第十一話 決意 Ⅱ
「そういえば、今日って何日だっけ?」
「え? 三月二十九日ですけど」
さっと手を引っ込めた玲香が答える。
「絵理子、入学式っていつなんだ?」
「四月六日ね」
「一週間しかないのか……」
「入学式がどうかしたんですか?」
「いや、たしか俺がいた頃は、入学式の後に部活紹介をやっていた記憶があるんだが」
「ああ……」
玲香は物凄く気まずそうに顔を伏せた。よろしく、と言ってからものの一分足らずでトラブルである。
「無くなったのか?」
「……いや、そういう訳では」
俺が玲香をいびっているような図に、生徒指揮者の淑乃が立ち上がった。
「言わなくてもわかるでしょ。対外活動禁止なんだよ、私達。部活紹介はあるけど、吹奏楽部は出番が無いってだけ」
「だけ、じゃねえだろ! なんで得意気なんだよ!」
そんなことだろうとは思ったが、現実はあまりにもつらい。
俺は、ただでさえ空虚な自らの頭脳を振り絞って、今後の戦略を立てる。
「――わかった。とりあえず今日は今まで通り個人練習をしてくれ。ただし、四時には終了すること」
今日の予定を告げると、案の定部員達からブーイングが起こる。
「なんでそんな早く切り上げるの? 時間が無いって言ったのあんたじゃん」
とくに淑乃は単純に口が悪いので、こちらの苛立ちも倍増する。
「いつもより一時間短いだけだろうが! それに、今日はそれぞれ家に帰ってから考えて欲しいことがあるんだ」
生徒が校内にいるうちは絵理子も帰れない。それに、住宅地に佇む翡翠館高校なのだから、あまり遅くまで練習するのは近所迷惑だ。そういったことすら、こいつらは思い至らないのだろう。
「入学式後の部活紹介で出番をもらえるよう、俺から掛け合ってみる。それと、新学期が始まったら本格的に勧誘をしなきゃいけない。ミニコンサートをやる必要もあるだろう。俺はお前らが今までどんな曲を練習してきたか知らないからな。何曲か演奏したい曲をピックアップしてきてくれ。明日はその中から選曲して、早速合奏練習も始める」
彼らがどんな楽曲を合奏したいのか、俺には単純な興味があった。もっとも、どの曲も一様に『ゲルニカ』なら俺のメンタルが崩壊しそうであるが。
一同もある程度俺の言葉に納得したのか反論が無かったので、ひとまず俺は場を締めた。
結局、紅葉の諜報活動のせいで「部員達が今後どうしたいのか」については明確な答えを見出せなかった。事態が前進したのは事実だが、中身が伴わなければ意味が無い。少なくとも、入学式の前までには答えを見つけないと、悲惨な演奏を披露することになるだろう。
そんなことを考えながら音楽準備室へ戻ると、日向が何やらぶつぶつと呟いていた。
「あたしのせいだったんだ。あたしがみんなをおかしくさせたんだ」
「……もともとおかしい奴らじゃないのか?」
「そうだけど!」
「そうなのか……」
死ぬ前までは日向も苦労したのだろう。
「じゃあ私はこれで」
もう部外者にでもなったかのように、絵理子は部屋を後にした。本当に心が冷え切った女だ。
「まあ、とりあえず良かったね。明日からは合法的に吹奏楽部と関われるし」
「組織自体が違法みたいなもんだから、組長になった気分だけどな」
「あんたが? いつ抗争で死んでもおかしくないような男のくせに?」
「お前、そういう口の悪さは絵理子から教わったのか?」
「うん」
あの超毒舌陰険女の罪は重い。顧問じゃなくて看守と呼んだ方がしっくりくる。
「絶対に音楽を続けて、か。いかにもお前が言いそうだな」
「……」
日向のことだ。自分がいなくなっても変わらずに、前を向いて音楽と向き合って欲しいという意味合いであったのだろう。それ自体は至極全うである。託した相手が変人だっただけだ。
俺は指揮棒をしまった木箱を元の位置に戻し、そのまま第一音楽室へ向かった。こちらも明日以降に練習する楽曲の目星をつけておく必要がある。もともとの部室であった第一音楽室には、たしか楽譜やスコアが大量に保管されているはずだ。
防音扉を開くと、そこには当時と変わらぬ景色があった。俺がただ一人、他の部員を置いてこの部屋から出ていった、あの日のままのようだ。ほんの少し変化を見出そうとしても、壁に飾られたコンクールの集合写真が増えていることくらいしかわからない。難易度の高い間違い探しのように、俺の記憶とシンクロしている。
「この写真、本当に闇が深いよね」
俺の後ろをついてきた日向が、一枚の額縁の前で気味悪そうに呟く。
「栄光の全国大会で演奏した後の写真なのに、誰も笑ってないってヤバいでしょ」
やっぱり俺達の代のものだったようだ。
「……本当だな」
当時の人数は大編成の上限ギリギリだったはずだ。五十人以上の集合写真なのに一人も明るい表情を浮かべる者がいないなど、見るからに不吉の象徴のようである。こんな団体の担当になったカメラマンが可哀想だ。実際、ここから吹奏楽部の歯車が狂っていったのだと改めて思わせられる。
「この大会の年……つまりあんた達が三年生の年にさ。あたしは初めて翡翠館高校吹奏楽部の演奏を聞いたんだ」
しみじみと日向が語り出した。
「五月か、六月頃だったっけ。あんた達、ここら辺の小学校に招待されて演奏会やってたでしょ」
「またずいぶんと懐かしいな」
一介の高校生に過ぎない俺達ではあったが、近隣でのミニコンサートはしょっちゅうあった。小学校はもちろん、病院や駅前など、機会があれば出向いていた。これは当時の顧問である芳川先生のこだわりもあったのだが、やる気お化けみたいな部長の楓花が断るはずも無かった。
「あの頃、お姉ちゃんは家でも毎日キラキラしてたけど、舞台の上ではもっと輝いていて。もちろんバンド全体も。自分は当時低学年だったけど、いまだに記憶に焼きついてる。今年の三年生も、みんな当時の翡翠館高校吹奏楽部に憧れてここに入部したんだ」
俺達の演奏を評価してもらえるのは素直に嬉しい反面、その後の転落具合を思うと複雑な心境である。憧れなどと言われると、なおさら肩身が狭い。
「お姉ちゃんさ。全国大会に出た後、引きこもりになっちゃったんだよね」
「……なんだって?」
寝耳に水だ。太陽のように周囲へ光を振りまく彼女と、最も縁の遠い引きこもりという言葉がセットになると違和感しか無い。
「まあ、二週間くらいだったけど。でも、それからもなんか無理して笑ってた」
写真の中の姉を見つめながら呟いた日向が、俺に向き直る。
「あたしが吹奏楽部を生き返らせて、もう一度お姉ちゃんに翡翠館の音を聞いて欲しかったんだ」
すうっと、日向の瞳から零れた涙が頬を伝った。
「まあ、聞いてもらおうにもお姉ちゃんはあんな状態だし、あたしも死んじゃったんだけどね!」
無理矢理明るく振る舞う日向の姿は、俺の心臓を深く抉った。
その後は俺も日向も会話をすることは無く、壁に沿って置かれた本棚に収まる楽譜を確認するうちに時間が過ぎていった。
四時を迎えるまでには、俺の中でも楽曲の候補がいくつか挙がった。あとは明日、部員達と摺り合わせを行うのみである。いつもより楽器を片付けるのが早いことに対して部員達は不服そうであったが、そういえば昨日はオフだったと絵理子が言っていたので、余計に消化不良なのかもしれない。明日からは休む間もないだろうから大人しく帰れ、と声を掛けると皆は渋々帰っていった。
「あたし達も帰ろっか」
「……ああ」
校舎を出ると、相変わらず厚い雲が空を覆っていた。湿度が高いせいか、土の匂いが直接鼻孔を刺激する。
「ちょっと。傘忘れてるよ」
なんとなく歩き始めた俺の後ろで、日向がそう指摘した。
「あ」
返事にすらなっていない微かな声を上げた俺は、思い出したように踵を返す。傘立てに一本だけ差してあったのは、絵理子に連れていかれたカフェのマスターに借りた、黒い無地の傘だ。どうせ学校まで行くならついでに返却しようと、持参していたことを忘れていた。
「……寄って行くか」
天気予報など見ていない、というか見る術も持ち合わせていない俺は、この後の降水確率などわからない。現代人を名乗るのも恥ずかしいくらいだが、まだしばらくは大丈夫だろうというなんの根拠も無い勘だけをあてにして、傘を返しに行くことを決めた。




