傷痕
ビオレッタが母親に捨てられたのは、七歳の頃だ。
父ヴォルトが仕事に失敗し、南部の王都から中部に引っ越すのと同時だった。以前のような豊かな暮らしができず、耐えられなかった母親は男を作って出て行った。残されたビオレッタは、その内、帰ってくるかもしれないと、生活を立て直そうと、慣れない家事に勤しんだ。
父親は酒に逃げ、わずかな稼ぎをつぎ込んでしまう。不幸中の幸いでヴォルトは乱暴だが、娘には甘いところがあり、暴力までは振るってこなかったし、少ない稼ぎをビオレッタがくすねても、ぼやくだけで大目に見てくれた。日々が過ぎるにつれ、稼ぎの悪い夫を叱る、口やかましい女房のようにたくましくなり、なんとか父娘二人の生活をこなしていった。
そんなビオレッタに転機が訪れたのは、八歳の頃だ。花屋の亭主がわざわざやってきて、手伝いを頼んできた。仕事内容は籠に花を入れて、通りすがりの紳士に売るというもので、これが当たった。上流階級のような上品で整った顔立ちのビオレッタから、女性と出かける前に願掛けのように花を買う男性は多く、その時までは自身の容姿など、ただ単に近所の男の子たちにもてるという意味合いしか持たなかったのが、ここに来て金になるということを知った。
そうとなったら花屋なんて、しょぼい仕事はやめだ。さっそく花街に潜り込むと、店に出る姐さんたちの手伝いを始めた。そして客がくれるお小遣いという名で得た支度金で父親を磨き上げ、まともな生活を手に入れたのだ。
「ビオレッタ。お前はいい子だ。金の稼ぎ方だけではなく使い方も心得ているな」
「いいのよ。父さん。これであたしたちようやく身を持ち直せたわね」
「もちろんだ。商店での働き口があるみたいだから、返り咲いてみせるさ。昔取った杵柄だ」
「慣れたものよね。つぎ込んだ分は稼いでもらうんだから」
「はは。元手を父親に投資して運用か。やっぱりお前は商人の子だよ」
ビオレッタの稼ぎで裕福な暮らしができるようになると、父親は打って変わって毎日、仕事に通うようになった。そして方々に顔つなぎに出かけるようになると、柄にもなく物思いにふけるようになっていく。
接客の腕をビオレッタは店で磨くようになったが、ここでもまた転機が訪れた。十一歳も過ぎると、客も取らないビオレッタの人気と稼ぎが、店で目立つようになったのだ。それまでは子どもだからと見過ごされてきた存在が、おもしろくないと叩かれるようになり、楼主の耳にまで届くようになった。
「そういうわけで、もっと小さな店に移ってもらうかもしれないよ」
「女将、あたしが? 客を取るようになったら店一番になるだろうと言われている、このあたしが?」
「そうさ。移ったら『お小遣い』の額はかなり減るだろうね」
「そんな……。どうしてあたしのほうが移るの? あたしのほうが人気あるのに」
女将はふうっとため息をつくように、煙管をくゆらせた。
「人気ってのは、その他大勢がいるから成り立つのさ。客を取る姐さんたちの中で、取らないあんたが物珍しく映る。ただそれだけさ」
「……」
幼い頭で、ビオレッタは必死に考えた。
「姐さんたちの中で目立たなければいいの? もっと大人しくすれば……」
「…………やってみな」
それまで蹴落とす相手としか見ていなかった女性に媚びを売るようになり、目立つ容姿にも関わらず、人の中に埋もれて生きる方法を覚えていった。
そんなある日、店ぐるみで年齢を詐称していたビオレッタに、ダニエルという男性が結婚を申し込んできた。
「ねえ、父さん。いつもお小遣いをくれるダニエルに、結婚を申し込まれたの」
「…………そいつは、どんな奴なんだ」
◇◇◇◇◇◇
「久しぶりだな。どうしてここに?」
「時々、こちらにいらしているのを拝見しまして……。お邪魔してすみません」
雑貨屋の前で待っていたトマスを連れて公園に移動すると、ジュリウスは悩みを打ち明けられた。
トマスは七年前に殺されたタルデッリ商会の経営者夫妻の一人息子で、今は番頭夫妻に育てられている。ラムレイ領で小間物屋を営んでいたタルデッリ夫妻は、年々規模を大きくし、遂には王都に店を構えるまでになったが、強盗に遭い非業の死を遂げた。後見のラムレイ家に知らせが来て、祖父ゲイアスだけでなく、当時十一歳だったジュリウスも顔を出したものだ。しかし犯人は捕まらず、事件は未解決扱いとなっている。
「好きな人ができたのに、結婚を反対されている?」
「ええ、執事に。理由を聞いてもだんまりで、とにかく賛成できないと」
「どんな風に反対されているんだ?」
「ただ……深刻そうに首を振るだけです。少し待って欲しいと」
「反対の理由としてははっきりしないな」
トマスはうんざりした顔でため息をついた。ベンチに座り二人で話していると、そこへ可愛らしい少女イメルダがやってくる。
「トマス。お友達?」
「ジュリウス様。彼女です。イメルダ。ラムレイ家のジュリウス様だ」
「まあ」
隣に座ろうとしていたイメルダは、腰を上げ挨拶する。その後、三人で少し話した後、トマスとイメルダは去って行った。
◇◇◇◇◇◇
自宅に戻ると、執事のマルコーニが上着を脱がせ、マフラーを取り、座ったトマスのブーツを脱がせ始めた。
「なんだっけ、これ」
自分で机の上に置いた、小さな袋を手に取る。安っぽい包み紙に、粉にまみれた素朴な飴が入っていた。
「そういえば、なぜか僕の顔を見て、ジュリウス様が買ってきて下さったな」
トマスの顔を見たジュリウスが、「これこれ」と、とつぜん買ってきて押しつけてきたのだ。中から先ほども嗅いだ懐かしいバターの香りがした。
(懐かしい? ろくな記憶もないのになにを考えているんだ。僕は)
強盗事件の後、当時七歳だったトマスは記憶をなくし、殺された両親のこともよく思い出せない。おまけにそれ以降も極端に忘れっぽくなり、記憶が混乱することが多かった。
いつものように机の上に放り投げるように置くと、封が開けたままだったため、中から飴が飛び出て、床にも散らばった。
「お坊ちゃま」
「ごめん。わざとじゃない」
しゅんとしたトマスを、マルコーニが困った顔で見てくる。トマスは考えも浅はかなら、行動も乱暴だ。自分でも良くないと感じているが、丁寧にする意味がわからなくて、つい……。
「ねえ、どうしてこれしか入っていないの?」
マルコーニが運んできたカップを見ると、ココアが半分しか入っていない。
「もしかして僕がよくこぼすから?」
「火傷されるのも怖いですし、注意するより安全だと思いまして」
『してはいけない失敗』というのを、トマスはよくやる。飴が入った袋を、乱暴に置いてしまうなんて序の口だ。口を開けたのを忘れ、勢い余って袋が倒れ、中身が床に散らばってしまう。そんな失敗をよくやるのだ。
ましてやそれが熱いココアで、こぼす場所が膝の上だったら……。
「どうしたらいいんだろう」
トマスは耳の傷痕を、無意識にさわった。古傷で少し切れ目が入っている。
「ご自分でも気をつけていらっしゃいますし、それで改善しないのなら年と共に落ち着くのを待つのも手かと、最近は思うようになりまして」
「うん」
「ところでこの飴は……」
「ジュリウス様が、とつぜん下さったんだ。あの方、思いもよらないことをいきなりされることがあるよね」
「感慨深いですね。これはツゥーリア奥様の好物だったのです」
「何度も聞いた。母さん、そんなに好きだったんだ」
「懐かしい香りがすると」
「ふうん」
「坊ちゃまもよく召し上がっておいででした」
「そうなのか。記憶にないな」
「……」
番頭夫妻や、マルコーニから、両親の思い出をたくさん聞かされてはいるものの、だからといって、それはただのおしゃべりに過ぎない。だって覚えていないのだから。
ココアを飲み終わった後、署名が必要な書類が机の上にたまっていたため、すき間時間を利用して処理し始めた。贈答された金属ペンで、乱暴に処理していくと、強くひっかかったペン先が跳ねて、左手の親指をひっかく。
「いててっ」
「坊ちゃま」
マルコーニが飛んできてペンを回収し、トマスの左手を押さえた。よく水洗いしたものの、インクが沁みて目立つ大きな傷ができた。
◇◇◇◇◇◇
「ジュリウス君。雑貨屋の前に、いかにもな執事が立っている。目立たないよう回収してきたまえ」
「すみません」
マルコーニは店の隅で、ジュリウスとおしゃべりを始めた。
「事件で記憶を失う前は普通の子どもでしたのに、失った後はやたらと失敗をするようになったのはご存じかと。おまけにそれが他人を傷つけたり、自分が傷ついたりするものが多く、心配なのです。更に言えば、どう見てもわざととしか思えないのに、本人はわざとではないと」
昨日のペンの傷の話をする。
「マルコーニ殿。失敗に気をつけるのは、損をしないためだ。つまりトマスにとって、怪我をするのが損ではない…………、損だと感じないのだろう」
「自暴自棄になっておられるということですか?」
「それに近いと思う。ああいった形で記憶を失い、それが戻らない以上、彼の中に守るべき何かが存在しないのではないか」
「左様で……」
「うーん」
「そういえばバター飴をありがとうございました」
「まったく効き目がなかったようだが…………。だが渡すと必ず、匂いを嗅ごうと袋を開けるのだ。あの姿を見ると、つい渡してしまって」
「懐かしいですなあ。あの飴を見ると、当時のことが鮮やかに蘇ります。そういえば、まだ坊ちゃまがお小さい頃は、あめ玉をそのままであげるのを奥様が怖がって、棒付き飴にして手ずから食べさせていらっしゃいました」
「ははは、あれはうらやましかったなあ」
◇◇◇◇◇◇
気になったジュリウスがトマスの家に顔を出すと、イメルダも来ていた。
「ようこそおいで下さいました。ジュリウス様」
「ジュリウス様、いらして下さったのですね」
イメルダは頬を染めて大歓迎だ。適当にかわし、しばらくジュリウスは、トマスと話していた。
「トマス様。お客様です」
「誰だ」
「輸入したトマトの件で……」
「ああ、あれかあ。仕方がないな。ジュリウス様。大変申し訳ないのですが、少しだけ席を外してもよろしいですか。すぐに……戻りますので」
「うむ」
この家で一番良い場所で、最も立派な椅子に座り、主人に代わって執事マルコーニから、特別なおもてなしをジュリウスは受けた。丁寧にいれられたお茶を飲んでいると、先ほどまでトマスに寄り添っていたイメルダが、立ち上がってきてすぐ側の椅子に座る。
「ジュリウス様はどのようなお仕事をなさっておられるのですか」
「……私は学生なので、大したことは」
「学生なんて、ご立派ですわ」
なにを言っても「すごい」「さすが」などと言われるのだろう。適当に相手をしていると突然こんなことを言いだした。
「あたくし手相占いができますの」
以前にブラックウェル家の摂政ホワイトフォードが、「こういうと女の子は簡単に触らせてくれるんだ。ジュリウス殿もやってみようよ」と、自信満々に勧めてきた手段だ。頼めば、隣でその体を押しつけてくるのだろう。
「そういったものには興味ない」
「案外おもしろいですわ。一度、いかがですか」
「結構だ」
その後は特に返事をせず、話すままに任せたが、一人で盛り上がったイメルダが、強引に隣に座ってこようとし、手に持っていた茶器で、さりげなく邪魔をして追い払った。
「……」
裕福とはいえ平民を相手にしていたら、貴族令息が登場したのだ。なんとしてもものにしようと張り切り、トマスのまわりで待ち構えていたのだろう。弱冠十四歳で、男をたぶらかせるほど、美しい外見をしているイメルダは、相手から断られたことがないらしい。屈辱に歪んだ顔を、なんとか愛想笑いに変えて、次のチャンスを狙っている。その前にトマスが戻り、イメルダは何事もなかったように彼の隣に座った。
(あの手この手で、なんともたくましい事だ。まともな神経では太刀打ちできないな)
自分で判断できるようになるまで、トマスが成長するのを、多くの人が見守った。だが成長すればしたで、別の悩みが発生したようだ。聞かされた話を、ジュリウスは思いだしていた。
◇◇◇◇◇◇
「結婚詐欺ですか?」
リックの説明に、ジュリウスは驚いて声を出してしまった。ここは軍閥のボウエン家。街の警ら隊ではない。
「王都の大店の関係者を狙ったもので、尻尾をつかませないところが不気味でね。それとこちらは強盗に入られた店の報告書。見事な手口だ」
「どちらもつながっているということですか」
「それはわからない。だが私はそうではないかと思っている」
「……そう思われた理由は?」
「うーん」
「……」
「生き馬の目を抜く経営者を、被害者に選ぶのがぴんと来ない。もっと一攫千金な獲物はいくらでもいるだろう。そしてここのところ起きている強盗の手口…………妙に鮮やかだ」
「強盗と、結婚詐欺が関係しているようですね」
「そうなのではないかと考えている」
先入観は良くないが、資料を見てそう思った印象は侮れなかった。
「この結婚詐欺の資料は?」
「気になったのを集めてみた。犯人の女性がどれも似ていて若いんだ。最初は二年前で、中部で発生した。そしてその半年後にも一件。それから」
「発生時期がだんだん狭まっていますね。そして中部から王都に南下していると」
「君が首領ならどう考える?」
「結婚詐欺の方が捕まる可能性が低いですから、まずは女性を使って大金を引っ張ります。それがうまくいかなければ強盗でしょうか」
「やはりそうだな」
資料の中には、七年前のタルデッリ商会の強盗事件も見受けられた。表紙を見ただけで、記憶が蘇る。親族の犯行の可能性が高く、事件後、殺された商会長ティベリオの弟一家が姿をくらましていること。夫妻が殺された部屋の、壁の損傷が著しく激しかったこと。鼻が詰まるようなむっとする血の匂いの中、木片が散乱していたことを。
「とりあえず……」
「なにかわかったのか?」
「いいえ。地道ですが、トマスにバター飴を渡してきます」
この時点で犯人は袋の鼠だったが、無理に何かをする気はジュリウスにはなかった。それよりも守るべき領民の一人であるトマスに、これをきっかけに多少、乱暴な働きかけをしようと模索していた。それが心残りだったろう、ティベリオとツゥーリア夫妻への、ジュリウスなりの弔いだと思えたからだ。
◇◇◇◇◇◇
その夜、店の倉庫で一番、警備が厳重な場所に引き入れると、ビオレッタは仲間を案内した。貴重な荷をすべて運び出した後は、自宅にいるトマスを襲撃する予定だ。結婚詐欺で済ませてやろうと情けをかけていた、ヴォルトとビオレッタ親子を、排除しようとした執事マルコーニへの復讐のつもりだ。
「ここか? ビオレッタ」
「ええ、父さん。この……」
お宝を手に入れようと、いまかいまかと手ぐすねをヴォルトが引いていると、急にたくさんの灯りが瞬き、警ら隊による捕り物が始まった。出張してきたジュリウスは、次々に盗賊たちを討ち取ると、生きたままの捕縛命令が出ているビオレッタと、その父で首領のヴォルトを縛り上げた。
「久しぶりだな。ヴォルト」
「誰だ、貴様」
「領主の息子だ。そんなこともわからないほど、根無し草で生きてきたようだな」
連絡を受けて待機していたトマスはその様子を見て、ビオレッタの姿に驚いた。
「イメルダ。本当だったのか。どうして」
「どうもこうも、あんたには恨みがあるし、死ねばすべては父さんの物になるかも知れないのよ。こんなおいしい話ないわ」
「そう上手くいくか。坊ちゃま。お下がり下さい」
マルコーニが悔しそうに、ビオレッタを見た。
「やはり…………。どれだけ化粧で誤魔化しても、その顔立ち。母親に似ていると思っていました」
「あんた邪魔なのよ。爺い」
「当時、あなたはまだ子どもでした。だから憎んだりはしません。ですが絶対に近づけさせません。旦那様と奥様の代わりにお坊ちゃまをお守りします。なにに代えても」
「トマス。ねえ。トマス。まだなにもする前じゃない。お願い。助けて」
「なにもする前って……。何件もの強盗事件に関わっているんだろう」
「たいしたことは……」
「坊ちゃま。こちらへ。どうせ死罪になる女です」
警らに捕縛されたビオレッタは、憎々しげな顔で連れられていった。
◇◇◇◇◇◇
「トマス。こいつが君の叔父ヴォルトだ。そして先ほどのがヴォルトの娘で従姉妹のビオレッタだ」
「叔父……。俺の両親を殺したとされている犯人ではないですか。ジュリウス様。ではイメルダは仇の娘だったのか」
「ああ、ほぼ間違いない」
「そんな素振りどこにも…………血も涙もないのだろうか」
「結婚詐欺で経営者に近づくのも、強盗の手口が鮮やかだったのも、君のご両親の元でずっと修行していたから、やりやすかったのだろう。だが今さら、なぜトマスに」
牢の中から憎々しげにヴォルトは、トマスをにらんだ。
「あの晩……、兄貴たちが邪魔しなければ、お前を仕留められたのに。そうすれば店はおれのものだった。ずっと無視されてきたが、もう計画だって進んでいたんだ。兄貴たちの生ぬるい商売なんかと違って、鉄道投資を軸にして、その見返りで穀物の輸送経路を確保する大がかりな計画が。毎年、巨額の利益を見込めるはずだったのに。全部、全部、兄貴とお前が邪魔をしたんだ」
なるほどこういう性格なら、手に入れられるはずという期待だけで殺人を犯し、それが上手く行かなかったら、それは当時七歳の甥のせいだと、何年も殺意を持ち続け復讐に走るかもしれないとジュリウスは思った。トマスは両親を殺された被害者なのに、犯人にまくしたてられ、恐怖と衝撃で、場違いなことを口にした。
「…………だが、鉄道投資は事件の二年後には暴落したろう? それに同じ年には法律を変えるほどの凶作が起きて、それゆえ金融恐慌が起きたではないか。そんな時に博打みたいなことが上手く行くとは思えないが……」
「黙れ!」
がしゃんという格子にぶつかる音が、牢内に響いた。甥のトマスが、兄ティベリオそっくりのいけすかない姿で反論するのを見て、我を忘れてヴォルトはつかみかかろうとした。
「うるさい! 兄貴みたいに偉そうに指図しやがって」
「……」
「俺が都落ちする身の上になったのは、お前のせいだ。だから復讐のために絶対にお前を逃す気はなかったのに……」
「復讐…………?」
筋道がつかめずぼんやりとしていたトマスを見て、ヴォルトはあることに思い至り、にたりと笑った。
「いいことを教えてやろう。ティベリオとツゥーリアはなあ、お前のせいで死んだんだ。親を殺して手に入れた地位で、贅沢をする気分はどうだ? この人殺しが!」
ジュリウスは持っていた警棒で、牢の中のヴォルトを激しく突いた。
「なにが復讐だ。逆恨みだろう。来い、トマス」
だがヴォルトが叫んだ時、ジュリウスの目が一瞬泳いだのをトマスは見逃さなかった。
◇◇◇◇◇◇
上の空のトマスを連れ出すと、ジュリウスは昔の事件の話しを始めた。
「中途半端に知るくらいなら話そう。トマス。ご両親が襲われた時、君は作り付けの隠し戸棚の中にいたんだ」
「……戸棚?」
「本来は貴重品などをいれておく棚で、家族がいつもくつろぐ居間にあったものだ。強盗の侵入に気が付いた時、ご両親は急いでそこに隠した。二重の仕掛けで施錠すると、解錠はティベリオと、その父親の二人が揃わないと開かない。だから警ら隊が君を救助する時は、壁を破壊するしかなかったんだ」
なにかが、トマスの頭の中で引っかかっていた。
「ヴォルトは跡継ぎの君がいる限り、ご両親を消しても店は自分のものにならないと知っていた。だから脅して君を差し出すようにと言った。だがご両親は一度、鍵をかけたらもう開かないと」
「……」
事件現場は凄惨だったと聞いている。
「短気なヴォルトは激怒し、最初にお父上を……。そしてお母上が犠牲になり、そのご遺体の裏にあった戸棚から君は発見された」
記憶を失っているトマスにどれだけの、『話さない方がいいこと』があるか考えた。だがジュリウス自身、そうやって気を遣うことよりも、もっと大事なことがあるのではないかと悩んでもいた。
「……」
そしてその戸棚が、どうしてヴォルトに見つかったのだろうという疑問が、トマスの記憶を呼び覚ましてしまった。
「…………真っ直ぐやって来た、足音……」
「……」
まるで井戸の底に眠っていたたくさんの写真が、頭の中で飛び散るようにトマスを襲った。衝撃でしばらく口がきけなくなった次の言葉を、ジュリウスはじっと待つ。長い間の後、トマスは自分の耳を触りながら、はっきりと言った。
「ヴォルトの言うとおりだ。両親が殺されたのは、僕が泣き声を上げたからです。それで戸棚の存在が知れたんだ」
トマスの心の平穏のために、一度はそれを黙って聞き流そうとしたが、ジュリウスはどうにも納得できなかった。
「……違う」
それだけはと、はっきりと否定した。
「違いません。僕が泣いたから戸棚があるってわかったんでしょう? それでヴォルトは殺そうと必死になった。母さんも父さんも巻き添えになって殺されたんだ」
事件の後、誰もなにも言わなかった。だが落ち着いて考えれば、子どもでも分かる。それがショックで、両親との思い出をすべて消してしまった。そうやって穏やかな日々を取り戻したのに、まるで胸の内に黒い汚れがしみ出すようにそのことに思い当たり、再び自分の罪と向き合った。
「違うんだ。トマス」
「僕が二人を殺したんだ」
「いいや。違う」
トマスの正面に立ち、目を見て噛んで含めるように言った。
「ヴォルトは最初からあの戸棚の存在を知っていた。酒盛りした時に、先々代が酔ってもらしたと本人が話している」
「慰めなくていいです。そんなの」
まるでその方が良いと、頑なに自分が悪いことにトマスはしたいようだ。その気持ちはジュリウスにもわかったが、そこで立ち止まる気はなかった。
「いいから黙って聞け。ヴォルトは事件の際、裏口から侵入して、お二人がいた戸棚のある部屋に、寄り道もせず真っ直ぐ向かっている。そして運良く逃げ出した使用人の知らせを聞いて駆けつけた警ら隊に気づくと、すぐに逃げ出している。部屋の中そのものはそこまで荒らされていなく、激しく損傷していたのは戸棚部分だけだ。奴は最初から戸棚のことを知っていたんだ」
「…………そんなの」
「先々代は、解錠方法は口を滑らせなかったと言っている。おそらく浅慮なヴォルトのこと、兄のティベリオ殿がいればいいだろうと早合点したのだろう。相当、しゃくに障ったらしく、戸棚の扉部分は滅茶苦茶で、木材が飛び散り、埋め込まれた金属部分まで傷だらけだった」
トマスは無意識に耳の傷を触った。
「これらのことは、すべて当時の記録に残っている。見せてやってもいい」
「…………でも」
ジュリウスは事実だけ説明した後、トマスをはらはらと心配そうに見ている。
「じゃあ………………、それなら、僕も両親も、なんにも悪くないのに殺されたのか?」
「……」
胸にぽっかりと穴が空いたようなトマスを、ジュリウスはまっすぐ見ることができなかった。『自分のせいだ』という逃げ道をなくされ、胸が潰れるような理不尽な痛みに、正面から立ち向かうしかない。
「穏やかに暮らしていただけなのに、むごい殺され方をした」という現実と。
「なにも悪いことをしていないのに、どうしてそんな不条理な目に遭わされないといけなかったんだ」
「……」
「どうして……」
「済まない」
守り切れなかったとジュリウスが頭を下げると、返ってトマスは逆上した。
「謝ってもらいたいのではありません。どうして両親は……」
「本当のことを言った方が、トマスの心の負担になるのは予想がついていた。だがマルコーニとも話して、このままでは良くないと思い、つい余計なことを言ってしまった」
「マルコーニと……。なにを話したんですか」
「くだらないことばかりだ。君はココアを好きだとか……」
しばらくぼんやりしていたトマスは、とても基本的な疑問を持った。
「………………ジュリウス様はどうして私に親切にしてくださるのですか? だっておかしいです。事件が起きた時、あなたは十一歳だった。その年なら亡くなった両親とも、それほど親しいとも思えない。なぜ……」
「トマス。君、小さい頃、ツゥーリア殿の、バター飴を欲しがったのを覚えているか」
「……えっと、どうだったか……」
「あの頃、まだ小さかったからな。ツゥーリア殿の好きなバター飴は、かなり大ぶりで、まだ子どもの君に与えるには危険な大きさだったんだ。だが幼子というものは、母親の好きなものはなんでも欲しがるものだ。それでツゥーリア殿は、丸めた串に小さめのバター飴をつけて、君にしゃぶらせていたんだ。それを見て、世の中には、このように尽くす親がいるのだとうらやましく思ったものだ」
「あ……」
トマスはなんともいえない顔になった。
「もちろん、私も家に帰って同じものを作ってみた。母上も父上も争って食べてくれたぞ」
「良かったですね……」
「そんな光景を何度かお見かけして、印象に残っていた。だから事件が起きた時に真っ先に、あの幼児はどうなったろうと……。忘れられなくてな。記憶がないならそれでもいいと思ったが、今の君には例え自分を傷つける思い出でも、必要なのではないかと感じたんだ」
「………………自分を傷つける思い出」
「……」
「顔が、思い出せません。…………父さんと母さんの。駄目だ。いろいろ思いだして来たけど……。やっぱり僕の記憶は不完全です」
「そんなものではないか?」
「そんなもの?」
「七歳ぐらいなら抱っこされているのが普通だ。私もよくシェリーを抱えていたし。抱っこされている柔らかさ、暖かさ、……匂いなんかはどうだ?」
「バター飴…………。なぜでしょう。今、急にあの匂いが…………あ」
急に痛くて嫌な思い出が、鮮やかに蘇った。
「痛ててて……」
脱力しながら自分の頬を撫でる。
ことあるごとに父親の膝に登り、首に抱きつき、肩に登った。
『パパ。抱っこして』
だが、そうねだると父親は最初に、両手で自分の頬を触る。そして時には断ってくる。
『すまない。後にしてくれ』
『えー』
うっかり髭をそり忘れていたことがあり、頬ずりしてトマスが大泣きしたことがあったからだ。あの時のぴりぴりした痛みを、今でも覚えている。
『パパなんてきらい!』
『済まない。トマス』
誰かを「嫌い」だなんて言えた、幸せな日々。
痛みが引き金になって、ひげ剃り用のクリームを、父親が泡立てる姿がとつぜん蘇った。
朝の光が差し込む書斎に、壁に掛けられている小さな鏡。金属製の小さなコップに入っているクリームを、慣れた手つきで顎に塗っていく。父親の膝の周りをくるくると回り追い払われ、ソファの上でころころと寝そべっていると、満面の笑みの父親にようやく抱き上げられる。
今なら感じられる。他人から聞かされた話の中でしか知らなかった両親を、自分は大好きだったこと。そして自分はそんな両親に……。
「急がなくていい。ゆっくりと順番に思い出すだろう」
立ち尽くすトマスを心配で見ていると、暗い声でぶつぶつとつぶやいた。
「……あいつは戸棚前の母さんを殺した。だけど頑丈な戸棚を壊せなくて、何度も工具ですき間を突いた。僕の耳が切れているのは、その時の傷だ。まだ小さくてなにが起きたのかわからなかった。真っ暗で怖くて、母さんの声がする方向にしがみついて泣いていたら耳を」
「……ヴォルトになにをのぞむ?」
「極刑を……」
◇◇◇◇◇◇
トマスを訪ねると、墓参りに行っていると言われ、ジュリウスはそちらに顔を出した。生前の二人が好きだった花が色とりどり飾られている。心配していたトマスは、表情が読めず、落ち着きがない。
「どうだ。トマス」
「どうでしょう」
とぼけた返事が返ってきたが、心配していたような深刻さはなく、どこか軽やかだ。
「眠れているか」
「どうでしょう」
「どっちなんだ」
「強盗事件の後は、なんだか頭の中が混乱して、急にいろいろ思い出したり、逆に忘れっぽくなったりしました。とにかく疲れて、ぼんやりするし、すぐに眠くなるし。今は……今も混乱しています。でも父さんと母さんの思い出をいくつか思い出しました」
しばらく黙っていたトマスは、ぺらぺらと話し始めた。
「僕って孤独な生い立ちだと思い込んでいました。両親の記憶はないし、犯人は親族だし、家族いなくて一人だし……。誰にも大事にされていなくて、愛された記憶がなかったから。でも……」
「……」
「記憶を思いだして、一つだけ嬉しいことがありました」
「なんだ?」
「…………僕は、両親に愛されていたんだなって」
あまりにも当然のことを言うので、ジュリウスは意図せず怒ったような声で返事した。
「当たり前だろう」
トマスはまるで軽薄に笑った。
「はは、そうかもしれません。でもそんなの僕、感じたことなかったから。誰かに愛されていたなんて。それはみんなが教えてくれるから、耳で聞いて知っていましたよ。でもそれだけなんです」
「宝物のように大事にされていたぞ」
「そうなんですね。今なら感じられます。僕のことをあんなに愛してくれた人たちがいたって」
「保証してやる」
「僕がビオレッタに惹かれたのは、誰にも愛されない僕を見てくれるなら、相手は誰でもいいと思っていたからなんです。振り向いてくれればって、どこか投げやりでした。でも今は違うんです。両親が大事にしてくれていた僕を、大事にしてくれるような、きちんとした相手を選びたいです。いつか……この墓の前で堂々と紹介できるような相手を。そうすればきっと、両親は喜んでくれます……かね?」
「もちろんだ」
災難に見舞われ、悲劇を思い出してしまった少年は、その中から愛されていた記憶を拾い上げた。
どこか卑屈で暗い陰は形を潜め、柔らかい笑みを浮かべていた。




