第七話 伝説に至るプレリュード Ⅱ
「失礼します」
「……返事を聞いてから開けろよ」
ノックと同時に入室するのが癖になっている玲香がやって来た。日向が暴れている間に入学式は終わったようだ。
「まずはどうしますか?」
俺の注意を無視して玲香が指示を仰ぐ。
「本番の衣装に着替えてから各自音出しをしてくれ。出番まではおよそ一時間半か……。三十分後に合奏を始めよう」
「わかりました」
「俺はずっとここにいるから、何かあれば教えてくれ」
「はい」
返事をした玲香は、颯爽と部屋を出ていった。覚悟を決めたような表情が印象的だった。
続々と部員達が集まっているようで、楽器の音も響き始めた。俺は先ほどのネクタイを結び、ジャケットを羽織る。
「行くか」
約束の時間に音楽室へ入ると、皆のスタンバイは完了していた。チューニングを済ませてから基礎合奏を行う。俺が思った通り、響きが戻った彼らの音は数日前の何倍も上質になっていた。
「すごい……」
皆の総意であるかのように玲香が無意識に呟く。しかし、俺はここで一度釘を刺した。
「体育館は響き過ぎると思う。だから、昨日までの練習を絶対忘れるな。『ディスコ・キッド』は基本的にずっとフォルテで楽しく吹けばいい。ただしその分、一曲目に全神経を集中させろ。最初の一音から聴衆の心を掴むんだ。ほんの僅かでも緩んだ瞬間、客席の集中力も途切れるぞ」
少し脅かすように出した俺の指示にも、皆はしっかりと返事をした。
「よし。じゃあ二曲通してみよう。本番をイメージしてな」
俺が璃奈をちらりと見ると、彼女はしっかりと頷いた。「俺に聞かせろ」という昨日の指示は忘れていないようだ。他の皆も、玲香同様鋭く光る眼差しを俺に向けていた。真っ黒で生気の無い目をしていた集団が見違えたものだ。指揮棒を振りながら、俺は高校生の底知れぬ力を感じ取ったのだった。
――リハーサルを粛々と終えた俺がもう一度音楽準備室に戻ると、日向が緊張した面持ちで待ち構えていた。
「いよいよだね」
「ああ」
「ネクタイ曲がってる」
「……ああ」
最後まで締まりの無いやり取りに、日向は少し笑ってから一度深呼吸をした。
「幽霊って呼吸するのか?」
「うるさいな。そういうことは流せばいいじゃん。だから絵理子先生に嫌われるんだよ」
あいつが神経質なだけだと思う。
「お前も聞きに来るだろう?」
「うん」
「じゃあ、頑張らないとな」
「あたしがいなくたって頑張ってよ」
「もちろん」
不毛な会話は、静寂が生む緊張感を紛らわすものでしかなかった。だが、時間を進めるには有益であった。
「そろそろです」
今度はノックすらせずに入って来た玲香が出番を告げた。俺は短く返事をすると、指揮棒だけ持って音楽準備室を後にした。
――体育館の外に到着すると、まさに吹奏楽部の一つ前の部活が発表中であった。俺達はステージ脇の扉から直接入場することになっている。春とはいえ外は冷えるが、真正面から堂々と入るのはさすがに気が引けた。移動距離や設営の面からも、スムーズに式を進行させたいという生徒会と利害が一致したのだ。腕時計で時刻を確認したが、式は順調に進んでいるようで安心する。むしろ少しテンポが早いようだ。生徒会が多少は時間をオーバーしても良いと言ってくれてはいるものの、ゆとりがあるに越したことはない。
「みんな、ステージの設営はとにかく落ち着いてやってくれ。玲香が時間を繋いでくれる。椅子や譜面台はくれぐれも気をつけて運ぶように」
たった一本の譜面台を倒したことがきっかけでバンドそのものをめちゃくちゃにした俺の忠告は、かなりの説得力を持っているだろう。とくに本番前はハプニングが付き物だ。
「吹奏楽部、出番です」
遂に扉が開いた。生徒会室で輝子の横にいた、副生徒会長の男子が俺達を呼ぶ。紅白の垂れ幕をめくって一歩体育館に入ると、そこには新入生、在校生、教諭と保護者がずらりと並んでいた。だが思った通り会場の空気は弛緩しており、閉式のアナウンスを待つ生徒の中には欠伸をしている者がちらほらいるし、保護者も含め私語が飛び交っている。
「――ここでお知らせです。本来でしたらこれをもって閉式の予定ではありましたが、もう一団体だけ、追加の発表があります」
進行役の生徒会のアナウンスと同時に、部員達が一斉にステージの前へ向かっていく。脇にまとめてあったパイプ椅子を並べ始めた一同を見て、場内はにわかにどよめき始めた。
「準備が整うまでしばらくお待ち下さい」
生徒会長の輝子がこちらに視線を寄越した。「あとはどうぞお好きに」とでも言うように。
今回の演奏は、ステージの上を利用しない。観客との目線のズレを生じさせないためだ。ステージ前にパイプ椅子や譜面台を並べる部員達をよそに、部長の玲香がマイクを持って指揮台の横に立つ。
玲香の「お願い」――それは、演奏前にスピーチを行いたいというものであった。事ここに及んで犯行声明のような演説は行わないだろうと思った俺は快諾したのだった。むしろ、この準備時間を有効活用するという観点において、部長自らが挨拶するというのはぴったりの催しである。




