったんです。それが叶ったら出家しようと思っていました。元々嘘から始まったことですし、グレンさんにこれ以上迷惑はかけられません』


 それを読み終わると同時に、グレンは左手をシーツにかけ、勢い良く引き剥がした。


 未練がましくシーツを掴んで驚きに目を見開くリサの頬は、確かに輪郭を変えるほど腫れ上がっていた。


「……俺がリサのことを好きだと言ってもか」

「…………」


 シーツを握りしめるリサの瞳が大きく揺れた。

 投げ込んだものがゆっくりと、しかし確かに波紋を広げていくのを確認したグレンは、大きく息をつく。


「であれば、仕方がない。……さようなら、リサ」


 目を伏せたままのグレンは踵を返し、ドアへと向かう。

 普段と同じ速さを心がけていたが、どうしても足は重くなる。


 リサがくれたもの。

 二人の関係は偽りでも、共に食卓を囲み、暖炉の前で微睡み、朝陽に目を細めた時は、真実だった。

 その時間が終わってしまうということが、グレンの足を縫い止めようとしているのだ。



 冷たいノブにグレンが手をかけた瞬間だった。


「……まっへ! いはないへ!!」


 立ち去ろうとする想い人の足を止めるには随分と間抜けで――それでもグレンにとっては何より聞きたかったことばが、彼の頬に笑みを灯した。

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