雨寂
南禅寺を訪れた私は南禅寺の枯山水を私は座りながら眺めていた。
雨が柔く振り、右からは雨が水溜まりに当たる音が左からは雨が雨樋に当たる音が金のように短略的に鳴っていた。
雨色が白く写り、白い雲に重なっている時は雨が消え、それが山の木に重なった時にその白模様を映し出している。
その風景は皆それぞれ違って見えるであろう。今私が、座っているこの場所、そして私のこの背丈でしか偶然的に見ることができないのである。
私はその事に身勝手を感じた。ただ、芸術的に見るのであればそれは私個人の芸術的感性なのであって、個人の文化なのである。
欄干の近くに寄れば、雨に触れた夏風がいやらしく冷たくなって吹いてくる。それでいて、風の外堀だけが冷たいのであって、中は暑いままである。なので、外堀と中が合わさると蒸し暑い感覚に襲われる。
それでも、一瞬に浴びる風は冷たくて心地が良いものであった。雨の音と合わさるせいもあるのだろう。
如心庭は柴山全慶老師の心を表現せよという言葉が詰め込まれている。
時折、観光客の足音と話し声が聞こえるが、雨の音以外に物音がなかった。雨樋の音が滝のようである。
寧ろ、雨による音が静けさを作り出していると言える。無音に近い意味の静けさが音によって作り出すというのは矛盾しているように思えるが、静けさは無音ではなく、無音の中に響く、一つの微かな音なのではないかと思う。
国宝、如心庭は小ぶりな庭ながら、その小ささによって静けさを維持しているように思えた。
門の奥にある松の木が今にも踊りそうに見え、私はそれをしばらく眺めていた。
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南禅寺の水路閣は明治時代に琵琶湖の水を運ぶ大切な水路として、守られてきた。近年はそれ以外にも写真を撮る観光客が多く見られ、私がこの地を知ったのもそのような写真からであった。
私は水路閣へ近づいた。辺りに雨のせいもあってか人は見えず、水路閣かは上を流れる水の音と、滝の音、そして雨の音が心地良く混在していた。水によって響く水路の下は煉瓦に移った苔が周りの葉と同化したようにも思えた。
じめじめしているせいか妙に蒸し暑い汗を背中によくかいた。
私はこの地を後にすることにした。
振り返り、三門を見上げると、三門の立派な佇まいに改めて圧倒され、その奥にひっそりと山が立ち、雲を突き抜けて頭を出している姿に私は狩野派が描く襖絵と錯覚をした。




