水と油(後編)
狩猟祭当日の午後、アナスタジアーナは、カミーユとクロードのやり取りを何度も思い出しながら、天幕に戻ろうとした。
この婚約は、武門のコリンズ伯爵家当主が後ろ盾になるとして組まれたものだ。それなら婚約者はその息子「でも」いいだろうと。しかし早めの世代交代が、おそらく起きている。そしてそれを少なくともボウエン家と、ブラックウェル家は知っているはずだ。だからセレスティーナは、身重の体で駆けつけたのだろう。
そうなるとまだ十五歳のアナスタジアーナの婚約、それも問題が起きている組み合わせを、どうするか調整が始まっているだろう。
「うーん」
考え込んでいたアナスタジアーナは、シャルルに待ち伏せされていたことに気が付かなかった。
「おい」
「きゃっ」
天幕の裏で突き飛ばされ、地面にころころと転がると、シャルルが仁王立ちしていた。
「どうして言うことを聞かないんだ。お前のせいで今日の主役を務めるはずが台無しになったぞ」
「……シャルル。このやり取りはもう最後にしたいのですが、あなたはどうして欲しいんですか」
「そんなのは自分で考えろ。そんなことも察せられないのか」
「シャルル。何度も言いましたが、口で言ってもらわねばわかりません。私たちは赤の他人なのですから」
「生意気な」
「ずっと不思議に思っていたのですが、どうして初対面の時からつらくあたるのですか。そんなに私が嫌なら、婚約しなければ良かったではありませんか」
そう言われたシャルルは、なぜかかっとなって怒鳴った。
「お前はどうしてそう鈍いんだ。田舎者の子爵令嬢で、お洒落もまともにできないみっともない女の癖に、華やかな王都の伯爵家の令息に縁づいたんだぞ。少しは自分の幸運に感謝して、僕に尽くしたらどうなんだ」
王都に来て毎日、シャルルの手によって積み上げられた疑問が、一気に氷解したアナスタジアーナは、まるで誰かに殴られたような衝撃を感じた。
「私との婚約を解消したくはなかったんですね」
ただ事実を指摘しただけだ。だがシャルルは顔を真っ赤にして怒りだした。
「貴様、言うに事欠いてなんたる無礼な。お前のような女なんかとは、婚約を続けたくないに決まっている。気配りの一つもできない無神経で、頭の悪い女と。いいか、今すぐにその言葉を撤回しろ。そしてお前のような身分の低い女が、伯爵令息と結婚できる光栄に感謝して、『結婚して下さい』と土下座して頼め。そうでないと大勢の前で婚約を解消して、恥をかかせてやる」
「そうですか……。『婚約を続けたくない』んですね」
「そうだ!」
「おい。なにしてる」
ジェレミーが険しい顔で走ってくるのを見たシャルルは、愛想笑いを浮かべた。
「なんでもありません」
「どう見てもそう見えないがな。本当かアナスタジアーナ」
ジェレミーが差し伸べた手を、アナスタジアーナがとって立ち上がる。
「…………もう終わったことです」
都合良く受け取ったシャルルが、薄笑いをした。
狩りも終わり、講壇前には乙女に尻尾を捧げようと、求婚者たちが形ばかり集まっていた。中には賑やかしにと既婚者や老齢のものも混じり、派手に歓声を上げている。女性たちはこの後に行われるダンスが待ちきれないらしく、軽く拍子を取る者もいる。
壇上のアナスタジアーナが再び冠を受け取り、カミーユが挨拶しようと前に出ると、とつぜん他の参加者を押しのけるようにシャルルが登ってきた。
「シャルル。下がれ。段取りを崩すな」
「兄上。大げさに騒がないでよ」
当主代理の命令を無視し、シャルルは手に使用人に獲らせたキツネの尾をぶら下げている。壇上にいた者たちは平静だったが、その目配りで予定外の出来事と伝わってきた。注目を集めるようにシャルルは大仰に礼を執ると、アナスタジアーナにひざまずき求婚した。
「赤鹿の守り手。戦乙女よ。私の愛を贈ろう」
主役の座を誰かに譲る気はなく、駒を手放す気もなく、そして自分の思いどおりに動くと信じて疑わなかった。なぜならこんな注目を浴びた場では、人目を気にして抵抗できないだろうと思い込んでいたからだ。
「…………我、否とする」
断られるとは微塵も思っていなかったシャルルは、返事が聞こえなかったらしく、いつまでたっても受け取らないアナスタジアーナに、ぐいと押しつけようとした。
「シャルル。下がれ」
「アナスタジアーナ?」
剣呑な光を帯びた目で、シャルルは見上げた。乙女の立場で同じことを二度言えず、アナスタジアーナはじっとりと嫌な汗をかいていた。傍らのセレスティーナや、レイモンドたちは他家のことに口を出せず、まるで観察するような冷たい目で見ている。
末っ子のため父親に甘やかされたシャルルの、手綱を取るのがカミーユは苦手だった。厳しく言っても聞かない上、強く出過ぎると取り乱すことがあるからだ。だが決断を迫られ、もう一度、口を開こうとした時、声変わり前の声が響いた。
「シャルル叔父上。断られちゃったね」
クロードの茶化すような笑い声を、待ってましたとばかりに会場中が一斉に笑った。明るい笑い声が、悲劇を、喜劇へと様変わりさせる。カミーユの長男クロードは、末っ子王子様だったシャルルにとって、初めての年下の親族であり、クロードとその弟妹たちにだけは、多少の譲歩を見せた。
真冬に汗びっしょりのクロードの頭に手を置き、カミーユは観衆からシャルルが見えないよう長いマントをひるがえし前に進み出る。
「コリンズ伯爵家三男シャルルと、オースティン子爵家四女アナスタジアーナとの婚約を、ここに解消する。理由は当主である我が父の体調が悪化したことにより、シャルルの後見を十分に努められないからだ。ついてはアナスタジアーナ嬢に、お相手を選んで頂きたい。コリンズ家の跡継ぎとして、必ずや乙女の選んだその人物を支えると誓おう」
出来レースだと思い、詰めかけていた人々は、とつぜん婚約者選びの場になったことでどよめきが起こった。しかしアナスタジアーナが壇上から降りると、真っ先にジェレミーがその前にひざまずいたことで、「なるほど、やっぱりね」という空気が漂う。
一気に華やかな雰囲気になり、他の男性も賑やかしにひざまずいた。堂々としていたアナスタジアーナだが、ジェレミーを前にして急に緊張し情けないことを言いだす。
「あのう、私の実家、貧乏だし、とんでもなく田舎で、国境線沿いにあります。王都での後ろ盾が仮にあっても、それほど良い暮らしができるわけではありません。私には将来、騎士になるという夢しかないんです」
「知ってる。知ってる。調べたし、レイモンド様からも聞かされた。でも俺はアナスタジアーナのはっきり言うところが好きなんだ。切り替えが早くて、度胸があるところもね。一緒に居て安心するし、なにより……背中を預けられると感じる」
「そうですか。でも……」
不安を見せたアナスタジアーナに、まわりを囲んでいる他の男たちのほうが心配そうな顔になった。二人の顔を交互に見る。
「アナスタジアーナ。じゃあ、こう言おう。俺が『聞かれたことに答えろ』って言ったら、それはその通りの意味だ。それに『察しろ』なんて絶対に言わない。だって俺も察するの苦手だからな。なにかあったら二人で話し合う。それじゃ駄目かい」
「……我、諾とする」
恥ずかしそうに下を向いたアナスタジアーナは、右手だけジェレミーに預けた。ジェレミーの顔にゆっくりと笑みが広がる。
「よっしゃあぁっ」
「やったぜ」
「おい、酒樽、持ってこい」
「祭りだ祭り」
伯爵家の祭りの最前列にいた地位も名誉もある男たちが、二人の幸せを祝おうと騒ぎ出した。そのため二人への結婚祝いは豪華なものになり、新生活の滑り出しは順調だ。ジェレミーのお披露目も終わり、壇上に戻った二人は、拍手喝采を受けた。次の段取りに移っていく人々に、取り残されたシャルルが抗議する。
「兄上。どういうことです。婚約解消なんて」
「シャルル。後にしてくれ。集まっている関係者で緊急に協議することが多く、話をしている暇がないんだ」
「だっておかしいでしょう。オースティン子爵もいないのに、勝手に婚約を変更して」
「…………おかしくない。何度も言っただろう。この婚約は、アナスタジアーナを騎士にするための縁組みで、家同士の婚約ではない」
「格下の子爵家に、解消されるなんて変でしょう」
「そもそもアナスタジアーナ嬢に後見をつけるのが目的なんだ。それを父上が、お前のために婚約もさせた」
「……僕のために?」
「ああ、だがお前は失望された。だから婚約者をジェレミー殿にすげ替えて、彼を後見することになった」
「ジェレミーは他人でしょう? 家族以外を後見するのですか」
「後見という立場が得られる、我が家にとっては得がたい機会なんだ」
「では僕はどうなるのですか。それは裏切りではありませんか」
「…………実は最初から考えていた。父上はお前を可愛がっていた……いるが、私の手には負えないと。政治の場で後押しするには荷が勝ちすぎる」
「…………そんな」
好き放題に振る舞っていたシャルルは、誰かが面倒を見てくれると思い込み、世代交代の波が来ているのにようやく気づいたようだ。
「じゃあ、僕の縁談はどうなるんですか」
「少し待ってくれ。今、クロードの縁談を決めるのに立て込んでいるから」
そう言われてあの小さかった甥が、後、数年で当主になる未来もあるのだと言葉を失った。
◇◇◇◇◇◇
学院を卒業する年になったシャルルは、父親が亡くなって大きな変化を感じていた。一つ目は「コリンズ伯爵令息」と呼ばれていたのが、家でも学院でも「シャルル様」と呼ばれるようになったことだ。もうコリンズ家の跡継ぎの一人ではない。そう念押しされているようで、さびしく感じる。
そして中等科の説明会に、甥のクロードが来たことで、今度は「叔父君」と呼ばれるようになった。学院においてのコリンズ伯爵家の基準がクロードになり、シャルルは彼の叔父に過ぎないからだ。
祭りの後、学院でアナスタジアーナとジェレミーが、仲良くするようになったのがおもしろくなく、兄カミーユに新しい縁談を頼んだところ、こう言われた。
「以前、お前の後見はできないと言ったはずだ」
「なんですって。無責任な。兄上は僕の兄上でしょう」
「父上がアナスタジアーナ嬢を世話してやったのに、問題を起こして解消させたのは自分ではないか」
「あれはアナスタジアーナが悪いのです。我が儘で気が利かないから」
「……例えそうだとしても、彼女のための婚約だったのだから、お前が我慢すべきだった。それをあんな風に」
「僕が悪いというのですか!」
「そうだ」
間違っていたと言われるとは思わず、シャルルは絶句した。
「立場が低いのだから、我慢するべきだった。必要ならお世辞を言って、ジュリウス殿のように妻のご機嫌を取って……」
「たかが子爵令嬢にそんなことできません」
「そういったことができないなら、危なっかしくて後見できない。だから縁談を探す気もない。自分で見つけてこい。それなら結婚や生活の世話くらいしてやるから」
◇◇◇◇◇◇
学院の廊下を歩いていると、赤くなっているアナスタジアーナと、にやついた仕事中のジェレミーを、シャルルは見かけた。アナスタジアーナは手に、お芝居の券を持っている。
「ジュリウス先輩が仕事の関係で、頂いたんですって。すごくいい席なの。でもセレスティーナ閣下があのお体だから、無理はさせたくないって。それで譲って頂いたの。すごい幸運よ。この日ならお互いお休みが取れるし、ちょっとお洒落して、それからいい所に食事に行かない? それに……」
にやにやした笑いが止まらないジェレミーは、手で口元を押さえた。
「アナスタジアーナ」
「どう。駄目かな?」
「いいけど」
「けど?」
ジェレミーは堪えきれず笑い出してしまった。
「次に会った時に渡してくれれば良かったじゃないか」
「……」
「それにお互い時間ないだろう」
「……」
「ここまで来るのにだって……」
「……」
アナスタジアーナは取り繕うのを諦めて、胸から今にもあふれ出しそうになっていた言葉を口にした。
「だって……会いたかったから」
その途端、ジェレミーは狙い通りの言葉を引き出してやったという顔になり、可愛くてたまらないとばかりににやにやしている。真っ赤になったアナスタジアーナは、ジェレミーをぽかぽかと叩くと、さすがに威力があるらしく、痛そうにしているにも関わらず嬉しそうだ。婚約者の頭を乱暴になで回すと、ジェレミーは後ろ髪引かれながら仕事に戻っていった。
察しろなどと言わず、はっきりと言い合おうと約束したが、あまり意味はなさそうだ。それなのに二人はとても幸せそうだった。
鈍いアナスタジアーナが、簡単に『察して』、相手の望む言葉を口にした姿を見て、シャルルはひどく衝撃を受けた。どうして自分の時はしなかったんだと、馬鹿にされた気分になり腹が立って仕方がない。そしていとも簡単に幸せなやり取りをしている二人の姿が、何度も頭の中で繰り返され、どうして自分ばっかり損をするんだと身の不幸を嘆いた。
◇◇◇◇◇◇
夜会会場で、ブラックウェル伯爵当主を腕にぶら下げた、にやけ面のジュリウスを見て、頭に血が上ったシャルルは噛みついた。
「よくそんな風に、妻にぺらぺらとお世辞が言えますね。誇りもなく飼い犬のようだ」
夫婦共に情緒がかけている二人は、シャルルはどうも疲れているようだからと、親切にも温かい果実酒を渡してやろうとし、余計に怒らせていた。
「だってそんなの……仕事だろう?」
「そうねえ。それで縁談が上手く行くのなら」
「恥ずかしくないんですか」
「「別に……」」
羞恥心なんて役に立たないと叩き込まれた少年と、羞恥心なんて持っていても誰も見てくれないと叩き込まれた少女の、組み合わせは無敵のようだ。それを見ていた幸せ一杯のアナスタジアーナとジェレミーは、なんとなくシャルルが可哀想になるほどだった。
まわりには自然と騎士科の面々、つまりは軍閥が集まっており、レイモンドや騎士団長ダロンもいる。シャルルがお仲間とはぐれてしまったのは、夜会会場で悪気なくつまはじきにされたからだ。
最高学年の十八歳ともなると、結婚が決まっているものがほとんどだ。騎士団や軍部に配属されると、長く拘束されるし、転任も多いから、とにかく若い内に結婚しないと、あっというまに婚期を逃してしまう。おまけに結婚していないと、出世街道には乗れない。そのため夜会のような場所には、逃げられないよう婚約者を連れて参加する。
以前はアナスタジアーナという有名人が、婚約者だったシャルルは一人になって、そんな人の輪から、はじかれてしまった。それは婚約者がいないからというだけではない。自分で探しているということは、現当主の助けが得られていないからではと、まわりが思ったからだ。
ジュリウスはまさかと不安になり聞いてみた。
「シャルル。まさか騎士団を受験するのか?」
「当たり前です。なんのために騎士科に入ったと思っているのですか」
「だが………………受験しても、受からないぞ。仮に受かっても、一生、出世しないぞ。そうですよね。ダロン騎士団長」
「ああ。ジュリウス」
ダロンが片手をあげた。
「なぜですか」
ジュリウスは、こんなことも説明しないといけないのかと思いながら説明した。
「シャルルは、アナスタジアーナに嫌がらせをしていただろう」
「何度も言いますが、誤解です」
「まあ、誤解だと言うのならそれでいいが、いくら外面よくしても、一緒にいた騎士科の面々には有名だ」
「……」
「将来の女性騎士という、王族に覚えめでたくなるであろう貴重な人材に、嫌がらせをしていたわけだ。そんな人間、出世させるわけがないだろう」
「…………なら、軍があります」
レイモンドが首を横に振った。
「軍も無理だ。レイモンド様が……軍閥のボウエン家が取り持った縁談を潰したんだ」
「潰したのはアナスタジアーナでしょう」
「こういうのはどちらが悪いとかではない。両方の責任になるんだ」
「だったらどうしてアナスタジアーナは騎士になれて、僕はなれないんだ」
「アナスタジアーナは騎士になるために、採用された人材だと言っただろう。だからこの場合、君が損するしかない」
「そんなのおかしい!」
「世の中とはそういうものなんだ。それが嫌ならアナスタジアーナを持ち上げるなり、せめて穏便に縁談を解消すれば良かったんだ」
「どうして僕ばっかり損をするんだ。こんなのは公平ではない」
シャルルはよほどショックを受けたらしく、目には涙まで浮かんでいる。
「公平であるべきだと思っていたのなら、どうしてアナスタジアーナばかり、損をさせていたんだ?」
「は?」
「女性だからと軽く扱い、嫌な気分にさせ続けた。彼女が抗議すると、自分より下なのだからと我慢させた。ずっとアナスタジアーナに損させ続けた。ところがいざ彼女が本気を出して、立場が逆転すると、急に抗議しはじめた。自分ばかり損をするのは不公平だと。今の状態は差し引き公平だと思うが」
まるで子どものような理屈を、ジュリウスは言ったが、シャルルを見る限り、そんな提案はどうやったって受け取れなさそうだった。
◇◇◇◇◇◇
シャルルはその年、騎士団を受験したが落ちてしまった。
成績は悪くなかったが、その年は受験生が多く、危険を冒してまで採用する人材ではなかったからだ。同じ理由で縁談も上手く行かず、親族の紹介でドロレスという女性と結婚し、働かず兄や甥に生活の面倒を見てもらった。多少質素だが、なに不自由ない暮らしなのに、誰にも認めてもらえないことが不満で、四六時中ドロレスにあたった。
華々しい成績で卒業後、騎士団で出世街道を歩み、誰もが羨む女性と結婚するはずが、すべて上手く行かなかったのだ。現実が認められず、なにかにあたるしかなかった。
アナスタジアーナと結婚したジェレミーは、妻の出世に合わせるため、上層部から最大限配慮され、出世しているのも腹が立つ原因だ。アナスタジアーナに恥をかかされた記憶が忘れられず、二人がなにかにつけ自分のことを笑っているだろうと思うと許せなかった。
妻になったドロレスは、錠前造りが趣味という変わった女性で、錠前を手にしていても、いなくても、彼女の頭の中はいつも鍵のことで一杯だった。朝から晩まで専用の工房に助手二名とこもり、手を油だらけにして楽しそうだ。工房では誰一人おしゃべりをしないのに、彼女と助手の、「よし!」「なるほど」「また駄目かー」「これならどうだ」「待てよ。こうすれば」という声で賑やかだった。
それ自体が気に入らず、シャルルはしょっちゅうお説教をしていた。ドロレスがいかに至らない人間か、気の利かない女か、察しが悪いかを延々と。最初の内は、なにを怒っているのか生真面目に質問していたドロレスも、すっかりなにも言わなくなり、説教はシャルルが年を取るごとに、年々長くなっていった。
「なにを騒いでいるんだ。シャルル」
「カミーユ兄上。済みません。ドロレスの気が利かなくて。正してやろうと」
「ふうん」
シャルルが向き直ると、ドロレスの目がぴょこぴょこするのが、廊下から見ているカミーユに見えた。しかし説教が再開すると、また焦点が合わなくなっていった。
「シャルル」
「なんですか。兄上」
「…………その説教、なんのためにやっているんだ」
「なにを今さら……。そんなのドロレスのためにやっているに、決まっているではありませんか」
カミーユの視界では、こちらを向いたシャルルの向こう側で、ドロレスが急に生き生きと瞳を動かし始め、終いにはなにかを閃いたかのように手をぽんと叩いている。そしていそいそと工房に向かおうとして、なにかを思いだし、まるでケーキが焼き上がるのを、かまどの前で待っているかのような顔でシャルルの前に戻ってきた。
「……そうか。お前はそう思っているのか」
「当たり前でしょう。ドロレスは私がいないと、なにもできないのですから」
シャルルは得意げに説教を再開し、ドロレスは規則的に目をぴょこぴょこさせ、七人の子育て経験があるカミーユは、その見慣れた目の動きを感慨深げに眺めた。
最初はあまりにも長い弟の説教で、迷惑をかけた謝罪の気持ちだった。しかし数年経ち、今ではすっかり、あらかじめ用意された報酬を手に入れ、その対価として説教を聞くものとドロレスは思い込んでいるようだ。工房の設備は、彼女がやって来た時とは比べものにならないほど充実し、貴重な工具を借りるために人が押し寄せるほどだ。
「ドロレスを必要としているのは、シャルル。お前の方なのだが……」
親の愛が足りずに育ったなんて、まったく思えない。誰も聞いていないお説教を、得意満面に垂れ流す弟にもの悲しい気持ちになった。
◇◇◇◇◇◇
[後日談]
「嫁さんのおかげで出世とか、情けないよな。ジェレミーの奴」
「恥ずかしくないのか。隠しもせずに」
女性騎士は少なく、特にアナスタジアーナのように腕の立つ騎士は、優先的に王族の側で召し抱えられる。そんな女性騎士と結婚した夫は、妻に合うように出世街道を登る。そうなるとやっかむ人間はいつだっているものだ。
「聞こえるように言うなんて。大丈夫。ジェレミー」
「ああ、平気」
ちょっと落ち込んだ顔をすると、アナスタジアーナが慰めてくれた。妻の操縦方法はすっかり心得ている。強気のアナスタジアーナは、ジェレミーが少しでも弱気を見せると、心配して甘やかしてくれるのだ。
まわりにたいして、どうだ大事にされているだろうと言わんばかりの、ふてぶてしい表情が浮かんでしまい、妻に嫌われたくなくて手で口元を隠した。だいたいその女性騎士と結婚するためには、夫のほうも選ばれなくてはいけないという事実から、目をそらす人間は多い。
「そうだアナスタジアーナ。請求書、代わりに処理しておいたよ」
「助かる。手が離せなくて」
「防具も磨いて油ぬっておいたから」
「ありがとう。今週、忙しくておざなりになってしまって」
「今度の式典用の衣装一式、吊しておくよ」
「もう準備しておいてくれたの?」
「それから…………」
くたくたになりつつ、そわそわしつつジェレミーが寝台で横になっていると、遅れてアナスタジアーナがやってきて、ごろりと乱暴に横になった。口元がにやにやしている。
「それで、なにが欲しいの?」
「やっぱり、わかるか?」
「ほら、早く」
「今度、アナスタジアーナの家が馬主になっている馬が、競馬に出場するだろう。二人で見に行けたらって。それと、もし…………馬主特権で厩舎を見学できないかな……。有名なヴィクトワール号が出場するんだ」
言った後、図々しかったろうかと不安になり、ジェレミーは上目遣いになった。
「いいわよ」
あっさりと快諾される。
「いいのか」
「もちろん」
「でも迷惑じゃないだろうか」
「構わないわ」
「本当か」
「ええ」
「ありがとう。アナスタジアーナ」
「……だってあなたが嬉しそうな顔をするの、私だって嬉しいもの」
「……愛している。アナスタジアーナ」
「私も」
子どものように笑うのを見て、「こういうところが可愛い」と思いながら、ジェレミーの頭を撫でた。
◇◇◇◇◇◇
新聞を読んでいたシャルルは、学院時代の騎士科の恩師が、ヴィクトワール号の一口馬主になったという記事を読んで、久しぶりに心が躍った。今度のレースにきっと参加するだろうし、顔の広い方だから貴族席は当時の知り合いで埋まり、絶対に華やかな催しになるに違いない。
そう思って、兄に頼んだが、有名人の出席が相次ぎ、席が足りないため駄目だそうだ。コリンズ家として兄一家が出席した分で席が一杯になってしまうと。
そこで閃いたのが妻のドロレスだ。
彼女の実家が馬主になっている馬は多く、今回も出場するそうだ。それなら関係者席を用意してもらえるし、特権で厩舎まで見学できるに違いない。早速シャルルはドロレスに頼んだ。
「昨日の新聞は読んだかね」
「いいえ」
「なんだと。いい年をして、新聞に目を通さないのはどうなんだ。僕の妻である自覚はあるのか」
「そうですねえ」
「なんだその返事は。だいたい君は礼儀というものがなっていない。周りを不愉快にさせているのがわかっていないのか」
「はあ」
「そんなんだから、まともに社交も出来ないんだ」
「そうですか」
「そうだ。少しは反省したまえ」
「はい」
「君の鈍感さには本当にいらいらする。いい年をして新聞に目を通さないようでは、この先の人生はやっていけないと僕は言っているんだ。恥ずかしくないのか」
ドロレスの目がぴょこぴょこと動いた。
「新聞…………ですか?」
「そうだ!」
勢い余ってシャルルは立ち上がった。
「時間がないので、どの記事を読んで欲しいのか言ってもらえませんか」
「そんなこともいちいち言われないとわからないのか。いい加減、察しろ!」
「ドロレス奥様! 鍛冶炉が温まりました!」
がたんと大きな音を立てて、ドロレスは立ち上がった。
膝に乗せていた飴を入れた籠が勢いで吹っ飛び、中の飴が派手に散らばる。使用人が慣れた手つきで拾い始め、ドロレスは工房にすっ飛んでいった。他の時にはシャルルの話を聞いてくれるが、この時ばかりは後回しだ。
使用人の一人がシャルルを見て、小さな声で言った。
「お可哀想な方だ……。ここまで頼み事が下手な人は初めて見るよ……」




