第十二話 必要とされる歓び Ⅱ
「秋村さん、マーチってどんな演奏を参考にすればいいんですか?」
「自衛隊の音楽隊だな。とくに、観閲式とかのやつ」
「秋村さん、タンギングを上達させたいんですけど」
「それならバスクラリネットの先輩に聞いてみなさい。あいつ俺より上手いから」
「秋村さん、淑乃先輩の目つきが怖くて息が苦しいです」
「睨み返してやるくらいのメンタルがあれば本番も絶対失敗しないぞ」
「秋村さん、萌波先輩と美月先輩が二人の世界を作ってるので話し掛けづらいです」
「……練習が終わったらキツく言っておくから、気にせずに言いたいことを言いなさい」
「ちょっとあんた? ホルンパートの練習指導のスケジュールがフルートと被ってるんだけど?」
「秋村さん。また絵理子先生がこっそりタバコ吸ってるみたいなんですけど、大丈夫ですかね」
「秋村さん! 黒星さんは次いつ来てくれるんですか!?」
「ねえ、恭洋。いい加減免許くらい取ってくれない?」
「――あああああああああ!!!」
講堂の中で俺は絶叫した。
この建物の唯一の欠点は通気性の悪さだ。梅雨のジメジメした湿気と、じっとしていても汗が噴き出る気温にストレスを感じていたところに、次から次へと部員からの(わりとどうでもいい)意見が飛んでくるので、もともと対人能力の低い俺はあっという間に発狂した。
ホルンパートの云々、くらいからまともに返事すらしていない。というか、最後の某顧問に至ってはもはや嫌がらせとしか思えないのだが、いったいどういうつもりなんだ。禁煙しろ。
「いやあ、コンクール直前って感じだねえ」
「どこがだよ!」
ようやく解放されて一人きりになった俺を見て、呑気な感想を述べたのは日向である。まともな質問など、最初の二つくらいだったのだが。
「あんたが何度も言ったんでしょ? 『俺とお前らは対等だ。なんでも言ってくれ』って」
「それはまあ、そうだけど」
「口が達者になるっていうのは、それだけ内心にも不安があるってことじゃん。とくに二、三年生は去年のコンクールのこともあるしね」
日向の言うことはもっともだし、実際言葉に出してくれるだけ良いことかもしれない。俺に耐性が無いだけで。
「期末試験はなんとかみんなパスできたんだよね? 部活に集中できているからこそ、いろいろと目につくんでしょ」
「本当、それに関してはヒヤヒヤしたけどな」
今回ばかりは、俺も試験期間中の登校を控えた。中間試験で補習に引っ掛かった面々も、同じ過ちを繰り返すとコンクールの出演すら取り消されるのではないかと考えたようで、必死に勉強したらしい。一番の懸念であった淑乃のみ追試を受けることになったのは肝を冷やしたが、なんとか合格ラインの点数は死守したので補習対象者が出るという最悪の結末だけは免れた。
「コンクールの地区大会、突破できそう?」
「……京祐の話を聞く限り、よっぽど本番でやらかさない限りは大丈夫っぽいな」
日向の疑問に対して、俺は罪悪感を抱えながら答えた。
先月の合同演奏会で俺がした失敗は、演奏に関してだけではなかった。失望したままノコノコと会場を去った俺は、大バカ者の極みとしか表現できない。散々自分でも言ってきたように、合同演奏会は前哨戦という意味合いを持つのだから、少なくとも俺は他校のサウンドを聞いておくべきだったのだ。むしろこちらの失態の方が、演奏そのものよりもよっぽどひどい。
「まあ地区大会は、半分は県大会へ抜けられるからな」
吹奏楽連盟の規定や昨年のプログラムを確認し、地区大会へ出場する十四校のうち七校が地区代表に選ばれることは既に知っている。京祐曰く、躑躅学園が頭一つ抜き出ているものの、他の学校はほとんど横並びのようだ。翡翠館が本領を発揮すれば問題無いと太鼓判を押されている。
「正直、みんなの執念は凄まじいよ。三年生はともかく、後輩達もな。『幻想交響曲』の合奏練習を見ればなんとなくわかるだろ?」
「そうだね……」
彼らの演奏は、日に日に狂気を増していた。スタミナがつくということは、各自の出せる音量の幅が増えるということでもある。その分、各自が魔界の宴を表現しようと本気で演奏してくるので、こちらもかなり消耗するのだ。
「あまり良い喩えじゃないけど、みんな命を削りながら練習してる感じだよ」
「……それはちょっと不気味だね」
「三年生がそういう空気なのは、なんとなくわかるんだけどさ。後輩達がそれに影響されているのが意外というか」
「まあ、みんなが同じ方向に進んでいるのは良いことなんじゃないの?」
「ああ……」
言われてみれば、俺が現役時代に『幻想』を練習していた時の雰囲気も似ていたかもしれない。楽章は違えど、やはりこの楽曲には何かがある。
「あんた自身はどうなの? メンタルが綿飴なんでしょ? 暑くなってきたし、もう溶けて無くなってるんじゃない?」
「無くなってたらとっくに引きこもってるだろ」
楓花に対する罪悪感が薄れる訳は無いし、智枝のことだって現実逃避しているだけだ。だが、もう俺が何を思ったところで引き下がれないところまで来ているのだから、メンタルがどうとか言っている場合ではない。
今でもプレストのマスターや理事長の渋川は、顔を合わす度に応援の言葉を掛けてくれる。生徒会長の輝子だって、俺達の活動を認めた上で野球応援の協力を要請してくれたのだ。京祐は忙しい中で可能な限り協力してくれるし、絵理子も当初は「吹奏楽部の末路を見守るだけ」などと言っていたが、少なくとも俺以外にはまともに接しているしパーカッションパートのレベルは格段に向上した。
合同演奏会の後に京祐から怒鳴りつけられたように、俺が吹奏楽部に携わってから起きているトラブルは、どんなバンドでも起こりえる範疇の出来事だ。そもそも廃部にすらなりかけていたことを思えば、むしろ些末な問題と言えるかもしれない。
「あっそ。それならしばらくは大丈夫そうだね」
そう呟いた日向は、俺に背を向けて講堂の出口へと向かう。
「おい。どこへ行くんだ?」
ちょうど逆光になって、彼女の姿がひどくぼやけて見える。
「んー。ちょっと旅に、ね」
日向は振り返ることもなく、冗談めいた口調で返事をした。
――なんだか胸騒ぎがする。このまま日向が陽炎の中に溶けていってしまうのではないかと、儚い光景が目に浮かんだ。
「もうすぐ合奏練習だぞ!」
大声で呼び掛けたが、日向は右手を軽く挙げて応えただけで、そのまま外に出て行ってしまった。
「……秋村さん? どうかしたんですか?」
入れ替わるようにやって来た玲香が、どう見ても不審者でしかない俺に怪訝な視線を向ける。
「い、いや、なんでもない」
「そうですか」
現れたのが、他者に関心の薄い玲香で良かった(部長という意味ではあまりよろしくないが)。
そのまま続々と部員が集合し始めたので、俺も一旦日向のことは頭の片隅に置く。神出鬼没なあいつのことだから、練習が終わる頃にふらっと登場するのだろう。
――その時の俺は、たいして深くも考えず目の前の合奏練習に集中した。
だが、日向は練習後どころか、その後数日経っても俺の前に姿を見せることはなかった。




