第1話 お姫さま、お城暮らしに飽きました
「もう、いやっ!」
わたしはそう叫ぶと、頭に載せていた金色のティアラを勢いよくベッドへ放り投げた。
ぽふん、と音を立てて、ふかふかの枕に沈む。
「朝は礼儀作法、お昼は歴史と外国語のお勉強、その次は舞踏、それから刺繍! どうしてお姫さまって、こんなに忙しいのよ!」
鏡の中では、蜂蜜色の髪をきれいに結い上げ、若草色の大きな瞳をした十五歳の少女が、王女らしからぬ顔で頬をぷくっと膨らませている。
言うまでもなく、わたし――リリアーヌ・フォン・シュガーベルだ。
ベルフィーユ王国第二王女。
みんなからはリリィと呼ばれている。
そして今、人生最大の危機に直面していた。
今日のおやつの時間まで、あと二時間もある。
「二時間よ!? 二時間も甘いものなしで過ごせっていうの!?」
「きゅい」
机の上にいたクリーム色の小さな魔物プティが、同意するように大きな耳をぴこりと動かした。
「そうよね、プティ。これはもう非常事態よ」
「きゅい!」
わたしは立ち上がると、部屋の扉をじっと見つめた。
この時間なら、厨房ではきっと午後のお茶会用の焼き菓子を作っているはずだ。
つまり――。
「ちょっとだけ、味見しに行きましょう」
「きゅ!」
窓の外はまだ午後の明るい光に満ちていて、石造りの回廊には歴史の教科書の匂いが染みついたままだった。あの重たい革表紙をぱたんと閉じたときの解放感は、たぶんこのお城で一番気持ちのいい瞬間だと思う。
部屋を出るとき、鏡台に置きっぱなしのティアラをちらりと見た。侍女のエリーゼがまた「リリアーヌ様、髪飾りを外したままお出かけになるのはおやめください」と眉を吊り上げるのが目に浮かぶ。でも今はそれどころじゃない。
プティを肩に乗せて、わたしは足音を殺しながら廊下を進んだ。
といっても、忍び足のつもりでも靴の裏がこつこつ石畳に響いてしまう。剣術の授業では先生に「姫殿下、忍び足だけは天賦の才がございませんね」とため息をつかれたばかりだ。失礼な話だと思う。剣を投げる才能ならあるのに。
厨房に近づくにつれ、甘い匂いが濃くなっていく。バターの焼ける香ばしさと、蜂蜜の甘い湯気。プティの耳がぴくぴくと忙しなく動き、鼻先が空中で小さく震えた。
「きゅい、きゅい!」
「わかってるわ、プティ。もうすぐよ」
厨房の扉の隙間から中を覗くと、料理長のベルナールおじさんが天板いっぱいに並んだクッキーをオーブンから取り出しているところだった。狐色に焼けた生地の縁が、光を受けてきらきらしている。
お腹がきゅうっと鳴った。
これは、行くしかない。
わたしは深呼吸をひとつして、できるだけ品のある足取りで――のつもりで厨房へ滑り込んだ。
「ベルナール、いい匂いがするわね」
「リ、リリアーヌ様!?」
ベルナールおじさんは焼きたてのクッキーを乗せた天板を危うく落としかけて、慌てて両手で支え直した。
「お茶会用の焼き菓子でございます。まだ味見はお許しいただけないのですが」
「あら、味見は大事よ。もし変な味だったら、お客様に恥をかかせてしまうもの」
「それはもう、毎回味見をしていただいておりますが、いつも『美味しい』としかおっしゃらないので、正直あまり参考にはなっておりません」
図星をつかれて、わたしは目をそらした。
でも今日は引かない。だって今日のおやつまで、あと二時間もあるのだから。
「ひとつだけ。ね?」
精一杯かわいく小首を傾げてみせると、ベルナールおじさんは長いため息をついて、天板の端にあったクッキーを一枚差し出した。
「一枚だけですよ」
「やった!」
受け取ったクッキーにかぶりつくと、バターの香りが口いっぱいに広がった。焼きたての熱さで舌が少し痺れる。噛みしめるうちに、ふと違和感が舌の上に残った。
「……この蜂蜜、去年の蜂蜜と違うわね」
「え?」
「花の香りが薄いの。たぶん、産地が変わったんじゃない? 東の農園のじゃなくて、南の方の」
ベルナールおじさんが目を丸くした。
「よくお分かりになりましたね……今年は東の農園が不作で、南の商人から仕入れているのです」
「ほらね」
得意げに笑ったところで、廊下の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。かつかつという、規則正しく苛立った足音。エリーゼだ。
「リリアーヌ様! こんなところにいらっしゃいましたか! 次は舞踏のお時間ですよ!」
「げっ」
プティが素早くわたしの帽子の中へ滑り込んだ。
「あ、あの、ちょっと味見をしていただけで――」
「言い訳は結構です! さあ、こちらへ!」
厨房を飛び出したエリーゼに手を引かれ、わたしは半ば引きずられるようにして舞踏室へと連れていかれた。ベルナールおじさんが背後で申し訳なさそうにこちらを見ていたけれど、目が合うとすぐに逸らされてしまった。裏切り者。
舞踏の授業は、いつも通り退屈だった。
ステップを間違えるたびに教師のベアトリス・フォンテーヌが眉をひそめ、扇子で膝の辺りをぱしんと叩く。今日は特に集中できなかった。頭の中はさっきのクッキーのことでいっぱいだったから。
東の農園が不作。だから蜂蜜の質が変わった。
――それだけの話のはずなのに、なぜか胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残っていた。
☆
夕方、ようやく自由時間になったころ、城の広間で見慣れない人影を見つけた。
旅装束に身を包んだ、色の浅黒い商人風の男性。護衛の騎士に案内されて、応接の間へ向かうところらしい。腰に下げた大きな鞄からは、見たこともない布や小瓶がのぞいている。
「あら、あなたは?」
声をかけると、商人は一瞬驚いた顔をしてから、丁寧に頭を下げた。
「これはこれは、王女様。私はガスパール、東方より参りました旅商人でございます。此度は陛下に珍しい品々をお目にかけようと、参上いたしました」
「東方って……もしかして、ヤマトノ国とか?」
「よくご存じで。ヤマトノ国はもちろん、道中いくつもの国を回って参りました」
わたしの目が輝いたのが自分でも分かった。
「ねえ、どんなお菓子があるの?」
「お菓子でございますか?」
ガスパールは意表を突かれたように瞬きした。無理もない。普通、王女は真っ先に宝石や織物の話を聞きたがるものだろうから。
「そう、お菓子! わたし、お菓子には人一倍うるさいのよ」
「……それはそれは。左様でございますね。ヤマトノ国には『餅』という菓子がございます。米を搗いて作るのですが、これがなんとも不思議な食感で、伸びるのです」
「伸びる?」
「はい。指でつまむと、するすると糸を引くように伸びまして」
わたしの頭の中で、伸びるお菓子の映像が勝手に膨らんでいく。伸びる。伸びるお菓子。そんなの絶対に美味しいに決まっている。
「他には!?」
「さらに南、砂漠の国サハリアでは、蜂蜜と木の実を薄い生地で幾重にも重ねた菓子があります。あちらは香辛料も名産で、菓子にも独特の香りづけがなされていて――」
もうその時点で、わたしの心は決まっていた。
「世界には……そんなにお菓子があるの!?」
思わず声が裏返った。
城のおやつは毎日、似たような洋菓子ばかりだ。ミルフィーユ、タルト、マドレーヌ、マカロン。それはそれで美味しいけれど、十五年も同じような味を食べ続けていると、さすがに飽きてくる。
なのに世界には、伸びるお菓子や、香辛料で香りづけされた蜂蜜菓子があるという。
こんな話を聞かされて、平然としていられるはずがない。
「あの、王女様? 顔色が……」
「なんでもないわ! ガスパール、ありがとう! とても勉強になったわ!」
わたしは早口でそう言うと、ガスパールが呆気にとられているうちに応接の間の前を立ち去った。
頭の中は、まだ見ぬお菓子のことでいっぱいだった。
☆
その夜、夕食の席で父上――アルフォンス国王が、思いがけない話を切り出した。
「リリアーヌ、お前に話しておかねばならんことがある」
「なあに、お父様」
「来月からは、公務にお前も参加してもらう。近隣諸国との交流会や、国内の視察など、王族としての務めをきちんと果たしてもらうことになる」
スプーンを持つ手が止まった。
「それって……今よりもっと忙しくなるってこと?」
「当然だ。お前ももう十五だ。姉のシャルロットのように、王族としての自覚を持たねばならん」
姉のシャルロットは十八歳。第一王女として、次期王位継承者候補にふさわしい振る舞いをいつも心がけている。礼儀正しく、勉学も優秀で、非の打ちどころがない。
わたしとは正反対だ。
「自由時間は……?」
「減る。当然のことだ」
目の前が真っ暗になった気がした。
ただでさえ忙しい毎日が、これ以上忙しくなる。今でさえ二時間おやつを我慢するだけで一大事だというのに、これから先、いったいどうやって生きていけばいいのだろう。
「お父様、それは――」
「決定事項だ。王妃も承知している」
母上――エレオノーラ王妃が、穏やかに微笑んでこちらを見た。その表情からは何を考えているのか読み取れない。
食事の間、わたしはほとんど何も味わえなかった。頭の中では、ガスパールの言葉と、父上の言葉がぐるぐると渦を巻いていた。
伸びるお菓子。蜂蜜と木の実のお菓子。まだ見ぬ世界の甘い誘惑。
そして、これから先ずっと続く、予定でぎっしり埋まった窮屈な毎日。
☆
夜、自室に戻ったわたしは、ベッドに寝転んだまま天井を見上げていた。プティが胸の上に乗って、丸くなっている。
「ねえ、プティ」
「きゅ?」
「わたし、このままお城にいたら、一生外国のお菓子なんて食べられないと思わない?」
「きゅい」
プティが小さく首を傾げた。
「だって、公務が忙しくなったら、旅行なんてもってのほかでしょう。政略結婚の相手が決まったら、他の国に興味を持つことすら許されなくなるかもしれない」
考えれば考えるほど、胸の奥がざわざわした。
このままだと、わたしは一生、同じ味のミルフィーユを食べ続けて、同じ味のタルトを食べ続けて、それで人生が終わってしまう。
窓の外を見ると、月明かりが庭園の噴水を銀色に照らしていた。城壁の向こうには、寝静まった城下町の灯りがぽつぽつと瞬いている。
その向こうに、もっと遠い場所に、伸びるお菓子や香辛料の香りがするお菓子がある国が、確かに存在している。
わたしは体を起こして、窓辺に近づいた。
「プティ」
「きゅい?」
「わたしね、決めたわ」
プティがぴょんと肩に飛び乗ってくる。小さな体温が、いつもより頼もしく感じられた。
「王女としての公務が始まる前に――」
言葉を切って、わたしは月に向かって、はっきりと宣言した。
「世界中のお菓子を、全部食べに行くわよ!」
「きゅい!」
プティが力強く鳴いた。まるで、その決意に賛成するように。
その夜、わたしはこっそりと旅の準備を始めた。
このときのわたしは、目の前にぶら下がった「まだ見ぬお菓子」という、とびきり甘い誘惑にしか目がいっていなかった。




