第25話 ただいま、お父様!
本当なら、この島でも何日かゆっくり過ごして、まだ食べたことのないお菓子を探したかった。
でも、今はそういうわけにはいかない。
翌朝、アルマ海洋共和国の港を発ったわたしたちは、再び船で大陸を目指していた。
その航海は、行きよりもずっと心が軽かった。
目的地がはっきりと定まったことで、これまでの漠然とした不安が、確かな決意へと変わっていたからだ。
「セシル、故郷に着いたら、まず何をすればいいと思う?」
甲板で海を眺めながら尋ねると、セシルはしばらく考えてから答えた。
「まずは、国王陛下と王妃陛下に、これまでの旅で分かったことを、すべてお伝えするべきかと思います」
「そうよね……。でも、その前に」
わたしは苦笑いを浮かべながら、続けた。
「たぶん、盛大にお説教されると思うわ」
「それは、覚悟しておいた方がよろしいでしょうね」
セシルも同意するように頷いた。
☆
港に到着し、そこから再び陸路でベルフィーユ王国を目指す道中、わたしの胸の中では期待と不安が入り混じった、複雑な感情が渦巻いていた。
見慣れた石造りの街並みが視界に入ってきたとき、わたしは思わず息を呑んだ。
「帰ってきたのね……」
旅立った夜から、ずいぶんと長い時間が経っていた。城壁の様子も、街の景色も、記憶の中のものと変わらないはずなのに、なぜか以前よりもずっと大きく、そして温かく感じられた。
城門に近づくと、門番たちが驚いた様子でこちらに気づいた。
「リ、リリアーヌ王女様!?」
「ただいま」
わたしが微笑みながらそう告げると、門番たちは慌てて城内へと知らせを走らせた。
城の中は、たちまち大騒ぎになった。侍女たちが涙ながらに駆け寄ってきて、騎士たちも安堵の表情を浮かべながら、こちらを取り囲んだ。
「リリアーヌ様! ご無事で……!」
「心配したのですよ!」
口々にかけられる言葉に、わたしは申し訳なさと嬉しさが入り混じった気持ちで、一人一人に頭を下げた。
そして、玉座の間へと案内されると、そこには険しい表情の父上と、落ち着いた様子の母上、そして姉のシャルロットが待ち構えていた。
「お父様、お母様、お姉様……ただいま帰りました」
わたしが恐る恐る挨拶をすると、次の瞬間、父上の大きな声が玉座の間に響き渡った。
「リリアーヌ!!」
「ひっ……」
思わず身をすくめると、父上はずかずかとこちらに歩み寄ってきた。
「お前は、いったい何を考えているんだ! こんなに長い間、何の連絡もなく城を空けて! 城中がどれほど心配したと思っている!」
「そ、それは……お土産、お土産!」
しどろもどろになりながら、わたしはとっさに鞄から、旅の道中で集めた各国の菓子を取り出した。
「ヤマトノ国の羊羹と、サハリア王国の蜂蜜菓子と、ノルディア王国のシナモンロールと……!」
「まず説教だ!!」
「うう……」
容赦のない一喝に、わたしは思わず肩を落とした。
「リリアーヌ」
「は、はい」
「お前は、自分がどれほど皆を心配させたか、分かっているのか」
低い声だった。
わたしは、言い訳をすることもできずに俯いた。
「……ごめんなさい」
「城を抜け出し、行き先も告げず、長い間戻らなかった。王女として以前に、娘として、あまりにも無茶が過ぎる」
「はい……」
父上の言葉は厳しかった。
けれど、その声を聞いているうちに、わたしは少しだけ違和感を覚えた。
怒っているはずなのに、その声音の奥には、どこか安堵したような響きが混じっている。
「お父様」
「なんだ」
「……心配してくれてたの?」
父上の眉がぴくりと動いた。
「当たり前だろう!」
玉座の間に、父上の声が響いた。
「娘が突然いなくなって、心配しない父親がどこにいる!」
思わず目を丸くする。
父上は、言ってしまってから気まずそうに咳払いをした。
「……とにかくだ。無事に戻ったことだけは、よかった」
「お父様……」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「でも」
父上は、改めてわたしを見た。
「ずいぶんと、顔つきが変わったな」
「え?」
「城を出る前のお前なら、今ごろは叱られるのが嫌で、どうやって逃げ出そうか考えていたところだろう」
「そ、そんなこと……」
否定しようとして、やめた。
たぶん、その通りだったからだ。
「だが、今のお前は違うようだ」
父上の視線が、少しだけ柔らかくなる。
「ただ遊び歩いてきたわけではないのだろう?」
その問いに、わたしはゆっくりと頷いた。
「はい」
フロレンツァのミレーナ。
ヤマトノ国のコハル。
サハリアのシャヒラ。
ノルディアのフレイヤ。
アルマ海洋共和国のマリン。
旅の途中で出会った人たちの顔が、次々と頭に浮かんだ。
「たくさんのお菓子を食べました。たくさん失敗もしました。でも、それだけじゃありません」
わたしは父上をまっすぐ見つめた。
「いろんな国を見て、そこに暮らす人たちのことを知りました。王女だからできることも、王女だから分からなかったことも、たくさんありました」
父上は何も言わず、わたしの言葉を聞いていた。
「城にいたころのわたしは、王女であることを、窮屈なだけだと思っていました。でも今は……少しだけ違います」
「違う?」
「王女だからこそ、できることもあるんだって、思えるようになったんです」
父上の表情が、わずかに変わった。
驚いたような、それでいて、どこか嬉しそうな顔だった。
「……そうか」
父上はそれだけ言って、ゆっくりと頷いた。
「ならば、その旅で何を見てきたのか、今度は王女として、私に話してみなさい」
「はい、お父様。じつは、旅の途中で、とても大切なことに気づいたんです」
「大切なこと?」
「世界中で、作物や自然の実りに関する、深刻な異変が起きています。それも、一つの国だけの問題じゃなくて、大陸全体を巻き込む、大きな問題なんです」
わたしの真剣な口調に、父上の表情にも、次第に真剣味が増していった。
「それは……」
説明を続けようとしたところで、宰相らしき初老の男性が、慌ただしく玉座の間に入ってきた。
「陛下、失礼いたします! 各国より、緊急の書状が届いております!」
「なんだと?」
宰相が差し出した書状の束を、父上は訝しげに受け取った。次々と開封していくうちに、その表情が、驚きへと変わっていく。
「これは……フロレンツァ公国からの、感謝状?」
「フロレンツァ公国?」
わたしも思わず声をあげた。父上が読み上げた内容によれば、それはミレーナの父、ジョゼッペ氏の名で送られた、正式な感謝の書状だった。
「『貴国の王女リリアーヌ様のご助力により、我が国の菓子文化の発展に、大きな貢献をいただきました』……」
続けて、他の書状も次々と開封されていった。ヤマトノ国からは、コハルの師である神主の名で、祭りを無事開催できたことへの感謝状。サハリア王国からは、シャヒラ自身の署名で、花畑復旧への協力に対する正式な礼状。ノルディア王国からも、村長の名で、村の窮状を救ってくれたことへの謝意が綴られていた。
「これは、一体……」
父上が困惑した様子で、次々と届く書状に目を通していく。その表情は、次第に怒りから、驚きと戸惑いへと変化していった。
「リリアーヌ、これは、お前が――」
「はい、お父様。わたしが旅先で出会った国々で、それぞれ問題を解決するお手伝いをしてきました」
わたしがそう答えると、父上はしばらく言葉を失ったように、書状の束を見つめていた。
「……あいつは、いったい何をしているんだ?」
思わずといった様子で漏らされたその呟きに、玉座の間にいた誰もが、思わず苦笑を浮かべた。
母上が、ゆっくりと父上の隣に歩み寄った。
「陛下、これで分かったでしょう。あの子は、決して単なる遊びで城を飛び出したわけではないのです」
「し、しかし……」
「わたくしたちの娘は、旅先で多くの人々を助け、多くの国々から信頼を得てきました。これは、誇るべきことではありませんか」
母上の言葉に、父上は複雑な表情を浮かべながら、こちらに視線を向けた。
「リリアーヌ、お前は……」
その視線には、これまでの怒りとは違う、何か別の感情が滲んでいるように見えた。
「お前は、本当に、あちこちで問題を起こしてばかりだと思っていたが……」
父上は一度言葉を切り、深いため息をついた。それから、少しだけ、口元を緩めた。
「まさか、それが結果的に、多くの人々を助けることに繋がっていたとはな」
その言葉に、わたしは思わず胸が熱くなった。
「お父様……」
「だが、勝手に城を飛び出したことについては、決して許したわけではないぞ! それとこれとは、話が別だ!」
「は、はい! それはもちろんです!」
慌てて頷くわたしを見て、姉のシャルロットが、くすくすと笑い声をあげた。
「リリィ、やっぱりあなたは、期待を裏切らないわね」
「お姉様……」
「わたくし、あなたが旅先から送ってくれた珍しいお菓子、とても楽しみにしていたのよ」
シャルロットの優しい言葉に、わたしは思わず微笑んだ。
しばらくの間、家族との再会の喜びに浸っていたけれど、わたしはふと、旅の途中で城の菓子を口にしたときの違和感を思い出した。
「お父様、じつは、もう一つお伝えしたいことがあります」
「なんだ」
わたしは、城の厨房から届けられた焼き菓子を一つ手に取り、口に運んだ。
噛みしめた瞬間、案の定、これまでの旅で感じてきたのと同じ違和感が、舌の上に広がった。
「やっぱり……小麦の味がおかしいわ」
「な、なんだと?」
父上が驚いた様子で、こちらを見た。
「お父様、この国にも、もう異変が迫ってきています。今まで旅してきた国々と、同じような形で」
その事実を告げた瞬間、玉座の間の空気が、一気に張り詰めたものに変わった。
「つまり、この問題は、我が国にとっても、決して他人事ではないということか」
「はい。それどころか……この問題の根源となる場所は、この国の近く――『始まりの森』にあるみたいなんです」
その言葉に、玉座の間にいた誰もが、息をのむような沈黙に包まれた。
父上は、しばらくの間、深く考え込むような表情を浮かべていた。それから、穏やかに、けれど確かな決意を込めて、こちらを見据えた。
「リリアーヌ、詳しく話を聞かせてくれ。この国の未来がかかっているのなら、王として、無視するわけにはいかない」
「はい、お父様」




