File2-9 記憶を結び付ける者達
泉真人は幾つかの仮説を基に楠木学と面談を行っていた。
それは、学の娘である、茉莉香の今後の治療に関してであり、保護者である学の同意は必要不可欠なものであった。
「楠木さん、茉莉香さんの記憶についてですが。記憶保管だけでなく、欠落した記憶補完についても進めたいのですが、いかがですか? 完全な記憶復元は難しかったとしても、その欠落している記憶が確かに存在していたと認識が出来れば、それだけでも茉莉香さんの今後の人生において良い効果が出ると思いますが」
「ええ、そうですね。それは分かっているのですが……」
学ぶはそこで言葉を区切ると歯切れの悪い様子で、何と言ったものかと言いあぐねている様子であった。
真人のこれまでの経験から言えば、治療に関する提案で拒否を示す場合は金銭的な問題か、家族関係に類するものである可能性が高かった。真人からして見て、恐らくは後者である可能性が高く、楠木家の事情を鑑みればそれは仕方のないことだと内心で割り切りを見せる一方で、仮に治療費に関連する場合を考慮し、記憶障害における高額治療費の補助制度について説明を切り出す。
「もしも治療費のご心配であれば必要ありませんよ。記憶保管を伴う記憶治療に関しては補助金が出ますから。もともとの記憶保管に掛かる費用以上の出費はありません」
「ああ……いえ、そうではないんです、治療費については問題ありません。私が責任を持ってお支払い致しますので」
そうではない、という学の様子から、真人は自分の予想が恐らくは当たっているであろうことを理解する。それは、ひょっとすると茉莉香にとっては残酷な理由かもしれなかった。
「離婚された元奥様と、息子さんに関係が?」
「……」
「そのことを茉莉香さんへは?」
「そんなこと、話せるわけがないじゃないですか……!!」
学の優し気な顔が酷く歪み、絞り出すような声には僅かに怒気が孕んでいる。真人はその感情の発露に気が付いたが、敢えてこれを無視した。
「ですが、茉莉香さんはご自身の記憶の復元を望んでいる以上、それを父親のあなたが取り下げるのであれば会話が必要でしょう。これは記憶障害を持つ人が口をそろえて言うのですが、あったはずの記憶、それが思い出せない自分を許せないと…… あなたは茉莉香さんの目の前に可能性があるにも関わらず、それに手を伸ばす事を親の個人的な感情によって妨げようとしている」
真人はひたすらに言葉を以て学の説得を試みる。真人は自分の言葉が、学にとって触れられたくない生傷であることを十分に認識していたが、記憶管理士として、茉莉香の記憶を取り戻せる可能性がある以上、退くことは有り得なかった。
「このまま、あの頃の記憶が無い方が幸せなことだってあるでしょう!? 私達家族の関係は既に破綻しているんです、あの頃の……あの頃の記憶にはもう戻れないんですよ? それでも茉莉香に記憶を取り戻させるのは酷じゃないですか……」
学の声は震えていた。それは、娘のことを思っての言葉であることは間違いが無いように思えた。しかし、仮にそうだとしても真人は言葉を緩めることを良しとしなかった。
「その良し悪しを決めるのはその記憶を持つ個人の権利ではないですか? 記憶の所有、それは少なくとも自分以外の人間に決められるような、そんな生易しいものではない。親の心配、そう取れなくはないかもしれませんが、私から言わせてみればそれはエゴでしかない。茉莉香さんの記憶がこのままであることが、貴方にとって都合がいいだけではないですか?」
真人は、ひたすらに学の感情を否定する。記憶は個人に属するものであり、個人が未成年であろうがなかろうが、それを個人以外の他者が恣意的に手を入れることは許されないという信念を持っていた。
それ故に、真人の言葉は鋭く、学の感情を抉らざるを得ない。
「あなたにそこまで言われるいわれはありませんよ!」
学は真人の言葉に感情を以て訴えかけるが、真人はそれに取り合う事はなかった。
「いえ、それがあるのです。これは記憶治療に関する同意書です。茉莉香さんは未成年者ですから記憶治療に関しては親の同意がいる。だから私はこうして貴方に向き合っている。貴方が親として、娘さんからの愛情を引き続き得たいと思うのであれば、娘さんのことを第一に考えるべきだ」
「……あの子は、自分の記憶ときちんと向き合えるでしょうか?」
「貴方が受けた苦しみとはまた違う、苦い思いをするかもしれません。ですが、それ以上に記憶から得るこれまでの経験を通した様々な想いが、彼女の人生を豊かにするはずです」
学は観念したように、同意書にペンを走らせた。
「ですが、お気持ちは分かります。どうしようもない記憶を消すこともまた、記憶管理士の仕事ですから」
真人は同意書を学から受け取ると、深々と頭を下げた。
◇
ニイナは昨日に引き続き、茉莉香の生家に訪れていた。
二度目の訪問であったが、事前に連絡を入れていた事もあり、恵は抵抗する様子はなくニイナに居間にあがるように促した。
ニイナは正樹との会話を恵に伝え、茉莉香の記憶治療への協力の許可を取り付ける為に同意書を携えており、ニイナから内容を聞いた恵はどうしたものかと、ニイナを見つめていた。
「離婚する時に、茉莉香も引き取ろうとしたのよ?」
唐突に恵は身の上話を始めた。
「けど、実際はそうできなかった……そうね、あの時、茉莉香を引き取ることが出来なかった私が悪いの。気が付けばその罪悪感と共にこの五年を過ごしてきた……記憶が無くなったと聞いた時に、それは私にも茉莉香にとってもいいことだと感じたのよ。あの子に記憶が戻っても、あの頃にはもう帰れない。それなら、二度と戻れない関係性の中に再び放り込まれるよりも、記憶を無くして、私達のことを忘れて、それで幸せに暮らしてくれればいいって思っていたの」
恵は遠くを見る様にして滔々とその胸中を吐露した。忘れたくても忘れられない記憶がある。その一方で忘れることが出来たのであれば、いっそのこと忘れてしまったままの方が幸せなのではないか、恵はそのように考えたということになる。
それを愛情と呼ぶのであれば、それはニイナにとって理解できない考えだった。記憶が欠落した状態が幸福なはずがない。そうでなければ、ニイナ自身が追い求めている自身の欠落した記憶についても、ひょっとすると忘れたままでいた方がいい記憶である可能性を認めることになってしまう。
それはニイナにとって、極めて許容し難い考え方であった。
仮に記憶が辛いものであったとしても、それを判断するのは自分自身でありたいと、ニイナはこの時、強く感じていた。
「それは、お母さま自身にとっても、ということですね?」
「……そうね、きっとそうね。でもきっと茉莉香にとっても苦しい記憶になるはずよ」
身勝手だと、ニイナは感じていた。
「それを決めて良いのは茉莉香だけではないですか?」
それを感じる権利は茉莉香にのみ許されるのであって、判断をするのは恵ではないと、ニイナはその薄茶色の虹彩を放つ瞳で、訴えるように恵を見つめていた。
「そう、そうね……でもきっとそれは私だけではなく、あの人、学さんも同じことを考えていたんじゃないかしら? この町には来ても、私に会おうとしたのは茉莉香だけだった。だから、私はその考えに相乗りしようとした。奇妙なものね、破綻した関係のはずなのに、逃げ方はそっくりだなんて……」
自嘲気味に恵はそう言い放つ。寄り添う事が出来なくなった人と、自分が同じように娘である茉莉香の記憶について考えを同じにする。それこそが、彼女達に共通した、寄り添えなくなった理由であるということに恵は気が付いていた。
「あなたは、茉莉香のことを愛していないのですか?」
恵は、ニイナからの問いに思わず、ぴくりと肩を震わせる。机の上で組んだ指に
「ニイナさん、貴方にはご家族はいらっしゃる?」
「いいえ、私の両親は既に他界しています」
「そう、なのね……」
恵はニイナの境遇を知り、複雑そうな表情を浮べた。
「だから、不思議なのです。例え、今は側にいなくとも、どこかで繋がっているはずだと、心の底では縁があるのだと、私は信じたいのかもしれません。本当に恵さんは茉莉香に忘れたままでいいのですか?」
「……少し待っていてもらえますか?」
恵は一度部屋からでると、小さな可愛らしい薄紫色をした封筒を手に持って再びニイナの前に腰を降ろした。
「それは?」
「恥ずかしい話ですが、私はあの子と会う自信がありません……でも、あの子のことを想わなかった日は無かった……忘れようとしても忘れることが出来なかったその証拠です」
「想いの形……」
「これは、私にとっての戒めであり、茉莉香に対する贖罪でもあるのねきっと……正樹が協力することは止めません、好きにすればいい」
そう言うと、恵は机に置かれた同意書にサインをすると共に、その薄紫色の封筒をニイナへと渡した。
「ありがとうございます」
「私と茉莉香の思い出が詰まったものです。何かお役に立てば良いのですが」
ニイナは封筒を見ながらに確信する。これはただの封筒ではなく、記憶が形を成したものであるということを。