第三話 埃を被ったエメラルド Ⅲ
「――あら、今日も無職は自由でいいわね」
第三職員室の天井を紫煙で覆う絵理子は、開口一番にタバコの煙と嫌味を吐き出した。
「聞きたいことがあって来た」
「ちっ」
吸い殻をぐしゃっと灰皿に押しつけた絵理子から、忌々しそうな視線を受ける。
「今後の生徒会の活動予定って知ってるか?」
「生徒会? さあ、私は存じませんね」
いちいち腹の立つ女だ。
「先生なら、ちょっと誰かに聞いてみればわかるでしょ?」
絵理子に関しては、日向という絶対的に有利なカードがあるので多少は交渉しやすい。まあ、俺という存在がその効果を相殺していることは否めないけれど。
「そんなこと知ってどうするのよ」
「部活紹介の出演許可の直談判をしようと思って」
「校長じゃないの?」
「校長がそう言ったんだよ」
「ふうん?」
絵理子は足を組んで、デスクの引き出しからクリアファイルを取り出す。
「もしもし、狭川です。お疲れ様です。生徒会って明日活動しますか? ……はい、はい。わかました、ありがとうございます。失礼します」
いきなり内線通話を始めた絵理子が、受話器を置いた。
「ちょうど明日、打ち合わせがあるみたいよ。良かったわね」
全く祝っていない口調で絵理子が内容に触れる。
「わかった。ありがとう」
「はい、じゃあ出て行って」
「もう一つだけ」
「……何よ」
思ったより素直に話を聞いてくれる絵理子に驚きつつ、俺はとある品の提供を依頼をする。
「――今さらそんなもの何に使う訳?」
「『そんなもの』扱いするなよ。今となっては貴重だろ」
依頼品を受け取った俺は、呪いのアイテムに触れるような彼女の所作を見て切ない気持ちになった。
「……まあいいわ。じゃあね」
今度こそ会話をシャットアウトされてしまったので、俺と日向は礼を言って部屋を出た。
「すんなり用件が済んで良かったね」
「ああ」
日向の言葉に頷く。昨日の今日なのでもう一悶着あることを覚悟していたのだが、嬉しい誤算もあるものだ。やはり日向と一緒にいることが大きいのだろう。
その後、俺自身も『ディスコ・キッド』の譜読みをしたり、もう一曲の候補を選んだりするうちに時間は流れていった。音楽準備室は一人で作業するには適度な広さであり、誰も来ないので集中できる。だが、もう一曲に関してはなかなか決めきれなかった。
奴らの演奏に楽曲を寄せるとしたら、古典の宗教曲か、難解な現代曲くらいしか思い浮かばない。ルネサンスとキュビズムのどちらを取るか、みたいな究極の二択である。気が狂いそうだが、そのくらい彼らの演奏は極端なのだ。もちろん、どちらを選んだとて表現に関しては教え込まねばならない。選曲する最初の段階として、オペラのハイライトのような情感溢れる曲よりはマシだろう、くらいの話である。こんな意味不明な論議を偉そうに語っている俺も、識者から芸術に対する冒涜だと叱られるに決まっている。
そうこうするうちに昼休みも終わり、合奏練習の時間に合わせて部員が集まってきた。
まずは淑乃が基礎合奏練習を行う。俺は後ろから見学することにした。
ロングトーンや音階、ハーモニーの練習を全体で行う場が基礎合奏である。言わば準備体操のようなものだ。ストレッチやウォーミングアップを行わない運動部が無いように、いきなり楽曲を練習するような吹奏楽部はどこにも無いだろう。下ごしらえをしない料理人がいないのと同じことである。
基礎合奏練習の指揮を執るのが、生徒指揮者の最大の仕事だ。全体のバランス確認、音程の調整、イメージの共有など、意識する箇所はいくつもある。
「はい、じゃあ終わりね」
だが、淑乃はあっという間に基礎合奏を終わらせた。
「おい、まだ十五分も経ってないぞ」
淑乃が指揮台の上で行っていたのは、練習メニューを読み上げることと、メトロノームとハーモニーディレクターを操作することだけだった。これでは、具材をただ切っただけで下ごしらえが終わったと言われるようなものだ。下処理が済んでないし下味もついていない。あまりに淡白過ぎる。
「メニューは終わったけど。音程はぴったりだし、他に何をするの?」
そりゃ、奴らは単体で音程が調整できているんだから、全体で合わせてもズレないだろう。
「もしかして、お前らって入学した頃からこんな感じだったのか?」
「うん」
昨年のコンクールがひどい演奏になった理由の一端が判明した。
「……はあ。一晩でメニューを考え直すから、明日からは基礎も俺がやるよ」
一から十まで面倒を見なければならないようだ。
「マジ? じゃあお願いします」
淑乃も、これ幸いといった感じである。役職を剥奪してやりたい。
「じゃあ、このまま一度曲を通してみようか」
部員達の望みのままに、俺は淑乃と交替で指揮台に上がった。それに合わせてドラムセットの椅子に紅葉が座る。ティンパニの後ろに立つ誠一郎が羨ましそうな目をしている。
最初の通しということで、俺は指揮棒ではなく菜箸を手に持った。指揮台を叩くというのはあまり好ましくない行為だが、ペースメーカーとしてテンポを示す必要もある。常に一定のテンポを刻むメトロノームより自由が効くので、軽くてある程度丈夫で安く買える菜箸はちょうど良いアイテムだ。箸と違って一本ずつ使うのでスペアにも困らない。熱くなって思い切り叩き続けると、折れて破片が飛ぶので気をつける必要はあるが。
「インテンポよりは遅くするか」
ハーモニーディレクターのメトロノームを調節し、数回鳴らす。
「ドラム、準備いいか?」
「はい」
紅葉の返事を聞いた俺は、そのまま菜箸を構える。
「予備は四つ。一、二、三、はい」
俺の掛け声に合わせて、ピッコロのテーマから楽曲が始まった。
――テンポを落とした合奏は、全曲通すのに五分ほどかかった。相変わらず、初合奏でも最後まで演奏しきるのはさすがである。
唯一、クラリネットソロを除いて、ではあるが。
「本番までに吹ければいいから」
ソロの開始一小節目から躓いてしまったのは、今回クラリネットのファーストパートを担当する璃奈だ。フォローした俺に対して力なく頷いた彼女に若干の違和感を覚える。
「どうでしたか?」
しかし、早速感想を求める玲香のせいで、違和感は正体を掴む前に行方をくらませた。
「どうもこうも、今までの演奏と一緒だよ。どこがディスコなんだ? ダンスフロアを凍らせたいのか?」
「もう、何がダメな訳!?」
淑乃がいきなり逆上した。沸点が低いのも顧問譲りとしか思えない。
「なんでそんな感情の起伏は激しいのに、演奏した途端のっぺらぼうになるんだよ。せめて強弱記号と、クレッシェンドみたいなわかりやすい指示くらいは守れよ」
このバンドの演奏は、まるで味の無いガムである。そんな消費者を舐めているとしか思えない雑音になる原因の一つは、音量が常にメゾフォルテであることだ。
「それと、何かイメージしながら演奏してくれよ。個々の曲に対するイメージや表現を踏まえて、全体として揃えていくのが指揮者の仕事なんだ。白色の絵の具だけで風景画は描けないんだよ」
ふうっと一息吐いた俺は、先ほど絵理子から受け取ったアイテムを皆に見せる。
「なんですか、それ」
十二センチ四方のプラスチックでできた薄型のケースから無地のCDを取り出した俺に向かって玲香が尋ねる。
「ここにも、とある団体が演奏した『ディスコ・キッド』が録音されているんだ」
俺は壁際に設置されているコンポにCDを入れ、敢えてボリュームを大きめにしてからトラックを調節し再生ボタンを押す。
その瞬間、生命力に満ち溢れたピッコロのソロから始まる木管楽器のメロディーと、軽快なドラムの音が室内を満たす。どっしりとした中低音に支えらながら序奏が始まると、トランペットを中心とした華やかな主旋律と、伸び伸びしたホルンの対旋律が美しく交錯した。
――最後の一音まで、部員達は目を丸くしながら聞き入っていた。口が開いている者もいる。
「お前ら、自分が演奏することばっかりで、誰かの演奏なんてまともに聞いたこと無いだろ」
放心状態の集団に声を掛けると、一同はようやく現実に戻ってきたように俺を見つめた。
「これ、どこの演奏なの?」
淑乃が率直な質問を投げる。
「とあるバンドの定期演奏会の音源だよ」
「だから、それがどこのバンドかって聞いてんのよ!」
口が悪い奴だな。
「翡翠館高校吹奏楽部」
「……は?」
「正確に言うと、俺が二年生の時の、だな」
あまりに衝撃だったのか、またもや皆の魂が抜ける。
「お前らと同じ年頃の男女が演奏しているのに、どうしてこんなにも違うんだろうな」
抜け殻達は気まずそうにお互いを見やった。
「そしてこの音源の指揮者は、俺なんだ」
苦笑しながら告白すると、信じられないと言わんばかりの視線が四方から突き刺さる。失礼な奴らだ。
「俺らの頃は、お客さんに認めてもらうことが一番の目標だったんだよ。成績としては全国大会出場を目指していたけど、大前提には聴衆に満足してもらいたいっていう気持ちが奏者全員にあった」
淡々と語る俺の言葉を、皆は静かに聞いている。
「翡翠の石言葉は『誠実・調和』。そして、翡翠とよく似た宝石のエメラルドの石言葉は『幸福・希望』。俺らは校名にあやかって、音楽を通してそれらを聴衆に伝えようとしたんだ」
厳密には翡翠とエメラルドは種類が異なる石なのだが、両方とも五月の誕生石ということもあり、目指すべきわかりやすいシンボルとして採用されたのだった。
「『エメラルド・サウンズ』――俺達のいた頃、このバンドの音はそう呼ばれていた」
コンクール衣装の翡翠色のネクタイは、まさに吹奏楽部の象徴であったのだ。
「自分で言うのもなんだか恥ずかしいが、お前らはこの音に魅了されて音楽を始めようと思ったんじゃないのか?」
一介の奏者ではなく指揮者としての言葉なので余計に自惚れ感があるけれど、日向が言っていたことを考えれば間違いではないはずだ。
「吹奏楽部を復活させたいって言ったのは、物理的に団体を存続させたいという意味じゃない。この『音』を復活させてみたいんだよ」
長々と独り言を続けた俺は、CDを回収して指揮台に戻る。
「今度の部活紹介でさっきみたいな演奏ができたら、部員も集まると思うんだがなあ」
わざとらしく煽ると、今までと比べて僅かに部員達の目に光が宿っていることに気づいた。
「秋村さん達の頃が翡翠やエメラルドなら、今の私達はなんですか?」
玲香が答えづらいことを尋ねてくる。
「……炭、って感じかな」
その辺の石ころくらいなことを言われると思っていただろう玲香は、もはや石ですらない真っ黒な物体に喩えられたためひどく落胆した表情を浮かべる。文句の一つでも言いそうな淑乃も、今ばかりは悔しそうに唇を噛んでいた。
「まずはいろんな演奏を聞いてみろ。お前らは、とにかく技術だけは高いんだ。あとは気持ちの問題だよ」
このご時世に精神論は通用しないのだろうが、彼らはむしろ精神論を排除し過ぎて人の心すら無くしているので、あまりに極端である。
さてこの後はどうしようかと思い何気なく『ディスコ・キッド』のスコアを手に取ると、その下には楽曲候補のルーズリーフが置いてあった。
「まあ、演奏したい曲を出せって言ったらこのリストが出てくるくらいだしなあ……」
全く聴衆のことを考えていない楽曲の羅列に、自然とため息が出てしまう。
「――ん?」
なんとなく眺めていたリストの一番下に書かれた楽曲が目に留まった瞬間、俺の体に電流が駆け抜けた。
「……演奏する曲が決まった」
突然のことに困惑する部員達へ、俺は曲名を告げる。
「『ディスコ・キッド』の前に披露する曲。それは――」




