十四話目
すべてのデータが、本来あるべき「現実」へと解けていく。
ホストサーバーの完全消去に伴う凄まじい白い閃光は、一樹たちの視界だけでなく、五感のすべてを優しく、しかし圧倒的なエネルギーで塗りつぶしていった。
無限のサーバーラックも、脈打つ光ファイバーの網も、おぞましいセリカ・エンドの残滓も、すべてがゼロとイチの塵へと分解され、大理石の床ごと虚空へと消え去る。
その光の奔流の中で、神代一樹は自分の右手の感覚を確かめていた。
掌に強く残る、あの最初の夜から彼を縛り続け、そして最期にはシステムを穿つ楔となったタクティカルペンの硬い感触。そして──左右から、彼の衣服の袖や手を、ちぎれんばかりの力で握りしめている「三つのぬくもり」。
タカシの、傷だらけで熱い、力強い手。
ミサキの、小さく小刻みに震えながらも、決して離れようとしない手。
レイの、一瞬躊躇いながらも、静かに一樹の腕を支え、自らの存在を証明するように重ねられた指先。
(ああ……僕たちは、本当にやったんだな、拓海)
光の渦の最深部で、一樹は親友だった男の、最期の優しい微笑みを思い出していた。
彼が犯した罪は決して許されるものではない。数百万人の命を弄び、多くの日常を灰にした狂気は、世界のバグとして消去されるに値するものだった。それでも、大学の講義の隣の席で、くだらない冗談を言い合っていたあの時間は、間違いなく本物の「現実」だったのだ。
「……アカウントの……完全抹消を……確認……」
脳内に直接響いていた、あの忌まわしいシステムの機械音声が、引き伸ばされたテープのように激しく歪み、そして完全に途切れた。
ドサリ、と強烈な「重力」の感覚が四人の身体を襲う。
一樹が激しく咳き込みながら目を開けると、そこは──冷たいコンクリートの床の上だった。
「げほっ、ごほっ……! はぁ、はぁ、はぁ……!」
一樹は慌てて飛び起き、自分の周囲を見回した。
そこは、薄暗いワンルームの部屋だった。室内に置かれた数台のノートパソコンの画面はすべて暗転し、電源ランプすら消えている。──そこは、前夜まで彼らが反逆の準備を進めていた、レイの手配したセーフハウスだった。
遮光カーテンの隙間から、眩しいほどの純白の「朝の光」が差し込み、室内の埃をキラキラと照らし出している。
「カズキ……! カズキ、いるか!?」
床に転がっていたタカシが、自分の顔や身体をめちゃくちゃに触りながら叫び声を上げた。彼の手に握られていたはずの『高周波振動タクティカルバット』は跡形もなく消え去っており、代わりに、現実世界で彼がいつも穿いていた、色褪せたスウェットのポケットが不自然に軽くなっていた。
【身体能力強化】の超人的な筋肉の膨らみは消え、いつもの20歳の青年の肉体に戻っている。しかし、その瞳には、ゲームにのめり込んでいた頃の虚無感ではなく、地獄を生き抜いた男の確固たる光が宿っていた。
「タカシ……! ああ、いるよ。ここにいる」
「カズキさん……タカシくん……レイさん……!」
ベッドの脇で、ミサキがボロボロになったセーラー服の胸元を押さえながら、大粒の涙を流して笑っていた。彼女の瞳は、あの神の領域に達していたサファイアブルーから、どこにでもいる普通の、大人しそうな17歳の女子高校生の黒い瞳へと完全に戻っていた。【危険察知】の狂気的なノイズはもう、彼女の脳内を侵してはいなかった。
「……信じられないわね」
部屋の壁に背を預けたまま、レイが静かに立ち上がった。
彼女のライダースジャケットの左肩に施されていた、あの痛々しい即席の包帯。……それが、綺麗さっぱり消え失せていた。衣服の破れすらも、まるで最初から傷など負っていなかったかのように、完璧に修復されている。
「現実世界への『同期・復元』。ゲームマスターの最期のシステムコマンドは、本物だったみたいね。……私たちの肉体の損傷も、システムによって受けた変質も、すべてアプリをインストールする『前の状態』へと強制リバートされたんだわ」
レイは震える手で、自分のポケットからスマートフォンを取り出した。
一樹、タカシ、ミサキも、吸い寄せられるように自分の端末の画面を開く。
液晶画面の中央。
かつてそこにあった、鮮血のような赤色と血の滴るエフェクトを持った『サバイブ・リンク』の禍々しいアイコンは、どこを探しても、影も形も残っていなかった。ストレージの容量も、不自然に消費されていたギガ数がすべて解放され、元の真っ白な通常画面へと戻っている。
「消えた……本当に、アンインストールされたんだ……」
一樹はその画面を見つめながら、床にどっとへたり込んだ。
胸を締め付けていたカウントダウンの足音はもう聞こえない。一時間ごとに命を値踏みされる恐怖も、もう存在しない。世界は、何事もなかったかのように、静かで、退屈で、そして愛おしい「いつもの日常」の朝を迎えていた。
アプリの消滅から数時間後、一樹たちはセーフハウスを出て、臨海エリアの街へと歩みを進めた。
数時間前まで高さ数十メートルの「黒いノイズの壁」に囲まれ、初期化寸前だった隔離都市の光景は、嘘のように元通りになっていた。
行き交う通勤電車の音、騒がしい車のクラクション、スマートフォンの画面を見ながら歩く会社員たちの姿。
一樹たちが命を賭けて戦っていた間、精神的遮断によって眠らされていた一般人たちは、誰も自分たちが危機に瀕していたことに気づいていない。世界中の一千万人以上のプレイヤーたちが、今頃それぞれの場所で、悪夢から覚めたように目を覚ましているはずだった。
「……あ」
街頭の巨大なデジタルサイネージ(電光掲示板)を見上げていたミサキが、突然、小さな悲鳴のような声を上げて立ち止まった。
一樹とタカシ、レイが彼女の視線の先を追うと、掲示板には、臨海エリアのニュース速報が流れていた。
『──速報です。数日前から行方不明となっていた―――が、本日早朝、都内で無事保護されました。警察の調べに対し―――記憶の混乱を訴えており……』
「ミサキ……これって!」
タカシが目を見開く。
ミサキのスマートフォンが、けたたましく震え始めた。画面に表示されたのは、彼女のアカウントの記憶から完全に抹消され、彼女を「誰だ」と拒絶したはずの、彼女の【お父さん】と【お母さん】からの、数十件に及ぶ着信とメッセージの通知だった。
『ミサキ! どこにいるの!? 心配したんだよ!』
『急にいなくなるなんて、お父さんたち、本当に生きた心地がしなかった……!』
「お父さん……お母さん……っ」
ミサキはスマートフォンを両手で抱きしめ、その場に崩れ落ちるようにして泣き出した。
社会的ペナルティによる存在の抹消。……それすらも、ホストサーバーの完全消去によって「エラーログ」として書き換えられ、現実世界の歪みは完璧に修正(パッチ適用)されたのだ。彼女はもう、世界に一人ぼっちのモブキャラクターではなかった。元の優しい家族のいる、温かい家へと帰ることができるのだ。
「よかったな、ミサキ……。本当によかった……」
タカシが自分のことのように涙を流し、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「タカシ、お前のところはどうだ?」
一樹が尋ねると、タカシは照れくさそうに首の後ろを掻きながら、自分の画面を見せた。
「俺の部屋もさ、電気がバッチリ通ってて、ネットの回線速度も元に戻ってるって、管理会社からメールが来てたわ。……それとさ、あのクソ親父から、さっき短いメールが来ててさ。『たまには飯でも食いに帰ってこい』だってよ。ヘッ、今更遅えんだよ、クソ親父」
タカシは悪態をついたが、その口元はかすかに緩んでいた。過去の試練で父親の否定を打ち破った彼は、もう親の言葉に怯えるだけの出来損ないではない。自分の足で、新しい現実を歩き出す自信を、その胸に宿していた。
「レイさん、あなたは……」
一樹が最後に、チームの誇り高きエンジニアを振り返った。
レイは静かに夜空──いや、朝の青空を見上げていた。彼女の瞳には、かつて妹を奪われた日の絶望の影はもうなかった。
「……私の両親の精神状態も、正常に戻ったって、今病院から連絡があったわ。明日、退院できるそうよ。……それにね」
レイは自分のスマートフォンの写真フォルダを開き、一樹に見せた。
そこには、半年前のあの日、システムによって「不具合のあるオブジェクト」として消去されたはずの、彼女の【妹の笑顔の写真】が、鮮明なカラーデータのまま残されていた。
「私はね、これからの人生のすべての時間を使って、あの子が大好きだと言ってくれたシステムエンジニアの仕事を、もう一度胸を張ってやり直すつもりよ」
レイの言葉には、復讐に燃えていた頃の狂気ではなく、未来を見据える本物の強さと、妹への深い愛が満ち溢れていた。
一樹は、かつて自分が暮らしていたアパートの跡地へと向かった。
そこには、焼け焦げた鉄骨や瓦礫はなく、数日前のあの忌まわしい火災そのものが『なかったこと(歴史の修正)』にされていた。築三十年の木造アパートは、いつも通りの古い姿のまま、朝の住宅街の中に静かに佇んでいた。二階の一樹の部屋の窓辺には、大学の教科書や、日常の荷物がそのままの配置で残されているはずだった。
「本当に……すべてが変わって、何も変わらなかったんだな」
アパートの前に立ち尽くす一樹の隣に、タカシ、ミサキ、レイの三人が静かに並んだ。
彼らはもう、手を繋いではいない。スマートフォンのランクSの権限も、チート級の固有スキルも、すべて失い、文字通り「身一つ」の、何の特徴もない一般人に戻っていた。
「なぁ、カズキ。これで、俺たちのゲームは本当に終わり、なんだよな?」
タカシがポケットに両手を突っ込みながら、ぽつりと呟いた。
「ああ。アプリはもう二度と、僕たちの現実を同期することはないよ」
「なんだか、寂しい気もしますね」
ミサキが照れくさそうに笑った。
「あんなに怖くて、毎日泣いていたのに……みんなと一緒に、必死に鍵を探したり、化け物と戦ったりしていたあの時間が、私にとって一番、自分が『生きている』って思える場所だったから」
「バカなこと言わないの、ミサキ」
レイがフイと顔を背けながらも、その唇に優しい笑みを浮かべた。
「地獄を懐かしむなんて、ハッカーのすることじゃないわ。私たちはね、あの中だから繋がれたんじゃない。あの地獄を、お互いを信じて生き残ったからこそ、この現実の世界で、本物の絆を手に入れたのよ」
「……その通りだね」
一樹は三人の顔を、一人ずつ真っ直ぐに見つめた。
始まりは、ただのスマートフォンの広告の押し間違いだった。
不条理なルール、目の前で消え去っていくプレイヤーたち、命を削り合う悪魔の天秤。
しかし、彼らが過ごしたあの極限の20日間は、呪いなどではなかった。お互いの弱さを知り、過去を背負い、不条理なシステムそのものを内側からハックして書き換えるための、彼らの人生における【本物のチュートリアル】だったのだ。
「タカシ。ミサキ。レイさん」
一樹は自分のスマートフォンを取り出し、通常の連絡先アプリの画面を開いた。そこにはもう、ランクSの刻印も、暗号化されたパケットログもない。ただの、名前と電話番号を入力するための、ありふれた白い入力欄。
「僕たちのアプリはアンインストールされた。だけど──僕たちの『本当の同期』は、これから始まるんだ」
一樹の言葉に、タカシが「あったり前だろ!」と大笑いし、自分の端末を差し出した。
ミサキも「私、絶対に忘れません!」と涙を拭って笑顔で端末を重ねる。
レイは「……まぁ、連絡先くらいなら、教えてあげてもいいわよ」と呆れたようにため息をつきながらも、一番最初に一樹の画面へと、自分の本名とプライベートのアドレスを滑り込ませた。
ピコン。
四人のスマートフォンが、通常の、優しく軽快な「通知音」を同時に響かせた。
それは死へのカウントダウンではなく、新しい未来の始まりを告げる、血の通った約束の同期だった。
朝の光が、四人の歩み出す影を、どこまでも真っ直ぐに現実の世界へと描き出していく。
神代一樹たちの、命を賭けた反逆の物語は、今、最高の日常の夜明けと共に、完全に『アンインストール』された。




