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望み打ち捨てたる者に、敵意を抱きたる者に、罪を犯せし者に、すべての潰えたる者に、救い能わぬ者とてなし。ただ救いを与えよ。
――外典『希望の書』第七節
サン・ロー攻防戦から日々は流れ、ベルナルド公の葬儀は盛大に、しかししめやかに執り行われた。だれもが頼り、信じた乱世の鉄人は、最大限の礼を以って送られた。
その主催者こそが新たなバルドレード伯と見なされる葬儀において、喪主を勤めたのは線の細い若者、ベルナルドの実子オスカーだった。
だれもがベルナルドの死を惜しみながら、伯家の行く末を案じたのも無理からぬ事であったろう。
サン・ロー攻防戦は、ソヴァース公ヴリストの威を遍く知らしめた。この若者では支えきれぬと見ても、仕方がなかった。
まだ若いオスカーの後見人となったのは、生前、ベルナルドより厚い信頼を寄せられた大司祭ゼールペーであった。それだけが慰めであったとも言えるだろう。
葬儀の列を窓から見下ろし、クローディアはなんとも言えぬ感情を味わった。一人の人間の死が、これほど重い意味を持つとは。
「喪が明ければ、オスカー公子が正式に伯家を継ぐだろう」
その声に振り返ると、寝台にクリスが身を起こしていた。体調は優れず、オロドヴァに帰還してからは床に臥していた。
「同時に、ヴリスト公も交渉なり戦争なりを仕掛けてくる」
「身を起こして、大丈夫なのですか?」
心配そうなクローディアに、いまやオスカーの相談役の肩書きを得る女性は、ひとつうなずいた。
「アルスは、まだ帰って来ないか?」
「ええ。怖いものですね、大切な人を待つと言うのは……とても勇気がいる」
サン・ローでの攻防戦からすでに一月近くが経とうとしていた。当初は傷付き、疲れ果てた敗残兵が、引っ切り無しにその城門をくぐっていたが、その列も絶えて久しい。客観的に見るなら、もう望みはない。クリスはそれと知りながら、クローディアに同意した。
「勇気か。ともすれば、挫けてしまいそうになる。私などに待つ権利もないのかもしれないが……それでも、望んでしまうよ、彼が帰って来る事を」
サン・ロー攻防戦の最終局面で奇蹟的な役割を果たした女騎士は、震える指先を握り締めた。
その手に、自分の手を重ねて、クローディアは優しく微笑む。
「きっと帰って来ます。信じてくれるなら、きっと帰るって言ってくれたから……」
「ああ……そうだな」
クリスが力なく呟く。
もうすぐ夏を迎える空に、弔鐘が絶えることなく響いていた。
ベルナルドの葬儀から遡ること一月ほど、サン・ロー攻防戦の勝敗が、ベルナルドの死によって決定的となった直後――
すでに守るべき兵もいないサン・ロー砦に、ソヴァース公の軍旗が翻った。落成から難攻不落を誇り続けた城塞が、ついに陥落した。
その事実に、為す術なく呆然としていた騎士たちも逃げ始めた。どう身を振るかについては後で考える。ともかく、今は逃げ延びることだ。
ついに壊走を始めたバルドレード軍の中で、ただ一人、その場に踏みとどまったのは、赤毛の少年だった。
「まさか、こんな所で遭えるたァ、思ってもみなかったぜ」
その少年の前に、奇妙なデザインの鎧を着た男が立ちはだかる。ベルナルドに劣らぬ体格を備えた男は、しかし「勇猛公」とは決定的に印象を異にしていた。その顔に染み付いたように離れない陰惨な笑みが、男の残忍な性格を雄弁に物語っている。
「アトリ……」
槍を握り締めて、アルスが唸った。そんな少年の意図も知らぬげに、アトリはくつくつと笑った。
「逃げないのか、他の連中みたいに。いや、いつぞやみたいに、と言った方がいいか? あのバドとか言う賊、はした金にしかならなかったが、ベルナルドはいい金になるだろうよ」
「あんたは、人を信じた事があるのか?」
怒りは不思議と湧かなかった。ただ、アトリの言葉が突き刺さるたびに、心が妙に冷える。
「信じる? 騙されるのは御免だな。おれは騙す方が好みなんでな」
「あんたはこういう時代が似合いだよ」
そう言って、槍を構える。時代を変えなくては、悲劇は終わらない。それが実感できた。変わっても終わるとは限らないが、きっと今より良くする事はできるはずだ。
そのアルスに対して、アトリは下卑た笑いを漏らした。
「舞台は良い感じじゃねえか。敗残兵狩りもいいが、やっぱりうまみは多い方がいい。一対一だ」
逃げるバルドレード軍と、サン・ロー砦の占拠に余念のないソヴァース軍。邪魔する者もいない。
「さあ、収穫の時だ。潔く死にな」
アトリが飛び込む。あくまで攻撃手段は短剣であって、それ以外の魔法は身を守る防具でしかない。
振りぬかれる短剣が、アルスにははっきりと視認できた。クリスとの稽古が、アルスを鍛え上げていた。
紙一重でかわし、アトリが次の一撃へと繋ぐ瞬間を見切り、槍の石突を跳ね上げる。難なくかわされるが、それは牽制。アルスは一瞬のタイミングを計って、距離を稼ぐ。クリスがそうしたように。
「ちったあ、できるようになったじゃねえか、小僧!」
嘲るように叫んで、再び飛び込む。それを迎撃するように槍が振るわれた。軌道が不自然に歪む。槍を取り落としそうになるほど強力な擬似重力に、アルスが眉をしかめた。
アトリの斬撃を、アルスは寸前で槍を引き戻し、その柄で受け止める。高磁圧の刃を以ってしても、クリスの槍は切り裂くことができなかった。
その手応えに怪訝な表情を浮かべたアトリは、三歩分の距離を取って、アルスを見た。
「この前の魔法はどうした?」
高磁圧をまとう『トゥルース』は、斬撃を弾いた。だが、その感触はない。その事にアトリは焦った。幾つかの魔法を見たが、あれほど多機能で、あれほど欲しいと思った物はない。まさか、すでに奪われたのではないのか。
「信頼できる人に託した。あんたごとき、この槍で十分だからな」
アルスの言葉に、ぎちりと男の歯が鳴った。
「後悔させてやるぞ、小僧」
「あんたには、負けない」
負けられない。再び、アトリが突っ込んでくる。
クリスほどじゃない。彼女を相手にするほど、完璧に封じ込まれるわけではない。邪魔なのは、こちらの攻撃を遮る力。それについてはクローディアから教えられている。
高磁圧の刃が横薙ぎに振るわれる。その動きを十分に見極めて、アルスは姿勢を低くする。彼我の身長差が、追撃を鈍らせた。
「無駄だぞ!」
アトリが叫ぶ。アルスは槍を捨て、組み付く。不用意に泳いだ男の身体は、アルスの体当たりを受けてよろけた。思わぬ攻撃の仕方に、一瞬だけアトリの気がそれた。
「今だ!!」
「応ッ!」
答えた声はだれのものか。アトリの背後から白刃が振るわれる。重力の壁がそれを外させ、しかし、それをアルスが許さない。逸れた方向へと、アトリの身体が押し込まれた。
金属がこすれ合う音が響いたと思うや、アトリの奇妙な鎧が紫電を弾けさせた。
「何だと!?」
驚愕の叫びが、男の口から漏れる。振り返った先に立っていたのは、黒ずくめの鎧をまとった騎士――親衛隊の生き残りだ。
「魔法を使うのが己だけだと思ったか。我が主の仇、打ち取ってくれるぞ、鼠賊めが」
これがアルスの取った手段だった。威力を持つ魔法で一撃すれば、アトリの鎧は重力場を発生できなくなる。そのために、アトリと対峙する前に魔法を持つ親衛隊を引き入れた。
なんとしても生き残る。そのために必要な手段を、ためらうつもりはない。
「畜生、このガキ、おれを嵌めやがったな!」
紫電を吹き上げる鎧は、最早、用を為さない。アトリは怒りに駆られるままに短剣を振るった。その切っ先が、アルスの背中を焼き切る。
苦鳴がもれる。だが、致命傷には程遠い。
傷口を焼かれる痛みにどっと汗を噴き出しながら、アルスは組み打ちを解いて、槍を拾う。
「言っただろ、あんたにゃ負けねえって。人を信じられないあんたに、負けるはずがない」
「黙れ、ガキが!」
怒りに任せて振るわれる斬撃は、さらに大振りになる。いまやアトリは半狂乱だった。魔法こそ、絶対の力を持つ魔法こそが、彼の価値観のすべてだった。
痛む背中を無視して、アルスはその攻撃を凌ぐ。隙を誘え。確実に仕留められる瞬間を待て。一冬で叩き込まれた教訓に従い、アルスはその瞬間を待つ。
「助太刀いたすぞ!」
「やめろ!」
親衛隊の男が、そのアトリへと突っ込む。直感的に危険を感じて、アルスが制す。だが、遅い。
黒衣の騎士が剣を振るおうとした瞬間、アトリの姿が掻き消える。偏光迷彩――クローディアの言葉を思い出した時には、必殺の一撃をかわされた騎士の腹に深々と短剣が突き刺さっている。
短剣を引き抜かれるや、騎士が倒れる。
「もう許さねえぞ、小僧」
アトリの声が聞こえた。だが、その姿は見えない。まだこの男を倒すには策が足りなかったのか。カムフラージュも鎧の能力だと思い込んでいた浅はかさだった。
周囲を見回し、じりじりと後退する。クローディアならば、たちまちに看破する位置も、肉眼しか持たないアルスでは見当すらつけられない。
肉の焦げる臭いと、一瞬遅れてきた激痛に、アルスは左腕を見る。あるべき腕が、そこには無かった。二の腕から切断された腕が、泥濘の中に落ちる。
焼ききられた傷口は出血こそしないが、腕を切り落とされたショックと、壮絶な痛みに、眼が眩む。たまらず膝を落とし、アルスは不規則な呼吸を浅く繰り返す。
それでも槍を落とさなかった事を、自分自身ですら不思議に思った。それが自分自身の強さだなどとは思わない。信じてくれる人たちが与えてくれた力だ。
「信じろ……」
自分に言い聞かせるように呟き、痛みとショックで霞む目を見開く。
クリスに教えられたことを必死で思い出す。どうすればいいのか、その答はそこにあるはずだ。相手だけを見るな。全体をよく見ろ。身体の動き、周囲の地形、足の運び――足の運び?
「終わりだ、小僧」
無慈悲な宣告。アルスは耳を澄ませた。
濡れた布を叩きつけるような音――背後から聞こえた。振り返る。何も無い場所で、泥が跳ねた。姿は消せても体重は消せない。
「クローディア、おれを……」
緋色の瞳に壮絶な輝きが灯り、残された隻腕が槍を操る。考えている余裕などない。
顔を灼熱の痛みが走った。今度こそ意識が遠のく。必死で掴もうとしても遠ざかっていく現実の地平に、アルスは右腕の手応えを確かめる。
確かな手応えがあった事を感じて、アルスの意識は途切れた。




