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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第一章 宵闇 ―― calmato
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第十一話  決意 Ⅲ

 学校からたいして離れていないその喫茶店には、迷うことなく辿り着いた。真っ白なドアを引くと、昨日と同様に控え目のウィンドチャイムが俺達を出迎える。

「いらっしゃいませ」

 相変わらず優雅な雰囲気を醸し出すマスターは、グラスを磨く手を一旦止めて俺に顔を向けた。

「おや、あなたは……」

 店内に客はいない。平日の夕方とはいえ、昨日も閑古鳥が鳴いていたので若干不安になる。

「これ、助かりました」

 そう言ってカウンター越しに傘を差し出すと、マスターは柔らかい笑みを浮かべて受け取った。

「こんな早く来ていただかなくても。むしろ気を遣わせてしまいましたね」

「いえ、ちょうど近くに用があったので」

「そうですか」

 ふと入口を見ると、所在無さげな日向がドアに寄り掛かってぼうっとしていた。

 コーヒーの一杯でも飲んで行くべきかと思っていたが、気分的に体が苦みを受け付けない。音楽室では楽譜を探すことで気を逸らしていたが、日向を見ているとさっきの無理に作った笑顔がフラッシュバックして気が狂いそうになる。ただでさえ容量の狭い俺の感情という部屋に、しこたまセメントを流し込まれたような感覚だ。

 つまり、他人と話す余裕が無い。当然コーヒー以外にもメニューはあるが、ちょうど会話も途切れたのでお(いとま)しようとカウンターに視線を戻す、と。

「せっかくだから、どうぞ」

 縁に金色の線が一本入ったカップと、無地のソーサー。

「いえ、そんな、悪いです」

 慌てて遠慮をしても、時既に遅しである。

「今日まだお客さん少ないんです。よければ話に付き合ってくださいよ」

 ははは、と困ったように笑いながら、マスターはそう言った。物凄く良い人なんだろうが、もしかしたらこの人は絶望的に商売が下手なのか、と悪い勘繰りをしてしまう。もう一度日向に目を遣ると、勝手にすれば的な視線を送られてむかついたが、お陰で多少気分にゆとりが生まれた。

 仕方無くカウンターの椅子に腰掛ける。背もたれの無い丸椅子はどこかレトロで、その飾り気の無さが店内の雰囲気にマッチしている感じがした。カップの中には、淡いクリーム色の液体。ほんのり甘い香りが湯気と一緒に漂っている。

「ミルクセーキです」

 なかなかお目にかかれない飲み物が登場したものだ。いただきます、と一声掛けてから口に含むと、不思議と懐かしい気持ちになった。味はなんとなくキャラメルに似ているのだが、固体と液体とではずいぶんと印象が違う。

 というか、マスターはいつの間にこんなものを用意したのだろうか。仕事が早過ぎる。

「狭川先生とは、どういったご関係なのですか?」

 舌鼓を打つ俺に、マスターが尋ねた。

「ただの同級生ですよ」

「ほう? 昨日の様子だとてっきり恋人か何かかと。ははは」

 どこに笑う要素があるのかわからないが、たしかに昨日の雰囲気は別れ話とかそういう類に見えないことも無い。もしそうであるなら俺は絵理子から振られたことになるので、なんとなく苛つく。

「たまたま出くわしたから、ちょっと話しただけですよ。あんなにヒステリックな女になってるとは思いませんでしたけど」

「ふむ。あの方にそういった一面があるとは、やっぱり聞いてみるものですね」

 つい余計な情報をマスターに与えてしまう。絵理子が俺を刺す動機がまた一つ増えた。

「……あいつはよく来るんですか?」

「ええ。開店当時からの常連様です。ここはタバコも吸えるので、気に入っていただけているようでして」

 マスターによると、この店はオープンしてちょうど二年ほどらしい。つまり、絵理子が吹奏楽部の顧問になったのと同時期だ。あいつにとっては、息抜きできる場所なのかもしれない。

「同級生ということは、もしかしてあなたも翡翠館の?」

「まあ、はい」

「なるほど……」

 そう呟くと、マスターは徐に俺の顔をじろじろと観察し始めた。

「な、なんでしょう」

「もしかして、秋村君ですか?」

 ミルクセーキが気管に侵入した。

「ごほっ、ごほっ!」

「ああ、すいません」

 マスターが悠長に取り出したおしぼりをひったくると、口元に当てて咽せる。

「いやいや……。どこかで見た顔だと思ったんです」

 客が呼吸困難寸前の醜態を晒しているのに、まるで緊張感が無いどころか呑気に話を続けるマスター。

「げほっ……。ど、どうして俺を、知ってるんですか」

 ようやく落ち着いてきた俺は、息も絶え絶えに尋ねる。

「あなたが覚えているかわかりませんが、私も翡翠館にいた人間ですからね」

 教師だったのだろうか。部活以外の記憶などほとんど無い俺がどんなに思い返しても、マスターの顔はピンと来ない。

「まあ、覚えていなくても仕方ありません。当時の私はただの用務員でしたから」

「そうだったんですか。存じ上げずすみません」

「いいんですよ。あの秋村君が他人のことなど覚えているとも思えませんし。ははは」

 乾いた笑いはマスターの癖なのだろうが、セリフから飛び出る棘を隠しきれていない。

「俺って、そんなに有名人だったんですか」

「そりゃあ、もう。そもそも吹奏楽部が目立っていたのに、大勢の前で指揮まで振って。部活以外では存在感皆無なのにあの変わり身はどういうことだって、どの先生も言っていましたからね」

 陰でそんなふうに言われていたことに衝撃を受ける。生徒に向かって存在感皆無とはなんだ。授業料返還請求を提訴したい。

「でも当時は、そんな良くも悪くも目立っていた吹奏楽部の演奏に、すっかりとりこになっていましたねえ……」

 マスターが目を細めながらしみじみと呟いた。俺もなんとなくその頃のことを回想して、そう思われていたなんてありがたいな、と今さらながらな感想が浮かんだ。

「で、狭川先生は大丈夫なんですか?」

 雑に尋ねられ、俺は急に現実へ戻される。ノスタルジーに浸っている状況ではなかった。

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