旅立ちの前夜
黄昏に飲まれ始めたアステリアの城下町は人通りが少なくなっても、昼間の熱気を残している。
夜を孕んだ冷えた風が堅い石畳の上を行くと、道は静かに眠気を帯び始める。
この土地特有の薄桃色の石で造られた家の窓から漏れる灯りに、夜風も足を止める。
勇壮なアステリア城へと真っすぐに続くこの道は、数台の馬車が行き交うことができるほどの広さを持つこの町のメインストリート。黄昏に目隠しされた目が慣れてくると、手招きをするその路地を見つけることができるだろう。
その路地を曲がれば、夜闇を押しのけるように灯りをともす店々が並んでいる。
戸の向こうから、にぎわう声と音楽、焼けたチーズと香ばしい肉、ハーブをふんだんに使ったアステリア料理の匂いが漂い風に馴染む。
通りの奥、一際大きな店の看板は特に目をひいた。
アステリア国民に愛される「薔薇」の絵をモチーフにした看板はこの国では実に多いが、その店の看板もまた美しい「薔薇」がモチーフ。薔薇、グラス、それに髪の長い女の横顔が描かれている。
【千本の薔薇亭】
アステリアでも有名な酒場の一つだ。
戸の外にまで聞こえる豪快な声の主は、この界隈では知らぬ者はいない名物女将。
流行り病のせいで、暗い気持ちが街を包むが、この店と女将だけは変わらない。威勢のいい声、お客を家族のように迎い入れる笑顔、上等の酒、料理。ここに居れば、悲しみと一時離れることができる。
「いらっしゃい!」
一歩その店に足を踏み入れると、一気に酒匂に包まれフワリと気分が高揚する。戸から忍び込んだ冷え込んだ風も、ぬくりとして春風のように温まった。
いつも人で溢れる千本の薔薇亭だが、今夜は少し様子が違っている。
店の奥には、体格のいい男たちが席を取り、その周囲にも同様に鍛え抜かれた若い男たちが席を埋める。
そのほとんどがアステリア騎士団の若者たちだ。
バンッ!
突然、分厚く大きな手がテーブルを叩いた。あまりの衝撃に木製のテーブルはギシリと軋み、ジョッキの中のエールが波を打つ。
何事かと一瞬静まり返り、すでに何杯もエールを飲み干している大柄の男に視線が集まった。
「尻だ」
大柄な男。ハッセは太く張りのある声で宣言した。
「女はやっぱり尻だな! 丸みのある大きな尻が特にいい!」
突然の宣言に、男たちは沸き立った。
ハッセは元々声が大きいが、酒に酔うとより声が大きくなる。立ち上がり宣言したはいいが、酔いで身体がフラフラと揺れている。
「女は尻」彼の信念ともいうべき嗜好の叫びは酒気渦巻く男たちに一石を投じた。
発言力のあるハッセの言葉、それに賛同する者、無言でうなずく者、何か言いたそうにして黙る者、我関せずと視線を逸らす者と反応は様々だ。同じ卓にいた星詠み士のカイも、無言のままチビリとグラスを傾け、ザクロのジュースを飲んだだけだった。
ハッセに続く者もいないが、反論者もいない。「女は尻」というその言葉が、まるでアステリア騎士団の総意。そうなるかと思われたその時だった。
一人の男がスクリと立つ。
「待ってもらおうか」
それは何と、意外にも普段クールな細身の色男シェル=カッセルだった。こういった場所はもちろん、こういった議論に似つかわしくない男だ。
「ハッセ、やはり君はわかっていないな。女性の価値を尻の大小で決めようなどと、浅はかだとしかいいようがない」
「なんだと?」
騎士団内外ともに認める女性の扱いに長けたシェルの言葉は少なからず「アステリア騎士団尻派」を動揺させる。
一部の騎士団員たちのカリスマ的存在である剛力のハッセの支持者は多い。
それに対して、腕が立つことは認めても、女性人気の高いシェルは騎士団内でも妬む者が多いことは事実。
自分の嗜好、価値観に揺らぎのない絶対的自信を持つハッセは、酒場に降り立ったヘラクレスの如く悠然とシェルの言葉を待つ。筋肉のハッセ、色男のシェル。対照的な二人の間で男の立ちは固唾をのむ。
静寂。
シェルに注がれる視線。
「胸だ」
まずはじめにロゴスありき。
放たれたその言葉はシェルの眼下に望む男の原に波を起こした。
「女性は尻よりも胸だ!」
賛同。否定。共にあり。
男たちは二人のカリスマを前に二つに割れた。
シェルもすっかり出来上がっていた。目が座り、すでにかなり酒が進んでいることは言う間でもない。
同じ卓でいた星詠み士のカイはすっかり頭を抱えた。
アステリア騎士団「尻派」と「胸派」両者の対立は熾烈を極めた。お互いに一歩も譲ることなくその討議のループは一時間も続いた。
二人の醜い争いから取り残された酒を飲まないカイとレオはすっかり蚊帳の外であった。
結論のでないこの議論の行方はそれまで黙っていたダン隊長に委ねられる。
「両者の意見はあいわかった。俺が結論を言おう、女性の魅力をあらわすもの、それは……」
「「それは!!」」
両雄の間に降り立つ審判者。終わりの見えない戦いに終止符が、今打たれようとしている。
カイは祈った。この論争が無事に収束することを。
審判者の口が開く。その答えは!
「脚だ!」
「「あ、脚ぃ!?」」
「……」
ハッセが酔い、シェルが出来上がり、論争が始まりすでに一時間以上。その間、静観しながらも酒を飲み続けていたダンもすっかり酒気に瞳をとろけさせている。
新勢力「脚」。これに鞍替えする者は、想いの他多かった。
群雄割拠。議論は三つ巴の様相。泥沼となり、収拾がつかなくない。
結局、その場にいる人間全員の好みを聞き、多数決でこの問題解決をはかるという流れとなった。
「尻」「胸」「脚」もちろんその勢力に属さない独自のこだわりを見せる者もいる。
ハッセは嫌がるカイにも無理やり答えさせ、カイは仕方なく「うなじ」と言った。
「うなじ……なるほど、確かにうなじも捨てがたい。しかし、うなじは残念ながら二番手だ!」
シェルが唸りながらもカイを称賛する。
「はっはっはっ! うなじか! ムッツリなカイらしい答えだな!」
「はあ……」
ハッセの笑いに、カイはやっと自分の番が終わったと胸を撫でおろす。こんなところを星詠み士の学院の後輩に見られたら何を言われるかわかったもんじゃない。
「レオ、お前はどうだ?」
カイの隣で大人しく飲んでいたレオは指名されると、少し考えてから「……えっと、俺は……声、とか……?」と言葉を濁す。
するとハッセは豪快にガハハッと笑い「確かに女の声は最高だな!」と言った。
全員の意見が出そろったが、それに異議が上がり、やはり決着はつかないまま宴はお開きとなった。
それぞれが上機嫌のまま帰路につく。それぞれが自分達の寝床を目指し。
帰る方向が同じカイとハッセは二人だけの夜道を心地よい風と共に歩んだ。
「明日出発ですけど、こんなんで大丈夫なのかな?」
カイが不安も漏らす。
男ばかりの騎士団と比較的女性の割合が多い星詠み士の宴の趣が違うことは理解できるが、大事な作戦前夜にこんな宴会をすることになるとは理解し難い。
「いい音楽と酒に肴、それに女、仲間、大事なんだよ、バカ話して笑って騒いで……」
「これが大事、ですか?」
カイが聞き返す。
「ああ、そうだ、これが生きてるってことだ。笑って、言い争って、また笑って、酔って食って、それを一緒に過ごす仲間がいて……誰かがいることが、自分が生きていることを教えてくれる」
「生きている実感がほしい、ということですか?」
「まあ、そんなところさ。それに、幸せな気分を味わったら、またこの幸せを味わいたくなる。そしたらまたここに戻ってきたくなるだろう?」
カイは何となく理解したような気がした。あの宴も、くだらない論争も、すべて明日旅立つ自分達のために用意されたものなのだ。
隣国グルダニアへ向かう、それは簡単な任務ではない。もう逢えないかもしれない。だからこその宴だったのだろう。
少々やり方が男臭いけど……。
カイはクスリと笑った。
夜風が心地よい。
やがて帰路は二人を別つ。二人は互いに名残惜しく足を止める。
用事もない。明日も合う。ここから先はお互いの道を行くだけだ。それでも、この時間が名残惜しい。
ふと、思いついたようにハッセが言った。
「ああ……カイ、任務が終わったら、いい女紹介してくれよ。お前さんのまわりにはいっぱいいるんだろう?」
「紹介?」
本気で思っているとは思えない。ハッセの挨拶のようなものだ。
しかし、そう言われると、カイの頭にふと思い浮かぶ女性がある。
いや、でも、それはダメだな。意外とお似合いかもしれないけど……。そんなことをしたら大変なことになる。
カイはすぐに頭を振った。
「何だ、いないのか?」
「いえ……」
幸せな気分を味わうために戻ってきたくなる……か。なら、約束はしておこう。それがこの任務成功の要素となるなら。
「帰るまでに考えておきます」
カイは微笑んだ。そしてまだ出発もしていないのに、任務を終え、アステリアに帰る日のことが待ち遠しくなった。
カイの言葉にハッセは「期待している」と笑った。
次の日。
ダン=オリアンを隊長とするグルダニア調査団はグルダニアに旅立った。
そして、調査団は誰一人としてアステリアには帰らなかった。しかし、アステリアは確かに、この男たちの手によって救われたのだ。
おわり